第2話

「ルネ?」

 朝の陽射しが眩しくて起きると、すぐにルネを呼んだ。だけど返事は無かった。まだルネは戻っていないようだ。とりあえず眠い目をこすりながら家中を回ったみたが、やはりルネはいなかった。

 手持ちぶたさでルネが僕によく読んでくれていた本をパラパラとめくってみた。だけどすぐに飽きてしまった。

「そうだ!」

 僕は雑巾を水で濡らして床掃除を始めた。そういえば、昨日は床掃除を途中までしたけど、中断したままだった。床を磨くのは大変だけど、頑張ればその分綺麗になるので、始めると結構楽しかった。床がぴかぴかなのを見たら、おじいさんはきっと目をまるくして驚くだろう。それにルネはきっと喜んで誉めてくれる。

 床を磨き上げるのには時間が結構かかった。ふと気がついた時には、鳩時計の針は午後2時くらいの時間を指していた。窓の外を見てみると、朝の眩しさが嘘のように暗い曇り空になっている。

 部屋の中もすっかり暗くなっていたので電気を点けると、部屋中が温かいオレンジ色で包まれた。掃除も終わり少し疲れたので一休みすることにした。キッチンの棚から僕用のカップを取り出し、水道の管から水を注いで飲んだ。

 そういえば昨日からずっと水を飲んでいなかった。水を飲むと体全体が潤ってきた。ルネのベッドに潜り込んで休んでみたが、昨日とは違って眠りにつくことは無かった。

 気のせいかもしれないけど、昨日よりもルネの匂いが薄くなっている気がした。ルネはいつ戻ってくるのだろう。もしかしたら戻ってこないんじゃないか。そんな不安が頭を過ぎった。

 おじいさんの「ルネはもうどこにもいないんじゃ」という言葉が浮かんできた。おじいさんは、どういうつもりであんなことを言ったのだろう。そんなはずは無い。だってルネはあの箱の中にいるのだから。

 ベッドから起き上がって部屋中を見回した。そうしたら、どうしてか分からないけど、

いろいろなルネの姿が浮かんできた。

キッチンで料理をするルネ。ルネはアップルパイをよく作った。僕にも切り分けてくれたけだ、僕は口の中に入れても飲み込むことができず、ルネは少し寂しそうに笑った。

 揺り椅子で編み物をするルネ。ルネはよくこの揺り椅子で編み物をしていた。今僕が着ているチョッキも、ルネが編んでくれたものだ。

 ベッドで僕のために本を読むルネ。ぼくはルネが読んでくれた本で、少しずつ言葉を覚えていった。そして、ベッドで僕の髪を撫でるルネ。

 部屋のいたるところにルネはいた。だけどルネは部屋のどこにもいない。

「……ルネ……ルネ!」

 僕はルネの名前を叫んだ。何か言いようの無い大きな不安が僕の胸を締め付けた。ルネに会いたくていても立ってもいられなかった。

 僕はベッドから飛び降りて、ドアへ走った。「この家で待っているんじゃよ」おじいさんはそう言っていたけど、もう抑える事はできなかった。

 ドアを開けると、激しい風と雨が僕に向かって吹き付けてきた。いつのまにか外は荒れた天気になっていた。空を見上げると、黒い雲が大粒の雨をざあざあと降らし、雲の隙間からは雷がぴかっと光を走らせて地面に轟いた。

  

 僕は雨の中、ルネのいる墓地へと走り出した。雨が顔を強く打ちつけ視界がぼやける。また、ぬかるんだ地面に足を取られて何度も転んだ。でもそんなのは全然気にならなかった。ただ足がもつれて上手く走れないのはもどかしかった。

 走っている間に誰ともすれ違わなかったのは、きっと幸運なことだったのだろう。

 川は雨水が集まって濁流になっていた。川を渡り切りルネが入っている箱が埋められている場所に着いた時には、体中泥だらけになっていた。

 やっとルネと再び会うことができる。だけど僕は、ルネの箱を掘り起こす事に躊躇いを覚えていた。「もし箱の中にルネがいなかったら」そんな不安を、ルネと再び会える期待と同じくらい感じていたから。

 僕は不安を掻き消すように顔を何度か横に大きく振ると、両手で土を掘り起こしていった。この作業は思った以上に大変だった。箱は深い場所に埋められていたし、僕の小さい手では一回で掻きだせる土の量は少なかった。それに、箱に近づけば近づくほど不安な気持ちが期待を上回っていった。

 いよいよ土を全部取り除き、後は箱を開けるだけになった。箱を空けたらルネは何て言うだろう。「わざわざ迎えに来てくれたの?」そう言っていつものように、優しく髪を撫でてくれるだろうか。それとも「勝手に家を出てはダメって言ったでしょう」そう言って僕を叱るだろうか。

 僕は勇気を振り絞り、一気に箱を開いた。


 そこにルネはあった。だけどルネはいなかった。

 そして僕は、ルネが「死んだ」ということをこの時理解した。

 おじいさんが言った事は正しかったのだ。

 ルネはもう動くことが無ければ、話すことも無い。そして、僕に向かって微笑みかけて僕の名を呼ぶことも無い。優しく髪を撫でてくれることだってもう二度と無いのだ。

 僕は箱を閉じ、掘り起こした土を元に戻した。なぜかは分からないけど、そうしなければいけないと思った。

 その後の事はほとんど記憶はない。たぶん無意識に家に戻ろうとしたのだと思う。そして川を歩いて渡ろうとしている時に、濁流に押し流された。

 意識がだんだん遠ざかっていく。濁流に飲みこまれて、このまま川の底へと消えてしまうのだろうか。そんなことをぼんやり思った。

 でもそれでも構わない。

 むしろこのまま眠ってしまいたかった。だって、もうルネはこの世界のどこにもいない。ルネが存在しない世界に僕がいる意味なんて無いのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る