Scene4

 ここに戻るきっかけは、ユウとの出会いと隆との再会だ。もしそれがなかったならば、私はおそらく天涯孤独となった今も、東京で夢に怯えてもがいていただろう。

 窓ガラスにそっと触れ、私はあの日々のことを思い出す。

 あの日々。

 あれは今から三年前の秋のことだ。

 今まで元気だった私の母が、叔母に会いに来ていたこの家で突然、くも膜下出血で倒れた。親戚との縁が薄かった母は、私がまだ子供だった頃に離婚していたから、家族は叔母を除くと私だけだった。

 その日、舞台に出ていた私は、舞台が終わった後、何十回も入れられた叔母からの留守電で母の状態を知った。小劇場故に代役もままならず、叔母に泣いて謝りを入れ、舞台をこなしてから母の待つ病院へと急いだのは二日後だった。

 母は生きていたが、目覚める可能性はなかった。親不孝者、恩知らずと叔母からの厳しい言葉を投げ付けられつつ、私は叔母に頭を下げ続けることしか出来なかった。

 もう自分の生活に限界と疑問を感じ始めていたというのに、それでも私は唯一の家族である母より舞台を取ったのだ。自分でも親不孝な娘だと思う。

 その後の仕事が決まっていなかった私は、私を憎むような目で見る叔母の提案するように、福嶋家から近くの総合病院へ通って、母の面倒を見るしかなかった。

 叔母は三日に一度、病院へ行く。私は三日に一度休みがある。

 看病に行く日は、朝から病院へ向かい、面会時間が終わる頃に福嶋家へ帰った。そういう生活だった。慣れない病院での看病に疲れ切った私に浴びせられたのは、ねぎらいではなく、叔母の嫌みや文句だった。

 叔母は年上の夫に先立たれていたし、一人息子との関係は破綻していたから、妹である私の母をとても大切にしていた。

 叔母も寂しかったのだろう。だから私に感情をぶつけるしかなかったのだ。私も母より舞台を優先したのだから、これは報いだ。

 母が死ぬまでずっと、この生活が続くんだろうか。そう思うことは重苦しくのしかかってきていたが、同時に私を解放してもくれた。

 私には演劇をやめる理由が出来た。才能のなさを認めるよりも楽な逃げ道を見つけ出したのだ。夢にすがりたいような、逃げ出したいような気持ちが、自分の中で渦巻いていた。

 このままいたら自分の方が壊れてしまいそうだ。そう思った時、私は自然と森に足を向けていた。叔母が病院に行く日は、私の自由に暮らせる日だったのだ。

 叔母と自分の夕食の支度をして、私はパーカーにジーンズという軽装で何も持たずに、昼間から森に入り込んだ。積もった落ち葉が朽ちて積み重なり、土の香りを醸し出す。緑の木々は空気を研ぎ澄ませて心を緑に塗り替えていく。私にとってこれ以上開放的なことは無かった。心にため込まれた澱みが森の土に帰って行くようだ。

 森の中を方角も分からぬまま彷徨し、疲れたら落ち葉と下草で柔らかく沈み込む場所を探して、寝転がって空を見上げて目を閉じた。

 このまま舞い落ちた落ち葉と一緒に、吸い込まれて森の一部になってしまえたら、どれだけ心地がいいのだろう。そう思うと目を開けるのも億劫だった。

 ユウと出会ったのもそんな時だった。

 いつものように落ち葉と下草に横になっていると、不意に人の気配を感じた。ゆっくりと目を開けると、そこにラフなシャツを身につけ、ジーンズを穿いた青年が立っていた。

 それがユウだった。

 少し童顔で年齢が分からないが、自分と同世代だろう。私はユウを一目見てそう思った。彼は微かな苦悩を浮かべ、眉を軽く寄せたまま、その手に持っていたクヌギの実を放り投げた。私に向かって投げたわけではなかっただろうが、それは私の額に落ちてくる。

 草の中から勢いよく身を起こした私に、ユウは小さく声を上げて驚いた。顔を覆っていた苦悩の欠片も驚きと共にどこかへ飛び去ったようだ。

 その時に、初めて私とユウは見つめ合った。

 森の木漏れ日の中で葉に透けたきらめく光と透き通った緑に照らし出されるユウは、何故だか少し儚げに見えた。光と共に消えてしまいそうだった。

 私はといえば、言葉も無く黙ったまま額をさすることしか出来なかった。こんなところで寝ていたのが悪いと分かっていたから、怒っていいのか判断が付かなかったのだ。

 でもユウはすぐに、おかしくて堪らないというように吹き出した。途端に儚さはかき消え、朗らかな印象だけが残った。手に持っていたいくつかのクヌギが、ユウの手のひらから、ころりと森へ帰っていく。

「ごめん、当たった? まさか人がいるとは思わなかったよ」

 屈託のない笑みを浮かべて私に謝罪したユウに、私は慌てて手を振った。

「こちらこそごめんなさい。こんなところで寝てて」

 普通、枯れ葉に年頃の女が埋まっているなんてあり得ないのだから、気がつかなくて無理はない。困る私に、彼は問いかけてきた。

「君は枯れ葉の精か何か?」

 明るく子供っぽい口調に、何とも言いがたい緊張感がほろりとほどけた。ただユウは私がここにいたことを面白がっている、それが分かったから、気が楽になったのだ。

 柔らかく細められたその瞳を見ながら、私も笑みを返し遠慮無く青年に問い返していた。

「どうして?」

「だって君、髪に枯れ葉をまぶしているじゃないか。それを取るのは手間だろうね」

 言われて初めて髪に手をやり、愕然とする。いつもの場所とは違い下草が少なかったから、枯れ葉が全て髪に絡みついていたのだ。

 しかも今日に限って、髪を結っていなかった。長い髪はまるで熊手のように、枯れ葉を皆吸い付けてしまう。

「あーあ、これじゃ家には入れないなあ」

 ついついため息が漏れる。これでは叔母に怒られる。こんな状況、何十年ぶりだろう。少なくとも子供の頃以来だ。

 しばらく髪に絡まった落ち葉と格闘していたが、ふとそんな自分がおかしくて私は吹き出してしまった。今日は夜まで一人なのだから、ゆっくりと家に帰って風呂に入ればいいのだ。

 どうやら私は叔母との生活の中で気持ちが萎縮しきっていたらしい。

「何かおかしいことがあった?」

 優しい口調で聞くユウに、私は笑顔の欠片を残しつつ頷く。

「たいしたことじゃないよ。あなたも散歩中?」

「もちろん」

「昼間にこんな所をうろうろしてるなんて、フリーターか何か?」

「まあ近い感じ。いうなれば自由人、かな」

 穏やかな笑顔の中に、微かな暗さがよぎる。

 自由人と名乗っておきながら、ユウは何かに繋ぎ止められていた。その苦しみが森の香りと同じように微かに、彼からにじみ出ているようだ。

 もしかしたら、私たちは同じなのかもしれないと直感した。彼もまた、森に還りたくてここに来るのかもしれない。

 でも私は世間話のように何事もなく言葉を綴る。

「実はサボりで、本当は堅苦しい会社員とかじゃないの?」

「近い。でもサボリじゃないよ。意外と時間がラフな職場なんだ」

「ふうん」

 ユウの第一印象を一言で言うならば、どことなくつかみ所の無い人物だった。ふわふわと柔らかな口調で話すかと思えば、目は遠くを見ている。

「きみもサボリ?」

 不意に聞かれて私はおかしくなった。叔母から見れば、病院へ行くわけでもなく、こんな所にごろごろしているなんてサボリだろう。

 でも家事は終えてきたし、これは正統な休憩時間だといえる。私が私を追い詰めないためには必要な時間だ。

「近いかも」

「そう」

「ねえ、散歩続けるなら続けてくれる? 私はまだここで落ち葉に埋まっていたいし」

 自分の寝そべっていた枯れ草と下草を確認する。先ほどの場所から少しそれれば、心地よく横になれそうだ。

「ああ、ごめん。俺のことは気にせず横になってくれ」

 本当に分かっていないのか、何か含むところがあるのか、ユウはそういって微笑んだ。戸惑いながらも言わなければ伝わらないことを感じ取った私は、ため息交じりにユウに告げる。

「……私も一応女だから、見ず知らずの男性の目の前で襲ってくれと言わんばかりに横になる気は無いんだけど」

「ああ、ごめんごめん。俺はユウ。君は?」

 別に自己紹介を求めたわけではないのだが、こう言われたら私だって答えるしかない。

「明日美」

「明日美ね。アスって呼んでも?」

「何で?」

「何かその方が森の妖精っぽくない?」

「……この歳で、この容姿で妖精扱いされたの初めて」

「そう? そりゃあみんな見る目無いね」

 そういうとユウはその場に寝転がり、心地よさそうに両手を上に伸ばした。どうやらこの場に腰を据えるつもりらしい。戸惑いながら私は立てた膝に両肘を付いた。

「ユウ」

「ん?」

「ここはユウの場所だった?」

 いつも決まってここにいるのならば場所を空けるのは私の方だ。三日に一度しか来ないから、ユウの場所を知らず知らずに奪っていたのかもしれない。

 でもユウは不思議そうに、身を起こすでもなく、枯れ葉の中から見上げてきた。

「いや、アスの場所だろう?」

「じゃあどうして?」

 普段なら多少警戒感を持ってしまうだろうに、あの時の私は妙に無防備だった。きっと子供の頃から慣れ親しんだ森の中にいたからだろう。

 私の問いかけに、ユウは微かに目を細めた。

「一人で考えたかったんだけど、正直人がいて少し安堵したんだ」

 ユウが片肘を付いた私の方に、寝返りを打つ。

「君が落ち葉の精霊なら、聞いてくれるかな」

 彼の横顔を眺めていた私は、正面から見つめた彼の目に、自分と似た色を見つけた。ユウは疲れていた。すり減っていく日々に倦んでいる私と同じように。

 私は再びその場にごろりと横になった。

「襲って欲しくなった?」

 冗談めかしたユウの言葉に、私は木漏れ日を見上げたまま答える。

「聞いてあげたくなった。交換条件付きで」

「どんな条件?」

「私の愚痴も聞くこと」

 今まで一人で、誰にも話せなかったから。

「オッケー。交渉成立だ」

 ユウの手が伸びてきた。手のひらをこちらに向けたユウの手のひらを、私は勢いよく叩く。乾いた音がして、打ち合った手のひらが、私とユウの友情の始まりを告げた。

 私たちは、三日に一度この場所で会った。

 私は自分の抱いていた夢の重さや苦悩を語り、ユウはいつも親友のことを語った。家庭に複雑な事情を抱えていたユウは、私が聞いていると、とても親友に執着しているようだった。

 ユウは高校時代に知り合った親友のことをとても尊敬し、常にその背中を追いかけて、追いつこうと苦しんでいるのだという。

「親友なのに、追いかけるの?」

 疑問に思って尋ねた私に、ユウは苦笑した。

「何をやっても追いつかないからさ。勉強も、運動も、全てにおいて彼は完璧なんだ。きっと持って生まれた天賦の才なんだろうな。今もそうさ。同じ仕事をしているのにあいつは一流、俺は二流だ」

 自分を卑下するとき、ユウは唇を噛みしめて、微かに苦悩で眉を寄せた。

 時折私は、そんなユウの眉間を、指で伸ばしたい衝動に駆られた。その表情の重さが辛かったからだ。想像の中だけで、皺の寄せられた額に触れることもあった。

 暖かな血がきゅっと引き締まった皮膚の中で冷えていくのを、指先でほぐしてあげられれば、どんなにいいだろう。そうしたら、彼はどんな顔をするのだろう。

 でも実際行動には移せなくて、代わりに私は自分の額を撫でてみる。私も夢に追いすがっている時、あんな顔をしているのかもしれないと思いながら。

「必死で追いつく努力をする俺に、あいつは穏やかに笑うんだ。『無茶するなよ』って。同情されてる気分になって、少し落ち込む」

「気に掛けてくれてるんじゃないの?」

「そうなんだけど、いつも振り返られているような気がして、落ち着かないんだ。追い越したいとは思わないけど、振り返って欲しくないんだ。一緒に肩を並べられたらって、そう願ってる」

 優秀すぎる友への劣等感に苛まれるユウに、私は深い共感を覚えた。私の劣等感は、自分の抱いてきた夢に対して、自分が如何に無力かという劣等感だった。

「いつか何か一つでも勝ちたいよ。あいつの目の前で、自分を誇ってみたい。あいつが本気で驚愕する顔が見たいんだ。そのために俺は劣等感の中でずっともがいてるんだ」

「マゾだね、マゾだよユウ」

 重苦しい空気を吹き払うように冗談を飛ばすと、ユウは一瞬あっけにとられたように黙った。もしかして怒ったかなと少々心配になった私だったが、やがてユウは吹き出した。

「本当だ。俺ってマゾヒストだったんだな」

「そうだよ。もっと気楽になればいいのに」

「そうだよなぁ。気楽になれればちゃんと親友でいられるのに」

 いつもユウは苦悩を自分で飲み込み、黙り込んで話を終える。そして私の話を優しい相槌とともに聞いてくれるのだ。

 ユウと時間を過ごすようになってから一月ほど経った頃だろうか。泊まりがけで法要に出かける叔母を見送った私は、久しぶりに従兄妹の隆と会った。

 いつものようにユウと会い、少し気楽になって家に帰ってきた私は、まず見慣れない男物の靴に焦った。もしかしたら泥棒でも入ったのかと、緊張感が増す。

 無いよりはましかと木製の頑丈な靴べらを手に、恐る恐る足音を忍ばせてリビングへ足を踏み入れた私は、ソファーに身を沈め、テーブルに両肘を付いて両手で顔を覆ったまま微動だにしないスーツ姿の男性に固まった。

 体中が心臓になったように激しい鼓動をなだめていると、男はタブレットを出してきてテレビを付けた。他人の家でテレビをのんびり見る泥棒がいるわけ無いと気がついたとき、私はそれが誰なのかを理解した。

「隆」

 そっと呼びかけると、隆はのろのろと顔を上げた。いつも怜悧に何かを見つめている、知性に満ちた瞳が暗く曇っていた。

 あまりに疲れた表情を見せる隆に仰天した。その日初めて、いつも自信に満ちている隆でも、苦悩することがあることに気がついた。

 そんなことは同じ人間だから当たり前なのに、私はその時まで、隆はたった一人で立っている、完璧な人間なのだと思い込んでいたのだ。

「……明日美!」

 仰天したのは隆も同様で、慌てたように表情を繕ったのだがすでに手遅れだ。隠しきれない苦悩を滲ませたまま、隆はソファーに沈み込んで私を見上げた。

 テレビの音だけが、この場にそぐわない明るい音を流している。

「疲れてるの、隆?」

 硬い表情を動かさない隆に近づき、おずおずとソファーに座る。手にしていた靴べらはテーブルの上に置いた。

「少し……」

 言葉少なに俯く隆をじっと見つめる。隆に会うのは久しぶりだ。前にあったのは何年前だろう。堅苦しく、生真面目そうな雰囲気はそのままだ。

「来てたんだな」

「お母さんが倒れてからずっと住んでるよ。聞いてなかったの?」

「ああ。じゃあ、俺は研究所に帰るよ」

 作り笑いを浮かべて立ち上がりかけた隆の肩を、反射的に立ち上がって、上から無理矢理押さえつけた。中腰になっていた隆が、よろめきながらソファーに座り込む。

 何となく、このまま研究所に帰すのは違うような気がしたのだ。肩に掛けたままの手に力を込め、じっと輝きを失っている隆の目を覗き込む。

「ここ、隆の家だから」

「そうだけど、今は明日美がいるだろう?」

 研究所は目と鼻の先なのに、隆はずっと研究所の中にある仮眠室に寝泊まりしていたそうだ。私の母のことも、私がずっとこの家にいることを知らずにいたらしい。

「それじゃあ俺は……」

 再び立ち上がろうとする隆の肩においた手を、再び押さえつける。

「だからここは隆の家だよ。研究所じゃ駄目だからここに休みに来たんでしょ? だったらこのまま帰るの違うんじゃない? 疲れを取りたくてきたのに、疲れて帰ってどうするの?」

 たたみ掛けるようにまくし立てると、元々口数がそんなに多い方ではない隆がたじろいだ。

「私がいて休まらないなら、私、借りてる部屋に引きこもる。思う存分隆は苦悩して。いい? ここは隆の家だからね!」

 言いたいことを告げると、二階に与えられた客間に上がろうとソファーから立ち上がった。

「じゃあ、また後で」

 呆気にとられたように見上げられたから、私は昔見た映画のように親指を立てた。

「グッドラック!」

 その瞬間、隆が吹き出した。

「グッドラックって……」

「こういう時に使っても問題ないでしょ?」

「思う存分悩むことの、どこに幸運があるんだ」

「あ、まあ、そうかな」

 あまりに笑われるから、恥ずかしくなってきた。

「……まあ、言葉はどうでもいいよ。ちゃんと休んで行ってね」

 赤くなる頬を膨らませてむくれると、私は階段へと向かった。これ以上、恥の上塗りをするのはごめんだ。

「明日美」

 呼び止められて足を止める。本当はそのまま自室へ行ってしまいたかったのだが、無視するには真剣な口調だったからだ。

 振り返ると隆は、ソファーから立ち上がって縋るような目で私を見ていた。そんな顔をする隆を見るのは初めてだ。

 どこか身体の中が重くなった気がした。一瞬の鼓動に、自分でも動揺する。

「何、隆? そんな顔しちゃって」

 あえて明るくその顔を見つめると、隆は俯いた。握った拳が所在なげに微かに開いては閉じている。何か言いたいことがあるのだろう。その表情をする人を放っておけるわけもない。

「隆?」

「なあ明日美。俺は……傲慢かな?」

 あまりに意外な言葉に、言葉が全く出てこない。久しぶりに会ったのに、そんなこと分かるはずなど無い。

 きっと私は間抜けな顔をしていたのだろう。顔を上げた隆には、焦りの表情が浮かんでいる。

「その、俺はとても偉ぶっているとか、威張り散らしているかな?」

「意味が分からないんだけど?」

「例えば、そう、他人から見たら人を見下しているように見えるかなと思って」

 そう聞き取りにくい口調で聞いた隆には、どうみても私を見下したような態度はない。

「何でそう思うの?」

「友人をいつも傷つけているんだ。大切にしているつもりなのに」

 苦い後悔混じりに隆に見つめられて、私は戸惑うしかない。そんなこと言われても困る、といいたくても、彼は視線を逸らしてくれそうにない。

 ここで誤魔化すのも違う気がして、小さく息をついた。ここは聞くしかないようだ。放っておいて苦悩を深められても困る。

「話を聞くだけなら聞くよ。ただし、私に解決策を求められても困るから。隆ほど頭がいいわけじゃないし」

 階段から降りると、立ち尽くしたままいる隆の横を通って、冷蔵庫に直行した。病院からの帰り道にいつも買ってくるビールが数本冷えているのだ。叔母がいない間のんびり飲もう、なんて思っていたのだが、こういう場合は必要だろう。

 缶を両手に四つほど抱えたまま、ソファーに飛び乗った。まさか、いつも世界が違うほど高みにいると思っていた、隆の相談に乗る日が来るとは思わなかった。

「ほら、座って座って」

 ビールの缶で明るく手招きすると、隆の表情が少し和らいだ。かなりの間会っていないけれど、隆にとって幼い頃から知る私は近しい存在なのだろう。

「悪いな。休みたいだろうに」

「いいよ。久しぶりに従兄妹同士の交流を深めよう」

 着ていたスーツの上を脱いで背もたれに掛け、ワイシャツ姿になった隆がネクタイを抜き、缶ビールに手を伸ばす。一緒に酒を飲むなんて初めてだ。プルトップを引き、ビールを開けると、軽く掲げた。隆は何故か苦笑しながらビールを掲げる。

「じゃ、久々の再会に、乾杯!」

「乾杯」

 缶に口を付けてビールを流し込む。森の中から帰ってきて何も口にしていなかったから、苦みと旨味が喉を心地よく落ちていく。

「あ~生き返る~」

 一気に半分ほど飲み干して息をつく。隆を見ると缶に口を付けてはいるが、微かに笑みを浮かべていた。

「何か楽しい?」

「いや。豪快だなと思って。グラスは使わないのか?」

 言われて初めて気がついた。そういえばこういう場合、少しでも女らしく、グラスを使った方が良かったのかもしれない。でも従兄妹相手に気を遣っても意味が無い気がする。

「一人暮らしが長いからね。洗い物は出来るだけ出したくないんだ」

「その気持ちは分かるな。俺や友人もそうだ」

 私は家に帰らない研究者並みにずぼららしい。これだから病に倒れる前の母が、嫁の貰い手を気にしていたのだろう。

 今となっては結婚して母を安心させるなんて夢のまた夢だ。花嫁衣装を着て見せたら目を覚ますなんて現実感がないことを考える気もしない。もう母が目を覚ますことなど無いと、医者が言っているのだから。

 塞ぎそうになる気持ちを奮い立たせるために、私は席を立つ。今日は隆の話を聞くのだ。

「そうだ、つまみなんかあったかな?」

 再び冷蔵庫に向かい合い、乾物棚を探ってようやくバターピーナッツの袋を持って戻って来た時には、すでに隆の前にあった缶が二つ空になっていた。しかも隆はテーブルに突っ伏している。

「ペース速いね。喉渇いてたとか?」

 わざと明るくいいながら背中を叩くと、隆は顔を上げずに呟いた。

「明日美」

「ん?」

「一人は楽だよな」

 声に軽い酔いが感じられる。どうやら隆は酒に弱いらしかった。

「まあ、楽っちゃ楽だけど」

 ピーナツの袋を破いて広げると、一つつまんで口に放り込んだ。バターの香りが鼻に抜け、適度な塩が舌に残る。

 ビールの缶に口を付けたまま、隆の様子を窺うが、顔を上げる気は無いようだ。

「でも一人より二人がいいと気がついたら、とたんに苦しいもんだな。今まで自分のことだけ考えて、自分のいいように動いていたのに、急に身動きとれなくなる。一緒に目指す目的のために、足を止めなければいけなくなる」

「今まで通りに突っ走ったら?」

「駄目なんだ。不安になる。一緒に走ってくれるのか、共に行けるのか。振り返ったら誰もいないんじゃないかと思うと、すごく後ろが気になるんだ。なのに振り返ったら辛い顔をされる」

 隆は子供の頃から、一人でいた。両親共に研究者で家に帰ることがほとんど無かったのだ。ハウスキーパーが家事をこなし、食事を作ってくれたが、ハウスキーパーの仕事に、隆の相手をするという仕事は含まれていなかった。

 一人家に取り残された隆に与えられたのは、両親の持っていた無尽蔵の資料と、ネットワーク上の膨大な知識だった。

 彼に与えられたタブレットは、常に世界と向き合っていた。彼にとって全ての答えがそこにあった。彼の知らない世界を知ることだけが彼が生きていることと同意義になっていった。

 隆の心は知らず知らずのうちに堅く閉ざされ、たった一人で完結してしまうようになった。求めれば全てが小さなタブレットの中にあった。

 それでも隆は幸福だった。他者を求めたことなど無かったからだ。

「子供の頃、唯一の例外は、叔母さんが来る日だったな。お袋はその日だけ家にいたし、いつも明日美が来てた。俺は俺なりに一緒にいる時間を楽しんでいたんだが……」

「……気付かなかったよ」

 煩わしがられていると今まで思っていたが、彼は楽しかったようだ。そんなのあの態度から察せられるわけが無い。

「俺は一人でいる事に慣れてた。自分の目標さえあれば、一人で生きていけると信じていたんだ。でも高校時代に出会った親友がいた。最初は俺が気にくわなかったらしいんだが、時間を掛けて俺を理解してくれた。同じ道を歩むと決めてくれたんだ。元々、研究者になることなど考えてもいなかった奴だったのに」

「ふうん。いい人だね」

「いい奴だ。最初は驚いた。俺は自分のために研究をしているだけだったのに、いつも振り返るとあいつがいたんだ。戸惑ったよ。ペースを乱されるんじゃないか不安だった。だけど違った。不安を相談できることは、なんてありがたいんだろうって気がついたから」

 相槌を打つよりも、今は静かに聞いている方がいいだろう。沈み込んだ顔を微かに上げて、どこかを見ている隆に、気がつかないふりをして缶を傾ける。いつもよりもビールに苦みを感じるのは、感情のせいだろうか。

「失敗を突き詰めるよりも、助言を求めることで色々な可能性を試せるようになったんだ。だから安心して自分の道を進めた。想像したこともないほど順調だった。今後のことを共に検討するのは楽しかった。なのに気がつくと、あいつが俺に対して憎しみに近い目を向けて一歩引いてた。それでようやく気がついたんだ」

「何に?」

「共に歩んでくれる友がいたことに舞い上がり、相手のプライドを傷つけていたことをだ。問いかけながら、自分で答えを出してしまう。助言を求めたはずなのに、口に出してしまえば答えが出てしまうこともある。口に出すことで答えが自分の中でまとまってくるんだ。そんな時に目の前で俯いて唇を噛む姿を見ていたら、俺は傲慢で嫌な奴なのだと納得するだろ?」

 テーブルにうつぶせたまま、顔だけが私の方を向く。問いの答えを求めていることは分かったが、どう答えていいものか分からない。酔っ払いめと思ったが、真剣すぎるその顔にため息をついた。

「傲慢で嫌な奴とは思わないけどさ、私だったら寂しいっていうか、ちょっと惨めな気持ちになるかな?」

「惨め?」

「だって問いかけられても答えは隆の中にあるんだもん。隆と一緒にいる自分の存在意義って何だろうって考えちゃうでしょ? 必要とされるから一緒にいるんだよ。必要とされなくなったら、それに縋るのって結構難しいもん」

 それは私と舞台との関係にとても似ている。もし私ならば、きっと必要とされないことに軽くため息をつき、出来ることを色々な方向から探ろうとするだろう。そうして自分の居場所を必死で探りながら確保しようともがく。今までの私がそうしてきたように。

 でも相手が舞台や夢ではなく人である場合、必要とされなければ、私は笑うだろう。笑って去って行く。私は去る者を追うことをしたくない。

 自分を愛してくれる人を愛そうと思うが、必要としない人に縋る気力は無いのだ。私はきっと、隆の友人よりも弱いのだろう。

 何となく顔を上げずに、手持ちぶさたに指でビールの缶をなぞった。缶を伝う水滴が、静かに流れ落ち、テーブルを濡らす。

「ね、隆の存在意義って何?」

 何気なさを装って尋ねる。視界の片隅で隆の頭が軽く上がったのが見えた。

「研究者でいること、かな。俺の研究がいつか世界を変えられるいう自信が俺を生かしてるんだ」

「世界を変えるんだ……」

 スケールが大きな話だ。でもきっと隆はそれを信じている。私は難しい話は何も分からない。隆が取り組んでいる研究は、ヒューマノイドと記憶にかかわることだと言うぐらいしか分からない。だけどきっとそれは世界を変える研究なのだろう。

 だから共に歩んでくれる友を見つけて、嬉しかったのだ。

 一人は寂しい。少なくとも私は、一人でいる恐怖を知っている。話し相手を見つけられず、深夜の高架橋でビール片手に見下ろす電車の明かりが暖かく感じられる、あの夜の重さを思い出すと、胸が押しつぶされそうだ。

「隆はどうしたいの? その友達とどうなりたいの?」

 大切な友。でも隆の夢にとってはきっと些末な関係。切り捨てれば、無駄に考える必要なんてなくなる事だ。でも隆はそれを失いたくなくてもがく。

 一度得てしまえば、失うことは恐怖になる。そんなこと私だって知っている。一人研究に向かっていた、冷静沈着な隆だからこそ、初めて得た友は何にも代えがたい存在なのだろう。

「俺は相手を思って口を閉ざせない。自分の考えに夢中になってしまうんだ。気がついたら一人で研究室に籠もってる」

「その間友達は?」

「気がつくといなくなってる。またやったなと思うけど、どうにもならない。思いやることで思考が停止することは、俺自身の中で重しになる。互いを思いやれば互いの苦痛になるなんて、おかしいと思わないか?」

「じゃあ捨てられるの?」

「お互いに苦しむぐらいなら、捨てた方がいいのかもしれない」

 重苦しい口調で吐き捨てると、隆はまたテーブルに突っ伏した。本当に酒に強くないようだ。

「お~い、もしもし、酔っ払い?」

 声を掛けても、隆は動かない。寝ているわけではないだろうけれど、思考の海に沈んでいるのかもしれない。隆はきっとこうして簡単に人を置いて自らの思考に潜ってしまうのだろう。

 ため息交じりにピーナツを数粒口に放り込む。酔っ払いが一人の世界に籠もってしまっても、私はいっこうに気にしない。でもこれが共同研究している友達だったら、たまらないだろう。

 どうしたら手助けになるのか、せめてそれを伝えられたら、状況は変わるだろうに。ふとノスタルジックなメロディがテレビから流れてきて、私はため息をついた。

 こんな状況でこの音楽では気が滅入る。

「チャンネル変えて。何か賑やかなのをお願い」

 家庭を管理している人工知能に向かって呼びかけると、テレビがよく分からないお笑い番組に切り替わった。出ているのはちゃんとした人間だ。どれだけ時代が進んでも、きっと芸能関係は人間がやらねばならない分野なのだろうなと思う。

 間の悪い新人漫才師の漫才を見ていると、閉めたはずの玄関の扉が開いた。一瞬泥棒かと腰を浮かし掛けたが、電気が煌々と灯り、賑やかなテレビの音が響く家に泥棒に入る馬鹿もいないだろうと座り直す。

 玄関を通る人の気配に続いて、リビングに現れたのは見覚えのある男だった。

「隆、夕飯。どうせ喰ってないだろ?」

 笑みを浮かべてビニールを掲げた男に絶句する。男も私の姿を見て硬直した。

 強ばったユウの顔を見た瞬間、私は二人の関係を理解した。ユウが私に話していた、追いついて肩を並べたい友は、隆だ。

 そして隆が失いたくないのに、振り返れない友はユウだ。偶然にも私は二人の苦悩を、同時に知ってしまった。

 黙ったまま動揺するユウの瞳を見つめていると、ユウは突っ伏す隆を伺いながら拝むように両手を合わせる。今までユウが私にこぼしていた事を、黙っていて欲しいという意味だとすぐに分かって頷いた。

 私も隆にこぼさないだろう愚痴をユウに聞いて貰っているのだから、それぐらいはお安いご用だ。

「飲んでるのかよ、隆。空腹で飲んだら悪酔いするんだろ?」

 コンビニの袋を置いたユウに軽く揺さぶられた隆が顔を上げる。いつものように迷いのない表情ではなく、どことなく焦点の合わない目でユウを見上げた隆は、不思議そうに首をひねった。

「ユウ?」

「そうだよ。話があるからって呼んだのは隆だろ。何で先に酔いつぶれてんだよ」

 軽く腕を組んで呆れたように肩をすくめたユウに、隆は頭を掻く。

 でもその表情の中に、明らかに安堵した色が見えた。潰れる前に気にしていた、憎しみに似た暗い表情が、ユウの中にないからだろう。

「それから、この可愛い子は誰か、紹介してくれないかな。呼ばれてきてみたら女の子と飲んでるなんて、さすがの俺も焦るよ」

 勝手知ったる我が家のように、ユウはソファーに座り、悠々と足を組む。

 誰がいても関係ないという態度に、何か違和感を感じた。森の中で会うユウと、隆の前にいるユウでは雰囲気がかなり違う。森の中のユウは、どことなく危うい繊細さを持っているが、隆の前にいると堂々してみえる。

「従兄妹の谷月明日美だ。東京で小劇場の役者をしてる」

「初めまして」

 簡単な紹介に笑顔を浮かべると、ユウは初めて私に本名を名乗り、隆の共同研究者であると説明してくれた。

 今まで私とユウは、お互いの話をしつつも、お互いについて何も知らなかったから新鮮だ。そして何事もなかったように、ユウは平然とこう告げてきた。

「俺のことはユウと呼んでくれるかな?」

 笑みを浮かべたユウに差し出された手を握り返して、微笑み返す。

「私はアスって呼んで。呼びやすいでしょう?」

 あなたがいつも呼んでいるんだから。

 暗にそれを言葉に込めると、握り返した指先に力が込められた。意図はちゃんと伝わったようだ。

 そこから私たち三人の、奇妙な友情が始まった。

 私は三日に一度森に行き、ユウと会う。森の中で会うユウとは、仕事の話をしなかった。

 相変わらずユウは自らの苦悩をはき出し、私は夢へ伸ばすには、あまりに短すぎる自分の腕の話をした。

 今まで伏せられていた、ユウの悩みの種である友人の名は『隆』だと私もユウも分かっていたのに、それすらも今まで通り伏せられたままだった。

 私たちはあえて関係が変わることを、避けたのかもしれない。

 そして時折私は、隆に研究所へ呼ばれるようになった。当たり前だが研究所に行けばそこにはユウがいて、見慣れない白衣姿に私は最初戸惑った。

 何故隆が私を呼ぶのかも分からなかったし、何を求められているのか、想像も付かなかった。でも幾度か研究所に行くうちに、その理由を理解した。

 私は隆とユウの間にある緩衝材なのだ。私がいれば隆が独り言のように思考をまき散らして納得しようと、ユウは肩をすくめて私に笑いかける。

 その目は確かに隆を見て微かに苦痛で細められるが、私がいるから重苦しい沈黙にならずに済む。

 研究所の隆と一緒にいて気がついたのだが、きっと彼は社会に上手く適応できない種類の人間だ。一つのことに集中するあまり、人と関わることが得意ではない。自分の事に集中してしまうと、人の心を察することが出来ない。おそらく相手の心に触れることが苦痛なのだろう。

 子供の頃、森ではしゃぐ私の近くで一心にタブレットを見ていたのも、きっと同じ事で、彼は決して私を疎ましく思っていたわけではなかった。

 それでも隆は、ユウと出会えたことを喜んでいたし、ユウを大切に思っている。だからユウが苦痛を受けていることを理解し、どうにかしたいと苦悩するのだ。

 それを分かっていつつ、同じものを目指しているのに、そこに到達できない自分を卑下し、親愛の情があるからこそ屈折してしまう感情をもてあましているのがユウだ。

 二人が二人だけでいると、お互いへの思いやりや気遣いが、苛立たしさや、焦りへと変わっていくようだが、私がいると全ての感情がひとまず私に向く。

 研究のことも、二人が何を目指し、何をしているのか全く理解できない私の存在は、彼ら二人にとって全く利害関係が絡まない存在だ。だから直接ぶつかり合わず、楽なのだろう。

 特に社会不適応者である隆は。

 母の看病が半年になる頃には、私たちの関係は更に変化を重ねていった。

 私とユウが森で過ごす時間は少しづつ減り、代わりに隆も含めた三人で森に入るようになった。三日に一度、ほんの数時間、私たちは三人で森の中で過ごす。

 森で話すことはたわいのないことばかりだった。

 隆とユウは、高校時代からの二人のエピソードを語り、私は子供の頃、この森で隆と共に過ごした日々を語った。

 隆は世間話をするのが苦手だから話すのはもっぱらユウで、相槌を打ったり説明を加えるのが隆だった。私の話も同様で、私が主に話し、隆がそれを時折補った。

 隆が雄弁になるのは、研究に関係することばかりだった。色々な理論や、電気信号、イオン電子、チャンネルタンパク質、神経伝達物質、大容量IC回路……蕩々と流れるように語られるそんな話は、私にはさっぱり分からない。

 それでも私はそれを否定することなど出来ない。隆も分からないことなど承知の上なのかもしれないが、それでも彼にとって、自分を語ることは研究を語ることと同意なのだろう。

 全てを分からないと切り捨ててしまえば、それは隆を切り捨てることになりかねない。

 不可解な記号のような話の中で最も印象的だったのは、記憶のメカニズムを分かりやすく語ってくれた時だった。

「記憶を分かりやすく言えば、星座なんだ」

 そう隆は言った。

「一つ一つの星が一つの記号を意味する。一つの星を見てもそれは出来事を語らない。例えば一つの星には、色々な丸を認識し、記憶する機能しかない。他の星には顔の簡単な配置を記憶する機能がある。色を認識する星、髪型を覚える星、色々な星が全て星座を繋ぐ線のように、シナプスという線で結ばれているんだ。シナプスで結びついて初めて、明日美の中に人間の顔が記憶される。同じように全ての記憶は断片として記録され、イオンの動きによって結び会い、関わり合うことで記憶となる」

 説明されると不思議な感じだ。自分のことだし自分の中で起きている事実なのに、あまりにも漠然としたイメージで現実感がない。そんなことを私が感じることも予想の範囲だったのだろう。

「脳の中は宇宙と同じで無数の星々で溢れている。その中から規則性をもって星図を取り出すのが、記憶をバックアップすることだ」

 隆とユウは、その無数の星がひしめく脳を立体的な超詳細図に書き起こす。

 昔は一つ一つ記憶を聞き取りながらの調査だったが、現在はその記憶を電波信号を詳しく追うことで、まず全てを丸写ししてから星座にするのだという。

 専門の機械を使えば、その人が今考えていることすらも、映像として見えてしまうなんて初めて知った。

 そうして作られた詳細図を元に記憶をデータとして全て吸い出し、手のひらに収まりそうな小さな機械に記憶する。

 手のひらの中の宇宙。

 機械の中は無数の星たちで溢れている。

 私たちが持っているのに決して見ることの出来ない、脳という名の別世界。解明されつつある今もまだ、脳は謎の部位であり続けている。

 目を閉じれば頭の中に、広大な宇宙空間が浮かび上がる。

 冷たく真っ暗な闇の中を、夜空に浮かぶ無数の記憶の星が、静かに明滅している。

 シナプスを通して流れるイオンチャンネルは闇を切り裂く流星の光となり、白い輝きを帯び、星と星を結び合う。

 結び会った光はまるで激しい雨のように音を立て、カリウムイオンを放つ。

 輝きが結びつき、絡み合う光の中に記憶が生まれ、そこに人間が生まれる。

 まるで宮沢賢治の詩のようだ。

 題名は何だったか思い出せないが、幼い頃に見た古い銀河鉄道の夜のアニメーションで、その詩が蕩々と語られていた。

『私という現象は、

 仮定された有機交流電灯の一つの青い照明です。

 風景や景色と一緒にせわしくせわしく明滅しながら、

 いかにも確かに灯り続ける、

 銀河交流電灯の一つの青い照明です。』

 隆のこの話を思い出す時、私の頭の中に青く輝く無数の星たちが瞬いては消える。

 青く燃える記憶という名の星々も、私という命も、同じようにこの宇宙にあるちっぽけな一つの天体に過ぎないのだ。

 そんな無限に広がるイメージが、小さくこぽりと音を立ててわき上がってくる。

 きっとこれは私の勝手な想像なのだろう。それでも彼らが話したその光景は美しかった。目を開けると一面に広がる木漏れ日の輝きと命溢れる緑色の風と同じぐらいに。 

 研究を楽しげに生き生きと語る隆だが、自分のことを話す時は、研究内容を話す時と違って、静かで言葉少なだ。それでも私たちはその言葉に耳を傾ける。

 その中にユウは才能への嫉妬を超える共感を探し、私は今まで知らなかった彼を知る。

 個人としての隆は、自分で語るように、平凡な人物なのかもしれない。

 研究者の両親に育てられ、毎日孤独の中で暮らしてきたのに、没頭できることがあるから、孤独であることに気がつかなかったのだ。人との繋がり、共感、愛情。そういったものが人生の中で必要だと言うことすら、彼は知らずにいた。

 彼の世界は一人でいることで満たされていた。ネットワーク上で色々な人たちと議論するにしても、それは全て研究や興味対象のことでしかなかったから、暖かな交流など必要としなかった。

 そんな彼が高校で出会ったのがユウだった。複雑な育ちのユウは、特待生として奨学金を得るため必死で勉強していたにもかかわらず、隆には敵わなかった。

 そんな隆に何気なく『あんた、頭がいいんだな』と話しかけたユウは、あっさりと隆に『頭がいいわけじゃない。簡単なんだから仕方ない』と答えたのだという。

「どんだけ俺を馬鹿にしてるんだと思ったね」

 と、ユウは当の本人の肩を叩きながら笑う。隆は決まり悪そうに苦笑していた。

 ユウは桁外れの天才・隆があまり人とかかわらないことを、初めは驕っているからだと思い、突っかかったのだそうだ。だが話してみると、隆が人と付き合う必要があることを知らないのだと分かった。

 休み時間はタブレットとにらめっこで、授業中もタブレットを、授業と何らかの難しい論文に二分割して両方に答える隆を、ユウはやがて無理矢理あちこちに連れ歩くようになる。

 当然のことながら隆はそんなユウに戸惑い、何故そんな風に連れ歩くのかを疑問に思ったが、ユウに逆らう気にならなかったのだそうだ。

「……楽しかったんだ」

 タブレットの外にも世界があるのを、初めて知ったような気がした。言葉少なに隆はそう言って笑う。

 やがて二人の一風変わった友情は、強固なものになっていく。隆にとって友達と呼べる人はユウだけだったし、明るさで周りに人が多く集まるユウもまた、自分の境遇に同情せず、現在のユウだけを尊重してくれる隆が得がたい友になっていった。

 大学まで付属しているその高校で、飛び級で学年を上がる隆と共に過ごすため、ユウはなおいっそうの努力を強いられた。でもその頃はまだ、微かな胸の痛みに気がつくこともなかったのだという。

 隆はその高校生活で初めて友を得たこと、ユウを信頼して共にいられることを本当に幸福だと信じ切っていた。お互いの高校時代の昔話を語る時、隆もユウも、とても穏やかだった。本当に信頼し合った仲のいい友人同士に見えた。

 でも私はユウの苦痛を知っていた。

 隆の苦悩も知っていた。

 共にいる時間が長くなればなるほど、二人の世界は狭くなっていった。高校の友達は、気がつくと後輩になっていて、学校創設以来の天才と呼ばれた隆と相棒のユウは、ごく普通の人生から少しずつ隔絶されていく。

 ユウは孤独を知っていた。友を得てこれからも前に進んでいけるはずだったのに、気がつくと隆と二人孤立した状態になっていた。

 平凡な日常へ手を伸ばそうとしても、追いつかねばならない友の存在がそれを引き留めた。一度遅れたら、もう追いつけなくなると、恐怖感が脅迫概念のようにユウに染みついていた。

 だからだろう、気軽に接する数人の友人たちと連絡を取るよりも、論文を書く時間を選んでしまったのだ。

 大学を卒業し、隆は海外で研究過程に入った。ユウは日本に残って同じ研究を続けた。ほんの数年の時間でユウはようやく息をつけたが、それもまた隆が日本に戻り、父の研究所を引き継いだ時に終わった。

 そして焦りと、嫉妬と孤独の日々が始まったのだろう。

 いつの間にかユウは隆に勝ちたいと思い始め、全く追いつけない隆へ憎しみに近い感情を抱く時も出てきてしまったのだ。

 隆から隆の、ユウからはユウの苦悩を聞きながら、私は三人でいる時何も口にしなかった。口にする必要も無かった。

 自分のことを話し尽くしてしまうと、特に言葉が必要ではなくなっていった。ただ森の中に三人でいる事だけが、大切な時間に変わっていった。

 目を閉じ、風の音を聞き、緑の香りを胸に吸い込み、時折何気ない会話を交わすことだけで、何かが満たされた。

 三人でいることが、不思議な安定を生んでいたのだ。

 あの日、あの場所で突然に崩壊するまでは。

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