Scene2

 逃げ出してきたんだなあと、窓の外を見ながら私は考える。

 開いた窓から入り込む風は、春を謳歌する草花の青々とした強い香りに満ちていた。冷たくも春らしい暖かさをはらんだ風が、前髪をそっと揺らす。

 楽しげに花の綻びを待つ鳥たちのさえずりと、風に揺れ目映く揺れ動く木漏れ日に目を細めていると、自分が如何に夢から遠ざかったかが実感できた。

 少し前まで身を置いていた喧噪を思い出すと、この穏やかな状況に焦燥感を覚えずにはいられないのだが、時の流れがあまりに緩やかな日常の中では、それすら無意味に感じる。

「明日美」

 気遣うように呼びかける声に振り返ると、世間的には夫婦として知られる福嶋隆がスーツ姿で立っていた。先ほどまで眠っていたというのに、身支度が恐ろしく早い。

「おはよう、隆。ご飯も食べないの?」

「ああ。朝食を食べると、頭が鈍る気がしてね」

「そうかなぁ……逆だと思うけどね」

 研究者であり、元来几帳面である隆は、自分で決めたルールを持って生活している。子供の頃からそういう所があったが、大人になって一緒に暮らすと、独特なその生活ルールが何とも言えず面白い。

「明日美は?」

「ん、食べたよ。今日は洋食」

 何気なく答えながら、家具のほとんど無いリビングの中心に置かれている大きなソファーに腰を下ろし、テレビに向かう。

「紀行番組、ある?」

 呼びかけつつ頬杖を付くと、世界遺産の番組が勝手に流れ始める。同時に目の前の重厚な木のテーブルに、暖かな紅茶が置かれた。

「ありがと、エツコさん」

 お礼を言って笑うと、ホクロやシミなどが一つも無い、つやつや肌の、若い家政婦がにっこりと微笑む。エプロン姿でどこにでもいそうな平均的な顔つきをしている。束ねた髪がさらりと揺れた。これが人に安心感を与える完璧な笑顔なのだそうだ。

 エツコは、ヒューマノイドだ。ホームノイドを、最新技術で最も人間に近づけた彼女は外見上、もはや人間と区別が付かない。

 その上事細かに人の表情を読み、完璧な受け答えを出来るように組んだ特製プログラムを使用しているそうだ。人の表情を読み取って、そこから一瞬にして適応する表情と言葉を選び出すのは、なかなか大変な技術であるらしい。

 電子頭脳の反応速度と、人工の表情筋の回路を相互作用させることにより、ほぼ遅れなく表情を作るプログラムは、隆の得意とするところなのだそうだが、嬉々として語った彼に全くついて行けない。

 一応は話を聞くものの、最後は完全にお手上げだ。そもそも機械に疎い私に理解しろというのが無理な話だ。

 TypeFH-X59型と呼ばれる女性型ヒューマノイドが家事用にいると分かった時、私は迷い無く伝説の家政婦女優『市原悦子』をもじって『エツコ』と名付けた。

 名前がなくても不自由しないこの家の住人と違って、私は彼女を型番で呼ぶことに抵抗がある。

感傷かも知れないが、それほどに彼女は人だった。

「洋食か。何が出てきた?」

「空豆のポタージュと、スクランブルエッグと、ハーブウインナーと、クロワッサン」

「ふうん」

 聞いたくせに、興味が無いようだ。そのくせ手元のタブレットに何かを書き入れている。エツコの行動パターンを記録しているのだろう。この隆の自分の世界至上主義は、今に始まったことではない。

 元々隆と私は従兄妹同士だ。隆の方が四つほど上なのだが、母親同士が仲のいい姉妹であったために、お互いの家を行き来することが多かった。でも子供の頃の私には、驚くほど隆の記憶が少ない。

 外遊びが好きだった私は、研究所に併設された福嶋家に遊びに来る度に森で遊んだ。私が危険を冒さないようにと命じられていたのか彼はいつも、当然のように付いてきた。

 でもすることのない隆は、いつもいつも手元のタブレットを見ていた。それでも話しかければ質問に何でも答えてくれた。物知りな隆を私はとても尊敬していたものだった。

 私が安全に森を散策出来るようになると、彼は同じ空間にいるにかかわらず、自分の時間を有効に使うようになっていった。無視されたわけではなく、話しかければ答えが返ってきたが、少しづつ一緒にいる時間が彼にとって煩わしいのだと理解した。

 いつの間にか森へは散策程度に入るだけになり、この家に来た時は、叔母と母の会話に混じるようになっていった。隆と過ごす時間は無くなっていた。

 隆は自分の世界を構築し実現することを一番に思い、私は舞台役者になるという、ようやく見つけた自分の夢に向かって歩き出した。今思えば、それが私と隆の距離を更に大きく分ける、きっかけとなったのだろう。

 隆は研究所を引き継ぐ研究者であり、私には遠い人になった。私は森と彼よりも大切な物をみつけ、彼への興味も急速に失った。母親は相変わらず訪問し続けていたようだが、中学に入ったぐらいから、私はこの家を訪れることを辞めた。

 再び訪れたのは、母が倒れ、この近くの病院に入院した時だ。それから私は、数ヶ月もの長きにわたってこの家にいた。

その月日が良くも悪くも人生の転機になった。

 視線を向けると、隆は綺麗にネクタイを締め上げていた。その動作すら待ちきれなかったかのように、指がテーブルに置かれたタブレットに伸ばされた。滑らかにタブレットを這うその指を、私はいつものようにぼんやりと見つめている。

ほとんどタブレット中毒だと笑う隆の指は、長くてとても綺麗だ。

 こんな事が無ければ、きっと研究職の女性と結婚して幸せな生活をしただろう。もしそうなら一体隆はどういう風に相手の女性を愛でるんだろう。タブレット上を淀みなく滑る指のように、なめらかにその肌に触れるんだろうか。

 そんなことは全く想像ができなかった。何しろ私たちは形だけの夫婦で、実際の関係は未だに従兄妹同士にすぎない。私は彼と結婚したのではなく、過去を償うために、彼らのものとなったに過ぎないのだから。

 微かに胸を刺す痛みを脇に押しやり、紀行番組を見つめつつ呟く。

「エツコさんって、どれだけのレパートリーがあるんだろ」

 独り言のつもりだったのに、しっかり答えが返ってきた。

「ネットワーク上で収集したデータ分はあるな」

 何気なく言われたがそれはものすごいことだろう。顔を上げるといつもの穏やかな微笑みを浮かべた隆がこちらを見ていた。

「X59型は、料理データを自分でネットにアクセスして増やすプログラムが組まれている。現在のレシピは軽く一万を超えてるな」

「一万!?」

「ああ。なんなら掃除の裏技をネット上から拾ってくることも出来る。プログラムを書き換えるだけなら、ほんの十分ほどだ」

「すごいね、エツコさん」

 改めて見つめると、エツコは自分を誇るでもなく、ただただ私を包み込むように、安心させるように笑顔を作る。生きていた頃の母と、その硬質な笑顔はよく似ている。

「ありがとうございます」

 いつもと同じように、柔らかな微笑みを浮かべたまま頭を下げたエツコに、私はどうしても慣れない。人間の感情が欠如しているのに、妙に人間に近いから、余計違和感を覚えるのかもしれない。

 でもエツコを無表情な人だと思えば、大して苦痛でもない。

 そもそもこの家で、ヒューマノイドと人間を区別することはタブーだ。曖昧にしておかねばならない部分が確かに存在する。

「ユウはどうした?」

 この場にいないのを確認した隆に問われて首を傾げる。いつもならすでに、この辺りで寝転がって漫画を読んでいるはずだが、今日はまだ見かけていない。

「まだ寝てるんじゃない?」

「ヒューマノイドなのに?」

「ヒューマノイドだけど……ユウでしょ?」

「そうだな」

 この家にはもう一体ヒューマノイドがいる。だがこのヒューマノイドはエツコとは違う。

 機械なら機械、人ならば人ときっちり区別をしている隆が、彼だけは特別に人間として扱っている。その上、彼の前ではエツコをヒューマノイドとして扱うことすらしない。

 なぜなら彼は個人の記憶を持っている、特殊なヒューマノイドだからだ。

「あちらでお食事をしておいででした」

 当然のようにそういったエツコに、隆はため息交じりに肩をすくめた。

「食事は必要が無いと分かっていても、習慣は変わらないんだな」

「うん」

「消化と排出の機能を付けて置いて良かったよ。付けなかったら文句を言われるところだった」

「そうだね。口ばかり達者だから」

 その特別なヒューマノイドは『ユウ』という。

 彼にはタイプや型番は存在していない。この世で唯一無二の、隆が一からカスタマイズした特製のヒューマノイドだ。

 彼は人間のように睡眠を取り食事をし、屈託無く笑う。ヒューマノイドに感情はないといわれるが、まるで感情があるかのように笑い、悲しみ、拗ねる。

 ユウは隆の友であり、私の友であり、もう一人の私の夫なのである。彼は私たちの友の記憶を持った、特別なヒューマノイドだからだ。人間の彼は記憶を残して、この世から姿を消してしまっている。彼の死ぬ前の本名を口にすることですら、この家ではタブーだ。

 なぜなら彼の死亡届は未だ出ていないからだ。書類上、彼はまだ生きている事になっている。ヒューマノイドであっても、人権を持った人間として生きるには必要な処置だ。だから彼は普通に人間としてこの家で暮らしていられる。

 万全のセキュリティを誇るこの家だが、何かのきっかけでユウの存在が知られた時、嘘をつけないヒューマノイドのエツコや、家庭内の家事補助プログラムを通じてそのことが外に漏れ出すことを、隆は極端に恐れている。

 私がここにいる理由もユウにあった。私が隆の妻としてこの家にいることで、誰にも怪しまれずユウの様子を一日見守れる。従兄妹が住み込みで家にいるよりも、立場上は妻である方が色々と都合がいい。そのために結婚という形式が必要だったのだ。

 家事その他は全てエツコがしてしまうため、形式上の主婦となった私にはすることはない。夫婦といえども書類上だけで肉体関係もなく、当然子供が生まれることもないため、育児の必要も無い。

 だから私は毎日を、もう一人の私の夫であるヒューマノイドのユウと二人でのんびりと過ごす。ヒューマノイドである彼とは、隆と同じように肉体の関係はない。私は言葉を話す置物のように、二人の男の間でただずっと存在し続けるだけだ。

 私は日がな一日のユウの傍らで寝転がって、タブレットで漫画週刊誌を眺めるユウを眺める。買い物に行きたい時にはユウと二人で街中を歩く。穏やかな日差しの中を歩いていても、誰もユウを不審に思う人などいない。

 彼はどう見ても人間だ。

 時折、エツコから仕事を取り上げて二人で食事の支度をしてみる。そして研究熱心で帰りが遅い隆のいない自宅で、ユウと二人食卓を囲む。

 毎日、ユウの顔を見ながら穏やかに食事をしていると、私はいったい誰と、いや何と結婚したのだろうと、考えてしまうこともある。ユウはそれほどに人間だ。ヒューマノイドによくある、会話の妙な間は存在していない。

 何もない、ただ繰り返されるだけの静かな日常。私はその平坦な毎日のために、夢を捨てた。

 そのことに後悔していないと言えば嘘になるだろう。でも毎日アルバイトに追われ、オーディションに落ちて、あちこちの小さな劇団に客演している状態に私は疲れていた。

 劇団に所属していればまだ良かったのかもしれない。でも様々な理由から仲間と作り上げた劇団が解体してしまって以後、所属する場所も見いだせなかった。

 私は夢を追うことに半ば諦めを感じ始めていた。夢という翼の存在が重くてたまらなかった。地面から身体を浮かせることが出来ないぐらい、重荷は全身を縛り上げていた。

 逃げ出したかった。三十が目前に迫ると、オーディションすらなくなる現実を目の前に、怯えていたのだ。

 だから私は隆の誘いに乗った。重苦しかった夢から逃げたのだ。

 諦められないことに必死に手を伸ばし、法を犯しても親友を繋ぎ止めようとする隆と、諦める口実を探していた私の利害が、こんなところで一致したのは、何かの運命だったのかもしれない。

 私は時折考える。私はユウのために、現実という世界に買われたのではないかと。私はユウと共に隆の箱に収められた、彼の世界を完結させるための玩具なのではないだろうか。

「二人ともおはよう。隆はもう出勤?」

 大きく伸びをしながら、ユウが部屋に入ってきた。テレビから目を離して、その姿を見つめる。ユウは背の高い方ではない。背の高い隆よりも頭一つ分は低いだろう。顔も少々童顔気味で、いつも隆よりも年下に見られることを不満に思っているらしい。

 ジーンズにシャツというラフな格好に、寝癖が付いたままふわりと柔らかそうな髪をしているユウは、見るからに人間だった。

 その姿は生きている頃と何ら変わりは無いが、瞳だけは生前と違いヒューマノイドの特徴である、薄いグレイをしている。

「朝食には満足したのか?」

 苦笑しつつ尋ねた隆に、ユウは澄まして答える。

「満足だね。アスと同じメニューだって、エツコが言ってたよ」

「同じメニューじゃないと、食費がかかるでしょ」

 言い返すとユウは唇を綻ばせた。

「しっかりしてるね。さすがアス」

 ユウは生前と同じように、私の名前を縮めてアスと呼ぶ。ヒューマノイドになる前は、その響きにもう少し硬質な物が混じっていた気がするのだが、今はその響きさえも柔らかい。

 私も彼に倣って彼をユウと呼んでいた。彼は初対面の時、年下の私に対等に接するように求めたからだ。

 人間のユウは、研究者であるがゆえか、時折もう少し重苦しい表情と、微かな緊張感を浮かべていたのだが、ヒューマノイドのユウはどこまでも明るく、柔らかな雰囲気を漂わせている。

 そのせいか、研究者の頃よりも、ずっと若返ったように見えてしまう。

「いざという時のためにお金を節約する、これ貧乏人の知恵なの」

 きっぱりと言い切ると、ユウが吹き出し、隆は苦笑した。

「それは俺の稼ぎでは不安が残るって事か?」

「そんなこと言ってないよ」

「ごめんごめん。俺が無職のヒューマノイドだから稼げなくて」

 何の躊躇いもなく自分をそう評すと、ユウは他人事のように笑う。ユウは自分が一度死に、記憶をヒューマノイドに移植されたことを心得ているのだ。

 研究者故か、自分を『被験体一号』と表しては屈託無く笑っている。私はいつもそれをユウと共に笑っていいものか一瞬迷う。

 でもユウは平然と笑い、隆も当たり前のように納得する。もしかしたら研究者は、こういうやっかいな物なのかもしれない。二人に目をやると、穏やかに笑みを浮かべながら会話を続けていた。

「そんなことを気になどしていないさ」

「だけど、アス以上にお荷物だと思うよ」 

「まさかあんな問題があるとはな。お前じゃなかったら些細なミスかもしれないが」

「はは。まさか電算機能が無くなるとはねぇ。ヒューマノイドの電算機能と、頭の中の電卓ってシステム違うなんて、予想外だ」

「やっぱりやってみなくちゃ結論が分からないもんだな」

 あまりにも会話が他人事で、ため息が漏れる。二人とも研究者だからなのか、それともただ単に常識に欠けるのか分からないが、ユウは自分が死んだことと、身体がもう人間ではないことをあっさりと受け止めている。

 ユウの感情面が欠落しているせいかもしれないと隆はいうが、私から見れば隆もユウと変わりない。

「まあ、無職で金がかかることには変わりないが、俺はお前が生きているだけで良かったと思ってるんだ。生活も研究も俺が何とかするから、とりあえず自分の状況を完全に読み込むまで家にいろよ」

「了解。研究が続けられない以外は至ってまともなんで、アス専属のお手伝いさんとして頑張ります」

 ふざけて敬礼したユウは、笑みを浮かべたままソファーに腰を下ろした。ユウの重みで微かに身体が浮く違和感に身じろぎした。最近妙に皮膚感覚が鋭敏になった気がする。

「もう少し苦しむかと思ったが、本当に大丈夫そうだな……」

 ため息交じりに隆がこぼした。

「個人差があるのは織り込み済みだろ?」

「それはそうだが……」

 釈然としない表情の隆に目配せされ頷く。私も最初は素直に驚いた。もし目覚めると突然、もう機械の身体で、感情と呼ばれる物は全て記憶のバックアップに過ぎないと言われたら、私は恐怖に溺れるだろう。

 ここにいる自分は自分なのか、それとも自分ではないのかと。

 でもユウは全く気にもせず、二人の視線を一身に受けて笑う。

「システムもプログラムも、身体の中の回路も大体分かってるんだ。自分が自信を持って作ってきた物を、怖いとか気味悪いなんて思わないだろう。自分の研究を怖がってもどうにもならない。違う?」

 蕩々と持論を述べたユウの、見た目に反した理知的な問いかけにため息をついた。所詮私は一般人で、そう言われても困る。

「いつも浪人生みたいにだらだらしてるのに、こういう時は研究者っぽく見えるね」

「酷いなぁ。福嶋研究所主任を捕まえて浪人生って。でもあまり怒る気がないんだよね。研究できない悔しさもそんなに無いんだ。感情の発露が非常に弱い。研究の通りだ。俺はきっと、人間の時と同じで、やっぱり違うんだろうな」

 淡々と語りながら、ユウは自分のタブレットを起動した。横目で見ると、画面には週刊漫画雑誌の、見るからに少年誌といった賑やかなキャラクターが溢れている。

 ヒューマノイドとして起動してからのユウが、タブレットで難解な図式やら計算をしている姿を見たことがない。コの字型に組まれた、十人は座れるだろうという大きな白いソファーにユウはうつぶせに横たわる。

「お、新連載がある」

 楽しげな呟きを耳にしつつも、テレビに視線を向けた。

 私は研究者ではないからヒューマノイドのことを何も知らない。ユウの中にある研究者としても思いも知らない。だからどこまで口に出せばそれが気遣いになり、どの言葉を選べばユウを傷つけるのか分からず、結局黙るしかない。

 私は森の中で出会い、短い時を共に過ごした友人としてのユウと、ヒューマノイドになったユウしか知らないのだ。

「ユウ、違和感を感じる部分があったり、記憶の齟齬、感覚の差異があったら、俺に知らせてくれ。調べてお前が元のユウに戻れるように微調整するから」

 堅い声色で隆がそういうのが耳に入ってきた。隆はユウに抱えきれないほどの贖罪の思いを持っている。だからユウに不具合があると感じただけで、声色が堅く、重くなってしまう。

 ユウを殺したのは、隆だ。

 意図的に殺したのではない、実験に失敗し、この少し人と付き合いづらい性質を持っている隆の、無二の理解者であった親友を、自らの手で殺めてしまったのだ。

 だから隆は、必死でヒューマノイドのユウを自分の友に戻そうとしている。でも私は、それをユウが望んでいないことを知っている。

「焦るなよ、隆。俺は結構今のままで気楽だよ。電算が狂ってるせいなのか、ヒューマノイドの元のプログラムがいくらか残っているからか知らないけど、以外に俺、幸せなんだよね。これが人間への服従を誓わせたプログラムの影響かな」

 穏やかなユウに、真剣な隆が詰め寄る。

「どう影響が出てる?」

「聞いて驚け。今の俺は隆のことが大好きだ」

「……は?」

 予想外の言葉に私は身をひねって、頬杖を付いたまま隆を見上げるユウを見つめてしまった。

 面白いことに、隆がタブレットを手にしたまま完全に動きを止めていた。隆が動揺するのは珍しい。でもその動揺も分かる。人間だった頃、隆と肩を並べながらも、微かに隆を俯きながら見ているユウでは考えられない言葉だからだ。

 ユウは隆を尊敬し、信頼しつつも、自分が凡人であることに苦しんでいた。それを私は知っている。ユウにとって届きそうで届かない夢は、隆だった。だからこそ悔しさに歯がみしていたのだ。

 当然ながら隆も知っていた。だからこそ微動だにせず、穴が空くほどユウを見つめているしかないのだろう。そんな隆の気持ちを知ってか知らずか、ユウは無邪気にも見える笑みを浮かべた。

「アスのことも大好きだ。もうあの時みたいに馬鹿なことは言わないよ。本当に素直に二人が大好きで、こうしてここにいることが、正直に嬉しいんだ。もう隆の天才的な頭脳に嫉妬しない。これは結構心身共に安らかだ。お前が望む本来の俺に戻される方が怖いよ」

 満足げに頷くユウに、冷静な研究者であるはずの隆も言葉がない。私たちの複雑な感情など置き去りにして、ヒューマノイドのユウはタブレットを置いて、その笑顔のままソファーに座り直した。

「そうだ。俺でも出来そうな仕事があったよ。ほら俺の基本って、セクノイドだろ? 二人のどちらの相手も出来るじゃないか。それぐらいのご奉仕はお手の物だ」

 意味が分からない私に変わって、隆は力が抜けたようにがっくりとうなだれた。

「顔も記憶もお前なのに、何でそんなことを考えるんだユウ」

「どういうこと?」

「セクノイドはヒューマノイドの四タイプのうち一つ、性愛玩用モデルを意味するんだ。研究所にある精密なヒューマノイドは最もそれに近いと言われているが、そのものでもない」

 つまり元研究職で家事も出来ず、ヒューマノイドのくせに飲み食いをして、家計に負担を掛けている無職の精密ヒューマノイドのユウは、見返りに二人に性的な奉仕をしようというのである。

「……ユウ、大丈夫?」

「それぐらいしか出来ないしね。俺はどっちも受け入れるけど?」

 ヒューマノイドとなった彼には、どことなく倫理観が欠けている。生前の彼を知る私はあまりの違いにため息をついた。

「……私はいいや。隆は?」

 じっと見上げると、隆はせっかく固めた頭をかき回した。

「遠慮する!」

「そう? だって俺、機械だよ? 機械と人との区別に厳しいんだから、割り切って遊べばいいのに」

「お前はお前だろ、ユウ」

「だよねえ」

 やはりヒューマノイドになっても、友は友なのだろう。研究者であっても、そこまでは割り切れないに違いない。そんな私の疑問など知りもしない目の前のユウは、マイペースにのんびりと寝転がった。無理に冗談を言っているようには見えない。

「残念。せっかく役に立ちそうなことを見つけたのに。エツコはどう思う? 俺に他にやれることあるかな?」

 再びテーブルに紅茶を運んできたエツコは、ユウの顔を瞬きもせずグレーの光彩を持つ瞳でじっと見つめた。

「ユウは普通にここにいればいいと思われます。ユウがいる事で、明日美とマスターが癒されておいでです」

「そっか。じゃあ俺は隆とアスのペットだな」

 あっけらかんと、ユウはそう言い切った。隆はうなだれたままタブレットに文字を打ち込んでいる。きっとこう書いたに違いない。

『倫理観、欠如。問題あり』

 もともと突発的な事故によってヒューマノイドになったわけだから、多少壊れていることが前提だが、ここにいるユウは以前のユウとはかなり違っているようだ。以前のユウなら、何があっても絶対に、こんな事を口にしなかった。もっと静かで理知的で……どこか張り詰めた緊張感があった人だった。

「仕事に行ってくる……」

「行ってらっしゃい」

 微かによろめきつつ、部屋を出て行く隆の背中を見送ってから、ユウを振り返った。

「本気で言ったの、ユウ?」

「当然本気だ。やるべき事があるだけで結構幸せだからね。ヒューマノイドの身体だけど、記憶は人間のままだろ? 何か目的とか目標があった方が落ち着く。何の目的もない方が、かえって不安だな」

 再びタブレットに目を向けて、週刊漫画雑誌を捲り始める。横顔はどことなく硬質で、本心が読み取れない。人間味に欠けている印象を受けるが、ヒューマノイドはそれが普通だろうか。

「それが性的な奉仕で、隆と私が相手でも?」

「昔の俺と違う角度から二人を愛せるなら、ありだと思う。二人を平等に愛し、俺も愛されればきっと、もう俺たちは不幸にならない」

 ユウの言葉が人間だった時のように、暗く重みを持ったような気がした。胸を押しつぶさんばかりの切なさが押し寄せてきて、私はまじまじとユウを見つめる。ユウはヒューマノイド独特の表情が読めない灰色の瞳で、何事も無かったかのように淡々と同じ速度で漫画雑誌を捲っている。楽しいのか、つまらないのか、それすらもよく分からない。

 急にユウが、無機質なロボットのように見えてきた。そう思うことは、この家で禁じられているから忘れようとしても、何故かその印象がぬぐえない。ユウの動きに合わせて揺れる髪の柔らかさと、滑らかに動く指先を見つめ続けてしまう。

 視線に気がついたユウが、こちらを向いた。機械仕掛けのグレイの瞳を包む、特殊シリコンの薄いまぶたが優しく細められている。私の動揺に気付かれただろうか?

「アス、森に行こうよ。きっとツクシやフキノトウがある。今夜の夕食は野草の天ぷらとか、よくない?」

 その提案は私の心を弾ませた。私は森が好きだ。あの自然に抱かれる時が一番安らぐ。それに研究ばかりで外を見もしない隆は春の気配など感じていないだろう。だからユウと二人で食卓に春の彩りを載せたら面白いに違いない。

「うん、行く」

「善は急げだね。さあ、行こう」

 ソファーから飛び上がって、真っ直ぐに伸ばされたユウの手に手を重ねる。人工的な温度だと分かっているが、その手はとても温かい。重なった手のひらから、優しく指を絡めるように握られる感触も柔らかかった。

 人間のユウには決して出来なかったことが、このユウなら出来る。

 私はずっと、ユウの思いに答えられそうにない自分を恐れ、ユウの手を取ることが出来なかったのだ。それをこのユウに返すのは、悪いことではないはずだ。

「エツコ、ビニール袋二つね」

 子供のようにはしゃいだユウに、人間用の笑みを浮かべたエツコが決まり切った笑顔で答えた。

「はい。ユウ」

 二体ともヒューマノイドだというのに、これほどに違うなんて何か不思議だ。記憶回路一つの違いで、こんなにもかけ離れた行動をするのならば、人を人たらしめんとしているものは、記憶であると言うことだろうか。

「いくよ、アス。置いてくぞ」

 暖かく、微かに堅い筋張った人間の男の手のひらを感じながら、私はそんなことを考えていた。

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