第7話 地中海 

6畳間の畳の上で、さっき図書館で借りてきた専門書を読む。こんな心地よい気分で部屋に居られるのは久しぶりかもしれない。

 俺は床に放り投げてある1対の耳栓を見やる。この時間帯、いつもなら隣室からの騒音にこの耳栓が欠かせなかったが、今は違う。数日前、この寮に入居してきた1年の……何某が部屋でタバコを吸って火災になった。

 タバコを吸う奴とも火の始末を疎かにするような奴とも思わなかったから驚いた。しかし消防が言うんだからそうなのだろう。村八分となったあの1年は今どうしているだろうか……。

 しかし、静寂というのは本当に気分がいい!寝転びながら、地政学講義の課題図書『地中海』のページを繰る。

 その時だった。

「すみませーん、出前のお届けに参りました」

 玄関の方から女性の声が聞こえる。出前?俺は頼んでいないが……。

「あのー、ご在宅でしょうか?麺が伸びてしまいますー」

 どうやら先方には勘違い、という考えは無いようだ。しょうがない。

 『地中海』の第2巻を置いて、玄関に向かう。

「はいはい、今開けますよ」

 扉の先には、ひときわ美しい少女が立っていた。その手には岡持ちが握られている。少女はこちらを認めると、優しい笑みを顔に浮かべた。

「ご注文の特製醤油ラーメン、お持ちしました」

「いや、僕は頼んでないけど……」

 頭を掻きながら答える。くそ、こんな美人なら髪を洗っておくんだった。一昨日入ったきりで、フケが見えていないだろうか?

「あれ?可笑しいですね。確かに120号室にお届けする、という電話を頂いたのですが……」

「いや、そんなはずはないけど……」

 目の前の少女が目を伏す。いかん、せっかくの女子との会話を無下にするのはもったいない。

「ああ、そうだった!僕が注文したんだった!失敬失敬、すっかり忘れていたよ。で、いくらだっけ?」

 ここは彼女に好印象を与えておこう。大学生活最後の年に女性との出会いという祝福はあってもいいではないか。彼女も喜んで僕のことを覚えてくれるだろう。

 と思ったが、彼女の顔には戸惑いが浮かんでいた。

「あの……、ま、間違いないですかね?本当に注文した、ということで……」

 途端に少女の歯切れが悪くなる。一体どうしたんだ。

 突如、右隣から轟音が響き渡る。弦と電子の音が共鳴した、耳障りな音だ。

「文道のやつ、部屋にいたのか」

 思わず舌打ちをしてしまう。これでは口説いている場合ではない。すると、少女は耳元に近づき、大きな声で言ってきた。

「あの、この音は一体何ですか?」

「隣のやつが、騒音魔なんだよ。ごめんね、話し合ってる最中なのに」

「いえ……」

 少女の顔はさらに曇っていく。ちくしょう、6畳間に天使が訪れようという時にとんだ厄難だ。

 が、次に少女の口から出た言葉に衝撃を受ける。

「では、外の中庭で話しませんか?誤解があるようならきちんと解いておかないといけませんし」

 外で、わざわざ?しかしこのロックミュージックが鳴り響く部屋で彼女を口説ける気はしない。千載一遇のチャンスか!

「わかった。中庭なら他の人もいないし」

「はい」

 財布を手に取り、照明を消し、そのまま少女と部屋を後にする。目の前を歩く少女からはシャンプーだろうか、芳醇な残り香が漂う。あのむさ苦しい汗の匂い(そして最近は墨の匂い)が充満する男子寮とは縁がないものだ。

 背後からおぼろげに聞こえるBGMも、この好機をしっかり掴ませてくれた影役者として感謝してもいいかもしれない。

 そういえば鍵を閉めたっけな。

 ふと、後ろを向く。経費削減ということで、この寮は夜間ほとんど室内灯を点けていない。そのためか寮の廊下は薄暗い。

 しかし、そんな中で自室の扉は、しっかり見えた。扉の4辺の隙間から、オレンジ色の光が漏れている。おかしい、照明は消したのに。

 さらによく見る。漏れた光が、風になびくように揺れている。

 

 火だ。 

 

 声が上ずる。胸がつっかえて、大声が出ない。俺の部屋が火事になっているというのに!

「大変だ!火事だ……」

 大声を上げたが、みなまで言う前に、後ろから口に手が回される。少女の手だ。同時にもう片方の手が俺のポケットをまさぐったかと思うと、銀色に輝く物を取り出す。俺の部屋の鍵だ。少女は耳元で囁く。

「ごめんなさいね」

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