第12話

 あいつが家に来たのは、それから2日後のことだった。

「すみません」

 ドアをこんこんと叩く音と同時にその声は聞こえてきた。その時、おばさんは街に商品を売りに出ていて、家の中は僕とサラしかいなかった。

「あの人だ、どうしよう?」

 サラは少し困った顔で僕を見た。

「あんなの無視すればいいよ。放っておけばそのうち諦めて帰るよ」

「でも、悪い人では無さそうだし……」

「ほとんど話してないのに、そんなの分かる訳無いじゃん!」

「でも……」

 サラはまだ迷っている。僕に意見を求めながら、どうして僕の言う事を聞かないんだろう。サラの優柔不断な態度が腹立たしかった。一方で、あいつの事になると些細なことにも苛立ちを覚える自分に違和感があり、余計もやもやした。

「誰かいませんか?」

 あいつが、もう一度ドアを叩きながら尋ねてきた。

「ノエル、やっぱり出るよ。何かあっても、ノエルがいてくれるから心配無いし」

 結局、そう言いながらドアへ向かった。サラはずるい。「僕がいたら心配ない」なんて言われたら、それ以上は止めることなんてできる訳無いのに。

 ドアをかちゃっと開ける音が、玄関から聞こえる。

「はい、何でしょうか?」

「あっ、前に花畑で会ったお嬢さん。よかった、探してたんだ」

「あの、先日はどうも……私に何か用でしょうか?」

 サラは少し警戒気味に聞いている。万一サラに何かあったら、僕が助けないといけない。僕は二人に見られないよう、壁をつたいながらじりじりと近づいた。

「君に教えて欲しいことがあって探していたんだ。あの白い花、染料に使うんだよね?どうやって色素を抽出するのか教えてほしいんだ」

「それなら、方法をお伝えするよりも実際にして見せたほうが分かると思いますけど、今家には私しかいなくて……」

 サラは少し困ったように、あいつに話した。

「あっ、ごめん!君しかいないならまた出直すよ。邪な気持ちなんて無いから!」

 あいつは慌てふためいた様子で話しを遮った。

「……その、よかったら他にご家族がいる時にでも、実演してみせて欲しいんだけど」

「それなら大丈夫です。でも、お母さんはお昼だいたい街に出ているんで、すぐには難しいかも」

「俺、今街の安宿に泊まってるんだ。この辺に当いるつもりだから、都合いい時に連絡くれないかな?」

 そう言って、あいつは胸ポケットからメモ用紙とペンを取り出し何か書き出した。

「これが宿の連絡先なんだ」

 そう言ってメモ用紙をサラに渡した。これを渡し終えたらあいつも帰るだろう。そう思ったけど、あいつはもじもじして、なかなか帰ろうとしなかった。

「あの……まだ何か?」

 サラも怪訝に思ったのかあいつに尋ねた。それでいい。さっさと家から出るように促すべきだ。

「……その、前に聞きそびれちゃったんだけど、君の名前を教えてくれないかな?知らないとなにかと不便だし」

 あいつは照れくさそうに頭を搔きながらサラに尋ねた。「サラの名前なんてこいつになんの関係もない。教えちゃだめだ!」僕は心の中で叫んだ。

「えっと、サラです」

 僕の心の叫びは無情にもサラに通じず、あっさりと教えてしまった。

「そっかあ、サラって言うんだ。可愛い名前だね。それじゃあサラ、連絡頼むよ!」

 そう言うと、あいつは踵を返し逃げるように走り去った。そしてサラは、その姿をしばらく黙って見送った。

「ふう……」

 サラは小さく溜息を付くと、ドアをゆっくりと閉めた。

「サラ!」

 僕が真後ろで大きい声で呼ぶと、サラはびくっとしながら振り向いた。

「ノエル……いつの間に後ろにいたの?」

「そんなことどうだっていいじゃん!それより、なんであいつとまた会う約束なんてしたの?」

「仕方無いじゃない……断る理由無いし。それに、あの人はきっと悪い人じゃないよ」

 サラが口を尖らせる。

 そんなこと分かっていた。別に、あいつが悪い奴だなんて思っていない。そんなの、サラよりも僕のほうが感じている。だけどそんな事じゃないんだ。あいつはサラに対して特別な感情を抱いている。好意なのは分かるけど、僕の中には存在しない感情だから、それがどういうものなのかはっきりは分からない。

 そしてサラも、微かだけどそれに近い感情をあいつに対して抱いている。それが僕を不安でたまらなくさせた。

「もういいよ!」

 僕はサラを睨み、それだけ言って部屋に戻った。僕を呼び止めようとしているのか、サラが何か言っているのが遠くで聞こえる。だけど、耳には入らなかった。自分の黒い気持ちを抑えるのだけで精一杯だったから。

 僕はサラのベッドの上に身を投げた。サラの匂いがする。大好きな匂いのはずなのに、胸が苦しかった。

「……ねえ、ノエル」

 サラが後ろから僕を呼ぶ。僕は大きく寝息を立て、寝ているふりをした。

「ノエルは何を怒っているの?私はどうしたらいいの?」

 サラは構わずに話しかけ続けた。僕は寝ているふりを続けた。サラを無視したい訳では無い。自分自身サラにどうして欲しいのか分からなかった。サラを僕だけのものにしたい。だけどサラに友達が増えるのを邪魔したくなんてない。サラは僕に会うまではずっと一人で寂しかったんだ。だから、サラに新しい友達ができるなら応援しなくちゃいけない。

 でもあいつだけは嫌なんだ。どうしてか分からないけど、サラが僕から遠いところへ行ってしまいそうな気がするから。

「ノエルと話せないの、喧嘩するよりずっと辛いよ……」

 サラが悲しそうに言い、部屋を後にした。もしかしたら泣いていたのかもしれない。だけど僕はどうしても振り向けなかった。サラごめん。サラを悲しませることなんてしたくは無いのに。


「いったいなんだい、このどんよりした空気は……」

帰ってくるなり、おばさんは開口一番言った。

「なんでもないよ、お母さん」

 サラが食卓に夕食のお皿を並べながら力無く笑った。僕は椅子に座りながら、ただ俯き食卓の一点を見ていた。

「なんでもないっていう雰囲気じゃないだろ。二人とも喧嘩でもしたのかい?こんな辛気臭いと私の食欲まで失せるよ。まあどうせ些細な原因だろ。早く仲直りしてしまいな」

 おばさんが溜息をついた。だけどこれは喧嘩ですら無いのかもしれない。僕が一方的にサラを無視しているのだから。

 僕がふと視線を食卓から上げると、僕を見ていたサラと目が合ってしまった。サラが何かを言おうと口を開きかけた瞬間、僕は急いで視線を逸らした。そんな気まずい雰囲気を解消するためか、いつも聞き役に回っているおばさんが、珍しく話しをサラにふってきた。

「私が留守にしている間、何かあったかい?」

「えっと……ううん、特に何も無かったよ」

 僕は驚いてサラを見た。いつもだったらどんな些細なことだって嬉しそうにおばさんに話すのに、今日家に来たあいつの事を忘れているとは思えなかった。きっとおばさんに話さないつもりなんだ。僕と仲直りするために、もうあいつに連絡を取るつもりは無いのかもしれない。だけどそんなの絶対良くない。

「サラ、お昼頃に家に来た人のこと忘れてるよ!」

 僕は意を決してあいつの事を口に出した。

「えっ?」

 サラはどうしていいか分からない様子で、狼狽した表情を浮かべた。

「ほら、あの人だよ。おばさんが家にいる時に、一度来たいって言ってたじゃん」

「ん?誰か家に来たのかい?」

 おばさんがサラを見つめ、質問した。

「うん……植物学者を目指しているっていう学生の方が家を尋ねて来たの。野原に咲いている白い花の、染料としての使い方を教えて欲しいって」

「それで何て返答したんだい?」

「お母さんもいる時ならって……」

「別に私はいる必要ないだろ。その作業なら、私よりサラのほうが上手なんだから」

「でも……」

 おばさんは、途惑った表情のサラをまじまじと見て、何か勘付いたようだった。

「サラも、いつのまにそんな事を気にする年頃になったのかい。親としては嬉しいような寂しいような複雑な気分だね」

「えっ?お母さん、何言ってるの!そんなんじゃないよ」

「別にいいじゃないか、いたって普通のことだよ」

「だから違うって!」

 サラとおばさんが言い争っている。だけど、おばさんは何だか楽しそうだった。なんだろう、自分からあいつの事を言い出したのに、すごい気持ちがもやもやした。言った事は間違えていないはずなのに。

「僕、もう寝るから」

 僕は椅子を飛び降りて部屋へと歩いた。足がとても重く感じる。サラとおばさんが僕を呼び止める声が後ろから交互に聞こえてきた。だけど僕は聞こえないふりして部屋に戻った。

 今はもう怒ってなんていない。ただ、ひたすら悲しかった。まるで自分だけ取り残されたような気がした。僕が人形だからだろうか、サラとおばさんの会話の意味は分からなかった。きっとこれから分からない事がさらに増えていくだろう。そしてサラは最後には僕から離れてしまうんだ。

 なんだかとても疲れていた。ほとんど動いていないはずなのに。そして僕はいつのまにか眠ってしまい怖い夢を見たんだ。


 サラの後ろから黒い闇が迫る。サラは捕まらないように必死に走るけど、距離は遠ざかるどころかどんどん縮まってしまう。

「サラ、逃げて!」僕は夢の中で叫ぶけど、サラの耳には届かない。

「サラ、どうして逃げるの……ねえ、逃げないでよ」

 後ろから声がする。誰の声だろう。聞き覚えがある声のはずだ。だけど声がくぐもっていて良く分からない。サラは後ろを何度も振り返り、何か叫びながらひたすら逃げ続ける。でも、いくら走り続けてもゴールなんて無い。やがて追い付かれ、そして捕まってしまう。

「ねえ、お願い。やめて……」

 黒い闇に両手で握りしめられ、宙に浮いた状態のサラは泣きながら悲しそうな表情で哀願している。だけどその黒い闇は、その握る手の力をじわじわと強めていく。

「やめろ!」僕は夢の中で必死に叫ぶけど、その闇にも声は届かない。

 サラは意識を失い、そしてサラの骨が軋む音が聞こえる。これ以上強く握られるとサラが死んでしまう。

「やめろ!」僕は必死に叫びながらその黒い闇の前に立った。そして上によじ登り、両腕をサラから引き剥がそうとしたけど、力が強くて全然歯が立たない。

「どうして止めようとするんだよ。ただサラを一人占めしようとしているだけなのに」

 黒い闇は、僕をあざ笑った。僕はその声が発せられる方を睨みつけた。僕は黒い闇の顔を見て愕然とした。そこには信じたくない顔があった。身近すぎて直接見る事はない、だけど鏡を見たらいつだって目の前に存在する顔。黒い闇は僕自身だった。


「ノエル、しっかりして!」

 目を覚ますと、目の前にはサラの顔があった。

「やめろっ!やめろっ!」

 僕は必死に叫び、目の前にある宙を両手で引っ掻き回した。その時の僕は、きっと夢と現実が混同してしまっていたのだと思う。

「ノエル、大丈夫。ただの夢だから!」

 サラの言葉にはっとなり、僕は少しずつ冷静さを取り戻していった。そう、夢だったんだ。だからサラはこうして無事僕の隣にいる。

「ノエル、少し落ち着いた?」

 サラは僕を抱き締めて言った。サラの温もりと心臓の鼓動が僕に伝わり、僕を安心させた。それから少しして、僕ははっとし、サラの体を押しのけた。

「……もう大丈夫だから、僕に触れないで」

「え、でも……」

「サラ、僕の言う事を聞いて」

 反論しようとするサラの言葉を遮った。サラを傷つけてしまうことくらい分かっていた。でも、サラを僕自身の黒い闇から守るためにはこうするしかなかった。これはただの夢じゃない。このままではいつか僕自身の手でサラを壊してしまう。そんな確信があった。だから距離を置かないといけないんだ。

「……わかった」

 サラは僕から目を逸らし、頷いた。

「サラ、僕は床で寝るね」

 僕はサラのベッドから出て、部屋の端に寝転んだ。サラはもう何も言わず電気を消した。静まりかえった暗い部屋の中で、サラのすすり泣く声が響いた。今日はもう寝られそうになかった。体はだるいのに、頭の中は妙にはっきりとしている。

 僕は両手で耳を塞ぎ、寝返りを打った。サラの寝ている姿が見えた。僕に背中を向けるように寝ている。どうしてこうなってしまったのだろう。僕はただ、サラの側にずっといたいだけなのに。同じ部屋にいるのに、サラが遠かった。

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