第8話 過去

大音量の音楽が響き渡る中、騒がしいロックのリズムに呼応しているかのように部屋の中も騒然としていた。

 120号室は漆喰の粉が立ち込めていた。壁には穴が開き、玄関近くの床にはオレンジ色の炎が蠢いていた。そして火のそばにはライターとウイスキーの瓶を持った文道が立ちつくしていた。

「あんただったか」

 俺は呟く。この状況からすれば、口に出すほどでもなかったが。

「幸田……なぜわかった」

 文道が問う。その顔は眼下の炎に照らされ、いつにない迫力を備えていた。すかさず結城とハナが予め準備していた消火器を使って炎を消していく。発火してすぐだった為、6畳間と玄関をつなぐ廊下にしか火は広がっていなかった。

「トリック自体は至極簡単だ、というより幼稚と言ってもいいぐらいだった」

「……」

「ただ動機が分からなかった。そしてなぜあんたが、という点に関しては未だによく分かっていない」  

 文道は落胆するでもなく激昂するでもなく、その鋭い視線でただ一点、俺の方を見つめていた。いや、俺の後ろに控えている安西を。

「文道……、なぜこんなことをした!?お前にはまったく関係のないことだろう!?何故だ!?」

 前に出て文道と向き合う安西。その声はわずかに震えていた。怒りか、それとも憂愁か。

「安西、お前には関係ない。全ては俺の独断だ」

 文道はそう言って視線を下に落とす。そこにオレンジの炎は無く、夜の闇が文道の顔に暗い影を落としていた。

「文道先輩、あんたがあの日、俺の部屋に放火をして、その罪を俺になすりつけた。そうだろ?」

 文道は何も言わなかった。この状況からして言う必要がなかったのだろう。沈黙は肯定なり。誰が見ても、文道はこの210号室で放火を行った。住人の山田先輩がいない時を狙って。

 俺たちが気づかなければ文道がつけた炎は今度こそ男子寮全体を覆っていただろう。

 なぜ210号室に火をつけたのか。5日前、122号室――すなわち俺の部屋に灯った炎は消火された。そして新聞部の号外を見て、もはやなりふり構っていられなくなった。だから次にこの部屋に火をつけようとしたのだ。

「俺の仮説は当たった。あの日と同じ状況を作ればよかったんだ。もう後が無い文道先輩なら必ず乗ってくると思った」

「なぜ俺だと気がついた?」

 俺は頭の中を整理する。これから話すことには客観性が求められる。俺の指示に従ってくれたヒメや、遂には無関係にもかかわらず放心状態となってしまった山田先輩にも分かるくらいに。 

「あの日、122号室で火災があった時、この寮でおかしい事が4つあった。

 1つは120号室の山田さん。あの人はあんたが部屋にいる時はいつも耳栓をつけてるといった。騒音被害の為にね。

 2つ目、俺が122号室に入る時、あんたは無理やり俺に持たせた物がある。煙草と週刊誌だ。

 3つ目、頼んでもない出前が俺の部屋に来た事。おかげで俺はその対応に迫られ部屋を出た。最初は店側の手違いかと思ったが、そうではなかったらしいがな。

 そして4つ目、1つ目と3つ目に関係がある事だ。

 あんたの部屋、すなわち俺と山田さんの間の部屋でかかる大音量の音楽だ。

 火災の翌日、あんたの部屋を覗かせてもらった。随分立派なオーディオスピーカーを持っているんだな。あのぐらい大きい物なら相当な音量を出力できるはずだ」

 4つ目は単に文道先輩の趣味、という事では片付かない。

「……そう、日頃音楽をかける事によって山田さんに耳栓をさせ、さらには俺と出前の娘を部屋から退出させるほどにな」

 部屋にはまだ火煙や消火器の粉塵がわずかに満ちていて、文道先輩の細かい表情を見定めることはできない。

「それがどうやって俺がお前の部屋に放火する事に繋がるんだ?あの部屋は密室だったろ?」

 文道先輩は、いかにもな質問をしてくる。が、それは刑事ドラマで見る追い詰められた容疑者の最後の抵抗、というのではなかった。全てを受け入れ、俺との対話を円滑に進めようという、そんな雰囲気だった。ならば俺もそれに応えよう。

 

「いえ、密室ではありませんでした。文字通り唯一の穴があったじゃないですか。……あなたが開けた穴です」

「あ、爽平さんの持っていたえっちな本を文道さんが救出する際に開けた穴でしたね」

 ヒメが横槍を入れる。加えてその言い方は語弊を招く。先程言ったように、あの週刊誌は文道先輩が俺に無理やり与えたものだ。

「待てよ、その穴は火災を見た後に空けたものだぞ?火災発生時には空いていなかった」

「そう、あれはあんたが開けた穴だ。一つ違うのは火災が起こった時にはすでにその穴は空いていたんだ」

 文道先輩の肩から力が抜けるのを感じる。あと少しだ。

 

「普通に壁を壊したんじゃ中に居る俺に気付かれる。だからヒメを使った。そう、あんたは以前から定食屋に出前を頼んでいた。だから注文してから寮に届くまで、その時間を知ることができた。」 

 俺は一旦、意見をまとめる。

「定食屋に嘘の注文をしたのはあなただ。そしてヒメが来ることも、俺たちが部屋から出るのもあんたの計画だった。そう、俺が退室している間に壁を壊し、俺の部屋に侵入して火災を起こす為にな」

「それはおかしいだろ。壁を壊したんならその時点で音が聞こえるはずだ。それに俺が週刊誌を取りに行く時きちんと聞こえたはずだ。壁を壊す音がな」

「それには説明がつく。1つ目と4つ目だ。あんた、日頃大音量で音楽を聴いてるよな?」

「何が言いたい?」

「スピーカーから流れる音楽は隣室の安西先輩に耳栓をさせ、壁を削る音を気付かれないようにする為。そしていよいよ壁を壊す時、その音を打ち消す為のもの」

 一旦言葉を切り、息継ぎをする。

「最後に、壁を壊したかに見せる為のフェイク音を鳴らす為のものだったんだ。俺が外出している間に壁を壊し、その音を録音。同時に音楽もかけていたから周りにバレることはなかった。そして火災発生後、自分の部屋に戻ったあなたは録音した音声を再生し、壁を壊したように見せかけた」

「それだけじゃ根拠として足りない!」 

 安西先輩が咎める。確かに無理がある理論だ。文道先輩が自室から壁を壊す音が聞こえた時、同時に不自然なノイズが鳴ったというのも、同時にロックミュージックも録音してしまった、ということで片付く。が、それを聞いた者は俺以外にいない。だが、だからと言って引き下がるわけにはいかない。

 『自分の手を汚してこそ』葦田の口舌がまた頭をよぎる。俺は腹に力を込めて声を振り絞る。

「そしてもう一つ、あんたの手は汚れていなかった!」

「手が汚れていなかった?」

 そう、あの時、文道先輩は自らの意思を履行した。自らの手を汚して、だ。

「俺の部屋から週刊誌を取ってきた時、文道先輩の手は汚れていなかった」

「それがどうし……」

「この寮は築50年近く経つ木造建築だ」

「だから?」

「漆喰が使われているんだ。木壁の上塗材としてな。だから俺が壁を壊した時も乾燥した漆喰が舞い上がって随分汚れたよ。そう、今の文道先輩のようにな」

 周りの目が一斉に文道に向けられる。彼の手は、その先から肘に至るまで漆喰の白い粉塵で汚れていた。

「あの時、本当に壁を壊していたのならあんたの手は粉塵にまみれていたはずだ。だがあんたの手は綺麗そのものだった。そう、あんたは俺がヒメと外出している時に壁を壊し、おそらく犯行がばれないよう手を洗った。そして俺たちが火災に気がついた時、ごく自然な流れで壁を壊すフリをした。週刊誌はそのフリに利用したんだ」

 きっちりと言い切る。周りの人間が固唾を飲んでいるのがわかる。視線は、文道に向けられたままだ。

 沈黙を破ったのは山田先輩だった。

「確かに俺も見たぞ。鎮火した後、あんたら2人で手を握り合ったろ。その時埃まみれの幸田の手と対照に、文道の手は綺麗なまんまだった。それで幸田は一瞬手を握るのを躊躇っただろう!」

 あの人数の中、一人ぐらいはあの光景を見てると思っていた。今この場にいる山田先輩が見ていたのはラッキーだった。

「それと、あの時火災を鎮火できたのは俺が受水槽の部屋の壁を壊したからだ。だがあの壁はな、そう簡単に壊れなかった」

「それは幸田君がヒョロいからじゃないのか。あと、君がぶち破ったのは機械室にも面してるんだろ、元から強く作ってあったんだろ」

 安西が口を挟む。

「それは関係ない。機械室は元々普通の居住部屋だったんだ。あそこに受水槽を置いたのが3年前。それ以来リフォームは行われていない。つまり壁の強度については機械室も文道の部屋も同じだ。そして……」

 少し躊躇う。言ってもいいのだろうか、とも思う。

「俺は骨折してたんだ」

 俺ではなく、文道の言葉だった。溜まっていた重い空気を吐き出すかのように。

「ど、どういうことだ」

 安西が狼狽する。

「お前、俺がバンドを辞めたの、大学のせいだっと思ってるだろ」

「違うのか?」

「半分はそうさ。だが半分は自分の責任だ。本当、あの頃の俺は大馬鹿ものだったよ」

 あの日、ワインバーで文道先輩はやけに右腕をかばっていた。まだ骨折が完治していないのだろう。間抜けにも、それからしばらく経ってから俺は初めて文道先輩に対して疑惑を抱いたのだ。

 いよいよ安西の顔に白みが増していく。文道の代わりに俺が引き継ぐ。

「そう、あの日、文道は肩を骨折した。まだ大分痛むようだ。それでは一瞬であの壁を壊すことはできないだろう。元から壁を削り、脆くしていたから出来たんだ」

 文道先輩は押し黙ったままだ。一方の安西先輩は目を大きく広げたまま。おそらく、今の話に関して他の人間は理解できないだろう。


「なぜだ、なぜこんなことをした」

 安西は再び同じ質問をする。ともに切実な嘆きであるが、今のはどこか哀願が含まれている気がした。

 文道はポツポツと語り出した。












    *




「思えばだいぶ昔になったよな、お前がこの寮に入ってから。

 お前は知らなかったと思うが、あの時俺は相当病んでたんだよ。裕福な家に生まれて、何不自由ない暮らしをしてた。だがある日ふと、自分が何かわからなくなったんだよ。一日何時間も勉強してた自分を思い返してみても、勉強以外何も思い出せなかった。でもこんな俺にも大学に入ってからやりたい事が出来たんだ。バンドだよ。あれは本当に楽しかった。楽しすぎて俺は大学1年目にして講義に出なくなったよ。

 だが楽しかったのは最初の一年だけだった。いや、こうなることは分かっていたんだ。なんせ講義にも出ずひたすらマンションやサークル棟でギター弾いてるだけだ。……そう、留年しちまったのさ。まぁそんなの俺にはどうだってよかった。ただ親はカンカンになって怒ったさ。それで仕送りも止められ、マンションの家賃さえ払えなくなった。

 普通の奴ならそこでバイトでもしようと思うだろうが、甘やかされて育った俺にそんな選択肢は無かった。ジリ貧に成った俺はマンションを引き払ってこの寮に来たって訳だ。

 そんな時さ、お前が来たのは。最初俺はこう思ったんだ。お前の状況は昔の俺とそっくりだって。なんせ部屋に居るのは寝るときだけ。それ以外は講義と自主勉強ってんだからな。

 でも違った。お前にはきちんとした目標があった。その為に寝る間も惜しんで勉強してたんだ。まぁ唯一似てる所って言えばお互い友達がいなかったってトコだけだな。

 お前が寮に越してきて三日目ぐらいかな、いきなり俺にクレームつけてきたのは。『ギターの音がうるさい』ってね。自分で言うのもなんだが俺は強面な方だと思う。だから面と向かってクレームつけられたのはあれが初めてだった。

 でもそれ以来、何かと顔をあわせる機会が多くなってな。いつの間にかお互いの部屋で飲み明かす仲になった。親友、と言っていいかもしれない。

 だがいつしかお前は俺を避けるようになってきた。ちょうどその時、きな臭い噂が耳に入ってきた。学内で実験器具の横領が相次いでるってね。まぁ俺には関係のない話だと思って気にも留めなかった。全く、お前は本当に嘘がうまかったよ。

 そしてあの日だ。誰かが横領事件について証言して、数時間後に警察がこの寮に乗り込んでくるって話だった。

 お前はひどく怯えていたよな。それで俺は確信したんだ。安西は横領事件に関わっている、って。

 お前は知らなかっただろ。あの日、警察と寮生で揉めた時、俺も一緒になって闘ったんだ。お前が証拠を隠す時間を稼ごうと思って。笑えるだろ?俺は骨折して、挙句連帯責任でバンドは解散。手痛いしっぺ返しを食らったよ。それ以来ギターは弾いてない。


 お前と柳田とやらが話してたのを偶然見かけたのは3ヶ月前だ。キャンパスの隅っこにある花壇で、お前ら口論してただろ。盗み聞きするつもりはなかったさ。ただ、あの時のお前の口ぶりは何か切羽詰まっていたからな。

 まぁ会話の全部は聞き取れなかった。が、だいたい察しはついた。横領事件に手を染め、それを弱みに男子寮を放火しろと脅された。

 お前はバイトのやりすぎでよく体を壊していたろう。収入のアテが無い中、犯罪に手を染めるしか手はなかったんだろうな。

 そしてお前はそんなときでも俺に助けを求めなかった。自分で生きていく、ってな。本当、偉い奴だよ。だから俺にはわかったんだ。お前は大学側には決して屈しないということ。脅迫に屈せず、放火なんて絶対にしないということが。

 

 そこで俺には一つの目標が出来たんだ。お前を、行きたがってた大学院に入れてやるってな。

 だが俺が公衆の面前で放火をしても意味はない。柳田がそれに免じてお前を不問にするとは思えなかった。それに、俺がやったと知ったらお前は絶対に全てを明るみにする。俺に借りは作らない、ってのはお前の口癖だったからな。

 問題は俺が実行するにしても、安西と文道という名が容疑者に含まれないようにする事だった。そこで、この案を思いついたんだ。何も知らない1年坊主に罪を着せる、ってな。

 まぁ犯行の詳細はさっき幸田が説明してくれた通りさ。その他に俺がやった事と言うと、お前をこの寮から追い出した事だ。そう、お前は俺に嫌われたと思っただろう。あれは演技さ。いや、半分は、だな。

 とまれお前はこの寮を出て行く決意が出来た。元々奨学金のアテは付いていたんだ。今までは俺に遠慮してこのゴミ溜めにとどまっていただけなんだろ?

 ああ、言い忘れてた。お前が出て行く間際に押し入りが入っただろ、あれは俺だ。そうすれば管理人は122号室の鍵を変える。それで火災が起きてもお前に捜査の矛先は向かない。

 いやはや、自分でも感心するくらいよくできた計画だと思ったんだがな。あっさり見破られてしまった。

 


























    *

 



 長い独白が終わった。

 安西が膝から崩れ落ちる。

「お前、俺のために……」

 薄暗い男子寮の廊下で、その瞳からは雫が落ちていた。。

「そういう訳でも無いさ」

 文道先輩の一言に、安西先輩は顔を上げる。

「お前を庇おうと思ったのは、何も同情心じゃない。俺の存在意義を確かめるためでもあったんだ」

「どういうことだ?」

 ついつい、棘のある言葉になってしまう。文道先輩はゆっくりと俺に向き直り、一言。

「じきにお前にも分かる時がくるさ」






    *



「それで、これからどうする?総務課、いや警察か」

 結城が暗鬱とした空気を破り俺に訊く。普通に考えてここはまず警察に連絡するべきだ。だが、それだけでは何も解決しないのではないか。

 『急がば回れ』

 不意に葦田のセリフを思い出してしまう。そうだ、これでは全ての解決にはならない。問題の根本がまだ手付かずだ。

 文道を警察に突き出し、その後どうする?俺の無実が証明され、修繕費も返還されるだろう。……それだけか?いや、それでは不十分だ。柳田はすぐに第2の安西先輩を捕まえて同じことをさせるだろう。何としてでもその前に柳田の悪行を暴いておかなければならない。




「総務課に行こう」

 俺は大きく宣言する。安西の落胆した顔が視界の端に映る。

「だが告発しに行くわけじゃない。交渉に行くんだ」 

「交渉だと?」

 安西が立ち上がり、声を上げる。

「交渉……というよりは脅迫ですかね」

 理解不能、という表情を横目に、結城に訊く。

「調べる当てはついたか?」

「ああ、だいたいはな。細かい部分に関しては今投資部の先輩方自治会と協力して血眼になって調べているよ。まったく、お前のせいで俺は先輩を顎で使うような人間になっちまった」

「年功序列から実力主義へ、お前に損はないだろ」  

 周りの人間がぽかんと口を開けている中、俺たちはまるで悪役のように笑い合っていた。

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