第4話 ソフィスト
夜のキャンパス、目下には3つの影が伸びる。どれもが落胆しているように見えるのは錯覚だろうか。
腕時計を見る。時刻は10時。まだヒメは起きているだろう。別に意識することは無いが、このまま帰ってヒメに会うのはどこか気まずかった。
周りを見回してみる。理系の学部棟以外に光を放っているのは図書館ぐらいだった。
「すまん、2人は先に帰ってくれ。俺は図書館に寄ってから帰る」
「爽平が図書館とは珍奇な事だね」
「明日の講義で新聞を使うらしいんだ。教授が目を通しておけって」
「なるほど、そんなセリフが出るとは、爽平も大学生っぽくなったもんだ」
「うるさい。ま、気をつけて帰れよ」
結城は手を振って別れの言葉に代えた。小さな声で「おやすみ」と言ったのはハナだろう。2人は並んで正門の方へと歩いて行った。
図書館は昼とは違い蛍光灯ではなくオレンジの間接照明が館内を優しく照らしていた。階段近くの自習室には学生がまばらにいたが、1階の書架への入り口付近に人の姿は全く無かった。ここに人がいなければもう他の階にも人は残っていないだろう。
結城に言ったことは本当の事だったが、新聞を読む気にはなれなかった。そのまま奥に進む。やることもなし、散歩でもしよう。
エレベーターで最上階まで昇り、階下に降りつつそれぞれの階を散策していく。書架は真っ暗だったが、どこかにセンサーがあるのだろう、歩みを進めるとそれに応じて照明が灯っていく。
戸棚に積まれた本が照らされる。分類記号は9。俺の専門分野である文学だ。そこを素通りし、また階段を降りる。8の言語、7の芸術、と続いていき、ついには2階まで来る。分類記号は2。確か歴史……だったか。
ふと、首筋を風が撫でる。おかしい、司書が窓を閉め忘れたのか?仄かに漂う風を辿る。……同時に何か煙の匂いが空気に混じってくる。
角を曲がる。奥の壁で、開いた窓が月光に照らされていた。が、その下に一点の光が灯っている。時折、白い煙が月光に浮かぶ。
「やぁ、また会ったね」
この声は聞き覚えがある。駆け足で声の元へ近寄る。そこには、窓の下で咥えタバコをしながら本を読む男の姿があった。4日前、花壇で出会った男だ。
「な、何してるんだよこんな所で」
思わず声を上げる。図書館で煙草を吸うだと。
「読書さ。学生としての本分を……」
「いや、なんで煙草を吸いながら読んでるんだ」
「男子寮の火災、あれの原因が君だとは驚いたよ。文学部1年生の幸田爽平くん。あの記事は本当かい?」
俺の質問に、男は反問で返してきた。
「あんたには関係ないだろ……」
文字にすると毅然とした物言いだが、この時の俺の声は一段と小さくなっていた。やましい事は無いが、それを証明する手段を俺は持ち合わせてはいない。
そこで男はふぅっと紫煙を吐き出す。
「君、『蛍雪の功』という言葉を知っているか?」
「まぁ、聞いたことはある。語源までは知らんが」
確か苦労して勉学に励む、というような意味だったはずだ。
「かつて中国で高級官吏を目指している2人の若者がいた。しかし彼らはあまりにも貧しく、夜に本を読むための灯油すら買うことはできなかったくらいだ。そこで一人は夏の夜に蛍を袋いっぱいに捕まえ、それを明かりとした。もう一人は冬の夜に陽の光を溜め込んだ雪をかき集め、それを明かりとした」
俺の言葉尻が弱いのを悟ってか、男は淀みなく述べる。その手に持っているのは語源辞典かなにかなのか?
「それが今のあんたの背反行為とどう関係があるんだ?」
「今まさに僕も同じことを実践しているんだよ。煙草の明かりで本を読んでいるんだ。あえて模倣することでそこに啓蒙的思想を汲み取れるかもしれない」
相変わらず何を言っているかさっぱりだ。
「今の時代、いくら苦学生でも明かりくらいはすぐに手に入る。図書館に行けば無料で本が読める。しかし必ずしもそれが我々学生に開明を与えるとは限らない。何かを学びたければ苦心してでも貫徹させる。今の時代、それを実感できる機会は限りなく少ないからね」
「煙草を買う金はあるんだろ、何が苦学生だ」
「だから言っただろう。この思想に触れるにはあえて遠回りをしなければいけないんだ」
そう言って男は咥えていた煙草を手に持つ。
「この煙草は4日前に自家製のサツマイモと物々交換したんだ。ほら、君も一緒に見てただろう。煙草はほとんど吸わないんだが、考えてみたらこの時期に蛍は飛ばなければ雪も降らない。まぁいい経験になるかと思ってね。重要なのは自らの意思の為に何かを犠牲にすることさ。僕の場合はサツマイモだっただけで」
大学の花壇で勝手に栽培しといて何が自家製だ。そしてまったく話が理解できないのは俺の頭が着いていけていないからか?それともこいつの話に実は論理性なぞ皆無だからか?どうか後者であってほしい。
「そういえばあのサツマイモはどうだった?」
「まだ食べてない」
「それは残念!あの芋は農学部で品種改良中の試作品なんだ。農学部の学生以外食べることのできない代物だ」
「あんた、農学部だったのか」
「いや、違うよ」
まさかの一言だ。とすると、考えられるのは、
「勝手に植えてたんだな?」
しかも大学の花壇に。
「僕たちが実食することで貴重なサンプルデータを得られるんだ。 気にすることはないよ」
「それはお前が言っていいセリフじゃないだろ」
男は再度煙草を口に咥える。図書館で堂々と煙草を吸う人間と、部屋に煙草を置いただけで火災の冤罪をかけられてしまう人間、世の中は不公平なもんだ。
「世の中は不公平だ」
思わずぎょっとする。男の声だ。こいつ、俺の考えてることがわかるのか?
「だからこそ意思の履行に際して犠牲を厭んでなんかいられない。彼らもそうだったのかもしれないな」
「彼ら?」
男はそばに置いてある空き缶に吸い殻を放る。そして質問には答えず、立ち上がったかと思うとこれまでとは打って変わった調子で言った。
「さて、もう図書館も閉まる時間だ。もし予定がないなら飲みにでも行かないか?」
この男の誘いに乗るのはじくじたる思いがあったが、今夜はこのまま帰る気が起きなかった。それに入学してからずっと身に迫った危機に対応してばかりだ。心身ともにリセットするのもいいかもしれない。
「沈黙は肯定なり。さぁ、行こう。この近くにいいワインバーがあるんだ」
男は床に敷いて座布団代わりにしていたジャケットを羽織り、手に持っていた本を棚に戻す。
「名前を教えてくれよ。俺だけあんたの名前を知ら無いのはフェアじゃない」
ジャケットの袖に腕を通しつつ、男は視線を彷徨わせる。
「そうだな……、じゃあ葦田とでも呼んでくれよ」
葦田ははにかんで、出口に向かって歩き出した。会話の抑揚から、本名ではない気もしたが、まぁいいだろう。
大学の正門から歩いて10分もかからないうちに、店に着いた。
「ここだよ。安くて美味い、まさに学生向けのワインが取り揃ってる店だ」
「ここが……」
外観は、至極小さな雑居ビル、といった風だった。葦田の弁によると1、2階がワインバーで、3階からはレンタルオフィスとして貸し出しているらしかった。看板も無く、漏れ聞こえてくる歓談の声と料理の匂いが無ければ、近寄るのも憚られる怪しい建物だった。
「今日も盛況なようだね。どれどれ」
葦田は臆する様子もなく、中に入っていく。俺も意を固めて後に続く。
「いらっしゃーい、2名様ね。空いてるところにどうぞ」
人がごった返す中に店員の溌剌した声が響く。ワインバーと言うからには居酒屋よりかは落ち着いた雰囲気を予想していたが、違ったらしい。店員の接客が賑々しいのも、これほどの客の会話で騒然としていれば無理もない。店内は割と広めで、カウンターの他にいくつか丸テーブルが置かれており、それぞれに数名ずつの小集団ができていた。
「今日のオススメワイン、ボトルで。赤と白どっちがいい?」
空いてる卓につき、前者はメニューを持ってきた店員に、後者の質問は俺に向けて葦田は聞いてきた。
「白」
「じゃあ赤と白一本ずつ持ってきてください」
「おい」
「いやー、僕今日は赤ワインが飲みたかったんだよねー」
葦田はしれっと言う。じゃあなぜ聞いたんだ、と問いたかったが、無駄だと悟って口をつぐむ。しかし一人で一本も飲めるだろうか。
それから1分も経たないうちに赤と白のボトルと2つのグラスが運ばれてきた。御通しはアボカドのディップソースとクラッカーだった。
「バッカスに乾杯」
葦田の音頭につい合わせて乾杯する。それから
「バッカス?」
「酒の神さ!ディオニューソスとも言うけどね」
「心底どうでもいいことしか言わないのか」
「それは君の主観だろうさ。未知の物事に戒心を持ち続けるのも悪くはないがね、それでは人生つまらないだろう?」
「それこそあんたの主観だろう。俺はあの件で心底参ってるんだ。そりゃ用心したくもなるさ」
葦田は笑った。が、それ以上口を挟まなかった。
ぐいっとワインを喉に流す。美味い。初めて飲んでみたが、案外イケる。
「このワイン、いくらかな?」
ヒメの店にも置いてもらおうか。
「4000円だよ」
そこそこするな。まぁボトルだとそんなものなのか。
「ところで、今いくら持ってる?」
葦田が淡々とした口調で訊いてくる。
「なんで?」
「いいから」
渋々ポケットから財布を取り出し、中身を確認する。
「1万5千円」
なけなしの金だった。昨日、修繕費ローンの今月分を振り込んだため、俺の全財産はこの程度しか残っていなかったのだ。
「じゃあ君が払ってくれ」
「はぁ!?」
何を言い出すのかこいつは。
「普通は割り勘だろう?」
不平を露わにすると、葦田は自分のポケットをまさぐりだした。
「普通はな。だが見てみろ……」
ポケットから出したその手には、いくらかの小銭があった。数えてみるが……。
「おい、なんでいっぱしの大学生が315円しか持っていないんだ?」
100万円以上の借金を持つ俺よりも少ない!
葦田は首を傾げ、肩を上げる。まるで「そんなの聞いても詮なきことよ」とでも言うように。
「ワイン、美味しいかい?」
癪に障る言い方に憤りを覚えるが、それ以上に含蓄のある言葉に聞こえてくる。「美味しいワインを飲んだのだから誰かが支払いせねばならない」と。意識的なのかどうかはわからないが。
「一つ貸しだぞ?」
「そうだな……。じゃあ手形を作ろう!」
「手形?」
手形というと、約束手形か。
「酔っ払いがそんなことを言い出しても……」
「しかしワインと手形とでは切っては切れない縁があるんだよね」
仕方ない、話を合わせよう。
「……というと?」
「ワインの原料はもちろん葡萄だ。収穫期は年に1回。収穫の秋だ」
「それが手形とどう関係があるんだ?』
俺の質問に待ってましたと言わんばかりに大仰な仕草を見せる。
「手形が使われたのは12世紀のイタリアだ。その時代は……」
「地中海貿易か」
たしか高校の世界史で習った気がする。
「……そう。貿易が盛んに行われていたんだ。当然、ワインの需要も高まっていった」
そこで葦田は言葉を区切る。
「ワインは当時ドイツやオーストリアで貴族向けに高値で取引されていたからね。遠隔地でも安全に決済でき、かつ資金を得てすぐに次のワイン作りに取り掛かる必要があった。そこでワイン業者に広まっていったのが」
「信用売買、手形か」
「ご名答!」
葦田はグラスを傾けながら、悦に入る。
「重商主義時代のおかげで現代の僕らは金に苦心せず、季節性のワインを日本で美味しく飲める、ってわけだ。資本主義万歳だね」
一瞬、感嘆の声を向けようとしたが、はっと気付く。
「おいちょっと待て。話をすり替えるな。俺が聞きたいのはいつ返済してくれるかだ」
葦田は目を逸らす。まったく、会話したのはこれで2度目だが、だいたいこいつの性格が分かってきた。このおざなりな態度といい、随分飄々とした性格をしている。
「しかし、重商主義の行き過ぎは土地の問題を引き起こす」
葦田の声ではない。気がつくと、葦田の右隣に男が立っていた。立派な背丈から生じる威圧的な雰囲気。文道先輩だった。
「ああ、文道さん。こんばんわ」
三日ぶりの再会だ。文道は俺に目で挨拶を返すと、すぐさま葦田に視線を戻す。
「手形の発展は何もワインに限定されるものじゃない。ただ遠隔取引が広まったのがその時期ってだけだ。よってこの似非ヴェニス商人の言葉が正しいとは言い難い。まぁそれは置いておこう」
文道先輩は手に持ったワインを一口煽る。少々酔っ払っているのか。
「ワイン貿易の発展は葡萄園の拡大につながった。それによって地中海諸国は土地を開発し尽くし、ついには禿山ばかりとなった。一度行ってみるといい。葡萄園がある地域には木が一本も生えていない。俺はあの景色に清涼感を覚えるにしても、どうも資本主義の負の側面が見えて仕方がない」
文道先輩は葦田に目を向ける。座っている葦田に対して、見下すような格好だ。
「ワインで得た資本が新たな富を求めて他国へ流出し、地中海諸国は衰退の道を辿ったというのも皮肉な話だよね。まぁ、だからといって貿易差額主義までを批判するのはどうかと思うがね」
葦田は物怖じせずに淡々と言いきる。両者の間でわずかに緊張が生まれたのを察する。仕方ない、場を取り持つのは年少者の定めか。
「えと、文道さんはこの店によく来るんですか?」
「ん、ああ、今日はちょいと集まりがあってな」
文道は後ろを振り返り、別の席で固まっている集団に手を挙げた。向こうの集団もこちらに気付き、手を挙げ返す。
「今日はバンドの集まりなんだ」
何の気なしの質問から、意外な単語が返ってくる。いや、意外では無い。火災の後、文道先輩の部屋を覗き見た際に、大きなスピーカーを確認できた。日頃大音量で洋楽を聴くくらいだ。バンドをやっていても不思議とは思わない。
「ボーカルですか?」
「いや、ギターだった」
おかしい。あの部屋にギターは無かったはずだが。
「まぁバンドと言っても3年ほど前に解散してな。今日は久しぶりに前のメンバーで集まっただけだ」
「なるほど」
それなら合点がいく。しかし……
「何で辞めてしまったんだい?」
剥き出しの質問が、葦田の口から飛ぶ。こいつには遠慮も無いのか。
「別に。ちょっと前に骨折してね。それ以来楽器には触ってないんだ」
文道はそう言って、右肩をさする。まだ痛むのだろうか。特段気を悪くするそぶりも見えなかった。
「それで全員解散かい?」
葦田は肩を上げ、さも意外だ、という風なジェスチャーを見せる。
「そりゃメンバーの一人が弾けなくなったらそうしますよね?」
俺のセリフが一般論ではないことは承知していた。しかし今までの話の流れからすると、間違ってはいないと思った。しかし俺の言葉は彼の琴線に触れたようだった。
「お前に何がわかる!」
激昂した文道先輩が、机を右手の拳で叩く。グラスが揺れ、中の液体が大きく波打つ。
「えと、文道先輩……?」
俺には、文道先輩が起こっている理由がわからなかった。
文道先輩は大きく肩を揺り動かし、俺をギラリと睨む。が、それは一瞬のことだった。
「すまない、取り乱した。お前を怒るのは筋違いだな。本当に申し訳ない」
すぐに拳を下げ、肩をさする。直後に俺に向かって深く頭を下げる。俺は唖然としてしまい、言葉が継げずにいた。静まる店内。
「幸田君、歩きながら飲んでみないかい?」
気まずい沈黙が流れる中、葦田が助け舟を出す。ここは一時退散すべきだ、ということだろう。
「そうですね。そうしますか」
席を立ち上がるも、文道先輩がその肩を抑える。
「いや、今のは俺の責任だ。俺が出て行くよ」
「気にしなくてもいいさ、丁度夜風に当たりたいと思っていたんだよ。罪の意識があるのなら幸田君の意思を尊重すべきだね」
葦田の言葉は、一切の情けが排されているかのようだった。
「大丈夫ですよ、僕もそそそろ定食屋に帰らないといけないんで」
文道先輩は反論するそぶりは見せず、ただ一言、
「すまない」
と言っただけだった。
店を出て、葦田と並んで歩く。店内は人いきれで暑いくらいだったが、屋外に吹く風は、存外気持ちがよかった。両者の手にはそれぞれ赤と白のワイン瓶。そして俺の財布からは下ろしたてのピン札が消えていた。正真正銘、素寒貧だ。
「なぜ彼は怒ったんだと思う?」
「さっぱり分からない。なぜあんたではなく俺に対して怒ったのかも」
葦田は小さく笑い、ワインを瓶から直接飲む。随分行儀が悪いが、気にする奴はここにはいない。俺も一口飲む。夜風のせいか、頭は店内にいた時よりもすっきりしている。
「直情的な反応ってのは、言わば防衛本能みたいなものさ」
演説を垂れるかのごとく、葦田は喋り出す。
「自分の存在を危うくするような言葉や環境からその身を退かせるためのね。現に彼はそれに成功したよ。気まずい会話を断ち切って我々を自分から遠ざけた。わざとではないだろうがね、結果的にそうなった」
店を出たのは葦田の指示があったからだろ、とは思った。が、例のごとく口には出さない。
「別に彼の理性が乏しいと言っているわけじゃない。誰しもそういう本能を持ち、それをうまく使って『自分』という名の塔が倒れるのを防いでいる」
そこで葦田は言葉を切ると、歩みを止め、俺を真っ直ぐと見つめる。
「君にはそんな経験がないだろう」
たった一言が、自分の胸に突き刺さる。一瞬にして酔いが覚める。手に持った瓶を強く握りしめる。
「君は自分という存在をはっきり知覚したことがないだろう。だから心の底から怒ったこともなければ誰かに対して怒ることもない」
「そ、そんなことはない」
まただ、言葉尻が弱くなる。
「そうか?寮の火災、君は冤罪だと言うがその割には逼迫しているようには見えないぞ?」
「そんなことはない!俺だって怒ったことぐらい……」
「ある」と言おうとして、はたと気付く。今、俺は怒っていない。今言おうとした台詞も、形式的なものだ。心の底から湧くような熱気を帯びたものではない。
目の前の人影に、結城の姿が重なる。俺はまだ、変われていないのか。
葦田は俺から視線をそらし、再び歩き出す。
「君はまだその手で足掻いたことがないんだ。水の中なり土の中なり、厳しい環境で何かを掴もうと努力すべきなんだ。そうすれば水かきも僕みたいに大きくなる」
微笑をたたえながら、葦田は左手の平を見せつける。冗談なのだろうが、もちろん葦田の水かきも俺のそれと大差ない。
葦田の語り口は大仰で抽象的だが、そこには何の衒いも無かった。ただ俺の現実を語っているだけだ。
「晩成時代なのかもしれないな。90年代、アメリカではその好景気の下、若者の青春時代は延長された。だがそれによって能力の開花も遅れ、自己の確立にも時間がかかるようになった。それが今の日本でも起きているのかもしれない」
葦田の歩みは速かった。「ここで別れよう」ということなのだろう。俺は立ち尽くしたまま、葦田の背中を見つめる。
「じゃあ俺はどうすればいいんだ」
思わず声高に呼びかけてしまう。葦田は振り返り、後ろ足で歩きながら
「それこそ先人の例が至る所で見られるじゃないか。それを参考にすればいいさ。あ、この大学ということならあの一大事件があるさ」
一体なんだ、と思ったが、俺の返答を待つそぶりもなく葦田は言い放つ。
「4ヶ月前に起きた事件――横領事件のことさ」
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