Scene8
ユウは、ヒューマノイドじゃ無い。宮前進は私と隆にそう告げた。一緒に捜査していたアドバイザーだったというのだ。
でも私の記憶ではユウは常にこの家にいた。私が座っているこのソファーに寝そべって、毎日タブレットで漫画雑誌を眺めていた。
毎日って、いつだったろう。毎日は本当に毎日だっただろうか。
分からない。日付に気を配ったことなど無かった。ただ毎日が単調で、それでも別に違和感も無く過ぎていて、穏やかに積み重ねた時間は、ただそこにあるだけで幸せだった。
座り込んだまま動くことが出来ずにいる私の目の前に、書類の束と、見慣れない機材が置かれた。書類は今時珍しい紙の束だ。
持ってきた人物を見上げると、暗い表情で隣に座った。
「これは何?」
「ユウの部屋にあった書類だ。意味の無い計算式ばかり書いているのかと思ったが、よくよく考えてみればこれは下書きなんだろうな。あちこちに書き込みがある。計算が出来ないなんて全くの虚偽で、ユウは研究を続けていたんだ」
隆の手は休むこと無く書類を捲る。その速度を見ているだけで、隆の有能さを感じられて空恐ろしい。やはり隆は天才なのだ。
やがて数枚の用紙が私の前に置かれた。困惑しつつ隆を見上げる。
「これを見てくれ。これなら読めるだろう?」
差し出された紙の上で、隆の指がこつこつと机を叩いた。私は小さく息をつくとそれを受け取り目を通す。
『試作品一号・自殺 三十代女性 自分が死んだ記憶を持っていたためだと思われる。次回以降は死んだ記憶は削除するべきだ』
「何、これ?」
「いいから読んでくれ」
『試作品二号・自殺 十代男性 記憶を消去したが、自らの存在に耐えきれなかったか? 再考の余地あり』
『試作品四号・自殺 二十代女性 止めた家族を巻き込み、家族は一人を残して全員死亡。人を殺さない安全装置を取り払うべきでは無かった』
『試作品六号・家族による破壊。三十代男性 混乱して暴れたためだと思われる。初めてのケースだが、二号と理由は同じだと思われる。やはり自らの存在意味が必要だ』
『試作品九号・自殺 十代男性 二号と同じ。状況は変更したが、やはり自殺を図る。回避するための手段は何か。探る必要がある』
『試作品十一号・自殺 三十代男性 これも二号と同じ。ヒューマノイドだと本人に知られることがネックのようだ』
『試作品五号・オリジナルにより破壊 二十代女性。オリジナルと同居。二人暮らし。自分が人間だと思い込み、オリジナルをコピーと思い込んだため自殺を免れた。長く持ったパターンの一つとして記録することとする』
『試作品三号・家族により破壊。図らずも破壊の直接原因に関わった。実際に見たところ、ヒューマノイドには、他にヒューマノイドがいると思わせる方が、自分の異変に気がつかれない可能性が高い。この状況を考慮すると、現在の我々は一番安定していると思われる』
『試作品七号・起動時間、短期のみ。処理済み 七十代男性』
『試作品十号・起動記録なし 七十代男性』
『試作品八号・起動中 四十代男性 ヒューマノイド排斥主義者。現在混乱状態。自殺は近い。理由は二号と同じ。』
『試作品十二号・起動中 五歳女児 現在は自殺の可能性が低い。だが記憶が蓄積し、大人にならない自分に疑問を感じ始めた時にどうなるのか未知数』
『試作品十三号・起動中 六十代女性 自殺および破壊の可能性は低い。末期がんの夫の介護をして看取るつもりでいるようだ。自らの存在意義と死の期限が定まっていれば、自殺への欲求は無くなるらしい。最も理想的なパターンだと思われる』
「試作品って……ヒューマノイドでしょ? そのほとんどが自殺してる……。ヒューマノイドはプログラム上自殺できないよね?」
「そのはずだ」
暗い隆の調子で分かった。きっとそのプラグラムは解除可能なのだ。そしてこのヒューマノイドたちはみな、谷崎探偵事務所が追っていた事件と同じく、自分の記憶を持っていたに違いない。
これはそんな人たちの死の記憶だ。望むと望まないとにかかわらず、機械に閉じ込められた過去の記憶で出来た人々なのだ。
そしてこれがここにある以上、実験していた人間はここに居たと言うことになる。
ここに居て今はいない人物。そしてこの文字を書いた人物。
考えるまでもない。それはユウ本人しかいない。
「ユウは何でこんな実験を?」
「分からないが、ヒューマノイドの自殺をどうにかして食い止めたいと考えていたことだけは確かだ」
気むずかしくテーブルの上で手を組み、隆はユウの真意を読み取ろうとしている。私は困惑しながら、そのメモを眺めていることしか出来ない。
ある日、目が覚めたらもう人間では無くヒューマノイドだといわれたら、私はどうするだろう。きっと混乱し、絶望して身動き一つとれないだろう。
「ヒューマノイドと人間の違いって何?」
「……基本的な事だな」
「うん。でも私、それを知らない。エツコは特殊なヒューマノイドなんでしょ?」
ちょうどお茶を出しに来たエツコに尋ねると、エツコは困ったような顔をして、小首を傾げた。
「特殊ではありません。ですが高性能の精密ヒューマノイドです。マスターに調節していただいているので、大抵のことは出来ます」
きっぱりと言い切ると、唇を軽く上げて微笑む。こんな所も妙に人間っぽいのだが、やはり人間とは微かに違う違和感を覚える。
でも世間には表情の乏しい人もいるから、これだけではヒューマノイドと人間を区別することは出来ない。
トレイを手にキッチンへ戻っていく、エツコの後ろ姿を見ながら、私は小さく尋ねる。
「人間との違いは、感情の乏しさと反応パターンの違いだけだよね?」
隆は手にしていた紙から目を上げた。
「五十九型は限りなく人間に近い。表情もほとんど自然だろう?」
「うん」
「でもヒューマノイドと人間の間には、はっきりと違うものがある。記憶と感情と創造力だ」
「ソウゾウ力って?」
「作り上げる方の創造力だ。ヒューマノイドは音楽を完全に取り込み、演奏することは出来る。だが春の野を見て感動して、音楽を作ることは出来ない。ヒューマノイドにとって春の野は春の野でしか無く、音楽のインスピレーションを得るものでは無いからだ」
「それは心そのものみたいね。感情が創造力なの?」
「そうとも言えるだろう。感情の全くない環境で育った子供は、大人になっても感情を表すことが出来ないと言われている。これは認知心理学の分野の話だ。記憶と感情を考えた時、この二つには密接な繋がりがあると言わざるを得ない。自分の経験した記憶を持っている人間は、その中から様々な感情を引き出す。つまり過去の経験から感情を表しているともいえる。どれほど優れたプログラミングをされたヒューマノイドであっても、感情が芽生えることが無いのはこれが原因だろう」
滔々と流れ出す隆の説明を聞きつつ、微かに視線を森へと向ける。日は傾いていて、もうすぐ日暮れがやってくる。
この景色をみて心が痛むのは、私があの日の記憶を持っているからなのだろうか。あのユウの背中の震えと汗が、私の記憶にすり込まれているから、こんなにも夕焼けが切ないのだろうか。
ため息をつきながら、テーブルに両肘を付く。
「……芝居でも同じかな?」
「さぁ。過去にヒューマノイドに台詞を言わせて、舞台を務めさせた事例はいくつもある」
「それは台詞を言わせるだけでしょ? 私も見た事あるけど、ヒューマノイドにヒューマノイドの役をやらせるなんて面白くないよ」
「じゃあどういう意味だ?」
「脚本を読んで覚えるのは、私もヒューマノイドも同じだと思う。でも役を解釈して、それを自分の中で表現していくのは、創造力だよ。役に入るって言ってるけどね」
「確かにそれは、ヒューマノイドには不可能なことだな」
腕を組んで眉を寄せつつ、淡々と隆は言葉を返してくる。黙っていると不安に押しつぶされそうで口を開く。
「もし試作品の中に役者がいたら、ヒューマノイドになった自分にすぐに気がつくかな?」
「役者じゃ無いから分からない。でも戸惑うだろうな。脚本は抜群に覚えられるだろうが、その役を解釈して、自分なりに演じることは難しいだろう。少なくともさっき明日美が言ったように、役に入る事は不可能だ。物語の全てが、どこか遠く感じるかもしれないな」
何故だろう。その言葉が怖かった。
最近本を読んでもよく内容を覚えているのに、私は感情移入が出来ないでいる。ユウは疲れているからだろうと言ってくれたが、そのユウは私たちの前から姿を消した。
しかも探偵は彼は人間だという。
しばし黙ったまま銘々の思考に沈んでいたが、ため息交じりの隆がエツコを呼んだ。いつものように人々を最も安心させる笑みを浮かべてやってきたエツコに、隆は淡々と命じる。
「正体不明の記憶回路を確認したいんだ。諸事情で研究所を使いたくないからお前に取り付けて起動させる。準備をしてくれ」
「了解しました、マスター」
温度を感じられないような声で、淡々と返事をしたエツコは、隆が持ってきた機械の前で動きを止めた。その身体がゆっくりとソファーに倒れてきてうつぶせになり、やがて動かなくなる。
「何をするの? エツコは大丈夫なの?」
「大丈夫だ。五十九型は手元に置いて実験するために、記憶回路を簡単に変えられるように組まれている。記憶回路をいったん取り外すが、すぐに元に戻すよ」
それならよかった。ヒューマノイドであっても、外見が限りなく人間に似通っているから、壊れたりしたら見ている方が辛い。
「それより、この中身だ」
そう言って隆が指し示したのは、テーブルの上に置かれていたアルミ製の小箱だった。慣れた手つきで箱を開けた隆の手元を覗き込むと、かたどられた緩衝材に埋まった、二つの記憶回路があった。
「宮前探偵から貰ったの、記憶回路だったんだ」
「そう。そしてユウから俺たちへの、メッセージである可能性が高い。彼がもし人間なら、どうしてこんな事をしたのか知りたいんだ」
説明をしながらも、隆の手は迷い無く作業を進めている。エツコの髪は人工皮膚ごと全て取り外され、後頭部から金属部分が露出している。
隆の手によって開かれた脳の中には、細かな部品と、コードがぎっしりと詰まっていて、無機質なのに何故か人間の血管を思い起こさせられた。
無造作に頭の中に手を入れた隆は、頭の内部から大きめの基板を引き出す。そこには箱の中にあるものと同じ記憶回路が塡まっていた。
いくつかの安全装置を取り外すと、それは簡単に隆の手に抜け落ちる。代わりに隆は取り出した記憶回路をはめ込み、エツコから数本のコードを引き出して、用途が分からなかった機械に繋いだ。
「これでいい。万が一を考えて、緊急停止も出来るようにしてある。無いとは思うが、ヒューマノイドを暴走させる記憶回路だったら、俺たち人間は素手で戦うことが出来ないだろう」
ヒューマノイドは、人間の手助けをするために生まれたため、人間をしのぐ運動能力と力を持っているのである。それで暴れられたら抗う術は無い。
黙ってうつぶせたエツコを見ていると、隆に起動されたエツコがゆっくりと身を起こす。
緊張に包まれながら待っていると、コードを幾本も刺されたままのエツコは、微かに眉をしかめて首を傾げた。その仕草に見覚えがある。
「これは何の冗談だ? 俺がいる」
エツコは、ゆっくりと腕を組む。私は息を呑む事しか出来ない。やはりそうだ、あの眉の寄せ方、首の傾げ方、あれは隆の癖だ。隣にいる隆に目を向けると、無言のままエツコを見つめている。
「ここは俺の家だな。どうして俺がいる? 何で明日美は、ここに戻って来た? もう俺はお前が戻ってこないと思っていたよ」
エツコの顔で、声で、語られる隆の感情に、背筋が凍るほどの恐怖を覚える。記憶回路に記憶を移植すれば、どんな人物にでもなれるなら、人間はいつか気に入らない身体を脱ぎ捨てるかもしれない。
言葉の出ない私と隆に変わり、エツコの中の隆が真剣な顔で私たちを見つめてきた。
「答えてくれないか、明日美」
問われてもどうしていいか分からず、私は助けを求めるように隆を見た。隆はゆっくりと息を吸うとエツコを見つめた。
「最後の記憶は、何だ?」
隆の問いかけに、エツコが少し考え込んでから口を開いた。
「ユウがデータを取るため、俺に麻酔を打ったところまでだ」
「……ユウが俺に麻酔を打った? 俺がユウにじゃないのか?」
眉をしかめながら問いかけた隆と同じように、眉をしかめてエツコが首を傾げる。
「当たり前だ。ユウのデータなんて、数年前から幾度も記録してる。俺のが無かったから、ユウに任せたんだ。近々学会で発表するために一番理解しやすい、自分のデータを取ったんだろ? お前が俺なら、そんなことを知ってるはずだ。俺の記憶は、その時にユウが取り出した分しかない」
隆が片手で自分の額を覆い、力を込めて掴んだ。微かに見える口元は、きつく閉じられていて、まるで叫び出しそうなのを堪えているようだ。
そんな隆を関心を向けること無く、エツコの中の隆は自らのことを気にかけ始める。それは明日美がここに戻る前の、あくまでもマイペースな隆の姿だった。
「今何月だ? 俺とユウの研究は、学会でセンセーショナルを引き起こしたか?」
「……消えろ……」
絞り出すように隆が呻いた。
「教えてくれ。あの学会と論文で世界を変えてやると、ユウと約束したんだ。結論を求めることは必然だろう?」
「頼むから……」
「結果だけでいい。世界は変えられたか?」
目の前で突きつけられる、過去の自分に隆は震える。
「消えてくれ!」
叫んだ隆の手が、ヒューマノイドに繋がっていた機械のスイッチを乱暴に叩いた。とたんに目の前のエツコが最後の表情のまま動きを止めた。隆が叩いたのは、緊急停止ボタンだった。
「隆?」
「……明日美。俺たちは大変な誤解をしていたんだ」
辛く苦しそうな、でも淡々とした感情を抑えた声のせいで、私は恐怖を感じる。
この記憶装置の中の隆は、あの日記憶のバックアップをされたのは隆の方だという。
でも私の中の事実は違っている。ユウは、学会用のサンプルにと記憶を精密に記録するための実験途中で、脳に流し込む電流の先が視床下部の一部に触れたことによって事故死したと聞いている。
その記憶を使って再生したのが、この家にいたユウなのだ。
「どっちが正しいの?」
声を潜めた問いかけに答えず、隆は淡々とコードを処理し、先ほどと同じようにうつぶせに倒したエツコから記憶回路を取り出した。それを元のようにアルミの小箱に戻す。
私には何も分からないけれど、隆は何かを察したようだ。そのまま無言で元の記憶回路を取り付けようとする隆の手を、私はきつく掴んでいた。
「待って。記憶回路は二つあったよね?」
詰問した私に、隆は記憶回路を手にしたまま凍り付いたように手を止める。
それだけで分かった。隆はきっともう一つの記憶回路が何であるかも察している。察しているからこの場でエツコに取り付けようとしないのだ。
「明日美は気にしなくていい」
ぶっきらぼうに言い切って、そのまま作業を続行しようと、うつろな瞳で私の手を払った隆へ身を乗り出した。
隆はきっと、自分の察した何らかの真実を持って、ユウと向かい合うつもりだ。私がいないところで、もう一つの記憶回路も見るつもりなのだろうが、そんなことは許せない。
私は隆とユウにとっての傍観者では無いはずだ。
「ユウのことなのに何故、隆が一人で片付けようとするの?」
「これは俺とユウの問題だ。研究上の問題は明日美には関係ない」
かたくなに拒絶する隆の両肩を強く掴む。表情を無くした隆が、唇を噛みしめた。でも私は引くことなんてしたくない。
私は一度二人から逃げ出した。だからもう逃げ出したくない。
逃げ出して遠くに行っても、心に刺さった重苦しい棘は常に痛みを訴え続けた。大本が解決しない限り、それが消えることなんて無いのだ。
「隆とユウと私の問題でしょう?」
「ヒューマノイドの記憶回路は、俺とユウが研究していたことだ。明日美は巻き込まれただけだろう?」
「でもユウはあのアルミの小箱を、なんて言って宮前探偵に渡したのか、忘れたわけじゃ無いでしょう? 質問に答えた私たちのものだって言ったはずだよ。だったら私にも権利はある!」
逸らすこと無く見つめる私に、隆はうなだれて手にしていたエツコの記憶回路を元の場所に置いた。全く引くつもりが無い私を説き伏せるのは、難しいと理解してくれたのだろう。
「真実を知ったら、絶対に傷つく。それでも知りたいのか? 知らない方が幸せな真実もあるんだ」
その重苦しさで、ユウが残していった小箱の記憶回路が正しいと隆が判断を下したと分かった。それはきっと、恐ろしいことを意味するに違いない。
それでも私は、この期に及んで知らない方がいい真実があるとは思えない。異常とも言える状態のまま、放置される方がよほど不幸だ。
「私を気遣ってくれてるのは分かるけど、隠しても私は悩むよ。隠すことで守られる物なんてない」
自分の膝の上で、きつく握られた隆の手を、励ますように優しく両手で覆った。顔を上げた隆の目は、不安で揺れている。だからゆっくりと優しく諭すように言い聞かせた。
「もう一つも起動して、隆。きっと真実はそこにあるよ」
ここで逃げるわけにはいかない。明かされる真実が、どれほど恐ろしいものであっても、私はあの夕日の中での闇を、もう一度繰り返したくは無い。
答えを出さなかったのが罪ならば、その罪を濯ぐために二人を愛そうと決めた。どちらかを選ぶのでは無く、どちらも愛するならば、真実を受け止めるほかは無い。
「分かった」
暗く呻くように呟いた隆は、私の手をそっと膝から放すとアルミの箱を開けた。無機質なアルミの箱なのに、そこには私と隆の不幸が封じられていた。パンドラの箱だったならば最後に希望が出てくるかもしれないが、今の状況ではそれは期待できそうに無い。
もう一つの記憶回路を取り出し、隆の少し骨張った長い指で淡々と進められる作業に、不安がじわじわと恐怖になって広がっていく。
それでも私は逃げたくない。両腕で自分の身体を抱き、震えだしそうな恐怖を堪える。そういえば前に、ユウが私にこう言っていた。
『アスは馬鹿だなぁ。思っていることを心の奥底に隠す気はないの? 向かっていくだけじゃ、いつか手痛く跳ね返される時もあるよ』と。
違うよユウ。私はずるいの。
馬鹿みたいに笑ってたかった。隆とユウと三人で過ごす事の結末が、あまり明るく無い事に、きっと心のどこかで気がついていたから。
だからあなたに全てをさらけ出して、それで笑うんだよ。
私を忘れないでいて貰いたくて。
私を知ることで、私をずっと思っていて欲しくて、それで私は全てをさらす。
森の中で出会った時、立場も名前も無く、ただ共に時間と空間を共有できたユウに、あの時の穏やかな時間を忘れて欲しくないから。
今の状態も、もしかしたらそうかもしれない。私は開けなくてもいいパンドラの箱を、自ら開いたのかもしれない。馬鹿なことをしてるのかもしれない。それでも私は、知らずに怯えるよりも知って恐怖し、その上で戦えるのなら恐怖と戦いたいのだ。
だって私は弱いから。
全てを無くしても真っ直ぐに前を向いて立つ強い人間にはなれないから。
失いたくない大切な人たちを得てしまったら、失いたくないから。
私は小さく俯いて、テーブルの上に載っている、冷めてしまったお茶を見ていた。そこには小さく、波紋が浮かんでは消えている。
『やっぱアスは馬鹿だね』
そう言ってくれるはずのユウがいない。ユウは私たちに恐怖と謎を残して消えてしまった。
「明日美、起動するよ」
顔を上げると、すでにエツコは先ほどのようにコードで繋がれていた。小さく頷くと、先ほどと同じプロセスで隆は記憶回路を起動する。
エツコは目を開けて、不思議そうに当たりを見渡し独り言のように呟いた。
「ここ、どこ?」
「……俺の家だ」
隆の答えに、エツコは驚いて目を瞠る。
「隆! 生きてたの!?」
「え……?」
「良かった。知らない人から死んだって聞いて、どうしようかって思ったんだから。ユウも連絡つかないし。あれ? そういえば私も死んだはずなのに何でまだ生きてるんだろう?」
一息に話したエツコは、ようやく私に気がつくと息を呑んだ。
「……私がいる……」
エツコが私の頬に触れる。その手はヒューマノイドなのに温かい。人間とどこも違いは無い気がする。エツコとは違ってこうして表情が変わるだけで人間らしい。
「うん。いるよ」
思ったよりも冷静な声が出た。案の定エツコは私がいつもするように軽く唇を尖らせた。ああ、やはりこれは私なのだ。
「どうして……?」
疑問は当たり前のように、私では無く隆に向けられる。隆もそれに当然のごとく問いかけた。
「アスミ。実は君は行方が知れないんだ。君の行方を知るために、俺が死んだと聞いた日からの、君のことを話して欲しい」
静かな問いかけに、エツコの姿をした私、アスミが頷く。
「色々あったの」
もう一人の私が話したのは、私の知る記憶とは全く違っていた。
都心にほど近い場所で過ごしていたアスミは、仕事も無くアルバイトで生活している状態だった。それは私の記憶も同じだ。
だが突然アスミの元に、見知らぬ人物から匿名の電話があったのだという。
「福嶋隆は死んだ。嘘だと思うなら探してみろ」
アスミは驚いたが、それを信じなかった。でも福嶋家には連絡が通じず、隆の携帯に連絡を入れても返事が無い。会社、自宅、端末の全てにメールを別に出してみても、返事が返ってくることは無かったのだという。
業を煮やしたアスミは、ユウと連絡を取ろうとした。でもユウはなかなか捕まらない。時々電話が繋がることもあったが、大抵手が離せないと切られたそうだ。だからアスミは不安になった。
まさか自分のせいで二人の関係があのまま悪化して、ユウが隆を手に掛けたのでは無いかと思ったのである。
そこでアスミは、探偵を雇ってユウを探させた。半月が立った頃、ユウの居場所が見つかった。そこに乗り込んだのは、あくまでもユウに隆のことを聞こうとしたからだった。
でもユウに詰め寄った時、ユウの助手の女性に、後ろから包丁で身体を貫かれたのだという。
「すっごく痛かったんだから。それに猛烈に熱かった。ああ、死ぬんだなって思いながら床に倒れて、その床が妙に冷たくて……。そこで私の記憶はおしまい。次に気がついたのは今よ」
私と隆は言葉を発することすら出来ない。彼女の言葉をじっと考えていた私は、私とアスミの記憶の分かれ道に気がついた。
「私、匿名の電話なんて受けてない。アルバイト生活していた時にかかってきたのは、隆からの電話だったはずなの」
「……電話を掛けた記憶は俺にもある。アスミ、それは何月頃のことだか分かるか?」
「もちろん。六月の終わりぐらいだったよ」
そうなれば隆の失踪は昨年の六月。今からもう十ヶ月も前のことになる。
でも私が隆から電話を受けて福嶋家にやってきたと記憶しているのは、翌年の二月のことで、たった二ヶ月ほど前のことだ。八ヶ月ものタイムラグがある。
「そんなに前なら、準備期間は有り余るほどあるな」
呟く隆の視線の先にあるのは、あの大量の『試作品』たちのリストだった。
隆が六月に死んでいたとしたら、それから隆と同等の実力を持ったユウが、試作品たちを人体実験に使い続けていたこととなる。
「俺の記憶をいじり、明日美の記憶をいじり、その合間に実験か」
「何のために?」
私とアスミの声が重なった。お互いに無言で見つめ合う。やはりここにいるのは私だ。同じ疑問を感じ、同じように行動している。
「俺と明日美が人間では無くヒューマノイドだったら……?」
「え……?」
「記憶が操作されてるんだ。俺の結論からすれば、俺たちの方がヒューマノイドなんだ」
何となく察していたけれど、正面に突きつけられた事実に私は愕然とする。
「……じゃあもう、芝居はできないの?」
「台本を覚えることは……」
「聞いた! 台本はよく覚えられるんでしょ? でも役にはもう入れないって、隆そう言ってたよね?」
縋るように隆を見たが、隆は視線を逸らした。再びその拳がきつく握られる。
「ねえ、隆!」
「すまない、明日美」
その一言が答えだった。ヒューマノイドの私は、過去のことをきっと詳細に覚えているのだろう。新しくインプットしたことも忘れないだろう。
でも新しく役を創造し作り上げていくことも、役に入って演技することも出来ないのだ。
じわりじわりと水が染みこむように、徐々に心が軋んでいくような感覚が私を襲う。心の底まで染みこむ冷たい水は、絶望という名前をしている。
「本当にすまない、明日美」
隆は私とアスミに向かって、俯いたまま声を絞り出した。
「全て俺のせいだ。俺がユウを、明日美を苦しめるようなことを言い出したから。あの夕焼けの中で俺が間違えた選択をしたからっ!」
固く握りしめられた隆の拳が、テーブルを強く打ち付ける。
「黙っていれば、ユウと明日美は幸せになれたんだ。きっと俺はずっと、黙って二人を見守るべきだったんだ。ちっぽけな俺の想いなんて無ければ良かった。なのに俺は二人が大切で、だから二人に幸せになって欲しくて焦って、結局全てを壊した。俺がユウを狂わせて明日美を死なせたんだ!」
あの夕日の中で罪悪感を抱えたのは、私だけではなかった。言葉に出せない罪悪感で怯えていたのは、隆も同じだった。
「ユウもきっと分かってたんだ。俺はともかく、ヒューマノイドになったら明日美が絶望することを。だからヒューマノイドの自殺を回避する実験をしてたんだ。明日美を生かすために」
ああ、ユウもだ。
ユウもあの夕日に囚われている。
私たち三人は互いを思ったがために、あの時、あの夕日に未来を、希望を絡め取られてしまっている。
芝居が出来ない、もう二度と舞台に戻れない。私は真っ先にそれを嘆いた。
でも私は何故ここに来たのか、ちゃんと覚えている。私は生活に疲れたのだ。先が見えない未来に怯えて自分の夢を投げ出してきたのだ。
なのに投げ出した夢の事で、隆を責められる? もしヒューマノイドにならなくとも、夢を諦め掛けていたのに。
「……もういいよ」
「よくなんてない。詫びられるものじゃないが、俺には責任がある」
「あの日の事に隆の責任があるのなら、私も責任があるよ。私がどちらかを選んでいれば、きっと未来が変わった」
私はアスミを見つめた。アスミも私を見ていた。私は私。二人とも同じ後悔を抱えている。アスミに頷くと、アスミも全く同じタイミングで頷き返してくれた。
「選べなくて当たり前だよ。私はどちらも愛してる。私の曖昧さを責める権利があるのは、ユウと隆だと思う。やり直してもきっと私は、同じように迷う。どちらを取ることも出来ないから隆はもう自分を責めなくてもいい。私も私を責めるのをやめるね。だから考えようよ。私たちが救われるすべはあるのかを」
今にも泣き出しそうな顔で私を見上げた隆は、両手で顔を覆った。
「すまない明日美」
「もういいよ。だから今の段階で分かっていることを話して」
しばらく黙ったままいた隆だったが、やがて意を決したように口を開いた。
「ユウは人間だ。ヒューマノイドじゃない。ユウの記憶は助手を務めて貰っていた間に何度も取っているから、わざわざ論文のためにユウの記憶を取り直すのは不自然だ」
そういうと隆は微かに微笑んだ。
「そういう自覚はある?」
私はほとんど自覚が無い。でも隆は力なく笑った。
「あるよ。ユウが死んでからの記憶が妙に曖昧なんだ。俺は学会をどうしたんだ? 欠席の届けを出したのか? 出していなければ何らかの連絡が来てしかるべきなのに、今までそのことに気を配ってもいなかった。それどころかあの事故からずっと毎日研究所に通い、同じ事を繰り返していると思い込んでいた。おそらく俺が起動されたのは、最近のことなのに」
それは私も感じていたことだ。毎日私はユウを見ていた。でも毎日同じで、いつのことかはっきりしない。日付が曖昧なのは、毎日が単調なことの繰り返しだからだろう。
「他には?」
「強制回路だ」
「強制回路?」
しばらくして隆はアスミを見た。アスミは私と同じように首を傾げる。そんなアスミに向かって、隆はきっぱりと命じた。
「記憶回路を取り外す。眠ってくれ」
目を瞠る私の目の前で、私であるはずのアスミは素直に目を閉じて、エツコと同じようにうつぶせになる。
自分の記憶を持っているはずなのに、何故こんなに素直に従うのだろう。記憶回路を取り外されることは、自分が消えることを意味するのに。
「何故?」
「五十九型に元から組み込まれている、人の指令を優先して受け付ける回路のせいだ。記憶を持っていたとしても、その回路の強制力には逆らえない」
私はうつぶせになったままのエツコを見つめた。隆は再び記憶回路を抜き取り、元のエツコの記憶回路を差し込んだ。とたんに目の前のヒューマノイドはエツコに戻った。
「ご用はお済みですか、マスター」
「ああ。コーヒーを二人分頼むよ」
「はい」
出て行ったエツコを見守った私は、隆に向かい合った。
「強制回路がどうしたの?」
「おそらく俺に強制回路が埋め込まれたままになっている。取り外せるはずなのに、ユウはわざとそれを俺に残したんだろう。そうしないと、万が一の場合に俺を停止させられないからだ。だから俺はユウに命じられた命令を、受け止めずにはいられない。ユウに幾度か命じられて答えたことがある。今までではあり得なかったことだ」
隆は苦笑してから顔を覆った。
「それに俺は自分の倫理観よりも、ユウの命令に従った記憶がある。よく考えてみればおかしいよな。俺にとって俺の中のルールは絶対だ。なのにユウの『明日美を抱いたから俺を抱け』なんて変な話に抵抗できなかった。お前がユウを選んだという嫉妬と、力が抜けるような痛みに襲われて断ったはずなのに、あいつは静かに俺に命じたんだ。これは命令だって」
やはりあの日、まどろんだような感覚の中で見たのは、夢では無かった。
ヒューマノイドは夢を見ない。
だから目の前で起こったことは皆本当なのだ。
「俺は不思議なくらいにあっさり、自分の倫理観に逆らった。だが罪悪感も嫌悪感も感じていない。強制回路が働いている間は記憶回路が制限されるようだ。だからあいつが命じたから、当たり前に……」
ヒューマノイドの身体でユウを犯した。
大切な親友を、命じられるままに。
ユウは自らの親友の形をしたヒューマノイドに犯されることで、親友を裏切り私を抱いた罪を濯ごうとしたのだろうか。そんな空しく苦痛を伴う行為を受け入れることで自分を罰しようとでも言うのだろうか。
そんな殉教者的な自分勝手さなんて、私はいらない。隆だってそんな物はいらないに決まっている。
隆の苦痛に、ただ私は押し黙る。
私も同じようにユウに『全てを暗誦しろ』といわれて答えた記憶がある。ユウは逆らうことなど出来ない強制力を持っていた。ユウが人間で、私と隆がヒューマノイドならば、私たちの不可解な行動は全て説明が付く。
もともとヒューマノイドは人間に逆らうことなんて出来ない。人類がロボットという存在を受け入れたその時から、無条件に人間の命令を受け入れるようにと、運命付けられてきた。
「明日美。ユウは何を考えていたんだろう。俺の倫理観を壊して笑うような奴じゃ無い。でもあいつが好きなのは明日美で、俺に身体を委ねる必要なんて無かったはずだ。あいつは俺を憎んで、恨んでいるのか? それとも……愛してくれてたのか?」
「隆……」
「大切だったのに。唯一、俺を理解してくれようとした友達だったのに何故? もうヒューマノイドの俺には何も……っ!」
隆の苦悩の前に、私は目を閉じた。
私は強制されてユウに抱かれたわけじゃない。ただ私とあの時のユウには必要だったからそうなったのだ。だから隆のように苦しんだりはしない。
そこに自分の意思が介在していたならば、それは私の中で真実だ。きっとヒューマノイドであっても人間であっても、真実はある。
そして人間であるユウは、自分を罰せるためだけにそんな行為に出たのだろうか。
いや違う。それだけではないはずだ。それだけならばヒューマノイドである隆に、私との関係を持った直後にそんな要求をしないはずだ。
やはり彼の中の必然を持って、隆に自分を抱けと命じたのだろう。
そういえば彼は、私を抱く前に『もっと早く気がつけば良かった』と呟いていた。彼は何に気がついたのだろう。
ユウは育児放棄され捨てられた子供だった。そのトラウマに未だ支配され続け、小さく怯える子供を抱えたまま大人になってしまったのだ。自分が相手と同じ目線で世界を見られないことを、彼は極端に恐れた。大切な人たちに、大切だからこそ捨てないでくれと願った。
きっとユウは私だけでは無く、隆にも縋りつきたかったのだ。隆にも愛されたかったのだ。一緒の世界を見せてくれ、捨てないでくれと。それが彼を極端な行動に走らせたのかもしれない。
そうだとしたら、あまりにも悲しい。ユウはそんなことをする必要なんてなかった。ただ私と隆に手を差し出せば良かったのだ。
愛している、愛して欲しいと。
私と隆はきっと倫理観よりも何よりも、彼を選んだだろうに。三人で愛し合う道を選んだだろうに。
勝った負けたなんて、私はどうでもいい。そんな誇り、捨ててしまえばいいのだ。
この二人への想いと比べたら、そんなもの私には無価値だ。強制回路なんて無くても、私たちは彼を決して拒んだりしない。
さあ、私たちがどうすべきか決めなければ。
ユウを私たちを騙したとして恨んで見捨てるか、それともその苦痛を受け入れるために追うのかを。
「隆」
言葉を発せず、顔を覆ったままいる隆に呼びかけても返事が無い。私は再び隆の肩を掴んだ。
「隆」
「俺はどうしたら……」
苦痛に身体を震わせる隆を抱きしめた。
「このままだと、もうユウに二度と会えないよ」
隆が身体を震わせた。
「ユウが憎くてもう二度と会いたくないならそれでいい。でもちゃんともう一度向き合いたいなら、今探さないと駄目だよ。ユウはきっと私たちの前から永遠に消えてしまう」
「……嫌だ……」
絞り出すような声に、更に強く抱きしめる。
「記憶回路は、ユウが残した最後のメッセージだと思うの。でも私は最後にはさせない。これを元に私はユウを追う」
夕日の中でしがみついたユウの背中の震えを思い出す。
孤独への恐怖に震えて私を抱いた、姿を消す直前の夕暮れを思い出す。
そして出会った時の無防備な笑顔のユウを思い出す。
「明日美……」
「私がヒューマノイドってことは、ここにある記憶回路と私の記憶を統合することは可能?」
腕の中から隆を放して、笑顔で尋ねると、隆は怯えたように目をさ迷わせたが、やがて覚悟をしたように頷いた。
「研究所にある機材なら可能だ」
「じゃあ、強制回路を停止することは?」
「それも可能だ」
ならば執るべき手段はただ一つ。
「私の二つの記憶回路を統合して。そうすれば全てが分かる」
「それをしたら、明日美は自分の死の記憶を抱えることになる」
そう、私は死んだことを忘れられなくなる。死の苦痛も覚えていることになる。私はいつか自殺をすることになるのだろうか。
でも今は、ユウを追えるなら構わなかった。
「もう一人の私は、どこにユウが潜んでいたかを知ってる。証拠はあの中にある。私が全てを知って、ユウを探す」
私はユウを失えない。
身体を無くし、人では無くなっても、私はユウが欲しい。彼が隣にいることを望んでいる。
「俺も明日美と同じだ。あいつを失えない」
力なく笑った隆の表情は、まるで泣いているようだった。
「隆」
優しく名前を呼ぶと、力強く抱きしめられた。堪えきれず倒れ込むと、そのままソファーに押しつけられた。
「でも今晩だけは……傍にいてくれ、明日美」
「……うん」
「明日美」
「ん?」
「愛してる。ユウと同じぐらい」
「私も同じだよ。隆もユウも愛してる」
明日美は目を閉じた。
これが私たちの結論。
隆の身体の重みが、暖かさが、私を力づけてくれる。ヒューマノイドであったとしても、私たちは人だ。人間だ。きっと心から互いに慈しみ合い、愛し合える。
私はそう信じたい。お互いに大切な人に再び会うために。
そして全ての事態を打開するために。
どうか神様、もしいるのならば、人ならざる者である私たちにも、その慈悲の御心をお与えください。
立ち上がるだけの力を、私たちにください。
私たちは……諦めたりしない。
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