Scene10

 車は私と隆を乗せて、静かに八王子郊外を走っている。運転している隆から車外に目を向けると、流れていく光景はすでに東京とは思えない。

 ベットタウンとなってかなりの時間がたったが、緑が多いここ一帯はそんなに変わっていないのかもしれない。現に森は大きく育ち、傾いてきた日の光を遮っている。夏の初めだから、まだ夕焼けには少し時間がありそうだ。

「大きな事件になっちゃってたね」

「ああ」

 言葉少なに、厳しい表情のまま前方を見つめる隆に、私は小さくため息をついた。ヒューマノイドだと分かってしまったせいか、お互いに冷たい印象がぬぐえない。

 それでもやはり沈黙は不安を生み、私は再び口を開いてしまう。

「記憶を持ったせいで大量殺人するなんて、考えたこと無かった」

「通常は安全装置が働くからな」

 最初から八王子だろうと見当を付け、宮前探偵からの連絡を受けるために待機していた街道沿いの喫茶店で、私たちは彼からのメールを受け取った。

 住所が示されたそのメールにホッとする。私が元の私から統合した記憶と、近い場所だったのだ。でも私は記憶を操作されていて、どうしても曖昧にしか住所を思い出すことができなかった。それでも少しでもユウの近くにいたくて、私たちは数日前から八王子に滞在していたのだ。

 場所が分かったことで、まるで連動するように私の中に記憶が甦ってきた。

 あの日、本当の私も、この喫茶店でユウと会うために心の準備を整えていた。この喫茶店までならバスのルートだったから、心を落ち着かせてから私はこの店でタクシーの手配を整えたのだ。

 何かあった時のために、今のうちに探偵にお礼のメールを送り、本当は飲まなくても済むコーヒーを身体に注ぎ込んでから、私たちは車に乗り込んだ。

 ここから先、ユウに会った時、そこはこの私たちの闇の終着点になるのだろうか。それとも新たな闇の出発点になるのだろうか。

 車に乗り込んだ時、流れ出したニュースから私たちはユウのヒューマノイドが引き起こした事件を知った。なおさらじっとしてなどいられない。急いで彼の元へ行かねばならない。

 情報屋のように使ってしまった宮前探偵には済まないと思う。彼はユウの弟のような存在でもあるから、ちゃんとユウと話したいだろう。でも私と隆は敢えて宮前探偵を裏切る。

 私たち三人の、あの夕焼けの中に置き忘れた決着を付けるために

「隆」

「何だ?」

「ユウはどんな罪になるの?」

「記憶回路が完全に破壊されていたなら、あの中の記憶が生前の記憶であったことを証明できないだろう。それに意図的に自殺をするプログラムを仕込んでもいない。研究者として倫理的な面が問われるだろうが、刑法上は業務上過失致死扱いだろうな」

「どれだけ死んでるか分からないのに、業務上過失致死なの?」

「ああ。ただ遺族や被害者からは民事裁判に持ち込まれれば多額の弁済になる。これはそういった事件なんだ。まだこの事件を裁く法は存在しない」

 大切な人を失っても、恐怖と痛みを植え付けられても裁かれない事件が社会にはあるらしい。唇を噛む私に気がつくでも無く、前を向いたまま隆は淡々と言葉を続ける。

「もしも原因不明の暴走となれば、せっかく社会に浸透したヒューマノイドが大量放棄される可能性がある。流行り廃りでペットを簡単の処分できる国民性だ。命の無いヒューマノイドを廃棄するのに何の呵責も無いだろう。我々研究者からすれば痛手だな」

 淡々とした研究者としての隆に、私は微かな苛立ちを感じた。ユウが言っていたとおり、やはり隆は自分の世界を重要視してしまう。どうしても他人の心情を慮ることができない。

 子供の頃からタブレットの中の世界としか繋がっていなかった隆にとって、世界の出来事などは些事なのかもしれない。こんな時にユウがいれば、私の苛立ちと隆の目標重視の間に上手く入ってくれるのだろうけれど、もう遅すぎる。

 ユウは事件の当事者だ。私の苦痛を受け止めてはくれないだろう。そもそも彼が私を、人間として受け止めてくれているのかすらも分からない。

 もし違ったとしたら、私をヒューマノイドとして見下ろす彼を、受け入れることが出来るのだろうか。憎んでしまうのだろうか。自らの夢を奪った男として。

 答えなんて出ない。どうしたいのかも分からない。それでも私は例えユウがどうであれ、最後まで人としてありたいと思う。人として、友に会いたいと思う。これから先に何が待っているのか分からないけれど、どうしても人としてユウと向き合いたい。

「ユウは私たちに会ってくれるかな?」

 沈黙が重くて口を開いた私に、隆は小さく頷く。

「おそらく」

「自信ある?」

「ああ。あれだけの事件を起こしたんだからな」

「意味が分からないんだけど?」

「おそらくユウは、あの暴走を知っていて止めなかったんだ」

「何故……?」

「おそらく試作品の観察記録を置いていったのと同じ理由だろう。俺と明日美もあのヒューマノイドと同じタイプだ。同じように狂うのかと不安ならば、追ってこいといって意味かもな」

「何故?」

「……それが分かったら、俺はユウを失わなかっただろうな」

 ハンドルを握ったままの隆の顔が、苦しげに歪む。人を察することは出来ない隆だが、人を思いやれないわけではない。振り返った時に後悔し、深く自分を自分で傷つける人なのだ。

 だからユウの中にある感情が、理解できない焦りと喪失感に苛まれ続ける。

「俺たちに記憶回路を託した時点で、ユウが何を望んでいるのか分からなくなった。あれを見なければ俺たちは未だに自分が人間だと思い込んでいた。違うか?」

「違わない」

 ヒューマノイドである自分を理解しているのに、未だに私は自分が人間であるという気持ちで居続けている。このまま何事も起こらず、今まで通りでいたならば、きっと三人で永遠に暮らして行けたかもしれない。

 何も変わらない、淡々とした毎日の中で、日付すらも分からずに、ただたゆとうように存在していられたかもしれない。

 でもあの現実と夢の境界線のような黄昏の時間は、ユウが私と隆の元を離れた時に終わってしまった。おそらくユウによって終わらされてしまった。

 強制的に。

 まどろむような幸福から、痛みを抱えた現実に戻って、一体ユウは何をしようというのだろう。

 ふと車載時計を見ると、もう夕方近い。六月の日は長いから、夕暮れにはまだ間があるだろう。そんなことにホッとする。

 やがて隆の運転する車は、ほとんど壊れかけたペンションと個人病院の立て看板が立つ細道に入った。坂道を上っていく途中にあったペンションはみな廃墟になっていて、妙に寒々しい印象を受ける。

 その先、一番うっそうと茂った森の中に、目的の場所はあった。コンクリート二階建ての古びた建物だ。土と雑草に覆われた前庭は、元は見事な芝生があったのかもしないが、いまはもう伸びきってしまい、見る影も無い。

 一部分踏みならされた草地の向こうに、車が二台止まっている。一台は普通車で、もう一台は少し大きいワゴンタイプの車だ。一般車両とは違って窓はほとんど無く、白一色の救急車のようだ。フロントガラス越しに目をやると、隆が神妙に頷いた。

「あれはユウの車だ。やはりここらしい」

 沈んだ隆の声に、唇を噛みしめる。まだ私はユウと再会したらどうするのかを決めかねている。勝手に自分を再生したことを、そして殺傷事件を起こしたことを怒ればいいのだろうか、それとも死んだ自分を生き返らせてくれたことを感謝すればいいのか。

 車を止めた隆が、無言のまま車外に出た。私も口を開くこと無く後に続き、二人で寂れた建物を見上げる。作りから見ても、昔は少ししゃれた建物だったのだろうと分かる。

 正面には磨りガラスで出来た両開きの扉があり、そこに書かれた医院のかすれて読めない名称が無人である時間の長さを物語っている。建物の二階部分から数個の灯り取り用の小さな窓があり、全てがカーテンで覆われている。森に囲まれて薄暗い建物の中に、明かりが灯っている様子も無い。入り口までは数段の段差があり、少し広いテラスになっていた。

「裏に回って、様子を見てみようか?」

 できる限り結論を先延ばしにしたかったから、何となくそんな提案をしていた。反対するかと思ったが、隆は小さく頷くと黙ったまま歩き出す。私も無言でその後を追った。

 横に長い廃病院の建物は、おそらく長方形の箱形をしているのだろう。正面とは違い横には一つも窓が無かった。元は白かっただろう壁は、長い間風雪に耐えたのか、灰色に変色し、迷路のように複雑に蔦が絡んでいる。

 壁にそっと手を触れると、冷たくざらりとした感触が返ってきた。手のひらに残る白い粉を軽くはたき落とす。

 本当にこんな所にユウがいるのだろうか。

 否定したい気持ちがわき上がり、私の心を満たしていく。ユウらしくない、だからここにユウはいない。そう信じ込みたかった。記憶を間違って記録することの無いヒューマノイドには、そんなこと不可能なのに。

 小さく俯き、吐息を漏らしたのと同時に、隆の背にぶつかった。彼が曲がり角で突然に足を止めたからだ。

「隆?」

「これは……」

 呆然と呟く隆の陰から曲がり角の先の光景を見て、私は言葉を失う。正面入口と対だろう側の壁に、大きな窓のある部屋があったのだ。

 その窓から見える室内の光景に見覚えがあった。

「隆の家……」

「ああ。あの家具、あの配置、間取り、全部俺の家と同じだ」

 大きなガラス窓越しに家の中を見つめる。いつもユウが寝そべっていたソファーが、三人で食事をしたダイニングテーブルが、私が暇つぶしに眺めていたテレビがそこにある。二階への階段も、玄関へ続く廊下さえもそのままだ。

 誰もいないのを確認してから、私はガラス窓に手を付いた。何もかも、置かれている小物さえも同じもののようだ。

 そしてガラス窓に反射して映り込む森の光景を見て、唐突に気がつく。

「この窓から私たちがいる所を見たらきっと、隆の家からあの森を見ているのと同じように見えるはずだよ」

「そのようだな」

 うり二つの家の中、うり二つの眺め。

 福嶋家からかなりの距離をきたはずなのに、突然出発地点に引き戻されたような感覚だ。しばらく呆然としていた私の前で、隆がガラス窓に手をかけた。窓は予想外に、音も立てずに静かに開く。

「入ってみるか?」

 当然私に拒否する理由はない。先に行く隆は引き開けたガラス窓から土足で部屋の中に踏み込んだ。戸惑う私に目もくれず、先に歩き出してしまう。

 一瞬の躊躇いの後、私も土足で上がり込んだ。

 部屋の中を真っ直ぐに突っ切っていく隆をよそに、私は二階に上がる階段を見上げた。この階段を上ったところに、私の部屋とユウの部屋があるはずだ。

 何となくユウがそこにいるような気がして、階段を上り、ユウの部屋の扉を開けた。

 開けた扉の向こうには、何も無かった。部屋の内装さえもされていない、むき出しのコンクリート壁に覆われた部屋には、乱雑に荷物が詰め込まれているだけだ。こんなところで生活できるわけがない。

 後ずさると背中が何かに突き当たった。そこに私の部屋の扉がある。そっとノブを回して押し開けると、そこには福嶋邸にあるのと寸分の違いも無い自分の部屋があった。

 同じ私の部屋なのに、何故か私は薄気味悪くなって扉を乱暴に閉め、一階に駆け下りた。当たりを見渡し隆を探すと、隆の部屋の扉が開いたままになっていた。

「隆! 二階のユウの部屋が……」

 言いながら飛び込んだ部屋は、私の部屋と同じように福嶋邸の隆の部屋と全く同じだった。隆はそこで、自分の物と同じパソコンを開いていた。

「隆?」

「俺はどうやら昨年の六月から長期出張していたみたいだな」

「……なんのこと?」

「回線が研究所の物とダイレクトに繋がっている。データを覗いたら、俺から研究員宛てに、この場所から様々な指示が出ていた。『急な出張でしばらくアメリカにいる。その間、小西由幸主任に、代理所長をお願いした。小西を通して指示をする』だそうだ」

 感情のこもらない顔で隆はキーボードを打つ。

「それに対して研究員は『了解しました。所長らしい唐突さですね。学会でアメリカが気に入ったのでしょうか。以後、小西主任の指示で研究の継続を行います』だそうだ。やはり俺よりユウの方が信頼されているらしいな。それから数日に一度、俺からの指示という形で、ユウが送信していたらしい。ほんの一ヶ月前までな」

「え……一ヶ月前?」

 それはユウが失踪する、ほんの一週間ちょっと前までということになる。

「ああ。つまり俺たちは……ユウが失踪する直前まで、本物の家では無く、ここに住んでいたんだ」

「嘘……」

「本当だ。俺は毎日仕事に行っていると思っていた。研究所に通っている記憶がある。でも研究所に行っている記憶は毎日同じ繰り返しだ。俺の記憶装置に、研究所だけの記憶を繰り返せば作れるだろう。実際の俺はこの家で、仕事に行く代わりに毎日機能を止められていたんだろうな」

「そんな……」

「明日美の記憶も同じだ。毎日毎日、ユウと二人でリビングで過ごしたり、森に行ったりといっていたな。その記憶も繰り返すことが出来る」

 断言した隆に、私は必死で反論の言葉を探す。そうしないと狂ってしまいそうだ。自殺したヒューマノイドたちのように。

「でも私。ユウと買い物にも行ったよ。ちゃんと出先で一緒に買い物したもの。一度や二度じゃ無い、二人の買い物はいつも違ってた。その記憶も作れるって言うの?」

 繰り返す記憶は作れても、毎回違う買い物をした記憶は作れるはずが無い。それが証明できれば、狂いそうな隆の推論が崩れる気がした。でも素人である私を説き伏せることなど、隆にはたやすい。

「買い物に出かけた時は、命令すれば良かったんだ。店に着くまでと帰り道のことは、一切記憶するなってね」

「じゃあユウの部屋は? ここ、ユウの部屋じゃない!」

「三人でいた最後の日から、俺と明日美とユウは本物の家にいたんだ」

「……何故……?」

「決まってるだろう? 俺たちを解き放つためだ」

 私は混乱しながらゆっくりと両手で頭を抱える。私の混乱と恐怖に気付いていないらしく、隆は静かに私にとどめを刺した。

「明日美。福嶋家に来てから、研究員に会ったことないだろう?」

「あ……」

「俺の家は研究所の敷地内に建っているのに」

 そうだった。母の介護で福嶋邸にいた時、私は隆に招かれて幾度も研究所に通った。隆とユウの緩衝体になるためだったけれど、研究所の入口には事務所があり、数人の事務員がいたし、廊下ですれ違う白衣の人は、一人や二人では無かった。

 それなのに隆と形式上の結婚をしてから、私は彼らの誰とも会っていない。研究所に一度も顔を出していないのだ。

「でも私たちを解き放したら、研究員と接触するかもしれないじゃない!」

「俺たちはそうしなかった。そうする気にはなれなかった。何故なら前日に、ユウはあれだけ印象的に俺たちの中に自分を残していったから。現に俺はユウのことしか考えられなかった」

「……私も……」

 全ては計算され尽くしていたというのだろうか。

「ユウは、どうして私たちを……」

 そう言いかけた時だった。

 玄関の扉が激しく叩かれたのだ。

 身体を強ばらせて立ちすくむ私と対照的に、隆は弾かれたように立ち上がった。我に返って後を追う私の目の前で、隆は緊張した面持ちで玄関扉を開ける。

 そこには血塗れの女性が、背後に怯えながら息を切らして立っていた。開いた扉に気がついたのか、後ろを確認しながら、女は必死に扉の中に身体をねじ込んできた。

「助けて、助けてください!」 

「一体何が……」

「お願い! 閉めてください!」

 悲鳴と共に飛び込んできた彼女を庇うように、隆は扉を閉めて鍵を掛けた。荒く息を切らせた女の腕と背中から、血が滴っている。

「何があった吉川? 君は失踪していたのでは?」

 尋ねた隆に女……吉川は恐怖を顔にこびりつかせたまま、隆を見上げる。するとその顔がますます恐怖に固まり、追い詰められたように、扉まで後ずさった。

「吉川?」

「所長……すみません……すみません……っ。怖かったんです、人殺しになるの、怖かったんですっ!」

 隆を見つめるその瞳が、更なる恐怖に覆われていく。瞳が助けを求めるようにさ迷った。

「吉川?」

「ようやく掴んだ研究者の立場を捨てたくなかった。でも隠しおおせると聞いたから、あの人を信じたから……。人助けになるんだって言われたから……。なのに、あ、あんな風に人が……血が……」

 震える両手で顔を覆って、吉川は身を縮めた。

 もしかしたら彼女が言っているのは新宿の事件かもしれない。こんなに怯えている姿を見ると、きっと映像が公開されたのだろう。

 私も、ここに着くまでずっとあのニュースを車の中で聞いていた。明らかになっていく現場の情報から、あのヒューマノイドは……いや、あの人は、家族を殺し、無差別に人を殺したのだと分かった。

 それを知りつつも、実験のためと事実を切り捨てられる人なんて、存在するのだろうか。感情を持つ人間の中に。

 私を殺したこの人も、普通の人間だったと言うことなのだろうか。

「私が手伝いなんかしたから、あの人を壊してしまった。そもそも所長を再生したから、私がこの手であの人の友人を……明日美さんを殺めてしまったから、あの人は狂ってしまった」

 声を震わす吉川の中に、間違いなく後悔の色が見えた。だからこそ隆は激高すること無く、自分をヒューマノイドにしたことを責めるでもなく、淡々と聞き出す。

「君の知っていることを話してくれ。できる限り全てだ」

 後悔と罪の意識で震える吉川から聞き出したのは、私たちの知らない数ヶ月の真実だった。それは私の統合した記憶の終わりからここまで、途切れること無く続く、歴然たる事実だった。

 五月中旬、福嶋研究所所長・福嶋隆は自らの記憶のバックアップ作業中に、主任・小西由幸のミスのために死亡した。ユウではなく、死んだのはやはり隆の方だった。

 だが記憶のバックアップ作業は死亡した後も続けられ、隆の記憶は脳が完全な死を迎えるより前に完全にバックアップがなされた。その時点で、ユウの恐ろしい計画が生まれたのだと吉川はいう。

 その後、ユウはヒューマノイドをより人間に近づけるための、反射と反応を司る駆動系を更に深く繋ぐ研究に没頭した。もともとユウの専門はそれで、隆の学会に合わせてほぼ完成していたらしい。ヒューマノイド本体は、研究所名義で大量に購入されたようだ。

 ここにあるのは記憶をバックアップするシステムの末端だけで、記憶は全て研究所のメインシステムにネットワークで保管されてる。大きな装置を取り出さずに済んだから、研究所の人間は誰もそれに気がついていないそうだ。

 最新システムを使い、記憶を持ったヒューマノイドを動かすべく、ユウは脳死患者とその家族を求めた。身体は生きていても再び脳が起動することが無いという状態の患者家族ならば、記憶を持ったヒューマノイドに飛びつくだろうという打算があった。

 その打算は見事に当たった。おかげで試作品として最新システムを載せた、記憶を持つヒューマノイドが作られることになった。

 その資金は、脳死患者の支払いで賄われた。

 彼ら試作品は皆、隆を本当の人間として再生するための、ユウの壮大な実験だったのだ。たったひとりを甦らせるために、ユウは沢山の犠牲を厭わなかった。

 ユウは狂っていたのだろうか。それとももうすでに心が打ち砕かれてしまっていたのだろうか。私には分からない。

 その実験の合間に私が現れて、吉川に刺されて死亡するアクシデントが起きた。すぐさま私は、記憶だけをバックアップされたという。身体はすでに分解処理されていた。

 数ヶ月後、ユウの手によって、ほぼ完璧なヒューマノイドができあがっていた。だが問題はヒューマノイドの自殺問題だった。それに対応すべく更に研究は進められた。時に、私と隆の記憶を移植したヒューマノイドも利用して。

 そして私と隆の記憶が曖昧な繰り返しを初め、もう長いこと共に暮らしたような記憶が作られていく。

 実際は私と隆の二人とも、実験のデータを取り終わると、記憶を残さぬように命じられ、玄関扉の外にあるラボラトリに行き、ユウによって機能を止められていた。

 実験はなおも続けられ、最新のシステムと、観察結果が総合的な内容でユウの手に残されていく。宮前探偵と共にヒューマノイドの調査をしていたのも、その一環だった。彼は自ら作り上げたヒューマノイドを自分の目で観察していたのだ。

 そうして膨大なデータ全てが注ぎ込まれた隆と私は、本当の福嶋邸へと戻された。ユウが考え得る中で最高の出来となるヒューマノイドとして。

 実際に私たちがあの家で共に暮らしたのは、たった一週間しか無かったのだ。

 その結果ユウは自分の目的を達成してしまった。今まで必死だったせいで保たれてきた、精神状態が傾き始めたのは、私たちがあの福嶋邸に移って以後のことなのだという。

 実験体が私と隆という形で完成形になった時、真実と技術を知る吉川の存在は、ユウにとって邪魔なだけとなった。真実を知るものを消してしまえば、以後安全だとユウは彼女に笑いかけたそうだ。

 そしてユウは、彼女が私を殺した同じ包丁で、仕返しするかのように吉川を襲った……。

 精神のバランスを崩しつつあるユウは、今、扉の向こうにいる。

 全ての話を聞き終わった時、外はもう夕日に覆われていた。あの日と同じように血のように赤い夕日と、森の中に黒々とした闇が広がっている。

「吉川。怪我はどうだ?」

 尋ねた隆に、俯きがちに吉川が首を振る。

「浅いようですが、楽ではありませんわ」

「そうか。では吉川。すぐにここから離れて病院へ行け」

 意表を突かれたように、吉川が顔を上げた。

「何故です?」

「今すぐにここを出るんだ。探偵がここに来る。そうなれば君も小西と同じように起訴されることになるだろう。だから君は怪我の治療をした後、研究所に戻れ。そして後始末をするんだ」

 静かながらも強く言い聞かせるように、隆は吉川の肩を掴んだ。

「……後始末? 責任を全て負えと?」

「ある意味ではそうだ。記憶を持ったヒューマノイドの今後のサポートを命じる」

 私だけでは無く、吉川すらも目を見開く。そういえばそうだ。私たちの結論がどう出ようと、記憶を移されたヒューマノイドはまだこの世界に存在している。

 愕然とする吉川に、上司としての隆が淡々と言葉を綴っていく。自分が死んだ経緯や、いままでのユウの嘘全てを知ったのに、まるで何も知らなかったかのように。

「実験として自殺を回避しようとしていたのなら、最後の一人まで管理しろ。研究所の他の人間に任せるわけにはいかないが、放り出すわけにもいかない。ならばその任を負う人間が必要だ。研究所で信頼の置ける人間に相談し、共に事に当たるのは構わないが、どこまで話してもいいかは分かっているだろう?」

「はい」

「警察が行ったら、何も知らないとしらを切れ。全ての責任は小西と俺がとる。分かったな?」

 不意に吉川の顔が歪んだ。泣き出しそうなのを堪えているのだとすぐ分かる。

 隆は彼女の罪を問わなかった。ユウの手下となって人の記憶を実験材料としたことを問わないと言ったのだ。隆は全ての罪を、ユウと自分で背負おうとしている。その代わり彼女に、被検体となった人々への長く続く贖罪と責任の日々を背負わせた。

 それを吉川も理解したのだろう。だが彼女は泣くことは無かった。その代わり俯いて唇を噛みしめ、頷いたのだ。

「了解しました。所長」

「頼む。俺の車を使え。たぶん車から足が付くことは無いだろう」

「はい」

 未だにじみ出す血を押さえながら、吉川は立ち上がる。よろめく彼女に肩を貸そうと思ったが、手で制されてしまった。

 小さく吉川が呻く。

「何で手を貸そうとするの? あなたを殺し、将来を奪ったのに」

 私は目を見開いた。

 そうだ。彼女は殺人を犯している。彼女は私を殺している。彼女は殺人者なのだ。この日本ではそれは重罪に当たる。私は彼女を罰する権利があるはずだ。でもそう思ったのはつかの間で、私は小さく首を振る。

「あなたを恨むことはたやすいけれど、残念ながら私はヒューマノイドで、感情が人間に向かない。おそらく私の安全装置は、あなたを攻撃することを許さないもの」

「……そうしたのは、私なのよ?」

「分かってる。分かってるけど、元には戻らないでしょう? 時間を戻すことができないなら、私は復讐じゃなくてユウに問いかけることに時間を使う」

 もう言葉を飲み込まない。ユウを助けたい。ユウを苦しみから救いたい。できることをしたい、手を差し伸べたい。

 あの頃のように。

 じっと吉川を見つめると、吉川は恐れるように微かに視線を逸らした。彼女は明日美がヒューマノイドであることに罪悪感を感じているのだ。自らの手で終わらせた命の重さを、彼女は十分に受け止めてくれている。

 そう信じたい。

「暴走したヒューマノイドが人に危害を加えるのを見るのは、とても辛い。ユウが起こしたことなのだとしたら、今あなたに復讐するよりも、あなたにそれを止めて欲しい。だって止められるのはあなただけなんでしょう?」

 いざという時のことを考えて、今の私は安全装置を解除されている。だからきっと彼女を殺すことだって出来る。

 でも私の人間としての理性がそれを止めさせた。彼女はその場にいたから巻き込まれたのだ。

 ユウに。そして私たち三人の抱えた闇に。

「何故、私に隆が死んだことを教えてくれたの?」

 私は彼女にそう問いかけていた。あの日、匿名の電話を掛けたのは、間違いなく彼女だ。真実を知る彼女でしかあり得ない。でもそれは私を呼び寄せることになり、私を殺したことと矛盾している。

「所長の身体を処理する時、あなたの連絡先を書いたメモが落ちたの。幾度も連絡をしようとしていたのに、出来なかったのね。手垢にまみれてしわくちゃだった。あれを見たら何故か知らないけれど、連絡しなくてはと思ったわ」

 隆を見ると、微かに俯き唇を噛んでいた。彼はあの夕日の中の出来事を後悔し、幾度も私に詫びようとしたのだろう。でも、それが出来ぬまま死んでしまった。

 その想いが一枚のメモを通して、吉川に伝わった。殺人の恐怖を抱えつつも彼女は、隆の想いに胸を痛め、危険を顧みずに私に連絡をくれた。

 彼女は人間だから。

 感情を持ち、命令よりも想いを貫ける人間だったから。

「ありがとう」

 ゆっくりと吉川を見つめながら告げると、俯いた目の前の吉川の瞳から一筋の涙が零れた。顔を上げないから泣き顔は見られない。やがて彼女は私に顔を見せること無く、きびきびと私に背を向けた。

「自らの責任は取るわ。それが研究者としての私の責任。所長、明日美さん、主任をお願いします」

 深々と頭を下げた吉川に、嘘は無かった。自分を刺したのに、恐れていたはずなのに、彼女はユウを隆に頼んだ。そこに明日美は深い真実があることに気がつく。

 彼女はきっと、ユウを愛していたのだろう。こんな事になっても、彼女はユウを見捨てられない。

「吉川」

「はい」

 朱に染まる窓の外に出た吉川は辺りを見渡し、車へと駆けていく。飛び出した吉川と反対に、隆は自分の部屋に駆け戻り、研究所に向かって誰かにメールで指示を出す。

「吉川が重要案件をもって戻る。小西のラボラトリの鍵を渡し、今後そこを吉川の研究室とする。吉川の指示で一人、サポートに当たれ。なお、私の出張は長期にわたるようだ。小西も問題を起こしていて、いつ戻れるか分からないから、君を所長代理として指名する。半年たって戻らなければ、研究所の経営権を、君に譲る」

 潔い隆の決意がそこにあった。研究者としての道を常に選んできた隆が最後に選んだのは、研究所では無く、私とユウだった。

 吉川の運転する車の音がみるみる遠ざかり、紅い闇に包まれた静寂が私たちを支配する。体中に入り込んでくるような、この忌まわしさこそ、私たちの闇だ。

 何をしたらいいのか分からず、隆の後ろで文章を見ていた私に、送信し終えた隆が振り返った。

「さあ明日美。行こうか、ユウの所に」

「うん」

 決意を固め、私たちは言葉少なに玄関だと思い込んでいた扉を押し開けた。途端に埃っぽく澱んだ空気が私たちを包み込む。この建物は、建物としても死んでいるのかもしれない。だとしたら生きているのに死んでいる私たちに、これほど適した場所も無いだろう。

 中を窺うと、真っ暗かと思った建物内部に多少薄明かりが落ちている。突き当たりに見える曇りガラスの扉の上に灯り取りの窓があるようだ。階段が上と下に伸びたこの空間は、ホールになっているらしく、ここから上は吹き抜けになっていた。

 廊下を行くとあちらこちらがめくれあがったビニール張りの床がある。磨りガラスの向こう側を見ると、右手側に受付のカウンターがあった。当然そこはがらんとしていて誰もいないし何も無い。開院当時に貼られていたのか、小児科の可愛らしいシールが茶色く変色しているのがかえって気味悪かった。

 周りの様子を確認伺っていた隆が、進むべき方向を見つけていた。

「こっちだ」

「何で分かるの?」

「これさ」

 隆が示したのは、全体的に色が変わるほど埃をかぶった床に、獣道のごとく埃が積もっていない通路だった。それは左右の階段へと続いていた。

 見ると階段の壁には昔のままの表示が付いていた。プラスチックの白い板に黒々と、病室二階、レントゲン室・MR室地下一階とある。足跡は二階、地下双方に続いていたが、埃がより少なく、幾度も歩いたと思われたのは地下への道だった。

 光が全く届かぬ地下は、まさにユウの心の深淵を覗き込んだかのような闇に満ちていた。迷い無く地下へと向かう隆に倣い、私も無言で隆の後へ続く。

 階段を下りきった先に薄暗い廊下があった。左右に伸びた廊下には、昔ながらの蛍光灯が申し訳なさげに付いている。先ほどまで至る所にあった埃の塊がこの階にはない。ここだけ掃除がされていると言うことは、よく使われているということだ。この階には一部屋しかないらしく、唯一の部屋には大きな金属扉が付いている。

「おそらくここだ」

 低く呟くように隆が私に告げた。全てを阻むかのように想い鉄扉が目の前に立ちふさがっている。この扉のように閉ざされたユウの心に、私たちは触れることがでいるのだろうか。不安と、ユウに会いたい気持ちが私の中でせめぎ合う。この感情は人間の感情なのだろうか。それともただの記録された反射なのだろうか。

 決意を固めた隆は、金属の扉に手をかけた。壁と同じように塗られたその扉は、重たくて冷たい。自然と私は隆の手の甲に自らの手を重ねていた。一人では無いのだとお互いに感じあいたかったのだ。

 微かに窺いながら手をかけノブを回すと、あっさりと重たげに軋みながら開く。鍵さえかけられていない扉に、私は理解する。

 きっとユウは、施錠せずに私たちを待っていたのだと。手のひらに隆の一瞬の躊躇いを感じたが、手を握り返すと隆も迷い無く扉を大きく開け放った。薄暗い廊下に、目映いばかりの白い光が溢れる。瞬間的に目を細めたが、視界はすぐに元に戻った。

「ユウ、いるんだろ?」

 呼びかけながら隆が一歩室内に足を踏み入れた時だった。

「……やっぱりたどり着いたか」

 久しぶりに聞く、愛おしいその声に出迎えられた。視線を向けるとそこに会いたかったユウがいた。ユウは大きなモニターのあるデスクに座っている。いつもソファーに寝転がって漫画を読んでいた時と同じように、パーカーにジーンズの軽装だった。でも最後に見た時よりも、ユウはやつれ疲れたような表情をしていて、だがどこか安堵したように微笑んでいた。 

「ようこそ、俺のラボラトリへ」

 冴えない顔色で、それでもユウはいつも通りの少々皮肉の混じった笑みを浮かべて、こちらへ向かっておどけたように両手を広げた。その右手には、見覚えの無いものが握られている。それが何か気がついた瞬間に、私はその用途を察して震え上がった。ユウの手に握られた黒光りするものは拳銃だった。その拳銃が私たちに向けられる物ではないはずだ。私たちはヒューマノイドで、拳銃ごときで即死することは無い。

 だとしたらそれは、この場で唯一の人間であるユウのために用意されているに違いなかった。つまりあと少し遅ければ、私たちが再会するのは、ユウの死体だったのだ。

「ユウ……それ……」

「ああこれ? 裏ルートって結構金がかかるんだ。買えない物はないけどね。拳銃とか、記憶を持ったヒューマノイドとか」

「やはりお前が全て仕組んだのか……」

 呻く隆に、ユウは少し安堵したように息をつき、手の中にあった拳銃をもてあそんだ。

「そうだよ」

「俺たちのためにか?」

「……どうかな……」

「ユウ!」

 感情的な隆に、私は声を上げた。

「駄目! 聞くんでしょ? ユウの気持ち聞くんだったでしょう!」

 眉を寄せて何かを堪えるように顔を歪めた隆は、小さく息を吐いた。

「……すまない……明日美」

「うん」

 ユウの目は、私たちを見たりしなかった、ただ手の中にある拳銃を弄んでいる。あの拳銃が、いつユウ自身に向かって火を噴くのかを考えると、私と隆は、一歩も動けない。

 この気持ちは人間を守りたいヒューマノイドだからなのか、ユウの友としての記憶から来ているのか分からないが、どちらにしても私たちはユウが大切なのだ。

 そんな私たちの事を分かっているのか、静かにユウは顔を上げる。

「さて、まず業務連絡。俺の亡き後は使ってよね、隆。研究所のメインシステムとここの端末は繋がってるから、ここで大体のことは出来る。これでかなり状態が良くなるはずだ」

 デスクからユウが取り出したのは、記憶回路だった。ヒューマノイドに搭載するタイプであるだろうけれど、少し型が違うように見える。詳しくない私が見てもよく分からない。

「追加のプログラムデータ……?」

「ああ。倫理面を強化し、安全装置と密接に関連づけた部分だ。一般家庭用でも追加プログラムとして扱える媒体に入れたから、隆にはアスが入れられる。それ以外にも、感情面を強化して、学習することで進化するプログラムを入れてある。認知発達学からのロボティクスの決定版みたいな奴。本当に俺、研究者で良かったよ。これでようやく満足いくものが出来た」

 他人事のように、これから死を迎えるなんて思えないぐらい朗らかに、ユウはそう語った。彼は自分のしたことに満足しているようだった。私は絶句するしかない。隆も黙って立ち尽くしているだけだ。

 私たちには感情が無いように外側からは見えるだろう。でも私自身は不思議なくらい感情を持っている。何が感情なのかなんて分からないけれど、確かに今、この胸に感情を感じている。

 私は、悲しかった。

 ただただ、ユウをそんな選択に追い込んだ私たちの存在が悲しかった。

「ユウ」

「何、アス?」

「何故ユウは私たちを完璧にしたいの? ヒューマノイドである私たちに何を望んでいるの?」

 真っ直ぐに見つめると、ユウの表情が微かに歪んだ。穏やかな表情がほんのわずかに崩れたのを感じて、私は言葉を続ける。

「何故隆が事故死した時、すぐに警察に届けなかったの? どうしてユウが死んだように隆の記憶を作り替えたの? 答えてよ! 疑問を大量に残して死んだりしたら許さない!」

 俯いたユウが歯を強く噛みしめているのに気がついた。拳銃をもて遊んでいた手が止まり、黒い銃身を握りしめたまま、ユウはじっと堪えるように黙り込んでいる。

「ユウ!」

 強くその名を呼びながら一歩前に出た私に、ユウは弾かれたように拳銃を握りそれをこめかみに押し当てる。私はまた動けなくなる。

「それ以上こないでアス。アスも隆もヒューマノイドだ。力も速度もリミッターを壊せば人間以上だって分かってる。だからそれ以上距離を詰めないでくれ。話す間も無くなるよ」

 淡々というと、ユウはゆっくりと隆を見て、それから私を見た。どこまでも静かな瞳をしている。以前グレイの光彩をしていたあの瞳は、昔と同じように黒く澄んでいる。あの瞳の方が作り物だったのだ。

 グレイの瞳をしているのはきっと、私の方だ。

「神の国に入る前に懺悔すると罪が軽くなるんだっけ? だとしたら俺も懺悔しようかな。隆やアスがいる天国には行けなくても天国を仰ぎ見る場所ぐらいには行けるかもしれない。今の俺には天国は遠すぎる」

 ユウの中で私と隆はすでに死者だ。それなのに私たちはここにいる。そんなことが妙に重く現実感を持って私にのしかかる。

「ユウ。教えてくれないか。俺がした間違いは何だったんだ? 何がお前をこの行動に走らせた?」

 隆がまるで懇願するようにそう問いかけた。そんな隆に何故かユウの方が動揺する。

「隆らしくないよ。何で俺にそんな目を向けるんだよ? いつもみたいに自信を持って、俺を問い詰めろよ」

 見つめ合う二人の間には、相反する感情が漂っている。ユウにとっての隆は完璧な天才で、自信家でなくてはならなかった。

 でも私は隆の弱さを知っている。

 そしてユウは隆が自分を振り返り、隆の方からユウに歩み寄ろう気持ちがあるのを知らなかった。

 隆が話す彼自身を恐れるように、ユウは口の端を歪めながら、口火を切る。

「俺を責めればいいじゃないか。俺はデータのバックアップという基本的な事でミスを犯したんだ。この手で隆を殺したんだよ。気がついたら隆の心臓が止まってた。俺が、殺したんだ!」

「ユウ」

「どうしたらいいか分からなくて、一瞬、パニックになりかけたよ。でも記憶がバックアップ出来ているなら、まだ死んだことにならない。それに俺は……俺は初めてお前に勝てる要素が出来たことに気がついたんだ。お前を完璧に作り上げた時、お前は自分に気がつくのかって。気がついたならやはり俺の負け、気がつかなかったら俺の勝ちだ。俺は初めて隆に勝てる! これは俺と隆の最初で最後の真っ向勝負だ」

 暗い輝きに満ちた瞳で隆を見返したユウだったが、すぐに自嘲の笑みを浮かべて俯く。

「でもそれでどうする? 俺が勝ったって隆は死んでる。ヒューマノイドの隆に勝っても仕方ないだろ。俺が追いつきたかったのは、勝ちたかったのは人間の隆だったのに。俺がコントロール出来る隆のヒューマノイドに勝っても、俺は勝ったことにはならない。俺は死んでしまった隆に、一生追いつくことが出来ないと気付いたんだ。この手で隆を、追いつけない場所へと追いやってしまった」

 下ろしていた拳銃を、まるでそれが最後の救いであるかのようにゆっくりと撫でるユウに、私は言葉も無い。

 隆はただ黙ってユウを見つめていた。その瞳には、全くユウを責める気が無い。

 でもそんな隆の瞳が更にユウを苛立たせた。

「そんな時にアスまで失う羽目になった。全部、俺が自分勝手なことをしたからだ。最初は昂揚していた俺の気持ちも、徐々に孤独と恐怖に支配され初めていった。隆もアスも、もうこの世にいない」

 私は死んだのだ。ここに居るのに。

 私と隆がここに居るのに、彼はずっとひとりでいたのだ。私たちは結局、彼の心を慰めることなどできなかった。

 ヒューマノイドである私と隆と関係を持つことで、ユウは更に深く自らの孤独を知ったのだろう。私たちは機械であって、人間ではないのだと。 

「この記憶を移植したヒューマノイドだけが、俺の心の拠り所だ。二人の移植が上手くいって、隆とアスが俺に笑いかけてくれた時、俺は……正直涙が出た。ああ、良かった、俺は一人じゃ無いって」

 ユウが頼りなく見えた。とても小さな子供のように、一人震えているように感じた。

 ユウは気がついたのだ。隆と私という大切な存在に、死という避けられない運命をもって、この世という牢獄に置き去りされたのだと。

 手を伸ばしてユウを抱きしめてあげたいと思った。頭を撫でてあげたいと思った。でも歩を進める事を、ユウは許してくれない。

 隆を見ると、隆はただ静かにユウを見つめているだけだった。隆の中に、どんな心があるのだろう。

「俺は勝負を辞め、より完璧な人間を作るための実験を始めた。それがあの試作品だ。データを集め、徐々にくみ上げていったデータを利用したから、どのヒューマノイドよりも精密なヒューマノイドが出来た。当たり前だよな。元は人間の記憶を使っているんだから」

 未だ人間の記憶をヒューマノイドに移植するのは、倫理面から禁じられていると、私でさえも聞いたことがあった。だから私と隆のように、人間の記憶を元に積み重ねられた記憶を持つヒューマノイドは他に無い。

「じゃあユウ、何故ユウは自分がヒューマノイドだって偽ったの? メンテナンス作業や、今みたいにデータを更新することを考えたら、人間でいた方が都合が良かったんじゃ無いの?」

 小さく問いかけた私に、ユウは微かに笑顔を作った。それは何だか悲しく、儚げな笑みだった。

「それでも俺は不安だったんだ。ヒューマノイドでも隆とアスに近くにいて貰いたかった。ヒューマノイドだって自覚しないで、自分として一緒に笑っていて欲しかった。だから自分の方がヒューマノイドであると装った。実験でいい結果が出ていたから。だってもう二人を失いたくなかったんだ。記憶を移植したヒューマノイドは、ことごとく自殺を選ぶ。二人にもう一度死んで欲しくなかった」 

 微かにユウの拳銃を持つ手が震えていることに気がついた。

 私へと笑みを向けてから、彼の目は許しを請うかのように、それでもまだ、挑むように真っ直ぐに隆に向いている。その隆も逸らすこと無くユウを見つめていた。

「そのために俺はヒューマノイドの殺人を見逃した。何人殺しただろうな。ああ、脳死状態の患者から記憶を取り出し、その身体を処分したのも俺だ。どうだ、隆。俺の身勝手を責めろ。それでデータだけを受け取って、俺をここに置き去りにしてくれ。俺の始末は俺自身で付けるから」

 黙ったままの隆に、ユウは叫んだ。

「お願いだから二人で幸せにやり直してくれよ! 二人なら完璧に人間のように生きていけるだろう! 出て行ってくれ!」

 感情を爆発させたユウが荒く息をつく。でも隆は全く動じることは無かった。それどころかそんなユウを、見つめ返して悲しげに微笑んだのだ。

「出て行くわけ無いだろう」

「隆?」

「何も分かっていないのはお前だろう、ユウ」

 淡々と、ただ静かにそう隆は切り出した。まるでその静けさに呑まれるように、ユウは力を抜いて椅子に身を沈める。

「俺が何を分かっていないって?」

 拳銃ごと顔の前で手を組み、ユウはそれを額に宛てている。 

「俺はいつも周りを見ずに自分の考えを押しつけている事を後悔してたんだ。冷静になった時に不意に気がつく。部下たちがあきらめ顔で笑って行動してくれていることと、お前が傷ついた顔をしていることに」

 いつも昂然とした態度と口ぶりの隆が、俯きぽつりぽつりと内面を覗き込むかのように話している。

 私の中にある、研究所の光景が浮かんできた。まだ母が入院していた頃に顔を出した研究所で、研究員の一人がある時、笑って私に『小西さん、いつも落ち込んじゃうから、フォローしてやってよね』とこっそり耳打ちをしてきたことがあったのだ。

 私は頷いたけれど、二人のフォローをすることが出来ず、ただ笑って緊張感を緩めていただけだった。ユウを見ると、手が微かに震えていた。怯えるように小さく制止の声がこぼれ落ちる。

「やめてくれ、隆……」

「でも俺はどうすれば、俺の後悔を分かってもらえるか分からなかった。だからお前が次の瞬間には笑っているのを見て、お前なら大丈夫なんだと安心しようとしてた。本当は自分でもそれではいけないと分かっているのに」

「もう、やめてくれ。頼むから……」

 懇願するかのようにユウは声を震わせる。

 こんな事になるまで自分をさらけ出すことの出来なかった隆。

 初めて隆の本音を聞いたユウ。

 あまりにも二人の溝を埋めるのが遅すぎた。

「記号と静寂で構成された俺の世界に、入り込んできた人がいた。最初は明日美で次はお前だった。小さかった明日美は無邪気に俺の世界に存在し、お前は初めて、信頼して共に夢や世界を描いてもいいと思える友になった。人間って暖かいんだって、初めて気がついた気がする」

 顔を上げた隆は、悲しみに満ちた瞳でじっとユウを見つめた。ユウはその瞳を受け止められずに目をそらす。だがユウの拒絶を隆は許さない。淡々と自身をさらし続ける。

 それがどれだけ、隆自身をも傷つけるかを知っているはずなのに。

「だからこそ、俺がどれだけ二人を失うことを恐れたか分かるか? 夢中になると全てを忘れて周りを傷つける俺は、幾度振り返った世界に、お前と明日美がいない夢を見て飛び起きたから分かるか? 記号と静寂の冷たい世界に、再び一人で取り残されることが、どれだけ怖かったか、分かるのか?」

 問われたユウは答えずに俯く。ユウは置き去りにされた子だったと宮前探偵に聞いた。だが状況は違っても、隆も親の無関心の中で置き去りにされた子供だった。

 ユウは気がついたのかもしれない。

 ユウの一番の理解者になるはずだったのは、彼が追いつきたくて必死になってその背を追っていた隆に、他ならなかったのだと。

 そしてその隆を、自分の手で殺したのだと。

「お前にとっての俺は……何だったんだ、ユウ」

 心からの問いかけに、ユウはおずおずと顔を上げた。

「目標……だったのかもしれない」

「だったら俺はどうすれば良かったんだよ。俺はどこに行けば良かったんだ!? 俺だって迷っていたよ、俺だって必死で何かに向かっていけるお前へのコンプレックスがあった。俺よりも遙かに人間として優れていたから、だからお前に明日美と幸せになって欲しかった。俺は、人間として半端だから!」

 傷つけ合う二人に、堪らず私は叫んでいた。

「もうやめて! もういい、もういいから! まだ遅くないよ。もう一度やり直そうよ。隆もユウも本心を理解したでしょ? もう溝は埋まるでしょう?」

 私の叫びは届くのか、それは不安だった。私は二人にとって何だったんだろう。二人の絡まった感情の糸を更に絡めただけの存在では無いのか?

 そう思うと私も動けなくなりそうだ。

 でも私は二人を愛している。これが記憶の中にあるだけの感情で、今の私の感情では無いにしても、私は二人の男を、誰よりも大切な人として、私を作り上げる世界の一部として愛しているのだ。

「私は二人を守るよ。二人に全てを捧げてでも愛する。だから、もう一度やり直そうよ。私たちはきっと幸せになれるから」

 心からの願いに、ユウの瞳から涙がこぼれ落ちた。でも私の願いと反して、その手がゆっくりと拳銃を持ち上げ、こめかみへと標準を合わせた。

「そうできたら、どんなにいいだろうね」

「ユウ!」

 カチリと鈍い金属音がして私は息を呑む。撃鉄を起こす音だった。そこまで来たらもう後には退けないのだと、私も知っていた。

 身動きがとれない私は、もうどうすることも出来ない自分を理解していた。私が動くよりも、ユウが引き金を引く方が数段早い。

 私たちの恐怖と焦りとは対照的に、何故かユウは穏やかだった。

「並んで歩くことは、置いて行かれないように焦燥感を募らせることじゃなかったんだな。ぶつかり合ってでも、理解し合うことだったんだ。ぶつかることが怖かったから、ただがむしゃらに追いつこうと挑み続けた俺は、きっと弱かったんだ」

 静かな口調には、もう生きることの未練が全く感じられなかった。ユウの瞳からは涙が溢れているのに、口元にはただ穏やかな微笑みが浮かんでいるだけだ。

 森で初めて会った時、本当に嬉しそうに笑ったユウの表情と、それは全く同じだった。あの日から私たちはなんて遠くに来てしまったんだろう。

「それをおけユウ。ようやくお互いのわだかまりを理解したんだ。もう終わりにしよう」

 優しく語りかけた隆の言葉に、ユウは小さく首を振った。

「無理だ。俺はもう、隆とアスがいないこの世界にはいられない」

「俺たちがまだいる!」

「ごめん。やっぱり俺は、隆とアスのヒューマノイドを作るべきじゃ無かった。隆の本心を知ってもなお、俺は本物の隆に詫びることが出来ない。隆に憧れてた。ああいう風になりたいと、願っていた。それは俺の弱さを覆い隠すためだけじゃ無い。心からの本心だ」

 ユウの決意は全く揺るがない。

「アス、大好きだ。苦悩の中にあっても、俺を包み込もうとしてくれた愛情は、俺にとってどれだけの救いになったか分からない。互いをさらけ出しても手を差し伸べてくれる君は、ずっと俺の救いの女神で、森の妖精だった。アスに出会ったあの日は、俺にとって最上の日だった」

「ユウ!」

「でももう、隆もアスもいない。俺も同じ側の世界に行きたい……」

 作り上げられた張本人に、偽物だと断言された私たちに何が出来るだろう。立ち尽くすこと、そして絶望することしか私たちに残されていることは無かった。

「隆、アス。最後のお願いだ。まだ隆とアスの死亡届は出していないから、このまま人として生きて」

 穏やかなユウは、私と隆に今まで見せたことが無いような、幸福に満ちた微笑みを見せた。儚すぎて、透き通るようで、どうしようもなく愛おしく、胸が潰れるほどに切ない。

「もし輪廻転生があるなら、もう一度生まれ変わりたいな。また三人で出会って、今度は幸せになりたい」

 ユウは自ら死を選んだというのに、まるで全てから許され解放される、殉教者のように見えた。

「ごめん、ありがとう」

 一瞬の沈黙の後、響き渡った銃声と共に、いくつもの機械類と白い壁は真っ赤な血飛沫と、白い脳漿で染め上げられた。

 命を失ったユウの手から滑り落ちた拳銃が、床で重い音を立てた。

 残響の中で私は、ぽつりと呟いた隆の声を聞いた。

「馬鹿野郎。お前は俺に勝ったんだぞ。お前があの記憶回路を俺に渡さなければ、俺は何も気付かなかったのに」

 ……きっとユウは、もう死にたかったのだ。だからこれは、救いのなのかもしれない。

 でも私たちは死ねない。

「明日美」

「何?」

「……もう一度、やり直さないか?」

 暗い呟きと共に、ユウに差し出された記憶回路の更新データーを手にした隆に、私は小さく頷いていた。 

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