15

 何もない空間を歩いていた。白の空間。光はないが闇もない。陰影のないただただ白いだけの空間。白の画用紙の中に自分という絵の具が一滴落とされたかのような、寂しい感覚がする。


「……」


 不思議な感覚だ。何もないのに歩いている。足を出せばそこに地面がある。見えない地面が。見えないだけでこの空間には色んなものがあるのかもしれない。


「……」


 ところで、何で俺は歩いているのだろう。わからない。そもそもここにいる前は何をしていたんだっけ。わからない。わからないわからないわからない……。


「……」


 しばらく歩いていると、人影が見えた。人の形をした何か――それの後姿が見える。


「……あれ?」


 いつの間にか影があった。光が見えた。目の前の人影の向こうから強く光がさしている。


「――眩しい」


 手で顔を守るように光を遮った。その時、目の前の人影が振り返って――









「……」


 目が覚めた。……? 目が覚めた? 今まで寝ていたのか。あれ? 何でだ? 何で寝てたんだろう。


(起きなきゃ)


 ただただそれだけの思いで俺は体を起こそうとした。しかし、体が起き上がらない。あれ? 体が重い――いや違う。押さえつけられている。何かに押さえつけられているような感覚。身動きが自由にできない。


「な、なんだ?」


 手を上げようとしても上がらない。地面にくっついたかのように上がらない。


「⁉」


 顔だけは自由に動くので辺りを見て状況を確認すると、ようやく俺は台座のようなものに拘束具で縛り付けられていることに気付いた。


「目が覚めたんだね。キョウちゃん」


 近くにいた巳尺治が俺にそう話しかけてくる。


「キョウちゃ……ん?」


「ごめんね。動かれると面倒だから縛らせてもらったよ」


「え? いや、なんで……」


「『なんで』? ふふっ、それはね、キョウちゃんが辿り着いてしまったからだよ」


「辿り着いた――? 何に?」


「あれ、気付いてない? ……まあ、もういいか。ここまで来たら引き返せないし」


「待て待て。何が何だかわからない。巳尺治。なんでこんなことをするんだ。苦しいよ」


「わからない。わからない、か。わからなくて、いいよ。もう。わからなくていいんだよ。もう、終わるんだから――」


 巳尺治が近づいてくる。怖い。今までの巳尺治の雰囲気と全く違う。何があったっていうんだ。


「終わり……って、まだ司者はいるじゃないか。まだ俺達は戦わなきゃ――」


「終わりだよ。もっと一緒にいたかったけれど、この先全員倒せるとは限らない。変死はともかく毒死であれならこれからの司者は勝てる見込みは低い。武器も無限じゃない。いつか尽きてしまう――」


「そんな、なんでそんな弱気なんだ。大丈夫だって。俺達なら残り全員倒せ――」


「嘘だよ。……嘘だよ。嘘じゃん……それ。キョウちゃん、そもそも戦う気のない司者が一人、いるんじゃないの?」


「え?」


「早見。早見――。その名前の司者が、いるんだよね」


「あ……」

「やっぱり。図星……か。なんでだろ。今度は上手くいくと思ったんだけどなあ……ツイてると思ったんだけどなあ」


「ま、待って。早見は次会った時に殺すって――」

「だから、それが無理なんだよ。キョウちゃんは、圧死は殺せたかもしれない。あれで覚悟を決めたつもりかもしれない。でも無理だよ。キョウちゃんはそこまで強くない。その時になったらキョウちゃんは逃げるよ」


「違う。確かに戸惑うだろう。逃げたいと思うだろう。でも、約束したじゃないか。俺は巳尺治と一緒に戦う」


「……うるさいよ。一度も私を見なかったくせに」

「……っ⁉」


 腹部に激痛が走る。鋭い痛み。腹にナイフが突き刺さっていた。


「な、なんで……っ」

「『なんで』? なんでかな。キョウちゃんにはわからないよね。でもわからなくていいよ。わかったところで思い出しはしない」


「???」


「私は信じられない。キョウちゃんが信じられない。私が信じられない。こうしなくてもいい選択肢はきっとあったんだと思う。でも、こうするしかないんだ。そうじゃないと私は勝てない」

「な、何を言って――」


「別に。勝つ必要は、ないんだけどね。このゲームが始まった時に私の願いは叶っていたんだ。だから、夢の続きが見たいと思っただけで――。それだけだったのに」


 ナイフを握る手に力が入る。それが痛みとなって俺にしっかりと伝わってきた。


「い、痛い痛い痛い!」


「ごめんね。本当はもっと楽に終わるはずだったんだ。でも、逃げられるとこまるから――」


「に、逃げない! 今更なんで、逃げる必要があるんだ。俺は巳尺治に助けられたっていうのに、なんで――」

「『なんで』。なんで? なんで、なんで……もう、いいよ。もう! いいよ!」


 巳尺治はナイフを振り上げ、それをまた俺に突き刺した。


「がっ、」


「ああ、なんで、なんでこうなったんだろ。なんでこうなっちゃったんだろ。なんで? なんでなんで……」


 巳尺治が壊れた機械かのようにナイフを繰り返し俺の腹に突き刺してくる。


「痛い……痛い巳尺治。頼む、頼むから……」


「ああ、ごめん、ごめんね。そうだよね。痛いよね、痛いんだ。痛いのよ。痛かったんだ」


「巳尺治……っ?」


「ずっと、痛かったんだ。痛かったのに……。そばに、」


「巳尺治、」


「痛い! 痛いよ! 痛いんだ! ずっと! 痛くてたまらなかった!」


「巳尺治ッ⁉」


「……はあ、キョウちゃん。付き合わせちゃって、ごめんね。でも、もうこれで終わりにするよ」


 巳尺治が何かを取り出した。それは……注射器? なんで、注射器なんか――

「――ッ⁉」


「もがいたって無駄だよ。ちゃんと留めてあるんだから」


「く……っ」


 体が思うように動かない。おそらくあの注射器に入っているのは毒。あれを刺されたらおしまいだ。どうしようもなくなる。


「っ! ……っ」


「キョウちゃん、ああキョウちゃん。ごめんね。あの時、もっと話せばよかった。あの時、もっと説明していればよかった。そうしていたらこうならなかったかもしれないのに――」


「なんの話を……」


「でも、過ぎたことだよね。どうしようも、ないもんね。だから、その分を今取り戻すよ。今――ここで」


 巳尺治が注射器を俺の左腕に押し当てる。そして針が皮膚を押しのけて体の中に――


「くそっ!」

 俺は右腕で巳尺治を押し飛ばした。


「……っ、キョウちゃん。動けたんだ。火事場の馬鹿力ってやつなのかな? 痛いよ。私の腕、折れちゃった。もう治ったけれど、痛かったよ?」


「……俺の方が痛かったよ」


 強引に拘束具を引き抜いた所為で俺の右腕もあらぬ方に折れていた。が、すぐに元に戻った。


「ぐっ……」


 ばきばきばきと。


 力を込めて体を起こす。拘束具が体を締め付けるけれどもお構いなしに。腹にナイフが刺さっていても無視をして。尋常じゃない程の痛みが体のあちこちから走ってくる。けれども今はそれを気にしている場合じゃない。そして、俺は体を起こした後、足を止めている拘束具を引き剥がして台座から降りた。


「……そんなに力があったんだね。予想外だったなあ」


「俺もだよ。でも、もう無理だろうな。すごい痛い。こればっかりはなれないな」


 腹に刺さったままのナイフを抜いて捨てた。血は出ない。もう止まっている。痣だらけになったであろう手も体も元通りに戻っているだろう。


「……すごいな。キョウちゃんは。すごいよ。まさか、ここまでだなんて――」


「……なあ、教えてくれないか。なんで、こんなことを――っ⁉」


 巳尺治に問いかけようとしたが急に足がもつれてその場に倒れた。な、なんだ。体はもう元に戻ったはず――


「薬がちゃんと入ったみたいだね。よかった」


「く、薬? そんな、すこし刺さったくらいでこんな」


「それはね、体の力がどんどん抜けていく薬なんだよ。そのうち声も出せなくなる。大丈夫、すぐに楽になるよ」


「あ……」


「さて、と。時間もないし……」


 巳尺治が近づいてくる。


「な、何を」


「仰向けの方が楽だよ」


 巳尺治は俺の体を掴んで仰向けに転がした。


「……?」

 天井が見える。だけれど視界が霞んできて蛍光灯の光がぼやけて見え始めていた。


「ねえ、キョウちゃん」

 視界に巳尺治が割って入る。顔が、近い。


「――ずっと、好きだったんだよ」


「んぐっ⁉」

 唇を奪われた。


「……んっ、んちゅ、はっ……」


 頭を掴まれながら強引に唇を奪われ、舌まで口の中に入れられた。巳尺治の舌は俺の歯を撫でたあと俺の舌に絡みつき、唾液を俺の口内に流し込んでいく。


 気持ち悪い。しかし体の力を奪われている俺には抵抗する力がなく、巳尺治の思うがままにされていた。


 ――いや、嘘だ。抵抗する力ならまだ残っている。だけれど、抵抗する気に、なれないんだ。


「んっ……ぢゅるっ、はっ、んっ……」


 俺が一体何をしたのかわからない。巳尺治が何をしたのかわからない。何を言っているのかわからない。でも、巳尺治がこの死神ゲームで俺を助けてくれたのは、事実なんだ。だから、もういいのかもしれない。巳尺治がこれでいいというならば、もう、俺はこのままで――


「っ?」


 ――俺は、巳尺治の額に銃を突き付けていた。


「ぢゅるっ……っはー、拳銃、ちょっと時間かけてでも奪っておくべきだったなあ。で、どうするの? 撃つの?」


 巳尺治が顔を離して俺にそう問いかけた。口から糸を引いて垂れた涎が俺の頬に落ちる。


「……巳尺治」

「なに?」


「俺は、まだ死にたくない」

「そう、でも、もう死ぬよ」


「……そういえば、もう決めてたんだ。もう逃げないって。死神ゲームで生き残ってみせるって。だから――」


「だから――私を殺す?」


「ごめん、巳尺治を理由に、もう戦いたくないんだ。このまま巳尺治に殺されると、俺は巳尺治に責任を押し付けたことになる。巳尺治のためだけに戦ってたんだって、巳尺治のために人を殺したんだって。そうやって自分のやってきたことを巳尺治に丸投げしたことになる」


「……私はそれでもいいよ。キョウちゃんは悪くない。私がやらせたことなんだから」


「違うんだ。そうやって、甘えちゃダメなんだ。司者は、悪者じゃない。圧死も変死も、きっと毒死も。悪いヤツじゃなかった。それでも殺し合わなくちゃならなかった。俺達が敵視したというだけで、殺さなければ殺されるというだけで――殺してもいいわけではなかった」


「……でも、それは仕方ない」


「仕方なかった。そう思いたかった。だから、巳尺治に頼った。戦う理由を巳尺治に押し付けて、逃げていただけだった」


「逃げても、いいんだよ?」


「ああ、逃げ続けて、いたかった。でも巳尺治。もうお前にこれ以上背負わせるわけにはいかない」


「……そう。そうなんだ。私に任せて、くれないんだ」


「これ以上、巳尺治に傷ついてほしくない。もう巳尺治を傷つけたくない。俺は、自分の手で人を殺して――自分の足で立つよ」


「……強くなったね。じゃあ、もう、私は必要ないかな」


 巳尺治の手が、銃を構える俺の手を上から握る。


「巳尺治……」

「……ごめんね。本当に、他にも方法があったんだと思う。私の我儘で、こんなことに尽き合わせて、ごめん」


「いや、巳尺治に助けてもらわなきゃそもそもここまで生きてこられなかったんだ。感謝してる。本当だ」


「ありがとう。……キョウちゃん、決めたなら早く撃たないと、間に合わないよ」

 巳尺治が微笑んだ。霞んでいく視界から消え入りそうな淡い笑顔。


「……うん、それじゃ――巳尺治」


「はい」


 お互いの目から涙が止まらない。ぽろぽろと俺の頬に巳尺治の涙が打ち付いた。


「絶対に忘れない。俺は自分の恩人を殺したことを。最後の最後まで。背負って戦い抜いていく」


「……はい」


 引き金に触れる指が震える。その震える指を、巳尺治は優しく押さえてくれた。


「今までありがとう。俺は巳尺治からもらったもので最後まで、戦ってみるよ」


「はいっ」


 そして、俺は。



「――さよなら」



 銃声が響いた。


 俺は大量の血液を浴びることとなった。火薬と鉄の入り混じった強烈な臭いがむせるほど鼻孔を満たした。


「……」


 銃を下ろし、そのまま横に両手を広げて大の字になった。俺の上にずっしりとのしかかる顔のない死体はまだ温かく、心臓の鼓動がまだ伝わってくる。でも、そのうち鼓動も止んで冷たくなっていくのだろう。


「ああ……」

 血まみれの手で顔を覆った。……もう戻れない。本当に、戻れない所に来た。俺は、もう一人で戦っていくしかないんだ。それも、今まで殺してきた司者の命を背負って。


「でも、覚悟は、できたよ」


 逆にここまでしないと覚悟出来ない自分が恨めしくて仕方ない。本当、他にも方法がなかったのかと考え直したい。


「――でも」


 でも。


 過ぎたことだから。過ぎてしまったことだから。振り返るのではなく、それを踏まえた上で前を見て。


 今度こそもう、逃げたくない。



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