第9話 パセリ
翌日、時刻は午前10時。場所は事務局棟の4階会議室。
昨晩男子寮に突撃してから12時間あまりの時間が経っていた。
俺は自身の仮説を数時間で纏め上げ、それを黒井会長に伝えた。彼がどう出るかは、俺には知りようもない。
その間、ハナと結城にはそれぞれ調べ物を頼んでおいた。俺の仮説を裏付ける資料だ。両隣に座る2人の表情からすると、目当ての情報は掴んできてくれたみたいだ。
「それで、朝一から私に何の用かね?今日はこれから忙しくなるんだ。手短に頼むよ」
視線を真正面に向けると、そこには冷淡な目をした柳田が座っている。上座を占め、しきりに腕時計に目をやる様子はどこか神経質気味だ。
「そうだ、携帯やカメラなどの電子機器はフロントに預けて来てくれたかな?」
「はい、もちろんです」
やはり柳田は今神経が過敏になっている。『内部情報の保護』という名目で携帯電話が取り上げられたのも、こいつの差し金だろう。大方、自分の言質が録音され、万が一の場合に不利にならないための配慮だろう。意気地なしがやりそうなことだ。ちなみに俺は携帯を持っていないので関係ないが。
雑念を振り払い、目の前のことに集中する。コホン、と咳払いし、口を開く。
「今回の放火事件、我々の調べで実行犯は文学部在籍の文道先輩ということが判明しました」
「これまたすごいことを言いますねぇ!」
柳田は大仰に目を丸くする。前回みたく柳田のペースに乗せられないよう、前地と声を張る。
「ええ、意外でしょう。なんたってあなたが放火を頼んだのはその人物ではなく理学部の安西先輩なんですからね」
柳田の目が一転、すぼんだように細くなる。黒目には鋭い光が見える。
「話がよくわかりませんね」
「そうですか、では一から説明するのも面倒なんで本人に聞いてみましょう」
間髪入れずに、背後からドアを開ける音が聞こえる。が、視線は目の前の柳田から逸らさない。
そのおかげで先ほどまで柳田の顔を覆っていた皮が剥がれ落ちるのを見ることができた。目を大きく開け、あんぐりと空いた口は締まりが悪くなったようだ。
「どうも、柳田さん、実際に会うのは4ヶ月ぶりですね」
安西の声はまっすぐ柳田に向かった。
「くそったれ!テメェ、バラしやがったな!?俺がせっかく情けをかけてやったってのに自分で自分の首絞めやがって!」
案の定だ。激高した柳田は、2日前に応接室で見た時と同じく、首筋に血管を浮かせ、顔は紅潮していた。しかし柳田は語るに落ちる、というタイプではないだろう。こうして本性を露わにするのは、俺たちに録音される心配が無いから。そして彼自身の立場が関係しているのだろう。
「あんたに慈悲を請うた覚えはない。俺は自らの罪を認めるさ」
柳田は憎悪の目を文道に向ける。
「実際に火をつけたのはお前か?なるほど、安西に懇願されていいように使われたわけだ」
「ちが……」
「だがそんなのどうでもいい!俺の言う通りにしてれば良かったものを!今となってはお前ら二人とも犯罪者だ!そしてお前もさ!安西の共犯ってことにして退学にしてやる!」
「そんなことが出来るのかよ」
安西が食ってかかる。
「出来るさ!補助金を減らしたのも、諮問会議で幸田を退学処分に決定したのも、すべては俺の采配だからさ!」
そう、こいつならおそらく可能だ。この密室で、柳田は贖罪への恐怖心は皆無と言っていいかもしれない。俺たちの告発を揉み消し、自分に有利な結果のみ残すのは難しいことじゃないからだ。
大学という巨大な機構においては、排他的な官僚システムが敷かれる。組織の存続のために学生が2、3人消えようと意に介す必要はない。そこに人間的情緒は介在せず、必死の訴えも没却する。
ならば、正攻法で攻めるしかない。
「柳田さん、企業開館ってご存知ですよね?」
柳田の顔に陰りが見える。
よし、ここで勝負をかける。
「さて、ではこれから私どもの『仮説』を聞いていただきたい。いいですか?あくまで『仮説』です。あなたが言うように我々は下賤な貧乏学生です。どうぞ話半分に聞いてください」
嫌味ったらしく宣言する。今の俺はさぞ性格が悪い人間に映るだろう。
*
隣のハナに視線を送る。
ハナは持参していたA4の資料を全員にまわす。
「企業開館の建設計画は3年ほど前から存在していたわ」
「それがどうした!一体何の関係があるっていうんだ!」
柳田が不意を食らったかのように声を上げた。
「この計画の立案は施設課。当時から問題になっていたキャンパスの敷地効率向上計画の一環ね。この時点で予算、開館に参加する企業の選定、建設予定地が出来上がっていたの、もちろんその建設予定地っていうのは男子寮のある場所よ」
そう、3年前から男子寮は犠牲打の運命にあったのだ。
「それ以降、何度か修正計画案が総務課の方で上がってるわ。一応全部持ってきてるので、好きに目を通してください」
柳田は資料を一瞥しただけで、苦々しい顔をこちらに向ける。
俺は議論の先を結城に向ける。
「結城、この計画案を経営的にどう見る?」
しばし思案したであろう後、結城は淡々と述べる。
「ここで注目すべきはX社だ。企業開館の肝を担う存在、言い換えれば成功した暁には大層うまい蜜を吸える場所に陣取ってる企業だ。先ほどもらったハナの資料でわかったが、このX社、3年前の計画案には名前すら挙がっていない」
先ほどの資料を再度よく見る。確かに、X社の名前はそこにはなかった。
「ではいつからX社は開館に参加し始めたのか、資料を進めていくと、ちょうど今から2年前になる。さて、ここで奇妙な関係性が浮かび上がって来ないか?」
考えるまでもない。2日前、自分で言った言葉だ。
「柳田だ」
「そう!柳田が総務課に転属になってすぐだ。そこで柳田の経歴を漁ってみると、なんとその前は施設課に身を置いている。3年前の企画発足時にも彼は居たわけだ。そして転属してすぐにX社が計画に参加している」
「ということは、柳田は企業開館については計画当初から関知していて、しかもX社と繋がりがあるってこと?」
柳田が反論しようとしたが、一足先に結城がそれに答える。
「そうとも言えない。この計画書を見て、確かにX社はその中核を担っている。だがそれは至極当然の話だ。この地で創業してから今年で60年になり、経営規模も大きい。この計画にはまとめ役が要るし、それを果たせるのはX社くらいだ。柳田がX社を抜擢したのは理にかなってる」
自分が擁護されたのを見て取って、柳田は不遜に鼻を鳴らす。
「そうさ、大学ってのは一つの物事を承認するのにいくつものステップを踏まなきゃならん。それこそ公務員みたくな。俺の一存でそんな横暴が許されるはずはない。今まで俺がやってきたことは全てが理に適ってるからこそ通った問題だ」
驕ったような言葉だ。だがそこにはまだ過信は見られない。
「ああ、それにX社が企業会館の中核を担うのにはもう一つ理由がある。この満城大学との結びつきだ」
柳田の口がわずかに締まる。
「何も癒着しているというわけじゃない。単純にお互いの取引量が多いということだ。大学の備品を納入し、地域と大学の橋渡し役もお互いに担っている」
「いったいそれが何だっていうの?」
結城は言葉を溜め、簡潔に述べる。
「経済的結びつきが強い。すなわちどちらかが転べば、もう一方は飛び跳ねた泥を浴びることになる、言わば運命共同体だ」
「それがどうしたってんだ」
柳田はぶっきらぼうに言い捨てる。
結城は無視して、論を進める。
「さて、さらに気になるのは、最新の計画書には詳細な広報計画案も記載されてるってことだ」
結城が資料をめくり、1枚の用紙を掲げる。
”
《広報計画案》
5月上旬・参加企業の正式決定、通知
5月下旬・会館建設、参加企業の公式発表
*5月中に公式発表を行うのが最適
”
「これ、5ヶ月前の資料には無かった項目だ」
「というと横領事件が発覚して、さらに柳田が安西先輩を脅した後ってことか。しかし何故5月中なんだ?第一四半期を考慮するならもっと後でもいい、それに参加する企業だって3月に決算してるだろうし」
「事件発覚から5、いや6ヶ月中に会館の建設を世間に発表したかったわけか」
わざとらしい、俺のセリフ。
「待て!6か月といえば、思い当たるのがある!」
わざとらしい演技だ。しかし柳田に目を向けると、その額にうっすら汗が滲んでいるのが見える。
「それは何?」
「信用取引だ」
柳田の肩が震える。が、一瞬でそれを抑える。おそらくこいつは今必死になって頭を回しているのだろう。当初見せていた余裕が感じられなくなっている。
「信用取引ってのは投資用語の一つだ。自分が持つ資産よりも多くのお金を一時的に借りて取引できるんだ。6か月ってのは償還期限、つまり借りた金を返さなくてはならない期限のことだ」
「つまり金を借りて6か月以内に投資した企業の株価が上がってれば、少ない金でも多くの利益を得られる、ってことか」
「そういうこと」
「企業開館への参加は必ず株価の上昇につながる。もし柳田が信用取引でX社の株を買ってた場合、大学が参加企業の発表を行えばX社の株価も上昇、柳田は償還期限内に多額の利益を得られる!」
「だから柳田はあんなに放火までの期限にこだわったのね!寮が焼失すれば企業開館の計画は一気に進むもの!」
「そうなると横領事件の発覚が活きてくる。あの事件で、X社の株価は大きく下がった」
「なるほど!その時点でX社の株式を購入しておけば、含み益の幅も大きくなる!」
ここで結城とハナ、そして俺とで目を合わせる。ここまでは計画通りだ。
投資部での相模先輩のセリフが蘇る。
『だから幸田君、もし君がインサイダー取引をしようと思ったら、借金してでも一度に大きな取引で済ませるのが賢明だよ。それなら《幸運》のままでいられる』
「ふ、ふざけるな!」
拳で机を強く叩き、怒りをあらわにする柳田。
「お前らの言ってることは全部でたらめだ!筋は通ってるかもしれないがな。証拠が無い!証拠が!俺がインサイダーしたってんなら証拠を見せなきゃ話が始まらないだろう!」
柳田は癇癪を起こしたように騒ぎ立てる。
「いいか!俺はお前たちの行動を学長に報告する!『大学運営に著しい損失を及ぼす危険性がある』ってな!証拠も無しにペラペラくっちゃべりやがって!首洗って待ってろ!」
柳田はそう言い切ると、席を立ち出口に向かって歩き出す。逃がすわけにはいかない。
「証拠、ありますよ」
ピタリと柳田の足が止まる。
「何ぃ?」
ギロリと目だけをこちらに向ける。
「この大学、メインバンクは第一地銀の常陽銀行ですよね?」
柳田は動かない。
「それがどうした。俺の口座でも見たってのか?お前みたいな学生には無理だ」
「ええ、学生には無理です。しかし、卒業して、その銀行の行員になったらどうです?」
「ま、まさか……」
柳田の足が震える。
「うちの大学、銀行に就職する人多いのはご存知ですよね?そして元投資部、相田さんや相模さんとかもご存知ですよね?」
「まさか、お前ら……そいつらに口座を……」
俺は一枚の紙をポケットから取り出す。タイトルには大きく、『柳田益男様のポートフォリオ一覧』と表記されている。表形式で記載された企業名と数字は、文字が小さく柳田からは判別できないだろう。しかしそれを見る柳田の顔はまさに”茫然自失”の極みを見せていた。
「そうです。そして見事予想は的中。あんたの預金口座、証券口座に振り替えられてたよ。そしてその額のほとんどがX社に注ぎ込まれていた。ポートフフォリオも、ほとんどが企業開館に関連した企業ばっかりだ」
証拠を前に掲げ、一歩柳田に詰め寄る。
「あんたはインサイダー取引で多額の利益を得るため、わざと横領事件を暴露し、その後事件に関わった学生を利用して学生会館の建設を急かした。その間X社の株価は大きく値動きする。一発逆転を狙ったあんたの計画は、あまりにもデカすぎた。大学や銀行を敵に回すほどにね。そのリスクを負う覚悟がなかったとは言わせない」
俺は高らかに宣言する。いつの間にか柳田は床に尻餅をついていた。目は俺が掲げる用紙に釘付けにされていた。
「どうです、柳田さん。数年前あんたがいたぶった学生、今では立派に不正を暴いてますよ?」
「こ、こんなの認められない!違法だ!」
往生際が悪い!
「じゃあ警察へ行くんだな!まだ利益は出ていなくとも、これは明らかに大学の倫理規定に違反するだろう。しょっぴかれるのはあんただ」
柳田を見下ろす。苦渋に歪んだ柳田の顔は、いつしか無気力のそれへと移り変わっていた。もう反撃する気力もないのだろう。
「終わったわね」
横から、ハナが呼びかける。
「俺は……この大学のためにと思いここまでやってきたんだ」
「そんな建前、通用するとでも思ってるのか」
安西が冷たく言い放つ。
「そうだな、これでこの大学も終わりさ。お前らがこの事実を告発すれば大スキャンダルになる。そしたらこの大学はどうなる?資金獲得の道は閉ざされ、入学者はさらに激減するだろう!数年で破綻だ!」
これは、結城も言っていたことだ。この大学は経営破綻し、満大卒の肩書を持つ俺たちは就活差別にあえぐだろう。まさしく待ち受けるのは青田枯れだ。
「俺のキャリアをぶっ壊したと思ってるんだろ!それは違う!この大学で働く人間、講義を受ける学生全員が路頭に迷うことになるんだぞ」
その言葉を、噛み砕いてまで推し量る必要はない。単純なことだ。満城大学のブランドは今度こそ地に堕ちる。その影響は大学のみならず近隣の経済基盤にも影響を及ぼすだろう。おそらく、ヒメの家にも。
途端、背後の扉が開く。視線を向けると、そこには驚くべき人物が映る。
「が、学長!」
結城が驚愕の声をあらわにする。
俺は入学式には出席していないため、生で見るのは初めてだった。
スーツの上からでもわかる、身の締まった体躯に、筋骨がわずかに浮き立つ。齢60を超えているとは思えないその姿には、なんとも言えない荘厳さが見て取れた。
この人物が、満城大学25代学長、郡山公二郎。
*
「なぜ学長がここに!」
柳田は腰が抜けているようで、地べたから驚嘆の声を上げる。
「先ほど黒井自治会長に話を聞きました。柳田総務課次長が不正行為を働いている、という旨をね。そして今のあなたの醜態で、それが大方正しいということも確認できました」
郡山学長は重厚な声で、ゆっくりと言葉を吐く。
その後ろから、黒井会長がひょこっと顔を出す。
やはり連れてきてくれたか。後は郡山学長がどんな采配を見せるかだ。
「柳田君、まさか君がここまでの事をするとは思いもしませんでした。あなたの行動は私利私欲にまみれています。学生に多大な迷惑をかける事も厭わないあなたの思想に、私は情状を酌量出来かねます」
群山学長の言はしっかり筋立ってはいたが、どこか超然としていた。大学という巨大機構を統べるとなるとこのような話し方が板につくのだろうか。
「しかし、君の言わんとする所も理解できないわけではない」
全員の表情に動揺が走る。すかさず黒井会長が詰め寄る。
「お言葉ながら学長、それは不遜……」
が、学長は柳田から視線を外すことなく、右手を黒井会長の面前に挙げ、言を封じる。
「私はこの大学の学問を統べる学長であり同時に経営者だ。諸君も知っているようにわが大学は経営難に陥っている。このままでは破綻するやも知れぬ。よって何よりも既存体制の打破、改革が必要だった。学生会館は、その改革の柱だ。これを侵すことは、すなわち大学の衰亡を意味する。これはあってはならないことだ」
郡山学長はそこで言葉を切り、俺たちに目を向ける。
「そこでだ、私は君たちに一つ頭を下げようと思う」
そう言って郡山学長は、その頭を俺たちに向かって下げる。思わず誰もがその光景に息を飲んだ。
「すまなかった。私は改革の中で、君たち学生の苦痛を汲み取ることを怠った。許してほしい」
全員が、唖然とした。沈黙が会議室に広がる。『許してほしい』とは、どこまでを赦せばいいのか?物事を赦すのと、事実を隠蔽することは違う。そう言おうと思ったが、何故か出来なかった。この部屋に居る全員が出来なかった。
それから数秒後、顔を上げた群山会長は静かに言った。
「今君たちが話した一連の出来事一切は、しばらくの間他言を禁じる」
「しばらくって、いつまででしょうか?」
一歩前に出て尋ねる。少し声が上ずる。
「私の改革が終わるまでだ」
それだけ言うと、群山学長は出口に向かう。扉を開け、半分外に出たところで思い出したように口を開く。
「しかし銀行に就職したOBが事実確認も無しに個人の口座を検めるというのはいただけないな」
そんなことを気にしている学長に今更ながら不信感が湧く。が、抑える。
「ご安心ください。私も法を犯す度胸はありません。その件は嘘です」
「嘘?」
俺の後ろで、柳田が息を飲む音が聞こえる。
「はい。銀行に就職した先輩方については、単に名前を貸していただいただけです」
「では……」
「タイトルだけこっちで修正したんです」
俺は右手に持っていた用紙を机に広げる。
「これは柳田氏のではなく投資部のポートフォリオです」
郡山学長は一瞬、その目を丸くする。ようやくこの男の人間らしさを垣間見れた気がした。
「大学OBが不正を行うほど柳田さんは恨みを買っていた。そういう自覚を持っていたということですよ」
「なるほど」
群山学長はわずかに口元をほころばせ、今度こそ会議室を後にした。黒井会長が後から続く。
扉の向こうで、「投資部、なかなか良いパフォーメンス実績を持っているようだね」という声が漏れた。
*
それから数日かけて、事態は怖いほどに郡山学長の専制体制で運んだ。
柳田が画策した会見には急遽、群山学長が出席することとなった。会見での群山学長の発言要旨はこうだ。
『4ヶ月前、学内で発生した横領事件について、当初大学側は不正に関わった学生をその結果に応じて等しく処分を決定しました。しかしそれは誤りであると認めます。不正に関わった学生の中には経済的に困窮していた者が数多く含まれていました。当時大学が推進していた予算の傾斜配分方式が、学生の窮状に拍車をかけていたことも、一部ながら認めねばなりません。我々はこの事件、その発生に至る過程において学生への配慮を欠きました。今後は再発防止、学生の生活向上を胸懐に留め、引き続き大学改革を進めていく所存です』
この会見の後、群山学長は男子寮と企業会館の重要性を強調した。そして自らが持つ『学長裁量予算』において今後2年分の男子寮への助成金を出資、来年度大学予算で貧困学生への支援額を増額する事を約束した。そして貧困学生への保障体制を2年以内に整えた後、男子寮を解体し、学生会館の建設に移る事も明言した。
柳田の曲事や、男子寮の火災に係る事柄は一切触れられなかった。会見が締まった後、黒井会長は電話で俺に言った。
「これが最善の策だったんだ。一連の事件に関わった身としては物足りないと思うだろう。しかし社会とはそういうものなのさ」
それから柳田が総務課を離れ、遠方のキャンパスへの異動が内示されたことも聞いた。やはり処分が優しすぎると思ったが、何も言わなかった。
三日後、俺は満城大学の事務局棟の前を一人で歩いていた。桜の勢いはそろそろ衰えを見せていた。
「やっ」
後ろからハナが声をかける。どうやら事務局棟の入り口の裏で俺が出てくるのを待っていたようだった。
「どうだった?」
上目遣いに、俺の顔を覗き込む。
「大丈夫だった。万事解決だ」
先ほど総務課からの正式な知らせがあった。
『4月5日に発生した男子寮の火災について、容疑がかけられていた当該学生への処分は取りやめとなった。よって既に回収していた修繕費等も返還され、ローンも解消される』
その事を俺に伝えた職員は終始俺に対して懐疑的な様子だったが、それ以外は何も言われなかった。
「じゃあ退学の件もナシになったのね!」
自分の発言で無実の学生が退学になる、という事態は避けられたのだ。ハナは肩の荷が下りたのか、顔全体をほころばせて喜びを露わにする。
このままお互いに賛辞の言葉を贈り合うものと期待したが、
「じゃ私、自治会の方に戻るわね。 新しいガイドラインが出来てからその対応で忙しいの!」
そう言ってハナはあっさりと勝利の余韻を手放し、いずくにか走り去ってしまった。
なんだよ、と不平を鳴らしてみたが、彼女の影は既にはるか遠く、聞こえる由もなかった。
歩きながら、周りを見渡す。いつものように学生がそこらじゅうを歩き回って、他愛のない会話に興じている。学長の会見はほとんどの学生には興味が向かなかったらしく、地元の新聞も小さな記事に留めただけだった。むしろ不用意に学生の興味を煽ったとして、新聞部に批判の矛先が向いているようだった。今回ばかりは少し同情してしまう。
大学の正門を横目に、記憶を振り返ってみる。
この大学に足を踏み入れてから、予想だにしないことが立て続けに起こった。
親友からの訓戒の言葉、そして自室への放火、退学の危機……。保身のため、次々と降ってかかる災難に対応するのに精一杯だった。もし途中で挫けていたら、俺は今この場に居ないだろう。
果たしてこれは俺の手柄と言えるのだろうか。結城やハナの手助け無しには事態の解明は不可能だったし、葦田の言葉は俺を困惑させたが、正しい方向というものを指し示してくれもした。だが、俺は自分以外の為に何ができたのだろう?
思えば遠くまで来たものだ――もう定食屋の看板が見える。
俺はあの時、ヒメに言った約束を果たせたのだろうか。少なくとも一つはそうだ。退学処分は取り消し、俺の金は無事に戻ってきた。今までの家賃は払える。
しかしもう一つは?
定食屋の一席で、酔いながらヒメに約束した事。心の重荷が取り除かれた今になっても、思い出す気配はない。
それに、事件の結果は黒と白、という具合にはならなかった。柳田は罪を問われなかったし、安西先輩や文道先輩の苦痛を、多くの人は知らないままだ。極めて曖昧で、俺は今まであまり経験したことのない類のものだった。奇妙な違和感を覚えた。この感覚は、地元にいた頃は一切経験したことがなかった。
定食屋の扉を開く。
甘い香りが鼻腔をつく。今日はすき焼きか。
「お帰りなさい!」
ヒメの声が、いつもより暖かく感じる。
「ただいま」
「夕ご飯の準備、もう少し待っていてくださいね」
「ああ、ここで待ってるよ」
俺は静かに腰をおろす。厨房に目を向けると素早い手つきで食事の準備をするヒメが視界に入る。心なしか、顔にはいつも以上の笑顔が浮かんでいるように見える。
俺はその瞬間、初めて達成感を得た。一連の難事を解決したのだと実感できた。もし解決できていなかったら、俺はこうして深く腰掛けることも、ヒメのこの顔を見ることも出来なかったのだとも思った。
「そうだヒメ、もうしばらくここに居てもいいか?男子寮は住む気になれないし、この時期の部屋探しは大変らしい」
返事が無い。料理に集中して聞こえないのだろうか。こんな時でさえ、俺の言葉は無視される運命にあるのか。
「あの、何か言いましたか?」
厨房から、ヒメが顔を出す。手が汚れている。
「その手、どうしたの?」
「ああ、これですか」
途端、厨房の奥に消えたかと思うと、その手にきゅうりを持って再び顔を出す。
「ぬか漬けです。とても美味しいんですが、取り出す時に手が汚れちゃうのがネックですね」
「ああ、なるほど」
「ところで、さっき何を言ってたんですか?」
ヒメは大きな丸い目を、一直線にこちらに向ける。
「ああ、それは……」
なぜか急に恥ずかしくなってしまう。言葉が紡げない。
「食後のパセリ、あるか?」
頭に浮かんだことが口から飛び出してしまう。ヒメは笑って、
「はい、もちろんですよ。なぜならパセリは栄養満点ですからね。なにせβカロテンが……」
なぜかパセリについての講釈が始まってしまう。もう何度も聞いたというのに。
ヒメの透き通る声を聞きながら思う。
理由付けは後でもいいだろう。とりあえず今、俺はこの充足感に浸ることにしよう。これが自分の生き方なのだ。
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