第8話
街へ行くのはどれくらいぶりだろう。もう思い出せないくらい前になる。ノエルの前では平気な振りしたけど、本当は不安で胸がいっぱいだった。だけどそんな事を言っている場合じゃない。
お母さんは、いつだって頑張りすぎなくらい働いている。私はほとんど何も手伝えず、役に立てていなかった。せめて、こんな時くらいはお母さんの役に立ちたかった。そしてお母さんに「ありがとう」って言ってほしかった。
でもそれは私の我儘だった。だからあんな事になってしまったんだ。
街は人で溢れていた。大通りを歩くと見渡す限りの人だった。当たり前だけど、知っている人なんて誰もいなく心細い。早くお客さんの家に行って、お母さんとノエルがいる自分の家に帰りたかった。
「お嬢ちゃん、迷子にでもなったのかい?」
声の方を向くと、果物を売っているお店のおばさんが、私をじっと見ていた。
「ずっと不安そうにきょろきょろしているじゃないか。心配になっちゃってね」
おばさんは、人の良さそうな笑顔で私に話しかけてくれた。なんだか少しほっとした。
「あの……大きな屋敷に住んでいるスミスさんの場所をご存知ですか?」
「ああ、この道を真直ぐ行くと、途中で道が左右に分かれているから、そこを右に進んで10分くらい歩くとあるよ。大きい屋敷だから、行けばすぐにわかるさ。でもどうしてそんなこと聞くんだい?」
「スミスさんに依頼されている洋服を届けに行くんです」
「えっ、あんた一人でかい?」
おばさんは目を丸くして聞き返した。どうしてそんなに驚いているのだろう。よく分からないまま、私は頷いた。
「あんたみたいなお譲ちゃんが、一人であんな奴の家に行ったらだめだよ。何されるか分かったもんじゃないよ!」
おばさんは、諫めるような厳しい口調になった。
「……スミスさんってどういう方なんですか?」
「私は会ったことないけど、碌な噂を聞かないよ。女にだらしが無くて、しかも若い娘から熟女まで見境が無いって話しさ。そんなんだから奥さんにも愛想つかされて、大きな屋敷に一人で暮らしているんだってさ!」
だからお母さんは、私を一人で行かせたくなかったんだ。それなのに私は、お母さんの言う事を守らずに来てしまった。やはり家に戻ったほうがいい。そう思いながらも、今更なにもせず引き下がるわけにもいかなかった。今日中に届けないといけないって、お母さんは言っていた。あんな体調のお母さんに、これ以上苦労をかけさせたくない。
「お譲ちゃん、悪い事は言わないから家に帰りなさい。ついていってあげたいけど、私もここから離れるわけにもいかないしね」
おばさんは私に、優しく言った。きっと本気で心配してくれている。
「……ありがとうございます」
私はそれだけ言うと、踵を返してその場から逃げるように走った。どうしよう。本当は、泣き出してその場に蹲ってしまいたい。だけど、そんなことしてもなんの解決にもならない。
結局私は、何も決められないままに屋敷に着いてしまった。その屋敷は、街の中央から少し離れた林の中にあった。周囲は高く長い壁に囲まれて、周りに他の家は無い。正門は厚い扉は堅く閉ざされており、中は完全に外から隔離されているようにみえる。セキュリティーは完璧なのだろう。それが余計危なく感じる。
きっと大丈夫。お母さんは何回も来ているはずなのに、今まで普通に家に帰ってきていたんだから。それに、いくら女の人が好きだからって、私みたいな子供には興味ないだろう。自分の平らな胸に何度もそう言い聞かせる。だけど足がすくんで、どうしてもそこから前に進めなかった。
何分くらいそこに立ち尽くしていたのだろう。ふと気がつくと、上から何かがぽつぽつと頬に落ちてきていた。見上げると薄暗い雲が空を覆っている。どうやら、雨が降り始めたみたい。しかも、雨脚はどんどん強くなってきた。最初はぽつぽつ降っていただけなのに、もうシャワーみたいに体に降り注ぎだした。このままでは、バッグに入れている洋服まで濡れてしまいそうだ。
もう躊躇っている暇なんて無かった。バッグを背中から下ろすと濡れないように手で覆い、正門のインターホンを急いで押した。チャイムの音が鳴り、そしてしばらくすると受話器の先から、がさごそと音がした。
「どなたですか?」
インターホンから、男の人の声が聞こえてきた。中年の男の人の低い声だった。怖いイメージを持っていたけど、優しそうな声だった。きっとこの人がスミスさんだ。
「あの……仕立て屋の者です……母の代わりに洋服を届けに来ました」
「おお、ありがとう。今扉を開けるから待っていてくれ」
そう言うとインターホンは切れ、少ししてから扉が自動的に開いた。屋敷の中に入ってしまっていいのだろうか?少し躊躇ったが、誰も来る気配は無かったので、おそるおそる中に入った。
屋敷の前に立つと、その大きさをあらためて実感した。私の家が10個くらいは余裕で入ってしまうのでは無いだろうか。いくつか見える屋敷の窓は真っ暗で、照明は全く灯っていないようにみえた。
「大丈夫……大丈夫!」自分自身に何回も言い聞かせ、玄関のドアをこんこん叩くと、鍵がかちゃっと開き、ゆっくりドアが開いた。胸の鼓動が緊張で早くなる。
「こんにちは」
そう言いながら屋敷の中から出てきたのは、口髭を生やした少し小太りの中年の男の人だった。上品なスーツを着ており、髪は綺麗にオールバックしている。身なりはしっかりしているし、それに声も穏やかで、決して評判の悪い人には見えなかった。
「ん?どうしたのかな?」
「あ……こんにちはっ!」
まだ返事をしていなかった事に気付き、慌ててあいさつした。
「これはまた、小さくて可愛らしいお客さんが来たもんだね」
「すみません、お母さんが風邪をひいているので私が代わりに洋服を届けに来ました」
「ほう、エリザの娘さんか。まあここで立ち話するのも何だから、部屋まで来なさい。雨に濡れて体も冷えているだろうし、紅茶でも出そう」
そう言うと、スミスさんは踵を返して屋敷の奥へと向かった。
できれば玄関で洋服を渡すだけで帰りたかったけど、そうは行かなさそうだった。用があると言って、玄関に洋服を置いて帰ろうか。一瞬そう思ったけど、スミスさんは大切なお客さんだから失礼はできないし、噂で言われているような悪い人にも見えなかった。
屋敷は、こんなに広いのに人の気配が全然しなかった。スミスさんについていくうちに、どんどん奥に引きずり込まれているような気がして、不安でいっぱいになった。
「あの……他に人はいないんですか?」
「ああ、普段は使用人が何人かいるが、今日は休みを取らせているんだよ。私もたまには一人になりたいしね」
たんたんとした語り口調からは、スミスさんの感情を読み取れなかった。だけど、もし何かあっても誰も助けてくれないことだけは分かった。
「ほら、こっちにいらっしゃい」
スミスさんが一つの部屋の扉を開くと、私に手招きした。私が部屋の中に入ると、電気を灯けた。部屋が明るくなって、私は少しだけほっとした。部屋には棚がいくつかと、大きなテーブル、そしてそれを囲うように椅子がたくさん並んでいた。
「温かい飲み物を持ってくるから、椅子に座って待っていなさい」
そう言うとスミスさんは部屋を出ていった。
一秒でも早く家に帰りたかったから、私はすぐにスミスさんに渡せるようにバッグから洋服を取り出し椅子に浅く座った。部屋の中はひんやりと冷たく、雨に濡れた体から体温を奪われ凍えそうになる。やっぱりノエルについてきて貰えばよかった。そうしたら、こんな不安な気持ちにはならなかったのに。後悔してももう遅い事は分かっているけど。
スミスさんはなぜか、なかなか戻ってこなかった。
「やあ、待たせたね」
しばらくしてから、スミスさんがカートを引きながら戻ってきた。カートの上には、ティーセットとケーキが置いてある。
「お湯を沸かすのに時間がかかってしまってね」
そう言いながら紅茶をティーカップに注いだ。カップからは温かそうな湯気が立つ。
「あの……気を使わないでください。私はお邪魔にならないようにすぐに帰りますから」
「いやいや、私もちょうど退屈していたところなんだよ。少し私との世間話しに付き合ってくれないか?このケーキ、街で一番人気の洋菓子店のものなんだよ。きっとお嬢ちゃんも気に入るよ」
穏やかだけど有無を言わせない口調だった。そしてスミスさんは机の上にティーセットとケーキを並べ、私の隣の席に座った。
「ほら、食べてごらん?」
「……はい、ありがとうござます」
ケーキはとても綺麗にレコデーションされていて、食べたこと無いような上等な物だった。フォークでケーキの先端を小さく切り口に運んだ。たぶん美味しいのだろうけど、味わうだけの余裕なんて無かった。
「……とても美味しいです」
「ほう、それはよかった」
スミスさんは満足げに笑った。
「そういえば、お譲ちゃんの名前は?」
「サラです」
「可愛らしい名前だね。それに、顔もエリザの若い頃によく似ている」
「お母さんとは、昔からの知り合いなんですか?」
「ああ、君のお母さんが街でダンサーをしていた頃からね。私はエリザの大ファンだったんだよ。残念ながら君の父さんと結婚した後ダンサーも止めてしまったがね」
どう返事していいか分からなかったので、私は曖昧に笑った。でも、かなり昔からのお母さんの知り合いという事を知り、少しほっとした。紅茶を口に入れると、とても温かかった。体の芯までほかほかになるような気がする。
「ほら、これがエリザの若い頃の写真だよ」
スミスさんは、おもむろに胸ポケットから一枚の写真を取り出した。そこには綺麗な衣装を着てダンスを踊っている一人の若い女性が写っていた。躍動感に溢れたその写真は、今からは想像もつかない。だけど間違いなくお母さんだった。髪の色や雰囲気は違うけど、目鼻立ちなどは確かに私と似ている。
ダンサー時代のお母さんの写真は始めて見たから、その写真に心を奪われてしまった。だから、どうしてその写真がスミスさんの胸ポケットに入っているのかという疑問に、その時は気付かなかった。
「洋服を持ってきてくれてありがとう。ところで、君はこの包装の中身は見たかい?」
スミスさんは、写真を食い入るように見ている私を満足そうに眺めながら言った。
「いえ、お母さんが包装したので見てないです」
「そうか。だったら開けて見てごらん」
「え、でも……」
「私が構わないと言っているんだから遠慮する必要なんて無いだろう」
「……はい、分かりました」
スミスさんはどうして私に開けさせようとするのだろう。理由は分からないけど、断る事もできず、途惑いながら包装を開けた。
「わあっきれい!」
私は思わず感嘆の声をあげた。中にはドレスが入っていた。白いシルクの生地の上に、可愛らしい刺繍が散りばめられている。胸の前は少し開いていて刺激的だけど、膝丈までありそうなスカートはひらひらと波状に広がり、優雅にみえる。
「気に入ってくれたかい。君がもう少し大きくなったら、よく似合いそうだ」
スミスさんは笑みを浮かべながら言った。なんだろう、その笑みを見てぞっとした。
そういえば、この洋服は誰が着るのだろう。噂では、奥さんと離婚したと聞いている。誰か別の人がいるのだろうか。だとすると、私が包装を開けてしまってよかったのかな。
「この服はね、エリザのために注文しているものなんだよ」
私の疑問を見透かすように、スミスさんは笑みを浮かべながら言った。どういうことなのだろうか。まさかお母さんは、スミスさんの恋人なのだろうか。いや、そんなはずは無い。少なくともお母さんはスミスさんの事を良くは思っていないはずだった。それに、自分へのプレゼント用の服を自身で作るのもおかしな話しだった。
「いや、エリザに似合いそうな服を私が勝手に考えて注文しているんだよ。最近じゃあ、街に大きな仕立て屋ができたからエリザも何かと大変そうだしね。何か役に立てないかと思って、こうやって注文しているんだよ」
「……ありがとうございます」
そう言うだけで精一杯だった。スミスさんから一秒でも早く逃げ出したい。
「それにしても、君は本当にエリザに似ている。特に、目元や透きとおった白い肌なんてそっくりだよ」
スミスさんはにじりよって、上半身を私に近付けてきた。私は思わず体を引いた。どうしよう、怖くて膝ががたがた震える。
「どうしたんだい、顔が真っ青だよ」
私の気持ちを知ってか知らずか、スミスさんは心配そうな表情で尋ねた。
「ああそうか、雨に濡れたから体が冷えてしまったんだね。それなら早く、洋服を着替えた方がいい」
スミスさんがさらに私ににじり寄ってきた。スミスさんの指先が私の頬に触れる。
「頬も、こんなに冷たくなってしまったね」
その指先は私のあご、首筋、鎖骨へと少しずつ降りていった。抵抗したくても、恐怖で体が金縛りにあったように動かなかった。そしてその指先は、私の上衣のボタンへと向かい、ボタンはゆっくり、一つずつ解いていった。
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