Scene11

 降りたタクシーが遠のいていくのを確認してから、進は小さく息をつきフロントガラス越しに古びた廃病院を見上げた。街道から道を入ったどん詰まりにあるこの場所は、お誂え向きに人が来ない。自由に出入りできて人目に付かない事を考えれば、この場所で間違いないだろう。

 進は拳を強く握りしめた。小西に会ったら何と言って説得し、警察に事情説明に行かせるかと考えているのだが、いい案は全く浮かばない。進ごときに説得されるほど、小西は簡単な存在では無い。

「どうしたいんだよ、幸兄」

 いつもの七つ道具を肩掛け鞄ごと背負い直す。焦りと苛立ちを抱えても仕方ない。冷静に自分ができること、すべきことをすればいいだけだと自分に言い聞かせた。

 建物に入る前に、止まっていた車のナンバープレートを確認する。宮本事務所のNシステムの通過データにあった小西の車だった。ここに車があると言うことは、まだここにいると言うことだろう。何しろ車が無ければ、外出は出来ないほど山奥だ。

 決意を固め、進は建物正面にある古ぼけた曇りガラスの戸を押し開けた。鍵がかかっていなかったらしく、拍子抜けするほどあっさりと扉は開く。

 蝶番の金属がこすれる高い音に顔をしかめつつ中を窺うと、玄関だったのか入ってすぐの所に下駄箱があった。いくつかの下駄箱に、古ぼけたスリッパが何足も押し込められたままになっている。真っ暗かと思ったら多少薄明かりが落ちている。入ってきた扉の上の方に灯り取りの窓があるようだ。見上げると玄関ホールは吹き抜けになっていた。

 いつも身につけている片手に収まるほど小さいが、強力なライトを取り出して付けた。青白い薄明かりが、先の見えなかった空間を白く浮き上がらせる。放置された白い棚が埃をかぶって灰色になっていて、うら寂しさを更に印象づけている。

 進は注意深く、手がかりへの道を辿り始める。細い通路は、診察室だったと思われる場所を抜けて三つ叉に分かれ、真っ直ぐに一本と、左右の階段へと続いていた。

 この先に何があるのか分からない。ただとてつもなく静かだ。

 これは罠なのか。それが分からずに進は顎に拳を宛てて考える。こんな時に、探偵業の基本でもある二人一組は安全性が高かったんだと思い知らされた。ここに秋塚がいたならば、適切なアドバイスをくれたに違いない。

 でも今は進一人だ。考えた末、進はまず二階へと階段を上り始めた。もう間もなく日が暮れる。どのみち室内は暗いが、二階なら少し明るい今のうちに確認しておいた方がいい。

 階段を駆け上がった進は、予想に反して明るい廊下に出た。天窓が切られていて、日の光がまだ建物内を照らしている。個人病院らしく、入院できる部屋は三つほどしか無いようだ。そちらへと続く足跡を慎重に辿り、着いた扉のノブに手をかける。ここにもまた鍵はかかっていない。

 ゆっくりと慎重に押し開けると、そこには明らかに人間が生活している跡があった。ハンガーに無造作に掛けられている数点の洋服を見る限り、ここにいたのは女性のようだ。

 部屋に入ったとたん、何かを蹴り飛ばしてしまった。何気なく目をやると、そこにナイフがある。ナイフの先は、赤黒い血液でまだ濡れている。

 息を呑んで後ずさった進が手を付いたのは、殺風景なデスクだった。デスクの上に撒かれていた紙で上体が揺らぐ。とたんにデスクにばらまかれていた紙が、床に舞い散った。デスクに残った紙を見ると、名刺だった。その名前と会社名に聞き覚えがある。

『プライマル社 吉川瑠衣』

 やはりか、と進は額を押さえた。ここに小西の車があった。そしてここに吉川の名刺がある。やはり小西は一連のヒューマノイド自殺事件の後ろにいて、ヒューマノイドになったことに絶望して、自殺した当人を実験体として冷静に見つめていたのだ。

 奥歯を噛みしめて、こみ上げてくる小西への問いかけと、悔しさを堪えながら引き出しを乱暴に開けて中を探る。そこには葬儀社や病院からの情報提供者リストが詰め込まれていた。全てがプリントしたものだから、誰が書いたかの証明には成らないだろうが、これは有力な証拠になるだろう。

 一枚ずつ捲ると、今まで福嶋から聞いてきた話も全てそこに書かれているし、笹井の名前もあった。もし小西を捕まえて立件したとすれば、これは有力な証拠になるだろう。

 証拠品として書類一式を乱暴に整えて鞄から取り出した透明なポリ袋に入れて仕舞う。あちらこちらを探したが、証拠になりそうな物は他に無かった。

 廊下に出てよく見ると、この部屋以外に人が出入りした形跡はなく、埃はうずたかく積み上がったままだった。無言のまま思案しつつ、進は階段を降りる。

 先ほど落ちていた凶器は、明らかに数時間以内に使われた物だ。いったい誰が何のために凶器を使ったのか、それなのに何故誰もいないのか。疑問だらけだ。

 再びライトを照らしながら階段を降りていく。静まりかえった空間に、進の規則的な足音だけが響き渡っている。他に何の気配も感じられない。本当にここに人がいるのだろうか。地下に行く階段に足をかけようとした進は、先ほどまでは何も無かった廊下の行き止まりから光が漏れていることに気がついた。

 誰かがいる……

 緊張感を持って足音を忍ばせてそちらに近づいた。よく見ると壁だと思ったところは、隠し扉になっていたらしい。気配を殺しながら近づき、そっと隙間を広げると、そこには予想外の光景があった。

 この荒廃しきった病院の中に、生活感に満ちたリビングルームが見えたのだ。しかもそこには煌々とと明かりがついている。

「……え……?」

 進は恐る恐る扉を開く。綺麗に整えられた部屋は、突然人だけが消えてしまったようだった。中央に置かれたソファーセット、大きな壁掛けテレビ、そして正面には大きな窓ガラスと、外に広がる森の光景。しかも中には誰もいない。

 扉を開けて中に入った。急に現れた生活空間に迷い込んでしまったような気がする。まるで不思議な穴から異世界に迷い込んだアリスの気分だ。呆然と部屋の半ばまで足を踏み入れると、初めてソファーに誰かがいる事に気がついた。

 反射的に電磁警棒を構えると、ソファーに腰掛けていた人物がこちらを見上げた。どこにでもいそうな顔つきの、エプロンを着けた女性だった。

「あ、あの……」

 言葉に詰まった進に、女性は皮肉そうな笑みを浮かべる。

「来ると思ったよ、進」

「え?」

「まあ座ったらどうだ?」

 女性の口調には聞き覚えがあった。進は女性の正面に座る。

「……幸兄?」

「ああ。こんな姿で悪いな。持ち合わせがもうこれしか無い」

「何で?」

「これは計画外なんだ。でもお前に追求されないのは、兄貴分として間違ってるだろ。俺はお前を巻き込んだが、苦しませる気は無かった」

「本当の幸兄はどこにいるの?」

「それはいえない。ただここから遠いところと言っておくよ」

「福嶋さんと谷月さんは?」

「さあね」

 小西はまるで何の不安も無くなったように妙にくつろいだ顔をしていた。でも何らかの計略で進を招いたのならば、今は危険なはずだ。それでも進は進んでこの危険の中に身を投じた。聞かねばならないことがまだまだある。

 何故人間を利用したのか、何故人体実験に向かうようなことになったのか。何のためにこんな事をしたのか、それを知りたかった。探偵としての興味では無く、あの施設で一緒に育った弟として。進は進められた席に座り、小西に向かい合った。 

「悪いが、この姿で我慢してくれ。できないというなら出て行ってくれればいい」

 淡々とした言葉に、進は首を振った、そうしたならば、もう小西と会うことができない気がしたのだ。小西とは似ても似つかぬ女性の顔を、進は真っ直ぐに見つめた。

「ヒューマノイドが人を巻き込んで自殺したよ」

 小さく告げると、小西はうつむき、唇を微かに緩めた。

「そうだな」

「知ってたんだろ?」

「もちろん。すでに強制回路は焼き切れてて、どうしようも無かった」

 淡々として冷静な口調と、口元に浮かぶ笑みに、進は拳を握りしめる。今までの小西と同じようで何かが違う。何もかもがどうでもいいような、そんな倦怠感が彼の中にあるのだ。ヒューマノイドだからだろうか。

「幸兄」

「何だ?」

「嘘をついてるね?」

 自分でも自然にそう尋ねていた。微かにヒューマノイドの表情が動いた。やはり進の勘は当たっているようだ。

「何の嘘をつく必要があるんだ?」

 淡々と笑みを浮かべて、しらばくれようとする小西を見据えた。小西も目をそらすこと無く、真っ直ぐに見つめてくる。だからこそ疑問を口にすることが出来た。

「何故あのヒューマノイドは、あの場所で壊れたの? ヒューマノイドが、自分で人の多い場所を選んで暴挙に出るとは思えない」

 落ち着いた色を浮かべつつも、小西は目をそらした。口元に浮かぶ皮肉の笑みがその答えだった。彼はやはり、自分の都合であの場所へ、何らかの手段を使って導いたのだ。握りしめた拳が微かに震えている。理解が出来ない小西に恐怖を感じているのだろうか。

「答えてよ、幸兄!」

 感情があふれ出し、気がつくと小西に向かって叫んでいた。じっと見据えた視線の先で小西は小さく息をついて頷く。

「仕方ないな、進。アドバイザーとして答えるよ。彼は今日、初めて家族と共に外出した。自らの存在を疑い、疑心暗鬼になっている被検体に気分転換をさせるはずだったんだ」

「ヒューマノイドを連れて街に出る方が危険だろ?」

「そうかもしれない。でも『思い出の場所に連れて行ってあげたら、少し気が晴れるかもしれませんよ』とアドバイスしたら、あっさりと従ってくれた。色々策は練っていたのに、拍子抜けしたぐらいだよ」

「じゃあ……」 

「そういうことさ。その思い出の場所で、俺は彼に電話を掛けた。『あれ? お前がどうして出るんだよ。お前は死んだじゃないか』ってね」

「それじゃあ……」

「家族をその場で問い詰めたんだろう。そして真実を知った。ヒューマノイド排斥運動家は自分が排斥される側になってしまったことに絶望したのさ」

 あの光景を作り出したのは、目の前にいる小西だった。そのことが恐ろしい。だが小西は表情一つかえることなく淡々と説明を続けている。

「ともあれ俺の思惑は当たった。ヒューマノイドの自殺は大抵家庭内で起こっていた。だからこそ実験の結果が得られるのは家庭内部のことでしか無かった。だが暴走した状態で世間を掴めるのか、俺はそれを知りたかった」

「意味が……」

「狂ってしまった頭であっても、沢山の人の中で安全装置が正常に作動するかを見たかった。他者の目を認識して、理性を持って自らを押さえられるのかを試したかったんだ」

 淡々とそう言った後、小西は微かに目を伏せ口元だけで皮肉な笑みを浮かべた。

「あの被検体の元々の性格は、殺人をするようなものではなかった。だから記憶の中にある倫理面を強化したんだ。倫理観を、機械としての安全装置よりも優先するようにね。だが被検体は暴走したあげく、倫理観よりも感情を優先した。あの暴走のあげくの殺人は、彼の人間としての理性よりも、機械としての狂気が勝った結果だ」

 沢山の人が命を落としたというのに、小西は何の感慨もなさそうに言い切った。あまりに機械的な言葉の端々に浮かぶ冷淡さに、進は唇を噛み拳をきつく握った。

「おかげでいいデータがとれた。これを元に人間として生きるための理性の回路を強く出来た。つまり人間の記憶の理性を高めて、記憶回路の基本データに組み込めば良かったのさ。安全装置と倫理面の連携強化により、自殺、殺人を企てない方向にね」

 クスクスと笑う彼に、進は動けなくなった。進の知る小西はこんな人ではなかった。もっと理性的で冷静で、何事にも静かに耳を傾けている、そんな人だったはずなのに。

「どうしてそんなことをする必要があったんだよ。何で人を殺してまでそんな必要が……」

 怒りと戸惑いで声が震える。そんな進を小西は笑みの一切を消して、悟りきったようにさざ波一つ無い平穏な感情を向けた。

「俺がいなくなった後でも、記憶から来る理性で、人間として生きられるようなデータが欲しかった」

「……幸兄?」

「ヒューマノイドであっても、人と同じように、生前と同じように笑えるように。生きることに苦悩し、それでも前を向けるように。そうやって進化し、生き続けて欲しかったからさ。隆と明日美に。俺という異物が消えたこの世界で」

 三人の関係がどんなものだったか、それを進は知らない。だが頭の中に、小西と共に最後の調査に出向いた帰り道で聞いた声が蘇る。

 あの時小西は酷く寂しげで、切なそうな顔をしていた。

『俺は未だに捨てられる恐怖にびびっちまうんだ。大切になった相手と同じように世界を見られないと、捨てられるという恐怖に支配されている。捨てられないために、必死で追いつこう、追いつこうともがくんだが、追いつけないと焦燥感でおかしくなる』

 小西は追いつこうとしている。

 誰に?

 一瞬でその答えが見つかっていた。あまりに遠い先にいる人に伸ばした小西の手が、痛々しい。

 彼が手を伸ばした先、それは……福嶋隆と谷月明日美だ。しかもそれはヒューマノイドの福嶋と明日美では無い。もうすでに死んでしまった……彼がミスで殺してしまった福嶋と、事件に巻き込まれた明日美なのだ。

 自分が死んだらと他人事のように語っていた小西は、もうとっくに死ぬ覚悟を決めていたのだ。自分が死に、人間である彼らの後を追うために、彼は自分の全てを賭けてヒューマノイドの福嶋と明日美を、完璧なヒューマノイドに仕上げようとしていたのだ。

 そのためにどんな犠牲を払おうと、どんな人たちを殺しても。

「幸兄、死ぬ気だね?」

 答えは無い。でもその沈黙は何よりも事実を物語っていた。人に限りなく近いヒューマノイドはただ穏やかで何の後悔も無い表情をしている。

「人を殺しても、それでも彼らを……何故彼らのヒューマノイドを生かしておきたかったの?」

「俺にとって、世界のどんな人が死んでも痛みがない。まるで水槽の外の出来事だからだ。ごみ溜めに取り残された俺がそうだったように」

「幸兄……」

「俺はずっと助けてと叫んでいた。耐えきれない、ここから、この世界から救ってくれと。でも誰にも届かなかった。誰の耳にも入らなかった。それは俺が水槽の中にいて、世界が外にあったからだ」

 声も顔も似ていないはずのヒューマノイドが小西に重なっていく。

 小西は窓の外を振り仰いだ。

 薄闇に沈みつつある外の森が、黒々とした闇として進に認識させる。

 深い闇だ。とてつもなく深く、そして昏い。

 ずっと小西は闇を囲い、闇に囲まれ、光を求めていたのだ。

「人はきっとそういうもので、自分が安全で幸福だから人を哀れんで泣ける。だけど水槽の中の、自分の周りの大切な人々の死は、えぐられるような痛みを残す。だから水槽の外の他人を利用した。当然の理屈だ」

「違う。水槽の中と外なんて簡単な理屈で人と人の関係は分けられやしないよ」

「そうかな?」

「そうだよ!」

 手出しできないかもしれない。厚いガラスに包まれた隔絶された世界であるかもしれない。

 でも全て見えてしまう。ガラスの向こうが見通せてしまう以上、それは別の世界の物語などでは決してない。

「だって僕は痛かった。大江さんを殺してしまったことが痛くて仕方なかったよ。島津さんも死んでた。僕らが調和を崩したから。それだって僕は痛みを感じてる。大切な人が死んだから痛みを感じない他人を利用して関係を作り直すなんて、間違ってる!」

「俺は間違っていない。甦らせられるなら甦らせるのが償いだ」

「違う! 人はもう、死んだらおしまいなんだ。作り物の命は作り物であって、人にはなれない。永遠に人に似て非なる者なんだよ!」

 進は大切な人を亡くして、自分がその人たちを蘇らせることが出来ると言われても、きっと頷かない。生者を死の淵から連れ帰ることは、きっと自分自身を救わない。

 神話の時代から今日に至るまで、オルフェウス、伊弉諾も同じく、生前のままの姿で人を蘇らせることは出来なかった。

 何故なら死んでしまった人はもう別の何かだからだ。もう同じ世界を歩む人間では、そう人ではあり得ない。

「過去に囚われると、後悔の中で前に進まなくなる。分かってるのに、何故後悔をなぞるような事をするんだよ、幸兄!」

「それでも俺は、焦燥感の中で彼らを愛していたんだ。万が一にでも彼らが生き、人では無くても進化し、幸福になるならそれでいい。だがそれには俺が邪魔なんだ」

「邪魔だなんて!」

「本当のことだ、進。俺の存在はいつも邪魔なだけだった」

 静かではあるが絞り出すような感情の発露を、初めて見たような気がした。

「生まれる前に俺と母を捨てた父も、家族の縁を切った親族も、そして俺を置き去りにした母もみな、俺がいなければ幸せになれただろうに。それに……俺がいなければ明日美と隆も二人で幸せになったはずだ」

 いつも冷静で、冷たく皮肉めいた表情を浮かべていた小西の中に、こんなにも熱く、それでいて深い闇を秘めていたなんて知らなかった。

 だからこそ、進は動けなくなる。

 何も知らなかった。兄と慕ってきた彼のことを何も。

 きっと福嶋と明日美はそれを知っている。知っているからこそ、彼の全てを理解しているからこそ、彼らもまた小西を愛したのかもしれない。

「進。俺はどんな罪になる?」

「器物破損と業務上過失致死罪。それが限度だろうって秋塚さんも言ってたよ」

「その秋塚さんはこちらに向かっているというわけか。探偵は単独行動をしないんだろう?」

 見透かされている。

 ここで時間を稼いでおけば、秋塚が宮本事務所の人を連れてきてくれる。それまで何とか持ちこたえたいと思っていたのに。

 その時、何か焦げ臭い臭いが鼻についた。訳が分からずに正面を見据えると、小西の記憶を宿した女性から、微かにその香りが漂ってきていると分かる。よく見ると、女性から薄く煙が立ち上っているのが分かった。

「……幸兄?」

「ああ。更新が終わったんだな」

「え?」

「これで全部終了だ。俺の役割も終わる」

 女性から立ち上る煙が、密度を増してゆく。満足げな笑みに包まれながら、小西を宿したヒューマノイドは少しずつ歪みつつあった。始めに流れ出したのは、指先だった。半透明な肌色がゆっくりとロウのように流れ落ちていく。

「幸兄!」

「時間を稼いでいたのは、お前だけじゃなかったってことさ、進」

 見る間に煙が激しくなった。連動するように、地下から身体を震わせるような振動がわき上がってくる。

 パラパラと細かく砕けた壁や天井の欠片が降ってくる。

「何をするつもりなんだよ、幸兄!」

「俺の目的はみんな終わったんだ。この俺も消滅する」

「幸兄!」

「……なあ進。俺は母さんの記憶を消せたら幸せになれたんだろうか。取り残される恐怖を忘れることができたなら、人を愛せたんだろうか」

 声帯が壊れかけているのか、ひび割れた声で小西がそう呟いた。ごとりと重たげな音がして、女性の両腕が落ちた。そこから滴るのは赤い血では無く、透明なオイルだった。すでにエプロンは溶け落ち、皮膚も溶け落ち、機械である身体だけがむき出しになっていた。

 その壮絶な光景に怯まず、進は怒鳴った。

「幸せになれるに決まってるじゃんか! 人はどんなことになったって、きっと幸せを見いだせる。そうでなきゃ、生きる意味が無いだろ!」

「……そうか。じゃあお前は幸せになれ」

「幸兄っ!」

「もう時間が無い。ここから離れろ。窓から出て森の方へいけ」 

「嫌だ!」

「馬鹿だな、お前は。お前には待っている人が沢山いるんだろう?」

 金属の合成音のように響くのに、それでも優しげな口調に進の脳裏に大切な人々がよぎった。

 矢崎夫妻、その子供たち、秋塚、そしてあの苦しかった日々を共に過ごした杏菜。

「くっ……」

「さあ、行け。お前の帰るべき所に」

 進は俯き立ち上がった。

「……分かった……」

 何となく分かっていた。もう小西はこの世にはいないことを。これは小西が進むに残してくれた最後の遺言なのだと言うことも。

 窓を開け放ち外に出ようとした時、背中越しに聞き取りづらい、今にも消えそうな合成音が優しく語りかけてきた。

「進」

「……何?」

「お前は、間違うなよ。お前は自身を縛る束縛から解放されてくれ」

 これは最後の言葉だ。分かっていながらどうすることも出来ない。

「分かってる。僕は僕の信じる道を進んでみせるさ」

 例えどんな結末が待ち受けていたとしても。

「僕にはそれしかないんだ」

 窓を開けて脱出し、森に向かって歩き出した。

 振り返るな。まだ振り返るな。

 たぶん振り返ればこちらを見る小西に耐えられない。

 森に入る寸前のところで、背後で激しい爆発音が響き渡った。その衝撃で進は地面に叩き付けられた。

 痛みに呻きながら起き上がって振り返ると、今までいた建物が真っ赤な炎を上げて燃えさかっていた。まるで空を焦がす火柱のようだ。

 何故こんなに空が赤いんだろう。

 そう思って初めて気がついた。

 いつの間にか世界は真っ赤な夕焼けに包まれていた。

 禍々しいほどに美しく赤い夕焼けに。 

「おーい、幸兄」

 小さく呼びかけてみた。

「何で死んじゃうんだよ。僕は幸兄に憧れてんたんだぞ」

 もう取り返しなんてつかない。もう二度と憧れの存在だった小西由幸は戻ってこない。

 でも……全てが終わったのだ。

 どれだけの時間が過ぎたのか分からない。進はただぼんやりと絶え間なく激しい炎を吹き上げ続ける建物を眺めていたような気がする。

 だからその気配にはまるで気がつかなかった。

「進」

 顔を上げると、秋塚がいた。それともう一人、宮本探偵事務所の阿部がいた。炎はまだ上がり続けているが、空はいつの間にか黒々とした闇に染まっている。

「秋塚さん、阿部さん……」

「消防車は呼んだ。警察にも通報した。すぐにここに来る」

「……そうですか……」

 何だか他人事のように聞こえて、進はぼんやりと手にしていた書類を差し出す。

「これで幸兄が犯罪に関わったことが証明できます」

「……小西は?」

「分かりません。でも……生きていないと思います」

 救うことができなかった。

 座り込んだままの進に代わって、秋塚と阿部が書類を捲る。そのうちの一枚が、そっと阿倍の手から進に渡された。

「これを読んでくれ」

 渡されたものをみると、それは小西の遺書だった。

 試作品はあくまでも、自らの興味と好奇心のために製作された物であり、福嶋研究所にいたならば、その好奇心が満たされなかった。所長がいない隙を狙って、吉川を脅迫して身体の関係を持ち、依頼者との間に立たせたと、冷静な言葉遣いで淡々と記されていた。

 所長とは高校時代からの親友ではあったが、劣等感を持ち憎んでいたことが動機になったとも記されている。

 最後に試作品はあくまでも個人所有であり、個人のプライバシーに関わる物だから、福嶋研究所に依頼し、今後のことをまかなって貰うようにと書かれていた。

 それを読む限り、小西は冷静沈着で計画的な犯罪者だった。自らの知的欲求を満たすために、沢山の人々を犠牲にし、その上で笑っているような残虐な男だった。

 きっと世間はそのように小西を見るようになるのだろう。小西はそれを望んでいるのだ。そしてそのどこにも、福嶋と明日美のことは書かれていなかった。彼らは遺書の上では、何も知らずにいる被害者に過ぎない。

「……本当にこれでいいのかよ、幸兄」

 呟きと同時に、進はその場に倒れ込んだ。遠くに秋塚と阿部の声が聞こえた気がしたが、もう何も考えたくなかった。ただただ眠りたかった。

 後に秋塚や阿部、宮本、そして谷崎に聞いたのだが、進はあの爆発で多数の怪我を負っていたらしかった。そのせいで意識を失ったのだという。

 警察に通じている宮本がいたおかげで、あの場にいた進が事件の当事者として連行されることが無かったと、後に宮本事務所にお礼に行った時、阿部に聞いた。

 事件はやはり小西の遺書と、残されていた書類から、業務上過失致死とされ、被疑者死亡のまま書類送検されたようだ。福嶋と明日美も、彼の友人として事情聴取に応じたようだが、彼のしていた事を全く知らなかったと言い切ったらしい。

 そのことも彼ら探偵から聞いた。

 だが立場上責任を逃れることはできず、指導責任を問われた福嶋研究所所長の福嶋は、責任を取って所長を辞任し、野に下ったらしかった。

 進は福嶋と明日美がヒューマノイドであることを、一言も口にしなかった。それを知っていた秋塚も、そして守秘義務を守れない谷崎ですらも口にすることは無かった。そんな仲間たちがありがたかった。 


 全ての事後処理が終わり、世間がこの事件を忘れかけてた頃、季節はもう夏へと変わっていた。何も手に付かず、無力感に支配されたままの進は、足が向くままにある場所に向かっていた。

 新幹線を新富士駅で降り、レンタカーで向かったのは朝霧高原だった。美しい富士山と、のどかな牧草地が広がる朝霧高原のある農業法人の畑の中で、進は一人うずくまっていた。

 街にいるのが嫌だった。

 ヒューマノイドに出会ってしまったら、憎んでしまいそうで怖かった。理由なき憎悪は無意識に心の底に澱として溜まり、無為な対立を生むことを進は知っている。

 だから人として、自然に、風に、本物の命に触れたかった。

 高原の冷たく澄んだ風に吹かれ、まだ堅く青い実しか付けていないトマト畑で、進はぼんやりと富士山と、そこを流れる雲を見つめていた。ただその吹かれる風と同化していたかった。

「進ちゃん」

 不意に柔らかな声が進を呼ぶ。のろのろと振り返ると、そこにはお腹の大きくなった杏菜が立っていた。

「あーちゃん……」

 明日美と出会ったのは、杏菜が高円寺に芝居を見に連れて行ってくれたからだった。あれは八年前のことだ。でももう、役者・谷月明日美を見ることは二度と無い。

 人間の彼女は、もうこの世にはいないのだ。

 彼女はヒューマノイドであり、感情の表現が出来ない。本を読んでも共感できない。あの舞台の雰囲気を変える、鮮やかな風を吹かせるような、明日美の演技を見ることは二度と無い。

「幸兄の事件、新聞で読んだよ。それから亜都子さんがメールくれた。ここに来るだろうって。幸兄を知ってるの、私だけだからって」

「うん」

「辛かったね、進ちゃん。幸兄は進ちゃんの憧れだったもんね」

「うん」

 不意に柔らかく杏菜に抱きしめられていた。

「もう我慢しなくていいんだよ」

「あーちゃん」

「ここは私の畑だもん。探偵の進ちゃんはお休みしてもいいよ」

 とたんに堰を切ったように涙が零れた。

「幸兄を殺すつもりなんて無かった。追い詰めるつもりなんて無かった……」

「うん」

「僕を助けてくれたみたいに、助けたかった。僕が一緒に解決するって言いたかった!」

 どうして頼ってくれなかったの? どうして話してくれなかったの?

 それはただの恨み言だ。信頼を得ることができなかった自分の後悔だ。

「僕は幸兄にとって不要だった。僕は探偵なのに……もう父さんや母さんみたいな不幸を繰り返したくなくて、人を助けるために探偵になったのに……なのに……」

『お前は、間違うなよ。お前は自身を縛る束縛から解放されてくれ』

 幸兄。

 初めて施設に来た時から、進の憧れだった人。

 家族を持たない進の、兄であった人。

「守れなかった……」

 命は失われてしまった。

 そして輝いていた明日美の命も、ヒューマノイドという殻の中で輝きを失っていく。

 機械になってもなお生き延びることは、本当に幸せなのだろうか。

 本当の命って、命の輝きって、何なのだろう。

 記憶が命だというのならば、この空しく虚無に落ち込むような絶望感は何だ。

 死んだらもう二度と取り戻すことが出来ないから命は輝いているんじゃ無いのか。

 幾度も幾度も不出来なコピーを作り上げて、それでも生きていると主張しても、それは本当の生命なのか。

 それはそもそも、人なのか?

 人であり、人になり得ない者では無いのか。

 どうすることも出来ず、感情のまま言葉を吐き出し、涙をこぼした進を優しく抱きしめてくれていた杏菜は、やがて優しく進の肩を叩いた。

「進ちゃん、見て」

 杏菜の指さす先には杏菜の夫、有島率が立っていた。背の高い有島の足下には幼い息子が掴まっていて、その腕にはまだ一歳足らずの赤ん坊が抱かれている。

 昨年生まれた二人目の子だ。忙しくてここに来るのを先延ばしにしていたから、会うのは初めてだった。

「命の定義なんて難しい事は分からないけど、でもここにあって、暖かくて、大切な光が命だって思いたいな。例え作り上げられても、それでも愛おしいと感じて抱きしめることが出来るなら、その人にとってそれが命なんだよ」

 立ち上がった杏菜が有島から我が子を受け取り、未だ畑にうずくまる進の手にそっと手渡してくれた。思った以上にずっしりと重く、柔らかく暖かな抱き心地に言葉を失う。

 ふくふくと丸く太ったその顔が不意に進を見つめて、無邪気に微笑んだ。

 そこに煌めくのは確かに命の輝きだった。

 進はおずおずと腕の中にいる子に触れた。機嫌がいいのかにこにこと笑いながら、その子は進の指を握る。こんなに小さいのに、結構力が強い。

「偶然だけど、その子は幸兄と同じで、幸っていうんだよ」

「え……?」

「女の子だけど」

「幸……」

 呼ぶと幸は満面の笑みを浮かべた。進はその赤ちゃんを抱きしめる。くすぐったがってか腕の中で笑い声を上げる赤ん坊は、進の髪をいたずらに引っ張る。

 どうかこの子が、科学という波に翻弄されるこの世界の中で、名前のように幸福に生きられますように。

 小西のように、福嶋のように、明日美のように幸福を求めてもがき苦しみ、誤った道を選びませんように。

 どうか、この子に幸福をお与えください。

 心の中で祈ると、再び幸に強い力で手を引っ張られた。

「進ちゃん。手を握り返してあげなよ。幸がそうして欲しいって」

 優しく言われて、おずおずと幸の手を握ると、握り替えされた。

 不意に涙が零れる。

 そうだ。

 僕は伸ばしたこの手を、幸兄に握り返して欲しかった。

 そうして貰えたら僕は、幸兄をこの世界に引っ張り上げたのに。

 進は幸の手を握りしめた。

 小西には届かなかったこの手が、救いを求める誰かの手を握り、誰かの命をこの世界に引き留めることが出来るのだろうか。

「進ちゃん、辛かったらここに来る? 農場の規模も広げたいし、うちはいつでも人手不足だよ?」

 優しい杏菜の言葉に、進は小さく首を振っていた。立ち上がり、抱いていた幸を杏菜に返して、乱暴に涙をぬぐった。

「僕は探偵だ。必要としてくれる人の手を握り返すためには、立ち止まっていられないよ。僕はまだ半人前なんだ」

「じゃあ、続けるんだ、探偵」

「うん。きっと幸兄もそうしろって言うに決まってる」

 小西には届かなかったが、きっとこの手を必要としてくれる依頼人はいる。だからこそ、それを信じて、進はここに立ち続けるしかないのだ。

 ここに。

 この少し歪んだ世界に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る