Scene5

「これで今週は十五件目だよ、幸兄」

 小さく吐息を漏らして、コンクリートの石畳を歩く。今いるのは古都と言われる観光名所の街だ。駅からバスで数十分程揺られたこのあたりは落ち着いた住宅街で、観光客の姿はない。

 小西の持つタブレットに表示された地図によると、目的地はこの先にあるようだ。

「愚痴るなよ進。はずれが多いのは覚悟の上だろ?」

 冷静にタブレットを操りながら、小西が肩をすくめる。

「まあそうだけど……」

「探偵が素人の俺にたしなめられてどうするんだよ。たった二十件ぐらいの空振りで腐ってたんじゃ、研究者にはなれないぞ」

 妙に実感がこもったいいようだ。

「研究者って、そんなに空振り多いの?」

「多い多い。研究の十分の九は間違いさ。その中のたった一つを探し出せれば、物事の発見者になれるってわけだ。それだって運がないと駄目だし、一生何も発見できずに終わる奴だっている」

「へぇ……」

「俺も運なしの部類さ。大学、研究所と同じ事をもう十五年やってるけど、全部が全部はずれさ」

「幸兄が? 擁護施設創設以来の天才なのに?」

「俺程度なんて、掃いて捨てるほどいる。天才はたった一握りさ」

 実感がこもった少々沈んだ声に、進は小西を見上げた。研究で何かあったのかもしれない。

 相変わらずタブレットから視線を上げない小西の横顔には、少し陰があるように見える。その陰が何かと重なったような気がして、目をそらした。

 この沈黙が何となく気まずくて顔を上げる。

「そんじゃ、幸兄よりも根性無い凡人の僕は、宝くじでも買って運ぐらいは上げよっかな」

 今までと打って変わった明るさで言い放すと、小西が苦笑した。

「当たっちまったら運を使い切りそうだな」

「うわぁ、探偵って仕事上、それも困るなぁ。それじゃあ天才になるしかなくなっちゃうじゃん?」

 茶目っ気たっぷりに肩をすくめると、ため息交じりに肩を小突かれた。いつもの小西にホッとする。

 彼の陰のある表情は、進の中の古い記憶を微かに刺激する。それは進が施設にいた理由と、探偵になった理由に直結しているのだが、あまり思い出したくはない。

 小さく呼吸をしてから気持ちを切り替える。

 坂道の多いこの辺りは、古くから残された林も多く、散策するにはもってこいだ。道路にはみ出した木々が、春の目映い日差しを無数の欠片にして道に投げかけている。

 微かに木々を振り仰ぐと、その欠片たちが眩しい。

「散歩日和だね、幸兄」

 空を見上げたまま呼びかけると、小西はタブレットを閉じて斜めがけにしていた鞄に突っ込んだ。

「またお前はじじくさいな。古都で桜の季節に散歩ときたら、デート日和だろうよ」

「うっ……幸兄とデート?」

「お前がそういう趣味なら、デート気分になってやるが?」

 意地の悪い言いように、進は二十台も半ばだというのについつい頬を膨らませる。この人といると、何だか妙に子供に戻ってしまう。やはり子供時代を共に過ごしたせいだろう。

「やだよ。僕にだって選ぶ権利はある」

「そりゃあそうだな。そういえばお前の彼女はどうした?」

 真面目に聞かれて絶句する。彼女がいたことはあるが、それほど長続きしたことがないから、小西が知っているとは到底思えない。

 そもそも小西が施設を出てから、会ったことは数回しかないのだ。

「か、彼女って何さ」

「ほら、ちょっとが外人の血が入ってんじゃないかなって、赤毛の子。お前らいつも一緒にいただろ?」

「え、あ、杏菜?」

「そう。同じ年で高校も一緒だったろ? 付き合ってないのか?」

 杏菜と進が一緒にいたのは、施設にいた時だ。確かに仲が良くてよく一緒にいたし、施設でもコンビ扱いだったが、お互いに兄妹のつもりであって、そんなことを意識しあったことはない。

「だからそういう関係じゃないって。それに杏菜はもう結婚してるもん」

「! 結婚してるのか、だってまだ大学を出て数年だろ?」

「大学、飛び級して二年で卒業してるんだ、杏菜。それに高校卒業と同時に籍だけ入れてたから、結婚して八年かな」

「……それは……すごいな」

「うん。この間三人目を妊娠中って手紙が来てた。杏菜は施設出身だし、旦那さんも家族の縁が薄い人らしいから、大家族を作るって張り切ってるよ。目指せ富士宮のビッグダディだって」

「へぇ……」

「今はさ、富士山の麓で農業法人の社長やってる」

「旦那じゃなくて杏菜の方が?」

「そう。旦那さんはそういうの苦手な人だからね。夢は僕らと同じような境遇の人たちを受け入れて、一緒に楽しい野菜作りだって」

 養護施設出身者は社会で孤立することが多い。それを進も杏菜も知っていた。幸いなことに、進は身元引受人となってくれた谷崎の元から高校に通った。谷崎とはもう十年以上の付き合いなのだ。杏菜は高校入学から身元を引き受けてくれた人がいて、その人の関係で夫と出会っている。

 家族がいない、もしくは援助を望めない彼らにとって、施設出身のコミュニティーは何よりも大切な繋がりだ。だから杏菜はそんな人たちと共に、大自然の中で農業が出来たらと考えたらしい。社会に出た子供を抱え込むつもりは無いが、ただいまといえる場所がひとつぐらいあってもいいと彼女はいう。

「現代社会って便利になりすぎてて、その代わり人間味が減ってるじゃん? だから地に足着けて一番人間らしい暮らしをしたいっていうのが杏菜の理論。まあ僕もさ、たまにそれが羨ましいかなって思うんだけど」

 探偵を職業にしていると、ごくたまに人間同士の憎悪や嫉妬、絡まり合った利害関係に疲れることがある。社会が便利になればなるほど、人は互いを思いやれなくなっていく。

 直接話し合えばすぐ解決することも、ネットワークに載せて投げ合えば、徐々に憎しみという名の重みを増していく。収拾が付かなくなったボールは、結局全て探偵任せになり、投げ合った本人たちの中には憎しみだけが残る。

 人間にとって本当は大事だと思うことが、今の時代、妙に希薄だ。そんなことを漏らすと、小西は皮肉な笑みを浮かべた。

「確かにな。俺もヒューマノイドの研究をしてると、妙な気分になることがあるよ。俺は、人間を研究しているのか、それとも空虚な人形を扱っているのかって」

 口元に浮かべた皮肉な笑みが、何故だか小西自身に向けられるような気がして、進は目を離せなかった。

「まるで人間は、空虚であることを望んで、自らをネットワークの海に埋没させようとしてるようだ。感情を持たず、表面だけの繋がりしか求めず、より画一的に進化しようとしているなら、空虚からより人間らしい人形を作り出すこの研究って何なんだろう」

「幸兄……?」

「これから先進化した人間が、感情を記号で表現することを望むなら、俺の研究に意味なんて無いのかもな。俺たちが思い描く、感情を持ったヒューマノイドが、人間より人間らしくなっちまう」

 小さく息をついた小西をまじまじと見つめる。今まで進は彼の研究対象が感情を持たせることだなんて思いも寄らなかった。

「感情を持ったヒューマノイドが幸兄の研究対象だったんだ。ヒューマノイドの身体が専門だとばっかり……」

「あれ? 言ってなかったか」

「うん。だから勝手に思ってたんだ。見れば分かるなら、外見的な特徴の分かる仕事だと……」

「外見でも分かることは分かるさ。研究所にセクノイドよりも更に人間に近づけた最上級の精密ヒューマノイドの身体もあるし。でも俺の場合は質問した方が分かりやすいかな」

「どうして?」

「俺の専門は、ヒューマノイドの記憶を司る電子回路の構築だから」

「それって……笹井さんの事件の……」

「ああ。核になる部分を研究してるって事になる。だから興味を持ったのさ」

 あっさりと認めて小西は鞄からタブレットを取り出した。進は聞こうとした言葉を飲み込んだ。妙に小西の表情は硬質で、喉元まででかかった言葉がつかえてしまった。

「この辺りだな、進」

 気がつくと森は切れ、道の先は拓けた住宅街になっている。住宅街を通る並木道は桜で、柔らかな風に薄紅色の花びらを優しく風に乗せていた。

 舞い散る桜の花びらに、先を行く小西の背中が微かに消えるような気がして、妙な胸騒ぎを覚える。

 もしかして……小西は何かを知っているのではないだろうか。

「進?」

 振り返った小西の顔はいつも通り、ちょっと皮肉な笑みを浮かべた兄貴分だった。

 気のせいだ。こんな胸騒ぎは気のせいに決まっている。同じ分野だから気になったなんて、当たり前じゃないか。

「ごめん幸兄。桜が綺麗でさ」

 適当に誤魔化して後を追う。

『幸兄は、何かを知っているんじゃないの?』

 飲み込んだ言葉は、桜と共にまとわりつくように進を包み込む。

 桜舞い散る住宅街には人気がない。春の精霊に導かれて、異世界に迷い込んでしまったみたいだ。世界の輪郭が頼りなげに揺らいでゆく。しばらくしてから小西が足を止めた。

「ほれ、ここだろ?」

 進は差し出された手元のタブレットに表示された住所と、目の前の表札を確認した。

 目の前にあるのは少々古ぼけた一戸建ての住宅だ。隣近所に同じような家が建ち並んでいることから、この家々は三十年近く前に立てられた、環境一体型の街だったのだろうと推測できる。

 その頃は流行の最先端だったのだろうが、こうして同じような家々が同じ速度で古びていくのは、何となく奇妙は気分だ。

 街ごと老化し、徐々に死んでいくようで少々気味が悪い。

 妙な感傷を頭を振って振り落とすと、進は再び目の前の家を見つめた。ガレージ付き、庭付き一戸建て。

 ヒューマノイドが闊歩する時代になっても、人間の生活は大して変わらない。

「さ、インターホンを押してくれ、未来の天才君」

 からかい気味にいつもの口調で言った小西に、むくれながら、でも少し安堵しつつインターホンを押す。

「こんにちは。谷崎探偵事務所と言います。大江智理(ちさと)さんはいらっしゃいますでしょうか?」

 中から誰かが出てくる気配がした。 



 探偵社から訪れたという二人を目の前にして、僕は途方に暮れていた。

 二人が尋ねてきたのは僕じゃなくて母らしいが、残念なことに、母は買い物に出ていていつ帰るか分からない。追い返せば良かったのだが、探偵を名乗った童顔の奴は、同じ年ぐらいだったから、つい言われるままに家に上げてしまった。

 僕はこの家に縛られているから、久しぶりに同世代の人間と話したかったのだ。

 それに探偵は人懐こそうで、妙に警戒心を抱けない顔だ。名刺によると、宮前というらしい。谷崎探偵事務所という、聞いたことがない事務所から来たようだ。

 もう一人の探偵は、アドバイザーの小西という名だ。何故か分からないが妙に薄気味悪い。表情がのっぺりとして硬質に見えてしまうのだ。そのくせ鋭いその視線は、何だかヒューマノイドみたいだ。

 お茶の支度をしながら、リビングルームから通じる和室のふすまに目をやった。

 ヒューマノイドなら見飽きている。毎日毎日、僕はヒューマノイドの面倒を見るためにここにいる。

 僕の父親はヒューマノイドだ。しかも記憶を持った違法ヒューマノイドだ。

 ただし起動はしていない。介護用のベットに寝転がったままの親父は、いつもただ黙って機械類に繋がれているだけだ。

 母はそんな寝たままの親父を優しく介護し、多大な維持費のために昼夜厭わず働き続けている。僕からしてみれば、一種異様な状況だ。

 せっかく高い金をはたいて、記憶を持つ違法ヒューマノイドを手にしたのなら、起動して一緒に働けばいいのにと、毎回のように忠告するが、母親は一笑に伏してしまう。

 生きていればいい、いざという時のためにずっと大事にしていたいなんて、お笑いぐさだ。起こさないなら、家族の中心に高価なヒューマノイドを置く意味なんてないだろうに。

 丁寧に三人前のお茶を入れると、それをお盆に載せて、先ほどから黙ったままの探偵たちの前に差し出す。

 最後に自分の前に置いたが、特に飲む気はしなかった。礼儀として自分の分も入れただけだ。最近、喉が渇いたり、腹が減ることが少なくなってしまった。

 必要に応じて食べるようにはしているが、寝たきりの親父の様子を見ることだけが一日の仕事である僕は、それほどカロリーを消費しない。

 痩せもしなければ太りもしない。それは太りやすいといつも嘆いている妹から見ると、好ましいことなのだろうけれど。そういえば妹を最近あまり見ない。子育てが忙しくなったのだろうか。

「突然押しかけて、お茶までご馳走になってしまってすみません」

 同世代の探偵が、本当に恐縮したように頭を小さく下げる。

「いえ、こちらこそ、母が不在で申し訳ないです」

 膝に手を乗せて頭を下げた。何だかお互いに謝り合戦みたいになってきた。

「ところで探偵さん……」

「あ、宮前でいいです。探偵さんって何か気恥ずかしいですから」

「そうですか」

「はい。僕もお名前を伺ってもいいですか?」

 笑顔につられるように僕も笑顔で名乗った。

 何事もなかったかのように宮前は微笑んだ。名前を尋ねた意図は何だったのだろう。探偵は満足そうだが、僕には分からない。

 もしかして僕は何かヘマをしただろうか? この宮前なる探偵は、見た目通りの性格ではないのかもしれない。少し気をつけて言葉を選んだ方がいいようだ。

 僕は再び和室に目を移す。我が家で一番の秘密である親父のことを聞かれたらどうしよう。一見しても親父がヒューマノイドだと、ばれるはずなんて無い。大丈夫だ。

 それでも僕はそこはかとない不安と警戒心をぬぐえない。親父がヒューマノイドになってから初めて我が家を訪れた客は、よりによって探偵なのだ。

 父親が違法であると知られ、警察に押収されでもしたらどうしよう。母親は寝たきりヒューマノイドであっても、自分の生活全てを犠牲に出来るほど、親父を愛している。その親父を失うわけにはいかないのだ。

 僕たち家族は、寝たきりの親父という、ただ一つの点で繋がっている。嫁いだ妹も、時折父の様子を見にやってくる。それだけが共通項のない家族を繋ぎ止めているのだ。

「宮前さん、母への手紙ですけど、僕が読んで返事をするわけにはいかないですかね?」

 疲れている母親に、これ以上気苦労をかけたくない。肩代わりして欲しいならそう言ってもらえれば手伝うのに、母は買い物一つ僕に任せてくれない。いつも笑って大丈夫だと言うばかりだ。

 だから家の中のことで煩わしいことは、僕が片付けたいのだ。僕が出来るのはこの家の中のことだけだから。

「それはちょっと……」

「でも母はとても疲れてるんです」

 語気を強めて言い切ると、宮前は押し黙って小西を見た。アドバイザーというぐらいだから、きっと宮前よりも格上なのだろう。

 宮前の視線を追うように、じっと小西を見つめていると、小西は肩をすくめた。

「いいんじゃないか。あの内容なら」

「そうですね。僕も同意見です」

 二人の間で何かが決まったようだ。隣に置かれていた鞄に手を入れた宮前は、一通の封書を取り出した。

「どうぞ」

 差し出されたそれは、昔懐かしい茶封筒だった。友達とのやりとりや、家族とのやりとりを全てメールで済ます僕らの世代では、すでに本物の手紙を見ることは滅多にない。

 手にとって眺めた封筒は、しっかりとのり付けされているのに、どこにも宛先が書かれていない。母宛という割に、これはあまりにも適当すぎやしないだろうか。

 探偵たちに一声掛けて立ち上がり、食器棚の引き出しからはさみを取り出す。使い込んだはさみで封を切り、立ったまま手紙を開く。

 そこにはメールのように他人事の文字ではなく、人がその手に感情を載せて書いた文字が躍っている。紙には絵文字も何もないけれど、文字を書くことに感情があるんだなと、僕は初めて知った。

『前略 愛する者の記憶を持つヒューマノイドを所持する方へ』

 内容を理解した瞬間に、動けなくなった。恐る恐る探偵たちの方を盗み見たが、探偵たちは気を遣っているのか、僕の方を見ていない。

 視界が急に狭まったような気がして、探偵たちに背を向け、手が震えそうになるのを必死で押さえた。

 探偵たちは我が家の最大の秘密を知った上でこちらを訪れていたのだ。いったい何をしに、何のために来たのか、僕はそれを知るため手紙を読み進めた。

『突然このようなお手紙を受け取られて、さぞかし驚いたことと思います。私は、笹井和志という、あなたと同じ違法アンドロイドの所有者でした。過去形で言わねばならないのが残念ですが、私の元に、もうヒューマノイドはいません。私の愛する娘となったヒューマノイドは、私の家族を巻き込んで自殺したからです』

「自殺……」

 僕の呟きを拾った宮前の声が、僕の背中に届く。

「『私じゃない私は、いらない』と遺書を残していました。彼女は自分の記憶回路を壊して死んだそうです」

「そう、ですか……」

 何と言ったらいいのか分からずに、僕は俯く。お悔やみを述べるのもおかしいし、黙っているのもおかしい気がする。

 伏し目がちに宮前を見ると、宮前は黙ったまま優しく微笑んだ。手紙を読むように促しているのだろう。だから僕は再び二人に背を向け、黙ったまま手紙に目を落とす。

『私の話を信じられないかもしれない。でも自殺したヒューマノイドは私の娘だけではありません。娘の他に五人のヒューマノイドが自ら命を絶っています。皆同じような内容の遺書を残して。

 みな違法だと分かっているから事故として処理しましたが、私たちは戸惑っています。

 何故、私たちの愛する人の記憶を持ったヒューマノイドは自殺せねばならなかったのでしょう?

 あなたの元にも私と同じく、愛する人のヒューマノイドがありますでしょうか。その方は今も稼働しておられるでしょうか? 

 稼働しているのならどうか私に教えていただきたいのです。稼働したときから今までで、ヒューマノイドに変化が現れていないかを。ほんの些細なことで構いません。何か異常が現れたり、何か問題が起こったりしていないでしょうか? 

 私は娘の変化に何一つ気がつくことが出来ませんでした。他の皆さんも同じでした。私は、いえ私たち遺族は、愛する者が自殺をした理由を知りたいのです。

 私たちはみな、愛する人が戻ってくるという希望で頭を満たしてしまい、プライマル社の吉川から受けた説明を全て覚えている者はいませんでした。彼女が話した何か重要なことを、見落としているのかもしれないと気がついたのは最近です。

 もしかしたら、あなたは暴走に関する注意事項や、重要な説明を受けておいでではないでしょうか?

 直接会ってお話をお聞きしたい、お話をしたいとも思うのですが、私はまだ冷静に娘のことを話すことが出来ずにいます。ですからこの手紙を谷崎探偵事務所に託しました。

 何か心当たりがありましたら、どうか探偵の方々にお伝えいただきたい。あなたと愛する方の暮らしを脅かすつもりは全くありません。返事をいただいて以後、あなた様にご迷惑を掛けるようなことはしません。

 でも私は、娘と家族を何故失ったのか、それを知りたいのです。

 誠に失礼だと存じております。私のしていることは、秘密裏に愛する方の復活を喜ぶあなたからすれば迷惑千万でしょう。ですが真実を知るために、何卒、よろしくお願いいたします。

笹井和志』

 読み終わった僕は、手紙を閉じた。何故自殺をしたのか、何か変わったことはないかと尋ねられても困る。

 だって僕の家のヒューマノイドは、そもそも一度も稼働させたことがない。ずっと何本ものチューブに繋がれて、ベットに寝ているだけだ。

「済みませんが、何も分からないとしか言いようがありません」

 ようやく僕は探偵たちの目の前に座り、手紙を封筒に戻して差し出した。この手紙はこの家に置いておいても仕方ない。母だって何も答えられないのだから。

「……違法ヒューマノイドを持っていないのですか?」

「いえ……所有しています。所有はしているんですが……」

 僕はごまかしの言葉を探して視線をさ迷わせる。何と言ったらいいだろう。記憶を持ったヒューマノイドをベットに寝かせたまま起動させていないなんて、きっと探偵から見れば奇妙な話に違いない。これでは死体を置いているのと変わらないのだから。

「お母様と出かけているんですか?」

「いえ」

 宮前の視線は笑っているのに、何か鋭い。それに僕は何故か分からないけれど、その隣にいる小西が怖い。その視線を受けたら、僕は隠し通すことが出来そうにない。

 母の帰りを待つか、それとも親父の状態を見せて、手紙に答えられないことを納得して貰うか迷う。母がいれば、きっと簡単に答えを出してくれるだろうに。

 長い沈黙に耐えきれず、結局僕は長く息を吐き出した。

「こちらにいます。ご覧になってください」

 立ち上がりながら二人を促す。まさかこんなに簡単に我が家の秘密を教えることになるなんて、思いも寄らなかった。でも僕はきっと、彼らを家に入れてしまった時点で、駆け引きに負けていたのだ。

 和室の引き戸を開けると、微かにすえた香りが、澱のように静かに流れ出してくる。この部屋を開けて親父を見る時、いつもそう思う。

 そこにあるベットに、目覚めない親父はずっと眠っている。毎日僕は、目覚めない親父の調子を調べている。

 モニターに異常は無いか、身体に異常は無いか、機械は正常に稼働しているか。それが現在の僕の仕事だ。

 親父の顔を見下ろす。いつものように表情はピクリとも動かず、蝋細工のように血の気が失せている。母が毎日消毒をしているから、近くに行けば薬臭い。その間が二人の時間らしく、僕は親父と母の逢瀬を邪魔せぬように、テレビに夢中になるふりをする。

「どうぞ」

 いつもの状態を確認してから、二人を招き入れる。最初に入ってきたのは宮前で、この状態を見て不審そうに眉を寄せた。後から入ってきた小西は露骨に首を傾げる。

 やはり高価なヒューマノイドを寝かせておくのはおかしいのだろう。

「これが我が家のヒューマノイドです。父の記憶を持ったヒューマノイドですよ」

 僕はベットの傍らに置かれている椅子に腰を下ろす。モニターが小さく決まった感覚で機械音を鳴らしている。いつも少し耳障りなその音だが、沈黙の中にあると少しありがたい。

「一度も起動していないんです。おかしな話でしょ? 母がいざという時まで起動しないなんていうんです。何のために高い金を払って違法ヒューマノイドを手にしたんだか分かりませんよね」

 父親の顔をしたヒューマノイドにかけられた、春物の羽毛布団を軽く叩く。優しく埋まる指の先で、ふわりと埃が舞う。

「人間じゃないのに、こんな布団まで掛けて、お笑い草でしょ? だからお役に立てそうにありません」

 親父から目を離し宮前を見ると、探偵は何故か唇を噛んでいた。その目にかなりの不信感がある。

「あの、何か?」

 今までの雰囲気との違いに僕は戸惑い、小西に視線を向ける。小西は表情の分からない顔で、親父を見つめていた。僕は、また何かヘマをしただろうか。

「大江さん。僕たちは、一応、違法ヒューマノイドの可能性がある人物を調べてきています」

「ええ。ですからこれが……」

「ヒューマノイドの充電設備はこんな形ではありません。そこに並んでいるのは、生命維持装置ですよ」

 厳しい言葉と共に腕を組んだ宮前に、僕は凍り付く。

 生命維持装置? ヒューマノイドに、何故それを付ける必要があるんだ? ヒューマノイドは機械であって、生命は存在しないのに。

 僕は視線を巡らせる。確かに今動いている装置は、よく見れば生命維持装置だ。小さく小さく聞こえるあの機械音は、親父の鼓動を示している。鼻から伸びる管は、酸素吸入器だ。

 何故こんな事に気がつかなかったんだろう。言われるまでこの機材が何かを確認したことなど無かった。ヒューマノイドのための装置だと、僕は思い込んでいた。

「僕は、本当に親父がヒューマノイドだと……」

 訳の分からぬ状況に、僕の混乱は加速していく。冷静になれと考えているのに効果は無い。だが宮前は容赦がなかった。僕の混乱にまた次の波を立てていく。

「大江さんの家にいるのは、あなたの妹さんのヒューマノイドだと聞いていたのですが?」

「え……妹?」

 妹はとうに嫁いでいる。たまに子供を連れて戻ってくるが、この間二人目の妊娠を聞いたから、確実に人間のはずだ。それを告げると宮前は眉を寄せた。

「そんな馬鹿な……」

「本当です。この家のヒューマノイドは、父の真美(まさよし)です」

「本当にそうですか? 隠していませんか?」

 その不信感につい語気が荒くなる。

「隠していません!」

「でも昨年バイク事故で死亡したのは、妹の真理(まり)さんでしょう?」

 一瞬、何も考えられなくなった。今まで目まぐるしく加速していた混乱が、白く弾けた気がした。

 真理……そんな人物はこの家にはいない。この家にいる同じ字を書く人物は、たった一人だ。空白の中で僕の唇は冷静な言葉を綴る。

「妹は智美です」

「何を言ってるんです? 真(しん)理(り)と書いて真理さんでしょう?」

「真理と書くのは……僕です」

 頭の中が混乱しているのに、淡々と僕は宮前に告げていた。

「え……?」

「真理は僕の名前の綴りです。それでまさみちと読むんです」

 宮前の顔がみるみる青ざめていく。彼は彼自身がヒューマノイドになってしまったかのように、ぎこちなく小西に顔を向ける。

「……幸兄……」

 助けを求めるように発せられた声に応えるように、小西が僕へと歩を進めた。

 何故だ、僕は小西が怖い。彼から逃れるように一歩後ずさった僕の肩に手が置かれた。

 冷たい手だ。その視線と同じぐらい。僕の顔を覗き込む、真っ直ぐな黒い瞳が怖い。でも吸い込まれそうで、僕は動くことが出来ない。

 やがて小さく息をついた小西は、僕の肩を軽く叩くと宮前の所に戻った。小さく頷く小西に、宮前は力が抜けたように俯く。

「すみません。まさか本人だと思ってもみなくて……」

「いえ、あの……」

 頭を下げる宮前を、僕は見つめているしかない。先ほどのやりとりから推測できることはただ一つ。だけどその一つの推測を、目の前の二人に聞くのが怖い。

 知ってしまったら僕はきっと、僕としてなど生きられなくなる。

「あの、大江さん」

 呼ばれた僕は、のろのろと顔を上げて宮前を見た。見つめ合う視線に多分の同情が見て取れて、僕は拳を握る。

 それが答えじゃないか。

 それが僕の正体を告げる答えだ。

「帰ってください」

「大江さん……」

「帰ってくれ!」

 叫びながら宮前と小西を後ろから押しだす。驚くほど易々と男二人が畳の上を滑っていく。こんなに僕は力があっただろうか。

 やはり僕は……人間じゃないのか?

「帰れ、帰ってくれ!」

 顔を歪め泣き出しそうな宮前を、僕は力の限り突き飛ばした。

「出て行け!」

 頭が、熱い。混乱が怒りとなって吹き出しているみたいだ。

 よろけた宮前を、小西が支える。

「二度と来るな! 僕をそんな目で見るな!」

 僕の叫びに、探偵とアドバイザーは荷物をまとめ、黙ったまま玄関に向かった。和室の前に仁王立ちになった僕に向かって、宮前は深々と頭を下げる。小西も軽く頭を下げた。

 やがて扉が閉まり、僕は部屋に取り残される。

 僕は人間じゃない?

 僕は死んでいる?

 それとも生きてる?

 じゃあ和室にいるのは……何?

 親父のヒューマノイドじゃないとしたら、何なんだ?

 呆然と、親父のベットサイドの椅子に戻って、血の気の失せたその顔をじっと見つめる。この何も言わない、寝たままの親父が人間で、こうして生きて動いている僕が死んでいるのか。

 僕が死者で、ヒューマノイドならば何が死で、何が生だ? 物言わずとも、機械に繋がれて生きているこの死体のような親父が生きた人間で、僕は生身の身体を持たぬ死者で機械人形でしかないのか。

 どれぐらいの時間がたったのだろう。不意に目の前が明るくなった。部屋の電気が付いたのだと認識したのと同時に、聞き慣れた声が耳に届いた。

「なあに真理、部屋が暗くなってるのに電気も付けずに」

 和室を覗き込んだのは、母だった。

「お父さんに何かあったの?」

「母さん……」

「……どうしたの、真理?」

 いつも通りの顔、いつも通りの表情、いつも通りの口調。でも僕は母の声に怯えが混じっていることに気がついた。おそらく母は探偵から聞いたのだ。僕が自分が何なのかを知ってしまったことを。

 母の怯えが僕への恐怖ではなく、悲しみだと気がついたから……だから僕は聞くことが出来た。

「違法ヒューマノイドは……僕の方だね?」

 みるみるうちに溢れてくる母の涙で、自分が何であるか確信した。

「やっぱり、そうなんだね」

 ヒューマノイドは僕だ。

 僕は探偵が言ったように、昨年事故で死んだのだ。

 僕にその記憶が一切無いのは、都合の悪い記憶を消したからだろう。

「僕がヒューマノイドなら、親父は何なんだよ。こうして機械に繋がれて、一日中身動き一つしない親父が人間で、僕は死者だから、家を出るなって言ったんだろ? そのために、死にかけた親父の世話を僕に与えたんだ。僕が真実を知らないように、僕が外に出たら、僕が死んだことを僕自身が知ってしまうから」

「お願いよ、話を聞いて」

 すがりつく母を振り払い、僕は親父の横に立った。無言のまま親父の布団をはぎ取ると、その下に寝間着に包まれたやせ細った身体があった。

 常に母しか見ない布団の下に、やせ衰えた人間の身体がある。親父がヒューマノイドならば、こんな風にやせ細ってなどいないはずだ。

 現に僕はほとんど空腹を覚えない。

 喉が渇くこともない。

 なのに僕の体型は、ずっと同じように維持されている。

「親父は目を開けないし、自分で呼吸もしない。ずっとここに横たわっているだけだ。だけど僕は毎日目を覚ます。毎日会話をして食事をしてる」

 僕はゆっくりと、親父に繋がった管をつまんだ。鼻の中に通った透明な管と、血管に突き刺さった透明な管。そして体中に取り付けられた無数のコード。それをゆっくりと優しく、手の中に束ねていく。

 ああ、何だか微かに暖かい。これが生きている証拠だというのだろうか。

 眠っているだけなのに。

「何をするつもりなの?」

 母はすぐ後ろにいるはずなのに、何故か遠い。僕とベットの親父以外は、薄い膜を一枚隔てた別の世界にいるみたいだ。

 僕は束ねたコードを、大切に両手で抱えた。

「もう親父は死体だ。そして僕も死者だ。死者は死者らしく、この世に未練がましく身体を残したりせず、消えればいいんだ!」

 親父の血管のように張り巡らされた無数のコードが、僕の手の中で抗うように引きつった。僕はそれを力を込めて親父の身体から引きちぎる。

「真理! やめて真理!」

 母の悲鳴にも僕の手は止まらない。コードに引きずられた親父の身体に足を掛けて、絡まっていたコード類を全て引き抜いた。

 降りかかった生ぬるい液体に、僕は親父の生を感じ、僕の死を感じ取る。

 引き抜いたコードから逃れた親父の細い身体が、嫌な音を立てて捻れた。ああ、骨が折れたんだな。細くなっていたんだ、仕方ない。

 妙に冷静なのは、僕がヒューマノイドだから? でもヒューマノイドとしても出来損ないだ。ヒューマノイドは人間に逆らうことなど出来ないのだから。

 狭い和室に警報音が鳴り響き、機械類が親父の命が危機にさらされたと泣き叫ぶ。

 僕はこの機械たちと同じ存在だ。泣き叫んでも泣き叫んでも、誰も助けてくれない。

 だって僕は人間ではないから。

「ごめんなさい、真理!」

 母の泣き声が間近に聞こえた次の瞬間、後頭部に激しい痛みを感じた。振り返ると母が花瓶を振り上げていた。

 妙にゆっくりと涙で頬を濡らした母が、再び花瓶を振り上げるのを、僕はじっと見つめていた。脳天にたたき込まれた花瓶が僕の額に食い込むと、とたん視界にノイズが走る。

 やはり僕は、ヒューマノイドだ。

 機械だったんだ。

 今まで何で気がつかずにいたんだろう。

 すでに人間じゃなくなっていたのに。

 目の前の映像が徐々にぶれていく。母が泣きながら謝る声だって、ノイズ混じりだ。僕は今度こそ本当に死んでいくのだ。

 何だろう、何だかとても心が安らかだ。

 ああそうだ、今、目の前に宮前がいたならば、僕は笹井氏に伝えられることが一つ出来た。

 人間じゃなくなった死者の自分を認めるよりも、死ぬ方が格段と幸福なのだと。


 

 大江真理の母、智理には、家の前で会うことが出来た。

 笹井の手紙をその場で読んで貰った上で真理がこれを読み、父親ではなく、自分がヒューマノイドだと知ったことを正直に告げた。

 智理は驚き、荷物を取り落とした。地面に落ちて何かが砕けた買い物バックがやけに白く感じる。

「申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げると、智理は我に返ったように、進に悲しみが混じった激しい怒りをぶつけてきた。彼女は疲れてやつれたその細い腕で、進の服に取りすがって叫んだのだ。

「何故放って置いてくれないの! 何故私の幸せを壊そうとするの! 夫が命を賭けてあの子をこの世に呼び戻してくれたのに!」

 胸ぐらを智理に掴まれて、幾度も幾度も揺さぶられながら、進は一言も弁解しなかった。

 真理がヒューマノイドだと知らせたのは、間違いなく進で、それはもう取り返しの付かない事態を招いてしまった。

「あの子が帰ってきたのに! 機械であっても私は愛せたのに!」

 智理の慟哭が胸に痛かった。

 起こってしまったことをどうすることも出来ず、進はただひたすらに謝り続けるしかない。疲れていた、考えが甘かった、油断していた。これは全部言い分けだ。探偵としての自分の失態に過ぎなかった。

 怒りと悲しみと憎しみを進に叩き付けていた智理の手が、不意に緩む。

「やはり無理だったのかしら」

 急に力を無くしたように呟いた智理を、黙ったまま静かに見つめる。

「智美の言うとおりだったのかしら……」

 今の一瞬で智理は何倍にも歳を取ってしまったように見えた。進から離された細い手が、乱れた髪に触れ、そっとなでつけながら、言葉を続ける。

「失った命は帰ってこないんだって。真理を機械の身体に押し込めても、それは過去の真理であって、真理じゃないんだって。自分の命をかけて真理を蘇らせた夫に、本気で怒ったのはあの子だった」

 地面に散らばった荷物を拾い集めながら呟く智理の横にかがみ込み、進も荷物を拾う。

「機械の身体に過去の真理を閉じ込めて寝たきりの夫と一緒に家に閉じ込めて。何重もの檻に閉じ込めなければこんな風に真理が壊れてしまうんじゃ無いかって……ずっと心が安まることなんて無かった」

 呟きながら智理が手に取った卵はすでに割れ、命無き卵の中身がどろりと智理の手を汚した。果物も砕け甘く酸味のある香りに、何故か寝たきりの智理の夫を思い出し、進は手を止めた。顔を上げると表情を無くした智理の頬頬を涙が伝った。申し訳なさに胸がわしづかみにされたように痛い。もし進が来なければこんな事にならなかった。まだ幸せにいられたのかもしれなかったのだ。

「あの子、言ってたわ。あのロボットを停止しなさい。そうしたら一緒に住みましょうって。お腹の子が男の子だから、真理だと思いなさいって」

 流れていた涙を、持っていたタオルハンカチでぬぐった智理は、空虚な表情のままうっすらと笑った。

「機能停止するのはあの子かしら、夫かしら。それとも私かしらね」

「智理さん……」

 立ち尽くす進など、すでに視界に入れず、智理は微かに身体を揺らしながら自宅へと戻っていった。春の風が吹く中で、妙にはっきり扉の閉まる音が耳に届いた。見届けるべきか、それとも立ち去るべきかを決めかねた進の肩を叩いたのは、小西だった。

「帰ろう、進」

「でも……」

「俺たちに出来ることは何もない。あの人はきっと、息子の機能を止めて、娘さんと住むことになるだろうよ」

 当たり前のように言われて、進は腹立たしく小西を見上げた。

「何で分かるの?」

 つい言葉が尖る。だが小西は全く表情を変えなかった。

「分かるさ」

「だから何で!」

 詰め寄って見据えた小西の瞳は、どこまでの冷静で冷たかった。研究者ゆえか、何もかも事情を飲み込んだような顔をして微かに目を細める。

「限界だったんだよ。おそらくあの人はもう、家に帰ることすら辛かったはずだ」

「どうして?」

「人間の話を素直に聞き、大人しく母親に命じられた通り家から一歩も出ない。それなのに反抗しない息子は、彼女にとって違和感の塊だったはずだ。期待していただけ絶望も深かっただろうな。きっと彼女も心の奥底ではヒューマノイドとの家族ごっこをやめたいと望んでいたのさ」

 進に掴みかかって泣いた智理を思い出した。そんな馬鹿なと否定したい気持ちが強いが、あっさり自分が間違っていたと納得しようとしていた智理を思い出すと言葉にならない。何故全てを犠牲にしてでも手に入れたかった息子を諦められるというのだ。それに真理の立場はどうなるというのだろう。

「そんなの酷すぎるよ」

「何が?」

「だって、真理さん生きてるじゃないか。機械の身体かもしれないけど、でも記憶を持ってる。人間の感情は記憶で出来ているなら記憶を持った真理さんも人間だ!」

「違うだろ。いくら似ていても人間じゃない」

「そんなことは……!」

「……同情してるのか、進。お前のミスなのに」

 あまりに冷静な小西に、冷水を浴びせられたように進は身動きが出来なくなった。怒ってみても苛立ってみても、進がまいた種だ。後悔して真理のために怒ってみても、もはや取り返しが付かない。

「冷静だね、幸兄は」

 多少嫌みが混じった言葉になったかもしれない。でも小西の目はあくまでも冷静沈着だった。研究者としての冷徹さは、こういうものなのだろうか。

「進。きっとヒューマノイドに対して違和感を持つのは、ヒューマノイドの周辺にいる人間の方なんだ。遅かれ早かれ、記憶を持つ違法ヒューマノイドを所有する人々の幸福は、崩壊する運命なんだ」

「どうして? 生きていて欲しいと望んだのは、周りなんだろう?」

「そうだ。だけどやがてヒューマノイドは、ただの記憶装置だと気がつく。愛する者の記憶を持っていても、彼らは元々のヒューマノイドが持つ数十種類の表情しか再現できないんだ。人間には無数の感情があり、それの伴う表情がある。だから人間側が違和感を抱くようになるんだ。それをヒューマノイドは敏感に察知する。人間の数百倍も速い速度でそれを捉える目を彼らは持っているからね」

 研究者としての言葉には重みがあった。

 自分で想像してみた。ぐうたらな谷崎がある日ヒューマノイドに変わったら、どうするだろう。ぐうたらでいつもやる気が無いが、どんなに不利な状況であっても、相手が本当に困っていたら、渋々という顔を作って引き受ける人のいい谷崎。学生時代から探偵事務所にいる進は、一つ一つの動作で彼が何をしたいか、考えているのか分かる。

 だけどそれがなくなり、余計な動作をしなくなったら? 記憶は谷崎でも、その一つ一つの行動に、進は疑問を抱きそうだ。それが違和感だ。そうなるときっと進もこう答えを出しそうだ。『これは谷崎ではない』と。

 黙ったままの進を歩くように促しながら、小西が口を開く。

「ヒューマノイドの研究が過渡期に入る頃に言われた説がある。『不気味の谷』という話だ。人間はよりリアルに人間に近づいたヒューマノイドを、気味が悪いと感じるんだそうだ。同じ二足歩行していても、つるんと小型なロボットを気味悪がる人はいないだろ?」

「うん」

「でもそれを徐々に人間に似せていくと、そっくりになった時点で皆が気味が悪いというようになる。その気味の悪いか悪くないかの境目を『不気味の谷』と称したんだ」

 進は足を止めて、坂の下に広がる街を見下ろした。

 遠目に見たら人間に見えるだろうけれど、この街にもヒューマノイドはいるだろう。

 人工知能が入った工業用のロボットを、気持ちが悪いと思う人はもういない。ヒューマノイドと違って、可愛らしいロボットを所有している人々は沢山いる。彼らもそれを気味が悪いなんて思っていないだろう。

 でもそれが完全に人間で、しかも何かが人間とは違うと違和感を感じたならば、それが気味の悪さになっていくのかもしれない。

 ふと気がつくと小西は少し先を速度を緩めて歩いていた。進が追いついてこないことに気がついているのだろう。小西の背中は、少し寂しげだ。微かな桜の香のようにうっすらとした不安を感じながら、小走りにその背中に追いつく。気配で進が追いついたのを知ったのか、再び小西は口を開いた。

「ヒューマノイドも同じじゃないか? 最初は帰ってきた死者に喜ぶけれど、一緒に暮らす間に徐々に違和感を感じて、不気味に思ってきてしまう。生前の人物とうり二つだから違和感は更に大きいだろうな」

 だから智理は、娘の意見を入れ、息子を機能停止させることを選ぶのだろうか。顔も声も記憶すらも自分の息子だというのに。

 無言で元来た道を辿る。桜は満開を過ぎて、散りながら世界を淡いピンクに染め上げていく。

 季節はこんなに綺麗なのに、大江家はどうなってしまうのだろう。小西が言うように、息子を失っても娘を呼んで幸せに暮らしていくのだろか。

 いつの間にやらたどり着いた駅で、用事があるという小西と別れ、進は迷いと後悔を胸に大きく抱えたまま、谷崎探偵事務所に引き返した。

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