第9話

 おばさんの熱は下がる気配は無かった。でもそろそろ約束の時間だ。どうしたらいいか僕は迷った。サラとしては、きっとおばさんを起こさないでほしいのだろう。おばさんが起きた時には全て終わっていて、安心して休ませたいはずだ。でも、僕は不安で仕方なかった。本当にサラを一人で行かせてよかったのだろうか。

 おばさんは熱のせいか、寝汗をかなりかいていたので、タオルで何度か拭った。そうこうしているうちに、もう約束の時間を30分ほど過ぎてしまっていた。僕は意を決しておばさんを起こす事にした。もしかしたらサラに少し恨まれるかもしれない。でもそんなことは、サラに何かあった場合と比べれば大した事ではない。

「おばさん、起きて」

 おばさんの体を揺りながら、僕は耳元で言った。

「……ん……」

 おばさんは、小さく唸り声を上げたが、起きる気配は無かった。意識が朦朧としているのかもしれない。

「おばさん、もう起きないといけない時間だよ!」

 僕はさっきよりも強く揺すり、大きな声で言った。

「……ああ、もうそんな時間かい……」

 おばさんは目を覚まし薄目を開けた。そしてゆっくりと体を起こし始めた。気だるげなその動作は、まだ回復には程遠い感じだった。

「……ノエル、サラに届ける商品を持って来るように伝えてほしいんだけど」

 僕はどきっとした。どうせ、サラの事は伝えないといけない。だけどタイミングを見計らって自分から切り出したかった。

「その、サラなんだけど……」

「どうしたんだい。呼びにいくだけのことなのに」

「実はサラ……お客さんに商品を届けるために街に行ってるんだ」

「なんだって!」

 おばさんはその言葉を聞くと、血相を変えてベッドから起き上がった。

「サラは、おばさんとの約束を破るつもりなんて無いんだ!ただ、おばさんの体が心配で、少しでも役に立ちたかっただけなんだよ……」

 おばさんは僕の言う事に耳を貸さず、急いで服を着替え外に出る準備を始めた。だけどその途中でベッドの端に膝をぶつけ、倒れ込んでしまった。

「無茶だよ!安静にしていないと」

 僕はおばさんの体を支えながら、外出を止めようとした。

「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないんだよ!あの変態の屋敷にサラ一人で行ったらどんな目にあうか……早く……早く行かないと!」

 その言葉を聞き、僕の体に衝撃が走った。何かは分からないけど、サラが危険な目にあっている。それだけは間違いなかった。やはり、サラを一人で行かせるべきじゃなかったんだ。

「おばさん、僕も行く!」

「あんたが行っても足手纏いにしかならないから、ここで待ちな」

 おばさんは壁を伝いながら必死に立ち上がり、玄関に向かおうとした。

「僕の肩に乗って!僕のほうがおばさんよりもずっと早く走れるから!」

 僕はおばさんの前でしゃがんだ。

「その小さいからだで背負える訳無いだろう」

「背負えるから早く!」

 一刻の猶予もない。こんな問答をしている時間は勿体無かった。

「分かったよ。だけど、無理だったら置いていくからね」

 おばさんはそう言うと、遠慮がちで僕の肩にまたがった。僕はおばさんを肩の上に載せて立ち上がると、玄関を出て街の方向へと全力で走り出した。おばさんを背負っているせいか、いつもより少し足取りが少し重く感じる。でも、そんなの気にしている場合ではない。

「すごい速さだね……これなら30分くらいで街まで着きそうだよ」

 おばさんが背中越しに少し苦しそうに言った。どうやら人が走るよりかなり早いらしい。でも間に合わないと意味が無い。どうしてあの時サラを止めなかったんだろう。後悔したって意味が無いし、まだ間に合うかもしれない。だけど、どうしても後悔の気持ちばかりが頭の中を過ぎる。

 僕の心には黒い感情がある。それは、最近夢の中に出ていない。だけど、もし何かあってサラの笑顔が喪われた時、僕はどうなってしまうのだろうか。

 走っていると、空の上からぽつりぽつりと雨が降ってきた。嫌な雨だ。まるで、ルネを喪ったあの日みたいだ。僕は不安を払拭するため、もっと必死になって走った。


「ノエル、もう十分だよ。降ろしてくれないかい」

 それは、ちょうど街が見え始めた頃だった。雨足が強くなり、僕もおばさんも全身びしょぬれだった。

「まだ目的地に着いてないよ?」

「だけど、このまま街に入ると嫌でも目立ってしまう。それにここからだったら、いくら体調悪くたって十分走れるよ」

「でも……」

「ありがとう。だけど大丈夫だから、お願い聞いてくれないかい?」

 いつもとは違う優しく諭すような口調だった。そんな風に言われたら断る事なんてできない。

「うん……」

 僕はゆっくりとしゃがみ、おばさんを地面に降ろした。

「ほら、今度は私の背中に乗りな。肩から手を離すんじゃないよ」

 そう言うと、僕を背負っておばさんは走りはじめた。僕が走るのよりはずっと遅いけど、

雨に濡れ息を切らしながら走り続ける姿は、おばさんがどれだけサラを大切に思っているのか十分伝わった。

 無事に一緒に帰れたら、サラにたくさん文句を言ってやる。僕とおばさんにこんなに心配かけさせたんだから当然だ。だから無事でいて。僕はおばさんの背中で強く祈った。


 その屋敷の正門に着いた時には、おばさんは体力を使い果たしていた。おばさんはインターホンを続けて何回も押したあと、膝を折ってその場に倒れそうになった。僕はおばさんの肩に手を回して支える。

 間延びするようなチャイムの音が鳴り、苛立つ気持ちを抑えながら返事を待ったけど、結局なんの応答も無かった。今度は僕がインターホンを何回も押した。でも、やはりチャイムの音が鳴るだけで、屋敷からは何の返事も無かった。

「おばさん、本当にここでいいの?」

「……ここに間違いないよ。あの変態、居留守を使っているんだ!」

 おばさんは息をぜえぜえさせながら言った。きっと朦朧としているのだろう、目が虚ろで視線が定まっていない。それに振り絞る声も囁く程度の大きさしかなかった。

「この門を登るから、僕の肩に掴まって!」

 僕は門の扉をよじ登りだした。いくら格子が雨で滑っても、僕の力ならきっと登る事ができる。

「ああ、お願いするよ……」

 おばさんは僕の肩に手を回してしがみついた。でもその力も弱くなっている気がする。(おばさん、あと少しだから頑張って!)

 心の中で呟き、ひたすら上に登った。そして登りきった後、おばさんを抱えて飛び降りた。あと少しでサラにたどり着く。屋敷へとそのまま全力で走った。屋敷の全景が見えてくる。中はかなり広そうだ。屋敷の一室の窓だけ光が漏れていた。きっとそこにサラがいる。

(サラ……もう少しで着くから)

 僕は窓に向かいひたすら走った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る