第3話
ふわっと持ち上げられるような感覚で、ぼんやりとだけど意識が回復した。でも眩しすぎて目を開けることはできなかった。何かを掴もうと両手を宙に迷わせたけど、何も触れられなかった。
ぎゅっと、体を抱き締められるような感触がした。そして、温かくて優しい匂いがした。ルネ?僕はうっすらと目をあけた。逆光が影になって顔を見ることはできない。だけどそこには確かに誰かいた。
「ルネ……」
僕は声にならない声で呟いた。
その誰かは、また僕を抱き締めた。体温が伝わってとても温かい。その時の僕は、川で流されて身体中冷え切ってしまっていたから。
そしてその温かさに包まれながら、僕の意識はまた遠ざかった。
目が覚めると、そこは真暗だった。体を起こして周りを見回しても、目が暗闇に慣れてなくて何も見えない。
何があったのかとっさには思い出せなかったけど、すぐに嫌でも思い出された。おじいさんの言葉を無視して家を出たこと、川で溺れて意識を失ったこと、誰かに川から引き上げられたこと、そして……そしてルネが死んだことを。
僕はもう永遠に眠ってしまいたかった。だけど目を覚ましてしまったのだ。
少しずつ回りが見えてきた。どうやら、僕は知らない部屋のベッドに寝ていたようだ。そして、僕の体は拭かれ、上にはブランケットが掛けられていた。僕が来ていた服は、ワイヤーに吊らされ干されている。
起き上がるため足を動かそうとして、側に何かあることに気付いた。それは人の頭だった。ベッドに頭を預け、すやすやと寝息を立てている。きっと僕をここまで運んだ人だ。
ルネでは無い事は頭では理解していた。だけど「ルネじゃないか」という気持ちがどうしても捨てきれない。
うつ伏せで寝ているから寝顔は見えなかった。僕はベッドから滑り降りると、いろいろと動き回って位置を変え、なんとかして寝顔を見ようとした。
「きゃっ……」
何かに躓いて僕が転ぶのと同時に、その人は小さい叫び声をあげた。どうやら、僕はその人の足を踏んでしまったらしい。
ぱちりと電気が点き、周囲は眩しいくらいに明るくなった。目を擦りながら必死に開けて確認すると、やはりルネではなかった。ルネとは似ても似つかない。
ルネは綺麗な黒髪をしていたが、この女の子はどちらかというとおじいさんの白い髪の色に似ている。背丈だって、どちらかというと僕に近い。
「目が覚めたんだ……よかった」
女の子は嬉しそうに笑った。この女の子は僕の事を心配してくれている。そんな事は分かっていたけど、この時の僕にはこの子を思いやる余裕は無かった。
「良くなんて無いよ!どうしてそっとしておいてくれなかったの?僕は……僕はこんなこと望んでいなかったのに!」
やり場の無い悲しみと怒りを、この子にぶつけた。
「ごめんなさい……」
女の子は声を震わせて謝った。
この子は何も悪くない。僕は怒りをぶつたことで冷静さを取り戻した。でも女の子に謝る気持ちにもなれなかった。女の子のすすり泣く音が部屋に響く。
気まずい沈黙は、思わぬところから破られた。
「さっきからいったい何を騒いでいるんだい!」
ドアをばんっと開く大きな音と同時に、怒鳴り声が聞こえてきた。
「サラ、さっき拾ってきた汚い人形、ちゃんと捨てたんだろうね?」
声の方向を見ると、黒髪の女の人が立っていた。背丈などはルネに近い。だけど、荒々しい表情やしぐさはルネと似ても似つかなかった。
「なんでまだあるんだい。捨てるまで晩御飯は抜きだって言っただろ!」
その女の人は、女の子を睨みつけた。女の子は怯えたように身をすくめ、何も言葉を発せられずにいた。
「あんたって子は、どうしていつも私に逆らうんだい?」
そう言うと、女の人は僕の腕を掴んで引張りあげた。そして僕を部屋から連れ出そうとする。
「……お、お母さん、やめて!」
女の子は、女の人の腕にしがみいた。
「久しぶりに話したと思ったら、私への反抗かい。本当に可愛くない子だね」
女の子の傷つく気持ちが伝わって来る。僕が女の子に怒鳴った時よりもずっと傷ついている。だけど女の子は泣かなかった。
「違う……違うの。でもこんな寒い日に外に放り出すなんて、可哀想だよ……」
「人形相手に、いったいなに訳のわからないこと言ってるんだい!」
女の子は何も言い返せなかった。だけどその代わりに、しがみついていた腕の力を、さらにぎゅっと強めた。
「ふん、勝手にしな!」
女の人はそう言うと、僕をベッドへと放り投げた。僕の体はベッドの弾力で反発し、横の壁にがつんとぶつかった。女の人が入ってきた時と同じようにばんっと荒々しくドアを閉じ、部屋を出ていく音が聞こえる。
「ごめんね、痛くなかった?」
女の子が心配そうに僕の顔を覗きこんだ。
「別になんともないよ」
僕は素気なく答えた。別に強がったわけではない。本当になんとも無いのだ。壁にぶつかった時に体に衝撃は走ったけど、ただそれだけのことだった。
「よかった……ごめんね」
そう言うと、女の子は僕の頭を撫でた。
懐かしい感じがする。ルネじゃないのに、まるでルネが隣にいるような感覚だ。
「だから何とも無いって!」
僕は女の子の手を振りほどいた。煩わしかったわけではない。むしろ、ずっとそうしていて欲しかった。でも、そう思ってしまう自分自身が腹立たしかった。
「ごめんね」
女の子はまた謝った。
「どうして謝るのさ!何も悪いことなんてしていないのに」
「その……ごめんなさい……」
そして女の子はまた謝る。なんだか話しているのが馬鹿らしくなり、目を逸らした。
僕はこの家を出ようと思った。外が寒かろうがなんの問題もないし、この女の子だって、僕さえいなければあの女の人と喧嘩する必要も無かっただろう。
「ぐーきゅるきゅる」
変な音が聞こえたので音の方向に目をやると、女の子がお腹に手をあてていた。
「……へへ、お腹が空いちゃった」
視線が合うと、女の子は少し恥ずかしそうに笑った。
「食べ物だったら、部屋の外に置いてあるじゃん」
「え、そんなはず無いよ。だってお母さん晩御飯抜きだって言ってたし」
「そんなの知らないよ。でも食べ物の臭いは部屋の外からするよ」
女の子はドアへ向かい、音がしないようにそっと開いた。
「ほんとに置いてあった」
女の子は板を両手に持って戻ってきた。その上にはパンとシチュー、それにサラダが追いてあった。
「一緒に食べよ!」
「僕はいらない。お腹空いたりなんてしないし」
「……ほんとに?」
「なんで嘘つく必要があるんだよ!」
食べ物は少ない。おじいさんは、いつもこの3倍は食べていた。でもだからといって、僕はこの子のために遠慮なんてしない。
この子の考える事は分からないことばかりだった。そして、あの女の人も僕にはさっぱり理解できなかった。この女の子を大切に思っているのを感じるのに、それとは反対の態度ばかり取っている。
「そういえば、きみの名前は?」
女の子は、パンを頬張りながら尋ねてきた。
「ノエル」
僕は素気なく答えた。
「へー、ノエルって言うんだ。いい名前ね。ノエルって呼んでもいい?」
「なんだっていいよ」
「それじゃあ……ノエル!」
女の子ははにかみながら僕を呼んだ。
この子はなんなのだろうか。僕には分からない。おじいさんは言っていた。僕は普通とは少し違うから、人前で動いたり話したりしてはいけないって。だけどこの子は、僕が話しても、なんとも思っていないみたいだ。
「そういえば、私の名前まだ言ってなかったね」
「知ってるよ、サラでしょ」
「……どうして知ってるの?」
女の子は不思議そうな表情で僕を見つめた。
「君のお母さんがそう呼んでただろ!」
「あ、そっか!」
女の子は納得した様子で手をぽんと叩いた。この子と一緒にいるとなんだか調子が狂う。僕はついさっきまで、ルネを喪った悲しみで胸の中がいっぱいだったはずなのに。
「ねえノエル。私の事はサラって呼んでね」
「うん」
僕は目を背けて頷いた。どうせこの子の名前を呼ぶ事は無いと思っていたから。
ここにいても仕方ないから、隙を見て家を出ようと思っていた。
食事が終わって少しすると、女の子はうとうと眠たそうに目を擦った。
「眠いんならもう寝たら?」
「……うんそうする。でもその前に歯を磨いてくるね」
そう言って部屋を出て行った。
女の子が眠った後が家を出るチャンスだ。
女の子は部屋に戻るとパジャマをクローゼットから取り出し着替えた。そして部屋の電気を消そうとしたが、その動作をふと止めた。
「そうだ、ノエル」
「どうしたの?」
「ベッドにおいでよ。一緒に寝よ」
「いや、別にいいよ。僕はベッドなんて必要ないし」
正直、煩わしかった。女の子と同じベッドで寝ると、家から抜け出しにくくなる。
「ううん、私が一緒に寝たいの」
女の子は頭を振った。
「……分かったよ」
拒否するとかえって勘ぐられてしまうかもしれない。仕方ないから、女の子の提案に従いベッドで寝ることにした。
女の子は部屋の電気をぱちんと消し、ベッドの中にもぐりこんできた。話しかけてこられたら面倒だと思っていたが、女の子は何も言わず、少ししてから隣からすやすやと寝息が聞こえてきた。
女の子の体温で布団が温かくなっていた。それに何かいい匂いがする。おひさまの下で干したシーツみたいな匂い。こうしているとルネの温もりを思い出してくる。
この家を出ることばかり考えていたけど、その後僕はどこにいけばいいのだろう。前の家に戻っても、もうルネはいない。おじいさんの家に行けばいいのだろうか。だけどルネがいないことに変わりはない。
先の事はこの家を出てから考えればいい。僕はそう思いベッドから出ようとした。
そこで、服の袖口に何か引っ掛かっているのに気付いた。見てみると、それは女の子の指だった。だけど変わらず、すやすやと安らかな寝息は立てている。どうやら僕の服を掴んだまま眠ってしまったみたいだ。
女の子の指を慎重に外そうとしたけど、思ったより強く掴んでいて簡単には外せなかった。いっそ起きてしまっても構わないから強引に外してしまおうか。一瞬そう思ったけど、女の子の寝顔を見て躊躇った。何かいい夢でも見ているのだろうか、楽しそうに笑っている。
ついさっき初めて出会っただけの関係だけど、この子は僕が黙って家を出て行くと悲しむだろうか。ルネが僕の前からいなくなってしまった時とは逆に、僕がこの子を悲しませてしまうのだろうか。そんな気持ちが脳裏をよぎった。
仕方ない、この家を出るのはまた今度にしよう。その気になればいつだって出られるのだから。僕はふたたび布団に潜った。女の子の寝顔を見ると、まだ笑っている。
この子との出会いが僕にとっての特別になる。本当は、この時からそんな予感がしていたんだ。
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