第6話
ぽかぽかと陽射しが暖かく、それでいてそよぐ風はひんやりと肌を優しく触れてとても気持ちよかった。
午前中はサラと勉強するのが日課になっていた。教科書は一式、サラの書棚に用意されていた。サラのお母さんが買ったものだ。ほんとうは自分でサラに勉強を教えてあげたかったのかもしれない。教科書のうちいくつかには、大人の人の筆跡で、アドバイスなどが記載されていた。
その日はせっかくのいい天気なので、テラスに出て勉強しようとサラが言い出した。サラのお母さんは仕事で夕方まで戻らないし、家に誰か人が訪ねるようなことも普通は無い。だから僕もサラも油断してしまったんだ。
「ノエルってほんと頭いいね!」
算数の教科書を一緒にしている時に、サラが感嘆の声をあげた。
「ノエルも算数は初めてなんだよね。どうしてそんなにすぐに理解しちゃうの?」
「どうしてって……教科書に説明が書いてあるし」
僕は途惑いながら答えた。
「えっ、こんな説明じゃ分からないよ……」
サラは大きく溜息を付いて言った。
きっとサラが普通なんだと思う。僕は一回読んだ内容は記憶できるし、記憶したら忘れない。だから一緒に勉強を始めた算数だってサラに教えられるてしまう。サラの役に立てるのは嬉しいけど、悩みを共有できないのは寂しかった。
「ほらサラ。ここの部分が計算間違っているよ。もう一回解いてごらん」
「……うん」
サラは悩ましげに頭を抱えながら、もう一度計算を始めた。
「……やっぱり私には分からないよ」
サラは教科書を畳むと机に倒れ込んだ。
「諦めちゃだめだよ。本棚にある教科書や本を全部理解できるようになって、お母さんを驚かせたいんでしょ!」
励ますことに意識が集中しているのと、僕とサラの話し声がノイズになって、人が近づいているのに全然気が付けなかった。そして、気が付いた時にはもう僕達の真後ろに立っていた。
「サラ、これはいったいどういうことだい?」
僕とサラが同時に振り向くと、そこにはサラのお母さんが立っていた。
「お、お母さん……どうしてここに……」
「今日中にお客さんに渡さないといけない商品、うっかり忘れたから取りに戻ったんだよ。まあそんなことはどうだっていい。それより、この人形なんなのさ?」
「……ノエルは人形じゃない。私の大切な友達なの」
サラはそう言って、僕を強く抱き締めた。サラの声と抱き締めたその腕は震えていた。
今さらただの人形のふりをしても手遅れなのは分かっていたけど、僕はどうしていいか分からずただ黙って成り行きを見守るしかなかった。
「凄いじゃないか!意思があるのかい?こんな人形、世界のどこを探したって他に無いよ!」
サラのお母さんは、興奮していてサラに対して聞く耳を持たなかった。サラは何も言い返せず、ただ僕を抱き締める腕の力にいっそう力を込めた。
「その人形、私に渡しな!売り払えばとんでもない値段になるよ!」
サラのお母さんは、僕の腕を掴んで強引にサラから奪おうとした。
「お母さん、止めて!」
サラは必死に僕を掴み、離さないようにした。
僕はどうしていいのか分からなかった。サラを助けたかったけど、サラのお母さんを傷つける訳にもいかない。それに、二人の強い感情が僕の頭の中に入り込んで頭がぐらぐらする。
「ばんっ」
弾けるような強い音がした。どうやら、二人が揉み合っている中で僕の右腕が宙を舞い、サラのお母さんの頬に激しくぶつかってしまったようだ。
サラのお母さんの右頬は赤くなった。そして、口の中が切れたのか、唇から一条の血が滴った。
「……お母さん、ごめんなさい。でも、でも……」
サラが涙を流しながら、訴えるような目で必死に何か伝えようとした。
「……いいよ。もうあんたなんか、勝手にすればいいさ」
サラのお母さんがなげやりに呟いた。だけど、サラと同様に目には涙が溢れていた。そして何も言わず、振り返る事も無くその場を後にした。
どうしてサラのお母さんが近づいている事に気が付けなかったのだろう。サラが気付かないのは仕方ないけど、僕はサラよりずっと耳がいい。だから僕が気付かなければいけなかったんだ。そうしたら、二人が喧嘩する事も無かったしこんなに傷つける事も無かった。
後悔の気持ちがどんどん溢れ出た。いまさら後悔したって無駄なのは分かっているけど。
「サラ、ごめん……」
「……ノエルは悪くないよ」
サラはそう言ってくれたけど、両手で顔を覆い表情を読むことはできなかった。そして、声は涙で震えていた。僕はもう、それ以上何も言う事はできなかった。サラを元気にしてあげられるような魔法の言葉は無い事が分かっていたから。
しばらくして二人で家の中に戻ると、サラのお母さんはいなかった。さっき言っていたとおり、忘れ物を取りに戻りまたすぐ出かけたのだろうか。
サラは自分の部屋に戻ると、ベッドの上に倒れ込んだ。そして、顔をベッドに埋め、声を押し殺して泣き続けた。
そういえば、今日の掃除と洗濯をまだしていない。僕の気持ちも落ち込んでいるけど、サラのためにできることをしたかった。
「……サラ、掃除と洗濯しておくね……」
「……ありがとう」
サラはベッドに顔を埋めたまま言った。
僕は、そっと歩いて部屋を出ようとした。部屋を出てドアを閉めようとした時、サラはぎりぎり聞き取れるくらいの小さい声で、僕に呟いた。
「ノエル、ごめんね……」
何に対する謝罪なのか。きっといろいろな意味が込められているのだろう。僕は返事を
せずそっとドアを閉めた。
その日は、サラのお母さんの帰りはいつもより2時間くらい遅かった。理由は分からない。そして、夕ご飯の声をサラにかける事は無かった。だけど、サラの部屋の前に夕ご飯は置いてくれていた。
「サラ、部屋の外にご飯が置いてあるよ」
「……いらない……食欲が無いの」
サラは、ずっとベッドに伏せたままだ。ぴくりとも動く気配は無い。
「サラ、お昼ご飯も食べてないよ。このままじゃ体に悪いよ」
「ごめんね、でも本当に何も口に入れられそうに無いの」
こんなことサラのお母さんだって望んでいない。サラがご飯を食べないと、きっと心配だろう。
僕はとりあえずご飯を部屋の中に運んだ。スープの匂いが部屋に立ち込めたが、サラの反応は無かった。僕では代わりに食べる事はできないので、食べ物を食器から携帯用のバスケットに移した。サラの食欲が戻ったときに食べやすいように、野菜はパンに挟んでサンドイッチにした。だけどスープは入れる容器が無かったので、仕方なくそのまま戻す事にした。
だけどその日は、結局サラは夕ご飯を口にすることは無かった。サラがベッドから起ききだすのを待ったけど、サラはその後しばらくすると、泣き疲れたのか寝てしまった。
サラの寝顔を見てみると、目の下が少し腫れていた。ずっと泣き続けていたんだから、無理も無い。サラの世界ではきっとお母さんの存在が心の大部分を占めているのだろう。サラの気持ちを考えると胸が張り裂けそうだった。
堂々巡りの悩みを繰り返していたが、ふとあることを思いついた。たしかに僕がサラにできることは無い。でも、喧嘩の原因が僕なのだから、僕がサラのお母さんの言うとおりにすれば、喧嘩はおさまるかもしれない。
部屋の電気を消し、僕はサラのお母さんの部屋へ向かった。部屋の中からは、光が漏れていた。ミシンの音がかたかたと聞こえてくる。どうやらまだ仕事をしているらしい。部屋の中へと入ったことは掃除の時に何回かあるが、サラのお母さんがいるときに入るのは初めてだった。
僕は少し緊張しながら部屋のドアをこんこんと叩いた。
足音がドアに向かい近づいてくる。そしてドアがゆっくりと開いた。
ルネのお母さんが、カーディガンを羽織って現れた。そして僕と目が合うと、少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「まあ、あの娘が来る訳無いしね。何か用かい?」
用はある。だけど、なんと言って切り出せばよいか分からず、僕はただ俯いた。
「話したい事があるんだろ。中に入りな」
ぶっきらぼうな言い方だったけど、思っていたよりもずっと温もりを感じた。
「ふう……」
サラのお母さんは、大きく息を吐くと、ゆっくりと椅子に座った。そして自分の肩を拳で軽く叩く。なんだかとても疲れているようにみえる。
「いつまでもつったってないで、その辺に適当にすわりな」
僕は促されるまま、ベッドに浅くすわった。サラのおかあさんは、僕に向き合い、観察するようにじっと見据えている。何か話そうとしたが、どう切り出したらいいか分からず、やはり黙ってしまう。
「あんた、ノエルっていうのかい?」
話しかけてきたのはサラのお母さんからだった。思わぬ事に戸惑い、僕はただ頷いた。
「ふうん……それじゃあノエル、聞きたいんだけど、あんたいったい何者なんだい?」
「……何者って?」
「なに惚けてるんだ。あんたみたいな人形は普通じゃないだろ。誰がいつ何の目的で作って、そしてどうして今ここにいるのかって事さ」
「……僕もよく分からない。たぶんルネが僕を作ったんだと思う。でもルネが……ルネが病気で死んじゃって、僕にはもう誰もいなくなって、それで……」
上手く言葉が出なかった。もう大丈夫だと思っていたけど、「ルネ」の事を口に出すと、ルネを喪った時の悲しみや喪失感が甦ってしまった。
「まあいいわ。少なくとも、夜中に鋸を持って人の首を切って回るような、悪霊の憑いた人形では無さそうだしね」
サラのお母さんは、そう言いながら小さく笑った。笑った顔を見るのは、写真以外ではこれが初めてだ。いつもは冷たそうだけど、笑うと優しい顔に見えた。
「それで話したいことってなんだい?どうせサラのことだろうけど」
「うん……サラと仲直りして欲しいんだ。だってサラはおばさんのこと大好きだし、おばさんだってサラのこと大切に思っているじゃん。それなのにこんなふうに喧嘩するのっておかしいよ!」
今までが嘘のように、言いたい言葉が自然と口から出てきた。きっと、サラのお母さんの優しい顔を見たからだ。
「……別に喧嘩している訳じゃないよ。お互いにとって、もうこれが一番いいのさ」
「どうして?お互い素直になればいいだけなのに」
「素直ってなんだい?確かにあんたの言うとおり、サラは大切な私の娘だよ。だけどそれ以上に、あの娘を見ていると自分がどんどん惨めになってくるんだよ!」
サラのお母さんは少し感情的になっていた。でもその言葉には、怒りではなく悲しみが溢れていた。
「親なのにまともに親らしい事をしてやれない……ほんとは、この家を売り払って街に引越した方がいいのは分かっているんだ。そうすれば学校に行かせてやることもできたし、あの娘に友達がたくさんできたかもしれない。だけど私にはそれができなかった。旦那との思い出が残るこの家から離れる事はできなかったし、旦那の仕立て屋も喪いたくなかった。その結果がこのざまさ。娘に碌な教育も与えられないし、一緒にいてやる時間も無く一人ほったらかしている。美味しい物も食べさせてやれない、そして自分自身への苛立ちをあの娘にぶつけてしまう……これからだってずっとそうさ。前に、あの娘に『あんたなんて産まなければよかった』って言った事があるんだよ。それ以来、あの娘は私に心を閉ざしてしまった……当然だけどね」
目には涙が溜まっていた。その気持ちが、僕の胸にまでひしひしと伝わってきた。悲しみ、喪失感、そして孤独……この人も、僕やサラと同じなんだ。
「だけど、サラはおばさんの事が大好きだよ」
「……もう無理なんだよ。あの娘は旦那に似て、お人よし過ぎるくらい優しい娘なんだけど、頑固な部分だけは私に似ちまった。今更、私に素直になってくれたりしないよ。私も今更、あの娘への接し方を変えることはできない」
これ以上、もう何も言い返せなかった。
「……人形相手に何言っちゃってるんだろうね、私は」
感情を吐き出して冷静になったのか、自嘲気味に笑った。
言うか言わないか、迷った。それを口にすると、僕はまた大切な全てを喪ってしまうかもしれない。でも、そうすれば二人はやり直せるかもしれない。サラがあんなふうに悲しまなくてよくなるかもしれない。僕は思い切って話すことにした。
「おばさん、僕はどれくらい価値があるのかな?」
おばさんは僕の方を見た。だけど表情は変わらず、何を考えているかも伝わってこない。僕は拳をぎゅっと握り締め、言葉を続けた。
「僕を売ったお金があれば、サラと仲直りできるのかな?おばさんが惨めな気持ちにならないで、サラと素直に向き合えるようになるのかな……僕はそれだったら」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないよ」
話している途中で、おばさんは少し怒気を含んだ口調で口を挟んた。
「私だって人形に同情されるほど落ちぶれちゃいないさ」
朝と言っている事が違う。最初は僕を売る気でいたのに、もうその気は無いのだろうか。少しほっとしたけど、でもそれでは結局なんの解決にもならない。
おばさんは机に向き直り、ミシンをまた動かし始めた。がたがたとミシンの動く音が部屋の中で響きわたる。僕は動けずにいた。
おばさんの本当の気持ちを知る事ができたのは収穫だ。でも、今僕ができることは他に無いのだろうか。
「ねえ、あんたサラに勉強教えてやってるんだろ」
おばさんは、視線をミシンの針先に向けたまま尋ねた。
「えっと、一緒に勉強しているだけだよ。僕のほうが少し知っている事が多いから、教えられる部分もあるけど」
「ありがとうね。私は勉強なんて小さい頃からしてこなかったからさ。もし余裕があっても、きっとほとんど教えてやれなかったよ。それにあの娘の友達になってくれた。あの娘の表情が最近明るいのは、きっとそのせいなんだね」
「……感謝されることなんて何もして無いよ」
僕は強く頭を振った。だってサラは、もっともっとたくさん、僕にいろいろな大切なものをくれているから。
「さあ、もう夜遅いんだからあんたもさっさと寝な。子供と人形はとっくに寝ている時間だよ」
そんな僕を横目に見て、おばさんは優しい口調で言った。
「うん。おばさんはまだ寝ないの?」
「私もこの服が一段落したら寝るよ。明日も早いからね」
今日はもう、これ以上話せそうに無かった。部屋を出て、ドアをゆっくり閉める。
「おやすみなさい」
小さい声でおばさんに向けて言った。ミシン音に掻き消され、おそらく聞こえなかったと思う。部屋の中からは、ミシンの音と照明の光が漏れていた。だけど、この音と光はサラの部屋にまでは届いていない。僕はドアにもたれかかった。この音と光が、そしておばさんの気持ちがサラにまっすぐ届けばいいのに。
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