Scene6

 夜の帳が降りる直前、一面の緋色に染まった景色を見ながら、ぼんやりと時間を過ごす。

 ガラスに額を付けると、微かに森のざわめく声がした。風が強いみたいだ。外の美しい光景が本物で、まるで自分が熱帯魚のように水槽の中にいるようで、何となく不安になる。

 時の流れが穏やかすぎるからか、未来への希望を未だ見いだせないためか分からないが、過去のことばかり思い出してしまう。

 こんな世界が鮮血を浴びたように赤く染まる夕暮れには、あの日のことを思い出す。私が初めて胸が潰れるほど痛い思いでユウを見つめたあの日のことを。

 三人でいるだけで、何もかもが満ち足りていたように感じていた私たちの危うい安定は、ある日突然崩れた。もしかしたら、満ち足りたような気でいたのは、私だけだったのかもしれない。

 あの日、叔母が帰ってくる前に帰ろうと立ち上がった私は、隆に呼び止められた。いつも通りに終わるはずだった森の中の時間は、その時、滅多にないぐらい綺麗な夕焼けの赤に覆われていた。

「明日美、ユウと付き合う気はないか?」

 あまりのことに、立ち上がり掛けたまま私は動けなくなった。私と同じように目を見開いたまま動けなくなったのは、ユウだった。

「……何言い出したんだ、隆」

 ようやく絞り出したユウの声は、笑いに誤魔化してはいたが、微かに震えていた。赤く染まる景色の中で見たユウは、頬を微かに上げてはいたが、唇を噛みしめ拳を握っていた。

「何ってユウは明日美が好きだろう。いつも明日美の横顔を見ているじゃないか」

 ユウの思わぬ態度に、何も分からぬ隆は眉をしかめた。彼は人の顔色を察することを苦手としているのだ。

 私はそんな二人を見つめていることしか出来ない。初めて二人の本当の確執を目にした私は、戸惑い、微かな恐怖を覚える。

 二人の中にある確執は、分かっていた。でもそれを外に出す事をしない二人だから、私も敢えて忘れようとしていた。

 それは私のエゴだったのかもしれない。本当は何も解決などしていなかったのだから。

「そんなの、隆も同じだろ?」

 俯いたまま低く呻いたユウから視線を逸らして、隆は微かに微笑みを浮かべる。

「俺だって明日美を大切に思ってる。でも俺は駄目だ。俺のように空っぽの人間じゃ、明日美を幸せに出来ない。ユウなら明日美を幸せに出来ると思って……」

 ユウが訥々と話す隆の襟首に掴みかかった。腹立たしげに隆を睨み付けるその目には、苛立ち以上に憎しみが宿っている気がして私は息をのむ。視線を逸らすことすら出来ない。

「どういうつもりだ。好きな女を譲ってやるから、ありがたく受け取れって?」

「そんな意味は無い。二人とも大切だと思っているから、幸せになって貰おうと……」

「勝手に決めつけて、俺の気持ちを代弁したってわけか。自分だってアスを見て、いつも嬉しそうにしているくせに」

「俺は従兄妹だ……」

「それがどうしたんだよ。従兄妹なら法的に何の問題も無いだろ。それとも何か、それを言い訳にして、自分が振られないように俺を当て馬にしてるのかよ」

「違う!」

 二人の言い合いに、私はようやく我に返る。あまりに想像していなかった方向に進んだ話に、私は戸惑う。

 確かに私は隆もユウも好きだ。でもこの気持ちを恋愛感情に置き換えたことなど無かった。

「待ってよ。二人とも冗談で言ってるんじゃないよね?」

 ユウの肩と隆の肩に手をかけて二人の間に入ると、ユウは私から顔を逸らし、隆は俯いた。

「ねえ、私に問いかけて置いて、私の問いかけに黙るなんて卑怯じゃない? 隆、私を見てちゃんと言って」

 掴んだ肩を強く揺らして告げると、隆がおずおずと顔を上げた。

「俺は、三人でいる時間が大切なんだ。静かで言葉がいらないぐらいに穏やかで暖かくて、何も求められないし、何かを求める必要も無い。この時間をずっと持っていられたら、俺は何もいらない」

 私も同じだ。三人で過ごす時間に満足していた。だから何も考えずに、ただいたずらに時を過ごしてしまったのだ。

「でもいつか明日美はここから帰る。俺たちの前から去って行くんだ。でもここにいて欲しい。俺はつまらない不完全な人間だから、俺の大切な友達と一緒にいてくれたらって思ったんだ」

 感情を高ぶらせることもなく、それでも深い決意を持った言葉に、私の胸が詰まる。自分の気持ちを横に置いてでも、彼はこの穏やかな時間を守りたいのだ。

 私は、確かにユウに好意を持っている。森の中で出会ったユウに、私はとても近いものを感じていたし、心が共感し合っていた。共に過ごす時間は、安定していて静かな凪のようで穏やかだった。一緒にいることでとても落ち着いたし、幸せを感じることが出来た。

 でも私は、ユウの隆への執着を知っている。例え何があっても、ユウの中の強い感情が隆に向くことに気がついている。

 私だけでユウを幸せにすることは出来ない。ユウはずっと隆の背中を追う。それが私の中で隆への嫉妬になっていくことは、想像が付いた。

 しおれた隆を見ていると、胸が疼いた。その痛みが何であるか、私は不意に気がつく。私はこの不完全で不器用な従兄妹のそばにいたいと思っている。なのにそれは恋愛感情ではない。

 彼を愛することは、きっと私を求め、この場に縛り付けて欲しいという、孤独を埋める満足感を得るための欲望だ。彼の愛情を鎖としてそれに縛られ、彼の感情に絡め取られることで、現実という夢から逃げたいのかもしれない。

 そう、私も卑怯だ。それでも私の微妙な感情は、隣にいたユウに漏れ出してしまった。ユウは力なく隆から手を離した。

「ほら隆。アスも隆が好きなんだ」

 きつく握られたユウの拳が、身動きが出来ない私の視界に入った。ユウは感情を抑えつけて口を閉ざす。

「ユウ……」

 一瞬隆に向いた心は、激しくユウへと揺さぶられる。私はユウのことも欲しくて仕方が無い。柔らかな陰のある笑みを抱きしめられたらと、この指を伸ばしたい。

 どうしたらいい?

 私はどちらかを失いたくはない。このままの何も答えが出なくとも幸福な時間を、水面を滑る葉のように漂っていたかった。

 今の私は恋愛という情熱を貫き、傷つくことを許容するには、もう疲れていた。夢に挫折しかかり、二十台も半ばを過ぎた私には、あまりに荷がかちすぎる。

 重苦しい沈黙の上に、夕日の赤が重さを伴って降ってくる。ねぐらに帰ってきた鳥の声も、もの悲しい。

「……明日美。俺とユウ、どちらか選べないか」

 俯いたままの隆の声が、黄昏時の亡霊のようにうつろに響く。

「隆!」

 苦痛の叫びを上げたユウを、隆は思い詰めた目で見つめる。

「私……私は……」

「俺は三人でいたいんだ。幸せになりたい。この時間を失いたくない。だからユウを選んでほしいけど、お前の気持ちを聞かないとユウが納得してくれない」

「やめろ……」

 低くユウが呻く。

「明日美、頼むから選んでくれ」

 初めて見る懇願するようなその視線に、私は後ずさった。隆の中にある深い孤独の闇を垣間見てしまったような、暗澹とした気持ちがこみ上げてくる。

「いや……」

「頼む、明日美」

 隆の力強い手が、私の二の腕に食い込んだ。

「痛いよ、隆……っ!」

 自らを閉じ込めてきた孤独を知らずにいた男が、友を得て平穏を知った。その平穏に隆は縋り付いてしまっている。

 二度と孤独の闇に堕ちたくなくて、自らを心を殺しても友を引き留めようとしている。その狂気に駆られたような必死さに、私は竦む。

 深い苦悩を讃えた隆の瞳が、不意に割って入った陰に遮られ、次の瞬間には、私は解放されていた。下草の中に転がった隆と、力が入らず座り込んだ私の間に、拳を握りしめたユウが立っていた。

「やめろ隆! 俺をこれ以上惨めにするなよ! アスに選択権を与えるようなことを言いながら、お前は俺をアスに押しつけようとしてるだけじゃないか」

 ユウの背中が、震えている。きっと苦痛と屈辱に必死で堪えているのだろう。彼はとても自尊心の強い男だ。それに森で共に過ごしたあの、危うい繊細さを知っている私は、それが彼にとってどれほどの痛みなのか理解できた。

 黙ったままの隆に跨がり、ユウは隆の胸ぐらを掴んで殴りつけた。

「これでアスが隆を選んだんなら、俺は引き下がるさ。でもお前の望みだからってアスが俺を選んだら俺はどうしたらいいんだよ。同情でもありがとうって言えばいいのか!?」

 再びユウが隆を殴りつけるも、隆は抵抗もせず一言も発しない。私は堪えきれずにユウの背中にしがみついた。

「私は選ばない! どちらも選ばない!」

「アス……」

 振り返らずに、震える声でユウが私を呼ぶ。私はその背を力の限りに抱きしめた。ユウの汗がうっすらと香り、その荒い呼吸が布を通して伝わってくる。

「この時間が幸せだった。出会ってまだ数ヶ月だけど、考えられないぐらい穏やかで優しい時間で、私はそれが大切だったの。なのに何故私が三人の関係を壊さないとけないの?」

 いつの間にか零れた涙が、ユウの背中を濡らしていた。

 赤い赤い、血の色にも似た夕焼けが、どうしようもないジレンマに迷い込んでしまった私たち三人の上に降る。

 三人ともその場で身動きをとれずに立ち尽くしているしかない。そんな時、救いの神となったのは、私の携帯の呼び出し音だった。

 この場から逃げ去りたくて、私は通話ボタンを押した。

「もしもし?」

 通話口から聞こえた来たのは、出かけていたはずの叔母の切羽詰まった叫び声だった。

「明日美っ! 早く病院まで来なさい!」

「叔母さん?」

「急いで! あの子、死んでしまうわ!」

 弾かれたようにユウから離れ、私は家に駆け戻っていた。

 手荷物を手早くまとめると、私は真っ赤な森に落ちた赤黒い陰の中に大切な二人の男を残して母の元へと駆けつけていた。

 その翌日、見守った私と叔母の目の前で母は亡くなり、私は逃げるように福嶋家を去り、東京の雑踏に戻った。

 あの数ヶ月間が、夢だったように、私のもがき苦しむ夢への生活は続いたのだ。

 その後、母の後を追うように亡くなった叔母の葬式で、一度だけ隆とユウに会った。私はお悔やみを述べただけで、二人の元から逃げ出した。

 そうすることで、あの奇跡のような穏やかな時間を過去のものとしないで済むような、そんな気がしていたのだ。

 それから三年後、私は隆からの電話でユウの死を知った。実験中の事故だ、という話の後で隆は私に言ったのだ。

『ユウの死亡届は出さない。ヒューマノイドにユウの記憶を移植して一緒に暮らすつもりだ。まだ完全な技術ではないから、ここに戻ってユウを見てくれないか?』

 意味が分からず困惑する私に、隆は感情が欠け落ちたかのように淡々と告げた。

『ヒューマノイドのユウと、俺と一緒に暮らして欲しい。どちらも選ばなくてもいいし、どちらを夫にしなくてもいい。だから俺たち二人と結婚して、今後の人生を俺たちに分けてくれないか。明日美』

 そして私は、ここにいる。

 あの日、夕闇の中に置き去りにした二人への償いの意味を込めて、この場に来ることを決めたのだ。

 私は形式上福嶋隆の妻であり、認識上二人の男の妻である。

 どちらも選べなかった私の罪は、こうして購えるのだろうか。

 あの日、汗に微かにしめったユウの背中にしがみついた私の涙と、ユウの震えと荒い息を私は忘れることなど出来ない。

 ガラスに手をついたまま、ユウの自室へと続く階段に目をやった。部屋に閉じこもったユウの気配は感じられない。

 視線を再び目の前の大きな窓に戻すと、そこから見える森が、空の緋色とは正反対に闇色をしていた。

 柔らかく暖かな夕日と森の思い出は、優しい闇の色をしている。暖かいままの姿で夕景が私の中にあったならば、私と隆とユウは、幸せになれたのだろうか。

 幼い頃から親しんだこの森は美しい。肺を満たす緑の香り、名も知らぬ鳥たちのさえずり、しめった下草の柔らかさ、木々の間からこぼれ落ちる木漏れ日。

 全てが私の心を潤し、優しく包んでくれる、心穏やかな空間だった。ユウのことでこの家へ来た後も、私は一人で、もしくはユウと朝の森、昼の森を散策する。

 でも夕方の森には入れない。私はユウと共に夕方の森に入ったりしない。あの日、三人が崩壊した悲しみをまた味わってしまいそうで、怖いのだ。

 ユウはユウであっても、あの時のユウではない。作り物のヒューマノイドのユウだ。それでも彼の記憶を持つ限り、彼はあの日の痛みを持っているのだろう。

 隆が前に言っていたが、ヒューマノイドは、記憶を外部から操作しない限り忘却することは出来ない。痛みを忘れることが出来ないのだ。

 昔から、時間が解決してくれるという言葉をよく聞く。だがヒューマノイドはそれが出来ない。覚えた記憶は全て忘れずに、詳細まで記憶してしまう。

 そうでなくては困ると、研究者である隆はいうが、私はそれを悲しいことだと思う。時間を掛けても薄められることがない悲しみの記憶は、どれほど重荷になるのだろう。

 あまりに静かなユウが気になり、私はそっと窓辺から離れた。部屋の中も赤く染まっていて、部屋全体がほの暗い。

 夕焼けに背を押されるように階段を上った私は、ユウの部屋の扉をそっと叩いた。しばらく待ったが何の反応もないから、扉を押して覗き込む。

「ユウ?」

 カーテンを閉め切った部屋の片隅にあるベットに、ユウはTシャツにジーンズといういつもの姿で、うつぶせで寝転がっていた。どこかの調子が悪いのだろうか。

「ユウ、入るよ」

 敢えて明るく呼びかけてユウの部屋に入った。部屋の中は殺風景で、デスクに載せられた愛用のタブレットと、何かを書き殴った紙があるだけだ。

 そっと床にかがみ込んでその紙を拾って目を通す。そこに書かれていたのは、私の知らない無数の数式だった。そのどれもが途中でぐしゃぐしゃに丸められていて答えが空欄だ。

 計算が出来なくなったから気楽だと口にしていたが、やはり隆と共に研究できなくなった自分に、痛みを感じているのかもしれない。

「ユウ」

 心配になってベッドサイドに膝を付くと、うつぶせたままのユウの肩を小さく揺らした。眠っているのかと思ったが、ユウは基本的に眠る必要が無い。

「寝てるの?」

 密やかな小声で耳元に問いかけると、ユウの目が開いた。グレイの光彩が硬質な雰囲気を醸し出している。幾度か瞬いた作り物めいた瞳が、私の上で焦点を結ぶ。

「アス?」

「うん。どうしたの? 具合でも悪い?」

「いや、別に。眠くなったから寝てみた」

 冗談めかして笑いながら起き上がるユウを、私はじっと見つめた。

「ヒューマノイドなのに?」

 問いかけられたとたん、ユウが微かに身体を強ばらせたのが分かった。でも次の瞬間には笑みを返してくれる。

「気分だよ。食事を取るのと同じ」

「そう? 体調が悪いとか、不調だとか、そういうことはない?」

 なおも心配して言いつのる私の頭に、ユウの手が乗せられた。その手は生前と同じく柔らかくて温かい。人型のヒューマノイドってこんなにも人間なのだと言うことに驚く。

「ないよ。アスこそどう? 最近ずっと家に籠もりきりじゃない?」

「私は大丈夫だよ。本もあるしテレビもあるし」

「ふうん」

 気のない返事をしながら、ユウが欠伸をして頭を掻く。

 本当に人間らしい。もしユウが人間に混じって生活していても、絶対に彼がヒューマノイドだなんて誰も気がつかないだろう。

 やはり隆は天才なのだ。私のような凡人とは違う。

「で、何か面白い本あった?」

「最近本の内容があまり頭に入ってこないんだよね。字面はちゃんと理解してるんだけど、こう、共感できないって言うか……」

「共感かぁ……」

 小さく息をつくと、ユウは両手で顔を強くこすり上げた。しばらくその動作を繰り返している。意味の分からない行動に戸惑って、私は少し不安になる。

「何かおかしいかな、私?」

「別に。やっぱ家に籠もりすぎかな。俺と二人きりじゃ、刺激も無いし、そんなに情報も入ってこないし、脳が逆に疲弊するのかもね」

 そうなのだろうか。困惑しながら首をひねると、ユウは苦笑した。

「隆も悪いよね。結婚してるんだから、ちゃんと戻ってこいっての。大切な新妻を、狙っている男と二人きりにしすぎだ」

「え……?」

 思わぬ言葉に聞き返す。

「何でそんな驚くんだよ? 当たり前のことを言ったのに」

「だって私、隆との結婚は形式上だって思ってるから」

「形式上?」

 本気で眉をしかめるユウに、私はますます困惑する。ユウと私ではどうやら認識が違うようだ。

 隆はユウに私がこの家に来ることをどう話しているのだろう。

 何も言えずにユウを見つめるばかりの私に気がついたのか、ユウは微かに微笑みを浮かべた。

「ええっと、隆はアスをここに呼んだ時、なんて言ったの?」

「全て復唱した方がいい?」

 何故だが私はそう問いかけていた。全て覚えている自信なんて全くないのに。なのにあっさりとユウは私に命じる。

「復唱してくれ」

「『ユウの死亡届は出さない。ヒューマノイドにユウの記憶を移植して一緒に暮らすつもりだ。まだ完全な技術ではないから、ここに戻ってユウを見てくれないか? ヒューマノイドのユウと、俺と一緒に暮らして欲しい。どちらも選ばなくてもいいし、どちらを夫にしなくてもいい。だから俺たち二人と結婚して、今後の人生を俺たちに分けてくれないか』」

 自分でも想像していなかったほどすらすらと、電話口で聞いた隆の言葉が滑り出してきた。元々台本を覚えるのは得意だったから記憶力はいい方かもしれない。

 でもこうして何気ない会話を記憶しているなんて思いも寄らなかった。

「またか……」

 ユウの呻き声で我に返った。ユウは両手で自分の顔を覆っている。

「ユウ?」

「何でまた隆は俺に譲ろうとするんだ。いや、何故またアスに選ばせようとするんだ」

 ユウの表情は苦痛で歪んでいる。確かにそうだ、あの燃えるように赤い黄昏時の中で、私は選ばなかったし、選べなかった。どちらも選ばなくていいと聞いて私はここに来た。

 二人と過ごすために。

「ユウ、私はどうしたらいい?」

 自然とユウへ手を伸ばしていた。顔を覆ったままのユウを、そっと抱きしめる。

「お前の気持ちは決まってるんだろ? なあアス、正直に答えてくれ。お前は隆が好きだよな?」

 痛みを堪えるように呟いたユウに、私は押し黙るしかない。

 確かにあの時、私が支えてあげたいと思ったのは隆だった。誰かが支えになってあげなくてはならないほど、脆くて繊細な心を抱えているのだと思ったのだ。

 でもあの時のユウの震えを肌で感じ、苦痛を聞いて、激しくユウを欲した。ユウと共にいたいと思った。彼の激しい焦燥感を全て受け入れたいと思った。

 どちらも選べないと一瞬にして理解した。

 私は二人の男を同時に愛してしまった。

「アス、お願いだ。正直に答えて。もう俺はあんな風に取り乱したりしないから」

 腕の中のユウは、まるで頼りない子供のようだ。年上の研究者だった時の、人間のユウはすでにここにはいない。ただユウという人格を持った、寂しいヒューマノイドのユウがいるだけだ。

 私はユウを腕の中からそっと放して問いかけた。

「ユウ」

「うん」

「私を二人にすることは出来ないのかな」

「……二人に……?」

 本気で困惑しながら顔を上げたユウの頬を優しく撫でる。

「あの時、確かに私は隆といたいって思った」

「……そう、だろうね」

「でもユウを見ていたら、ユウが欲しくて堪らなかった」

「じゃあアスは、俺を選んでくれたの?」

 縋るような問いかけに、私は目を閉じ、静かに首を振る。

「私の中に二人の私がいて、強い想いで違う二人の男を愛してる。そして私は三人でいるあの時間が何よりも大切で、失いたくない。そのためなら二人への愛情なんて閉ざしてしまえる」

「アス……」

「私は平凡な女だよ。ただ自分の夢に縋って、もがきながら雑踏で溺れているだけの、本当にちっぽけな人間なの」

 悲しいぐらいに私は何も持たない人間だった。同じ舞台に立っていて、才能に恵まれた人間を何人も見てきたけれど、いつも足下にも及ばなかった。

「私に価値なんて無いのに、愛してくれて本当に嬉しいよ。私以外の優しい人がこの場にいたら、二人は私に目を向けたりしなかったかもしれないって、そう思うこともある」

「そんなこと……!」

「私は雑踏の中の一人にすぎない。ここに居るから一人の人間でいられるだけ。だから二人と一緒にいるあの時間は、本当に安らぎだった。私が大切に感じている二人共が、私を大切に思ってくれているのを感じていたし、同じように想いを返し合っていたから。それが恋愛感情でなくても構わなかったのに」

 あの時が永遠に続けばいいと思っていた。欲望も嫉妬も怒りもない、静かな森のようにただ漠然とそこにあり、長い時を掛けてゆっくりと育っていく大樹のように真っ直ぐに。

 揺るぎなく空から降る光の欠片たちを分け合えるように。自然と三人で笑いあい、その場に息づいていられたらどんなに良かっただろう。

 恋愛感情は欲望に過ぎない。だから私があの時求めたのは他の何物でも無い無償の愛だった。

 三人の間に平等に、ただ互いを愛し想い合っていけるように、欲望を超えた愛情が欲しかった。

「だから私は逃げた。逃げることで、三人の関係をその場に保存したかった。私がもっと色々な選択肢をもって、三人で幸せになる方法を考えつくまで」

 結論を出すよりも、結論を先延ばしにすることで、関係を持ち越そうとした。間違いかもしれないが、私にはそうするしかなかった。

「ヒューマノイドの研究をしているんだから答えられるよね。私を二人に分けることは可能なの?」

 問いかけると苦痛に満ちた声でユウは俯きつつ答えた。

「……可能だ」

「じゃあ何故そうしなかったの? 記憶がバックアップできるなら二人を好きな感情を二つに分けた私を、二人作ればいいじゃない。研究者の二人で私を分裂させて愛せばいい。私はどちらも選べないから」

 選ぶことが失うことだと分かっているから、失いたくない。私がどちらかに手を伸ばすことなんて、決して出来ない。それなのに隆とユウは私に選ぶことを求める。

「選ぶ事を強制するなら、あなたたちの技術を使って私を引き裂いてしまえばいいのに。そして私本体を抹消して。どちららも選べない私を、研究者として淡々と消去すればいい。記憶が人の生きている証明ならば、身体は入れ物に過ぎないでしょう?」

「アス……!」

「二人が私に求めているのは、そういうことなんでしょう?」

 私の言葉は、何もないユウの部屋に寒々と響いた。私の気持ちを置き去りにして、私の願いを捨て置いて、それで求めてくるものは何なんだろう。

 それは愛情ではなく嫉妬し合って奪い合う、ただの欲望ではないか。

「前にユウは言ったよね? ユウの精密な身体はセクノイドに近いって。だから性的な奉仕をしてあげるって。だったらこの身体もそうしたらいいのに。ユウは平気でしょう?」

「平気……?」

「ヒューマノイドを抱くことぐらい、平気でしょう?」

「アス……」

「それともヒューマノイドの身体では愛せないから、私を分離しないだけなの? だからまたこの状態で私たちは苦悩の中に佇んでいなくてはならないの? あなたも……ヒューマノイドなのに」

 不意に視界が逆転した。

 気がつくとユウは私の上にいた。ベットに押さえつけられながらも、私はどこか平静にユウを見つめていた。

 ユウの瞳が歪み、涙がこぼれ落ちた。熱い涙が私の頬に落ちて、ゆっくりと私の頬を伝ってゆく。

 ヒューマノイドでも泣けるなんて、初めて知った。それほど彼は悲しいのだ。

 私も悲しい。

 悲しいはずなのに、何故か涙が出てこない。

「そんなことはできない」

「ユウ?」

「アスを二人に分けてしまったら、もうそれはアスじゃない。俺はそんなアスを愛したいんじゃない。弱いところも、強いところも持ち合わせた、本当のアスが欲しいんだ。隆だってそんなアスを愛せるわけがない」

「じゃあどうして欲しいの? どうしたらユウは救われるの? どうすれば隆の苦悩は終わるの?」

 私は、あなたを救いたいのに。

 どうすればその苦痛からあなたを救い出せるの、ユウ。

 止めどなく涙があふれ出るユウの瞳をじっと見つめると、ユウは強く私を抱きしめて、震える声で呻いた。

「愛して欲しい。俺を置いていかないで、一人にしないで欲しい」

 子供のようにしがみついてきたユウに、私は戸惑い、そして同時にどうしようもない愛おしさがこみ上げてきた。ただただ彼を守らねばならないという強く決意に満ちた感情だ。

「俺はもう……捨てられたくない!」

「ユウ?」

「嫌だ……置いて行かれるのは嫌だ……もう二度と捨てないで……」

「誰も置いていかないよ、ユウ」 

「隆、絶対にちゃんと追いつくから、ちゃんと同じ世界を見られるように努力するから……。アス、お前が隆を選んでもちゃんと笑って一緒にいるよう努力するから、だから……」

 心の痛みを絞り出すような、そんな苦痛に満ちた声だった。

 私はユウの身体を強く抱いた。

「大丈夫だってば。私がずっとそばにいるよ。隆もずっとそばにいるよ」

「アス……」

「私たちはちゃんと、ユウを愛しているよ」

 穏やかに告げると、ユウは泣き笑いの表情を見せた。

「もっと……」

「何?」

「もっと早く、気づけばよかった。後戻りなんて出来ないのに……」

「ユウ?」

「もう、後戻りなんて、出来ないんだ」

 闇の深淵を覗き込むような声に、私はユウを見つめようとしたが、あっさりとユウに阻まれる。

 重ねられた唇と、ヒューマノイドだというのに、暖かく、しっとりと濡れたように身体を這う指先に、私はただ目を閉じた。

 私に出来るのがこれだけだというのならば、ユウに全て委ねてもいい。闇に落ちていくのならば、手を差し伸べたい。

 こんなことしか出来ないのならば、ユウの記憶を持つ、もう一人のユウに全て捧げることも厭わない。

 だからあなたこそ……私たちを置いて、どこか遠くへ行かないで。

 その日のことなのか、意識は混沌としていてよく分からない。

 ただ確かに私はユウに抱かれた。

 そして夢うつつに、苦痛と苦悩の末に隆が私と同じ選択をしたのを感じた。

 私はどこでそれを見たのだろう。どこで聞いたのだろう。

 分からない。全てが曖昧だ。

 私は全てを苦悩の中でのたうつユウに委ね、ユウは隆に全てを委ねた。

 まるでユウの瞳のように、機械的なグレイがかった作り物の世界の中で、うごめく私たち三人はきっと、その先に進む進化のための関係を考え出し得たのかもしれない。

 新しく関係を築き、先に進めるのかもしれないと、確かに私は考えていた。

 考えていたはずだった……。


「次の起動まで、ゆっくりお休み」


 どこまでも優しく、どこまでも甘いユウの声が、芽生えた希望の中で、夢うつつに聞こえるまで。

 そして彼は、私たちの前から姿を消してしまった。

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