第10話
チャイムの音が鳴ったのは、スミスさんの指が私の上衣の最後のボタンを解こうとしている時だった。
スミスさんの指先はその音に反応し、ぱっと私のボタンから離れた。
「おかしいな、今日は他に訪問者はいないはずなんだが……」
スミスさんは正門の方向を見ながら首をかしげた。
誰かは分からないけど、逃げ出すチャンスだった。
(お願い……帰らないで!)
私の祈りが通じたのか分からないが、少ししてからまたチャイムが鳴った。
スミスさんは表情を険しくし、忌々しげに舌打ちをした。
「まあ放っておけば諦めるだろう。サラちゃん、それでは続けようか」
私の方を振り向いて言った。
「……続き?」
声が上ずり、そう言うだけでいっぱいいっぱいだった。
「ああ、続きだ。このままでは風邪を引いてしまうよ。それに、さっき上衣を脱がしている時に気付いたが、下着もびしょ濡れじゃないか。そっちも早く脱がないとね」
私は何も言い返せなかった。スミスさんの体がどんどん私に近づいてくる。だけど私は、恐怖で体が震え、逃げ出すこともできなかった。
「ああ、そんなに震えちゃって可哀相に……大丈夫、私の言うとおりにさえすれば、何の心配もいらないよ」
スミスさんが、また私のボタンに手をかけようとしたその時だった。
「がルネ!」
窓が割れるような大きな音が部屋中に響いた。何が起こったのかはとっさにはわからなかったけど、少しして窓が割られた事に気付いた。
そして、その割れた窓から部屋の中に何か入ってきた。それは人と言うには小さすぎた。だけど、それが誰か人のような大きさの物を抱きかかえているという不思議な光景だった。
「サラ、僕だよ。いたら返事して!」
それは大きな声で私の名前を呼んだ。
ノエルだ。ノエルが助けに来てくれたんだ。安堵で気が緩み、思わず泣き出してしまいそうになった。
「誰だお前は!」
ほっとしたのも束の間、心臓が止まりそうになるくらいの大きな怒声が部屋に響いた。それはスミスさんだった。
「人の屋敷の窓を勝手に割って入りやがって、絶対に許さんぞ!」
部屋の中が一瞬で凍りついた。ノエルが助けに来てくれたのは泣きたくなるほど嬉しいけど、この場の収拾をどうつければいいのか分からなかった。それに、そもそもノエルは人形だから本当はその姿をスミスさんに見られたのはまずかった。
「幼い人の娘に手を出そうとしときながら、偉そうな事言ってるんじゃないよ!」
スミスさんの声に負けじと、大きな声が部屋に響いた。お母さんの声だ。さっきノエルが抱きかかえていたのは、お母さんだったんだ。
「エリザ?」
スミスさんの表情からは焦りの色が見えた。スミスさんも、お母さんの存在には気付いていなかったみたいだ。
「サラ、そこにいるんだろう?早くその男から離れな!」
「うん……」
私はスミスさんの体をすり抜け、お母さんとノエルの元に必死に駆けた。
「エリザ、誤解だよ。私は君の娘が雨に濡れて寒そうだったから、風邪を引かないように着替えさせてあげようと思っただけなんだよ……そうだよね、サラちゃん!」
どうしてか分からないけど、スミスさんは私を縋るように目で見てきた。だけど目をあわせるのも怖かったから、私は視線を横に逸らした。
それに気付いたのか、お母さんは病身とは思えない力強さで私をぎゅっと抱き締めた。そんな場合じゃないのは分かっているけど、それが嬉しかった。
「そうかい、だったらこの娘の替えの服はいったいどこに用意してくれてるんだい?」
「まあその、とにかく早く脱がせないといけないと思ったんだよ。エリザ、お願いだ!信じてくれ」
「黙りな変態!私に色目を使うのは今まで我慢していたけど、娘に手を出そうとするなんて、ほとほとあんたには愛想が尽きたよ!」
お母さんは厳しい口調でスミスさんを罵った。でもお母さんの顔は真っ青で息もぜえぜいしている。立っているだけで精一杯の様子だ。
そうだ、もとはと言えば、風邪引いたお母さんをゆっくり休ませてあげたかったんだ。それにも関わらず、結局お母さんの言いつけを守らずに勝手に行動して余計迷惑をかけてしまっている。
「エリザ、誤解だよ……その様子だと、風邪引いているんだろ?君は正常な判断ができない状態なんだ。とにかく、今から医者を呼ぶから安静にするんだ。客室のベッドを使って構わないから」
そう言うと、スミスさんは逃げるように部屋を後にした。
「お母さん……」
私は呟いた。でも何から言えばいいのか分からなかった。伝えたい事はたくさんある。言いつけを破った事に対して謝らないといけないけど、簡単に許してくれるだろうか。それに助けに来てくれた事に「ありがとう」ってしっかり言わないと。お母さんの体調についても確認しないといけない。
「サラ、おばさんをベッドに連れて行かないと。意識を失ってるよ!」
ノエルの声で我に返った。顔を覗くと、お母さんは力なくだらりと首を垂れ、目を閉じていた。ノエルが体を支えているから倒れてはいないものの、なんの力も体に入っていなさそうだ。
「お母さん!」
思わず叫んだ。私はなんて馬鹿なんだろう。大丈夫な筈なんて無いんだ。ついさっきまで高熱を出して寝込んでいたにもかかわらず、この雨の中を駆けてこの屋敷まで来たんだから。
「サラ、大丈夫だから落ち着いて。きっとサラが無事だったから安心して、緊張の糸が切れちゃったんだよ。とにかく、早くベッドに運ぼう」
ノエルは宥めるように言った。
「……本当に大丈夫かな?」
「うん、大丈夫だよ。僕はお医者さんじゃないから詳しくは分からないけど、命に別状はないよ。そのくらいだったら分かるんだ」
「そうなんだ、良かった……」
ノエルの言葉を聞いてほっとした。だって、今までだってノエルの言った事は間違ってなかったから。
「あれ、どうしたんだろう?」
服にぽたぽたと零れ落ちるまで自分でも気付かなかった。どうやら目から涙が溢れてしまっているみたい。緊張の糸が切れてしまったのは、私も同じだったんだ。
「サラったらまた泣いてるんだ。もう、泣き虫なんだから……ほら、早くおばさんをベッドに運ぶよ!」
ノエルが呆れるように言った。だけど、それとは裏腹にノエルの表情はとても優しく見えた。
「うん!」
私は袖で涙を拭い、精一杯の元気な声で答えた。
「しばらくは安静にしておきなさい。まったく……無理ばっかりするからこんな高熱になってしまうんだよ!」
お医者さんは、ぶつくさと文句を言いながら風邪薬を置いて帰っていった。お母さんは相変わらず、起きる気配はない。でも、さっきよりは少し息遣いが楽になっているような気がした。
それから少しして、街の仕立て屋が来て、私とお母さん用の衣服を何着か置いてった。親切心か、もしくは後ろめたさなのか分からないけど、スミスさんが手配してくれたようだった。
お母さんの額に乗せていたタオルを水に浸して絞り、再び額の上に乗せなおした。こういう風にお母さんを看病するのは初めてだった。
今回ほど高熱で無いにしても、今までだってお母さんも風邪を引いた事があったと思う。だけど、私の前ではそんな素振りを一度も見せたこと無かった。反対に、私が風邪を引いた時はいつだってつきっきりで看病してくれた。それに私が怖い夢に魘されている時には、手を握ってくれた。
どうしてお母さんの愛情に、今まで気付けなかったんだろうか。自分からは何も行動しなかったにも関わらず、愛されてないなんて思い込んでいた自分が恥ずかしい。
「サラも疲れているんだから、少し休んだら?僕が代わりに看病するよ」
ノエルが私の裾を引張りながら言った。
「ノエル、ありがとう。でも私は大丈夫だから、お母さんの看病させて」
「サラがそうしたいなら構わないよ。だけど無理はしちゃだめだよ」
「うん……」
ノエルの優しさのせいで、また泣きそうになってしまう。でも、もし泣いてしまったら、またノエルに呆れられてしまう。そのため、話しを切替えることにした。
「ノエル、今日はいろいろごめんね。それに、ありがとう」
「何が?僕はおばさんについて来ただけで何もして無いよ」
ノエルは視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
「うん、でもありがとう」
私はノエルに思いっきり抱きついた。
「サラ、苦しいから止めてよ」
「ふふ、止めないよ!」
ノエルは私の腕を振り解こうとしてみせたけど、ほとんど力は入れてなかった。私はもっと強くノエルを抱き締めた。
「それじゃあ、もういいよ!」
ノエルは相変わらずぶっきらぼうな口調だ。だけど怒っている訳じゃない。ノエルは、照れ隠しをする時いつもこういう口調になる。
「そういえばサラ、あの人に何されそうになったの?サラが勝手にここに向かったこと伝えたらおばさんの血の気が引いていたし、僕だって少しは心配したんだからね!」
「あの、えっと、そのね……」
思わぬノエルからの切り返しに詰まってしまった。ノエルは本当に何があったのか想像つかなさそうだ。事実を話せばいいだけだと思うのに、なんだか口にするのが恥ずかしかった。だからといって、さんざん心配かけたノエルに答えない訳にもいかなかった。
「その……服を脱がされそうになって……」
途中からは消え入りそうな声になってしまった。きっと顔は紅潮している。鏡を見なくても想像はついた。
「え、それだけ?」
ノエルは拍子抜けした様子で言った。
「それだけっていうけど……」
「サラ、シャワー浴びる時だっていつも服を脱いでるじゃん。確かにサラの気持ちを無視して脱がすのは怒っていいと思うけど。でも、てっきりもっと酷いことされていると思ってた。心配して損したよ」
ノエルは心底ほっとした表情で朗らかに言った。ノエルに悪気は無いのは分かるけど、不満な反応だった。
「でも私にとっては大事だったんだもん!ノエルの馬鹿!」
「え、そんな……」
ノエルは言葉を喪ってうなだれた。どうして責められたのか本当に分からないんだ。ノエルは純粋で優しいから、私を自分のことのように心配し、そして安堵してくれたのだろう。
「冗談だよノエル。ごめんね」
「……ほんとうに冗談なの?」
「うん、ほんとう」
「そう……」
少し釈然としないような表情を残しつつ、胸を撫で下ろしていた。
「それじゃあ僕も少し休むよ。だけど何かあったらすぐに起こしてね。あと、勝手に部屋を出たらだめだからね!」
そう注意し、ノエルはお母さんの寝ているベッドの隣に滑り込んだ。
「あ、ノエルちょっと待って!」
私は眠ろうとするノエルを呼び止めた。
「なに?」
私は身を乗り出し、ノエルの頬にキスした。
「今の何?」
ノエルはキスした頬を触れながら、不思議そうに聞いてきた。
「えっとね、大好きな人に好きって気持ちを伝えるための行為なんだって。前に読んだ本に書いてあったんだ」
「えっ、そんな本あったっけ?」
ノエルは不思議そうに尋ねた。そういえば、その本はノエルが昼寝している時にお母さんの部屋に置いてあったのを隠れて読んだものだった。
「あったよ。ノエルが忘れているだけだよ!」
声が過剰に大きくなってしまった。
「へえ、そうだっけ……まあいいや……その……僕もう寝るから」
ノエルは素っ気なくそう言うと、布団の中に頭ごともぐりこんだ。そしてすぐに、すやすやと寝息が聞こえてきた。あっという間に眠りについてしまったみたいだ。
ノエルをどちらかというと弟のように思っていた。だけど、こんな風に迷惑ばかりかけていては、反対に自分が妹みたいだ。それに勉強も教えて貰ってばかりだし。
「ふう……」
私は小さく溜息を吐いた。
お母さんの安らかな寝顔が見える。そういえば、お母さんの寝顔を見るのは初めてかもしれない。いつも私の前では働いている姿しか見せないから。体に滲んでいる汗を拭き、額の上に載せているタオルを水に浸して置き直した。隣のノエルは、あどけない顔でぐっすり寝ている。
お母さんの寝顔を見ていると、自分まで眠くなってきた。緊張していた状態から解き放された影響もあるのだろう。そして、私はいつのまに眠りについてしまっていた。
どれくらい寝ていたのだろう。何かゆっくりと揺れるのを感じて目を覚ました。
「起きたのかい?」
声が聞こえたほうを向くと、お母さんの顔がそこにあった。どうやら、ベッドの上にかぶさって寝てしまっていたらしい。
私は目を擦りながらゆっくり体を起こした。
そうしたら、何かがぱさっと体から落ちた。それは毛布だった。お母さんが私にかけてくれたようだ。
「お母さん……」
お母さんの顔を見て一瞬ほっとしたけど、何を言っていいか分からず口籠もってしまった。言わないといけない事は、たくさんあるはずなのに。
「ごめんなさい……」
結局、出た言葉はそれだった。約束を破ってごめんなさい。心配かけてごめんなさい。迷惑をかけてごめんなさい。いろんな意味があったけど、結局そのひと言しか出せなかった。
「最初の発声がそれかい……」
そう言うと、お母さんは大きな溜息をついた。
「ほら、頭を出しな」
お母さんは憮然とした口調でそう言った。きっと叩かれるのだろう。だけど仕方ない、私が悪いんだから。目をぎゅっと瞑り、おそるおそる頭を前に差し出した。
「謝らないといけないのは私の方だよ。ごめんね、サラ」
そう言うと、私の頭を優しく撫でた。お母さんの思わぬ行動に戸惑い、どうしていいか分からず体が強張ってしまった。
「サラ、お前はいつのまにか我儘一つ言わず、何かあったら私に謝ってばかりの娘になってしまったね。でも私はそんなの望んでいなかった。普通の年頃の娘みたいに、我儘言ったり、親に反抗してみたり、そんな普通の生活を送らせてあげたかった。だけど私は、生活するための金を稼ぐだけで精一杯で、ろくに甘えさせてあげる事もできなかった。私は母親失格だね」
(そんなこと無い!)そう大きな声で叫びたかった。だけど言葉にならなかった。涙がとりとめも無く溢れ、口を開けても声にはならなかった。言葉が出ない代わりに、頭を横に振って必死に否定した。
お母さんはずっと私の頭を優しく撫で続けてくれた。これからはもっと素直に言いたいことを言おう。お母さんに我儘だって言うし、自分の気持ちだってしっかり伝えよう。
どれくらいそうしていただろう。お母さんが、ふと思い出したように聞いてきた。
「そう言えば、ノエルにしっかりお礼は言ったのかい?」
「えっと、うん。たくさん心配かけちゃったから」
「そう、ならいいけど。ノエルがいなかったら間に合わなかったよ。いい友達を持ったね」
「えっ、ノエルはただお母さんについて来ただけって言ってたよ?」
「……そう、言って無いのかい。ノエルは、この街まで私を背負って必死に走ってくれたんだよ。それに屋敷に入るのも手伝ってくれたし。私一人ではあんたを助けられなかったよ」
そんなこと聞いてない。ノエルも私と同じくらい素直じゃないんだ。
ノエルは相変わらず、あどけない寝顔でぐっすり眠っている。その寝顔が涙でにじんで見えなくなった。
「ノエルが起きたら、たくさんお礼を言うんだよ」
お母さんの言葉に、私はただ黙って頷いた。
「あと、スミスの変態野郎に世話になるのは少し癪だけど、今日はこの屋敷に泊まろうか。まだ体調良くないから動くのがしんどいし、それにスミスには言い含めておかないといけないことがあるしね」
「……なに言うの?」
「もう金輪際あんたには近づかないこと。それでも、近づいてきたらすぐ私に言うんだよ。ぶっ殺してやるから」
「うん」
「あと、ノエルの事は一切口外しないこと。スミスの言うことなんて誰も信じないとは思うけど、念のため言っておかないとね」
「うん」
「それに今後も私が仕立てた服を定期的に買うこと。本当は慰謝料を分捕りたいくらいだけど、今回は何もされてないからね。口惜しいけど、スミスから来る注文は馬鹿にならないし、それくらいは慰謝料代わりにいいだろ。この屋敷に泊まるのは嫌かい?」
「ううん、大丈夫。お母さんとノエルがそばにいるから」
「そうかい……なら良かった。少し疲れたから、また寝るよ……そうだ、お腹は空いてないかい?」
「大丈夫」
「今は大丈夫でもその内お腹が空くだろ。スミスに何か用意させておくよ。さすがに変なものは入れて無いと思うけど、注意して少しずつ食べるんだよ」
「うん」
今日1日だけで、今までの1年分以上話したかもしれない。お母さんが話しかけてくれるのが嬉しい。今までも気にはかけてくれていたのだろうけど、口にはしてくれなかったから。
「ねえ、お母さん」
「……なんだい?」
「その、あの……」
なかなか切り出せない。素直になろうと決めたばかりなのに、口籠もってしまう。
「……また今度にするかい?」
「ううん、あのね……今日一緒に寝てもいい?」
なんとか言えた。でも緊張で額から汗が出た。拒否されたらどうしよう。どうして他の子達は、こんなこと平気で言えるんだろう。
「いったい何かと思えば……これからはいくらだって構わないよ。だけど、今日だけはだめだ。私の風邪がうつっちゃうから」
「でも、ノエルだってお母さんと一緒に寝てるもん」
「この子は風邪うつる心配なんて無いだろ」
「でもこの部屋にはベッドが一つしかないし、別の部屋で寝るの怖いんだもん。スミスさんは変態だから何するか分からないし……」
「まあ、気持ちは分かるけど」
「それに、お母さんさっき、いくらでも我儘言っても構わないって言ってたもん……」
「あれはそういう意味じゃなかったんだけどね……」
お母さんは、必死に食い下がる私に対し、呆れたように大きく溜息をついた。
「……分かったよ。その代わり、背中を隣り合わせにして寝るんだよ。寝返りを打ったらだめだからね。まったく……私の風邪がうつっても知らないから」
「うん!」
結局、その日は私とお母さんとノエルの3人で同じベッドの上で寝た。ベッドは少し狭かったけど、布団はとても温くて気持ちよかった。
お母さんの心配したとおり、私にも風邪がうつり翌日熱を出してしまった。だけどこの日の出来事は、この後風邪がうつったことも含めて、私にとって忘れることの無い思い出となった。
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