5-2


 人をかたどったおぼろげな何かが目の前に立っている。

 それが誰かは分からない。

 何をするわけでもない。ただそこに存在しているだけ。

「やっと自分の役目を果たしてくれたねナル」

 ソレは確かに俺らへ語りかけ、はっきりと何を言っているのか聞き取れた。

 痩躯を連想させるやわい声。だらんとしたなで肩と細い胴と脚。形はあれども色はない。薄白い輪郭だけがぼんやりと線となって引かれている。

「あなたは誰?」

 エミは声を尖らせて怪訝な表情を浮かべた。目の前のソレが俺らに危害をもたらすかも分からない。にも関わらず外敵と見なした口調。

「はやくこっちに来てよナル。早く君が経験したことを僕に共有させて」

「人の話を聞いて。あなたは誰?」

 エミの語気が荒くなる。敵意をむき出しにした視線が鋭さを増した。

「僕はアル。ねえナル。早くおいでよ」

 最も短い言葉で、アルと名乗るソレは答えた。エミへの対応と俺へ対応にえらく差がある。ただひたすらに好奇心に従順。

「ねえナル。あいつは何を言ってるの? ナルのことを知り合いみたいに言うけどナルはあんな奴知らないよね」

 エミが俺の袖を掴む。さっきまで強気だったはずの表情に不安が宿り、直接腕に触れずとも緊張感が伝わった。

 しかしソレはエミの不安など意に介さない。

「わざわざさ、ナルのために三巻は空けておいたんだよ。早く聞かせてほしいな。刺激的な僕の人生の一ページを」

「ふざけないでよ。さっきから何? ナルを自分のものみたいに。ううん、自分のことみたいに」

 自分のことみたいに。

「うん、だってナルは僕だもん」

 その言葉はえらく簡単に告げられた。

「ふざけないで!」

 エミが俺の代わりにソレと言い争う。

「ずいぶんとナルの肩を持つんだね。ひょっとして君はナルのことが好きなの?」

 エミの顔が真っ赤に染まる。恥ずかしいからではない。前に進むことをためらっていた足が怒りに任せてソレへ詰め寄る。

「あんたなんか!」

 握りしめた拳をぎこちなく振り下ろす。エミが暴力を振るう姿を見たのは初めてだった。きっと直撃したところで大した痛手も負わせられない。当たるどうかも怪しい。

「うっ!」

 だがソレは避けることをせず、エミの拳を頬で思い切り受けた。

「いてて、本当に殴られるとは思わなかった。感情的な生き物だ。良いね。そういう見境いがないの大好きだよ。すごく刺激的だ。ここにいるって感じがする」

「何言ってるの⁈ バカでしょ⁈」

 エミが声を荒げるたびにソレは歪んだ笑みを浮かべた。表情が徐々に浮かび上がり、輪郭も先ほどよりも濃くなる。

「なんか面白くなってきた。そうだ。せっかくだからもう少し楽しみたいな。ナル、最後にすごく良い経験をしたね。こんなの一人じゃ絶対に味わえないよ」

 ソレは手を振りかざすと、真っ白な世界に何かを描き始めた。

「炎の神」

 白い世界に彩りが与えられる。塵みたいに赤茶けた点が徐々に集まり、人の形を成していく。

 目の前に現れたのは見慣れた人物。

 逆立てた赤黒の髪と自己主張の強い太眉。道着の上からでも分かる骨格の良い肩周り。力強さがにじみ出る大きな目。

「そっか……。俺は作り物なんだな」

 散々言い争いをした高圧的な口調が悲しげに言葉を漏らす。

 ナッシュがどこからともなく現れ、立ち尽くしていた。

「気分はどうだいナッシュ」

「……最高に目覚めが悪いな」

 ナッシュが自分の両手を見つめ、感触を確かめるように手の開閉を繰り返す。拳を突き出し、回し蹴り。自分が存在していることを自分へ分からせる。ナッシュは確かに今ここに存在している。しかし、

「そうか……」

 ナッシュが大きなため息を漏らす。

 お家芸とも言える燃えさかる炎は手を翳しても振り上げても出ることはなかった。中腰に構えて全身を力ませても結果は同じ。うんともすんとも言わない。世界を焼く業火は幻だったとすら思える。

「俺はナルの遊び道具だったわけか」

「……」

 ナッシュが自嘲的な笑みを浮かべて、俺を見る。俺の知らないとところで話は勝手に進んでいた。頭の中へ俺のものではない思考や感情が無理やり入り込み、勝手に理解をしようとする。

 一人孤独に世界を作り続けた日々。孤独が埋まらずに作った世界を壊した日々。それでも心は満たされず、自らを自分の作った世界へ放り込んだ。

 ワールドクリエイターの三巻。それが俺。

「ってことなのか?」

 アルと名乗るソレへ、言葉足らずに問いかける。

「そういうこと」

 ソレは心の中を覗いているみたいにあっさり答えた。

「だから早く三巻を完結させて。もう四巻は始まろうとしてる」

 じれったいのか、ソレは子供みたいに俺を急かした。 

「なあ、俺はなんなんだ」

「アルだよ。でもせめて今はナルって呼んであげる。三巻は君の物語だから」

 他人のことを自分みたいに扱い、他人としても扱う。心の整理がつくはずもないのに、俺の心が勝手に納得しようとする。

「ナッシュ、悪いけど俺はこのまま進もうと思う」

「け、結局はそっち側の人間なんだろうが」

「自覚はなくてもこれが望んだことみたいなんだ。すまないが悪気はない」

「謝るところ間違ってんだよ」

 思い出す。とは少し違う。何も知らないで生きることが俺がここにいる理由。それでも自分が何者かを川の流れみたいに滑らかに理解していく。

 ナッシュは潔かった。指の関節を鳴らし、これから何をするのか理解している。表情に迷いがない。

 ナッシュもまた決められた人生を生きている一人だった。

「念のため聞いておく」

「なんだ」

「ナルがこの世界の遊びに飽きたらどうなるんだ」

「まあ……終わるんだろうな」

「ワールドクリエイターの四巻通りか」

 ナッシュから大きなため息が漏れる。静かに、ゆっくりと自分の人生を受け入れる。

 今になって岩山の村長の言葉を思い出す。

『自らの死を誰かのせいにしたりはせんよ』

 言葉で言うよりずっと難しい。ナッシュは頭ではなく心で理解していた。

「意地でも勝たねえとな。まだやり残したこともあるし。一生三巻を作り続けてやるよ」

「俺がナッシュに勝てるわけないだろ。無能なんだから」

「ワールドクリエイターが何を言ってやがる。現に俺は炎が使えねえ。どう考えてもお前の仕業だろうが」

「どうだろう」

「まあ無能のナルが相手だ。それくらいのハンデがあった方がちょうど良いか」

「切実にそうだな」

 お互いに悪人みたいな笑みを浮かべる。付き合いが短い割に、気を使わない関係がえらくしっくりくる。

 ずっと前から知り合いだったみたいな。否、もっと近しい。兄弟みたいな。あるいは同じ存在。それくらい気持ちが理解できる。

 だからこそ蚊帳の外でいたくなかったんだと思う。

「ねえナルもナッシュもどうしたの? なんで物騒なことばかり言うの? どうして向かい合って睨み合ってるの? 違うよね? どうにかしなきゃいけないのはあいつだよね。そこにいる顔も分からな奴だよね」

「抜けよ」

「やめてよナッシュ」

「ナッシュは素手なのか?」

「ナルもやめて」

「それが俺のスタイルだからな。じゃなきゃ俺の圧勝だろうが。それとも負けたいのか?」

「かもな」

 視界の端に悔しそうに唇を噛むエミが映る。申し訳ないと思うのに、構う気は生まれない。目の前のやるべきことにしか頭が回らない。

 背中から剣を抜くと、中腰になって動きやすい体制を作った。

 高揚する。なのに怖い。感情がぐちゃぐちゃだ。

 俺というアルの一部は、ワールドクリエイターの三巻なんだ。俺の物語が終われば四巻に入る。そしたら、

 今俺はワールドクリエイターという物語を終わらせるためにナッシュと対峙してる。もっとやりたいことも沢山あるはずなのに、体が疼いで仕方ない。

 俺がワールドクリエイターだから?

 それとも単に異常なのか。

 別にどっちでも良いや。

 仮に大層な存在であっても大して名誉でもない。世界を思い通りにできることが偉いのか。壊したり作ったり思いのままにできることが楽しさに繋がるかと言われればそうでもない。

 無能であっても俺の人生は楽しい。とは言い切れる。

「いくぞ……」

 ナッシュへ向かって駆け出す。歩くことすらままならなかったのが嘘のよう。

 空も飛べない。火も出せない。しかし体は軽い。

 流れるように、滑らかに俺たちは拳を交える。

「ふっ!」

 息を吐いて力を込める。だがまだ剣は振らない。そぶりを見せて、ナッシュを陽動する。

「猪突猛進野郎が小賢しいことするじゃねえか」

「悪いが本気で勝ちたいんだ。……一応、ライバルだろ」

「聞こえ良く言ってんじゃねえよ」

 間合いの取り合いを先にやめたのはナッシュ。懐へ潜り込み、拳が俺の顔面を襲う。それを空いた左手で払い、ステップで横へ回り込む。しかし距離を取ることは許されない。攻撃の手を休めずひたすら俺に張り付いてくる。

「どうした。右手の大層な剣を振る下ろせば俺なんて一撃だろ」

「そんな暇あるか。振った瞬間に隙ありとか言うんだろ」

 ナッシュは手を休めない。俺も防御に徹する。しかし不思議と会話も進む。体はおろか、思考すらほとんど反射的に行われる。

 今の間合いは剣を振るうに適さない。かと言って距離も取れない。

 空いた左手でナッシュの拳をなし、剣の柄を額へ見舞う。ナッシュの首が反動で反り返り、顔を歪める。瞬間、剣を振るう絶好の距離が生まれた。

 体制を崩したナッシュの肩口目掛けて切り掛かる。が、たいを捻り、道着の袈裟を掠めるに留まる。

「危ねえな。もう少しで血まみれになるところだろうが」

 俺は言葉を返さず、後手に回ったナッシュのどてっ腹に蹴りを入れた。鍛え抜かれた硬い腹筋の感触。簡単には内臓を潰すことはできない。

 ナッシュは歯を食いしばり眉根を寄せる。効いた証拠。だが俺の蹴りをナッシュはあえて前のめりに受ける。

 ダメージと引き換えに無理やり体制を整えた。

「俺の間合いだ」

 俺の脚を掴み、顔面に拳が飛ぶ。視界が振れて、脳も揺れる。歯を食いしばるのが遅れ、思い切り唇を噛んだ。

 仕返しと言わんばかりの重い回し蹴りが俺の横っ腹をえぐった。

 思わず「ぐぅ」と苦痛の息が漏れる。

「なんだよナル。けっこう格闘もいけんじゃねえか。楽しいな。楽しいじゃねえか!」

「ナッシュに褒められるのは光栄だな。こんな時まで楽しいとか異常だろ」

「俺の存在意義は戦闘なんだよ。そのために生まれたのかもしれねえが俺は俺の意思でそう決めたんだ。たまたまお前らの意図と一致した。それだけだ」

 口端を片側だけ持ち上げ、歪んだ笑みを見せる。息を切らしながらも呼吸も厭わず再び距離を詰めてくる。

「どんだけ強靭な精神力だよ。普通は現状が受け入れられなくて喚き散らすところだぞ」

「ナルこそ変わり身が早えんだよ。なんならアルって呼んでやろうか? ワールドクリエイターと自覚した瞬間にもうやりたい放題か?」

「全然やりたい放題じゃないだろ。どう見ても俺の劣勢。相変わらずの無能だよ。感情だってぐちゃぐちゃなんだ。自分でも何がしたいか分からないくらいな」

「ナルはナルだろうが。我がままで自分勝手ないけ好かない野郎が弱音を吐くな」

「説教ありがとよ」

 拳も蹴りもほとんど躱される。時々当たったと思えば、反撃を食らって主導権が握れない。一進一退の攻防とはこのこと。

 いつしか会話も無くなり、互いに先の取り合いに集中し始める。

 血反吐をナッシュの目へ飛ばし、視覚を奪う。距離が詰まった瞬間に咆哮し聴覚を狂わす。五感すら威嚇し、ナッシュの神経を削ぐように弱らせた。

「はぁはぁ……しんど」

「必死だな。そんなに俺に負けたくねえか」

「負けたくないね。気持ち良く世界を終わらせるんだ」

「とんだサディストだな。知ってるか。一応村では英雄で通ってるんだ。英雄は世界を救うんだぜ、それに、ナルごときがそんな大層な目的で頑張れるわけねえだろ」

「なんだよ」

「ユイナを取られたくない。ナルには器の小せえ欲望の方がお似合いだ」

「……言ってくれるじゃん。ナッシュこそユイナに一目惚れだろ。英雄が聞いて呆れる」

「俺は自分の感情に素直なんだ」

「奇遇だな。俺もだよ」

 会話のリズムが体のリズム。笑い飛ばした後に血で血を洗う斬り合い。そして殴り合い。

 ナッシュに殴られた腹や肩が時間差で痛み出す。熱がこもり、全身が脈打つ。

 楽しいひと時だった。

 心臓が鼓動するたびに全身が痛む。生きている実感。みぞおちを殴られれば息もできなくなるし、顎を打たれればコンマ一秒意識が飛ぶ。

 痛みはためらいを生み、一歩目が鈍る。

 だが弱気を上回る好奇心が俺を急かす。

 全力を出せ。死ぬ気で生きろ。

 ナッシュは俺の我がままに応えてくれた。零距離で剣を振るう俺を真っ向から受ける。紙一重で躱し、あるいは肉を切られる程度なら良しとする。代わりに俺の鼻っ柱を突き、苦悶する俺を嬉しそうにあざ笑った。

「すげえ痛え……」

「言い様だな! 鼻血が半端ねえぞ!」

 血に混じった鉄の匂いが鼻をつく。口元に垂れた血を啜って思い切り吐き捨てた。

 好機と見たナッシュは俺の顔面ばかりを狙う。頬やまぶたを掠めるたびに刃物でもないのに切り傷が増えていく。

 片をつける気だ。だが、

「お返しだよ!」

 俺の鼻っ柱に迫るナッシュの太い左腕を薙ぎ払うよう一刀両断。消耗戦は唐突に激流に飲み込まれた。

 致命傷。ひと振りで感じた確かな手応え。

 しかし五体不満足とは無関係にナッシュの右手が俺の顎を捉える。よろける体を足で踏ん張るも力が入らない。倒れながら剣を横へ薙ぐが、腰の入っていない振りは道着すら斬り抜けない。

 時間の流れが遅く感じ、倒れこみながら太い腕が宙を舞うのが見えた。痛覚すらまだ反応しないほど圧縮された時間。

 あるはずのない腕でナッシュが俺へ殴りかかるが、当然俺を捉えることはない。体勢が崩れ、よろける。

 もう強いナッシュはそこにいない。

 今一度、両の足で踏ん張る。体を反り返して腹筋へ全神経を集中。無理やり体を起こし、同時に剣を振り上げた。

 俺の視界に倒れこもうとするナッシュの姿が映る。

「せあぁぁぁ!」

 喉を潰す咆哮。振り下ろした剣から肉を切る鈍い摩擦が伝わる。上手く刃を向けることができず、ほとんど殴りつけたような下手くそなひと振り。体重を乗せた脚が疲労で崩れそう。

 しかしためらいはなかった。

 ナッシュは大の字に叩きつけられ、あふれんばかりに血反吐を吐いた。

「はぁはぁ…………。俺の勝ちだな。ナッシュ」

「……まじか。俺が負けるとかありえないだろ」

 強気な言葉に口調が比例しない。掠れた声が荒い息遣いと一緒にようやく溢れる程度。

 真っ白な世界に鮮血がやたらと際立つ。

 鈍かった痛みが急に増していき、動くのすらだるい。

「ナッシュの物語はここで終わりだ。悪いな。ナルごときに負かされて」

「くそが……。こんな屈辱マジで死んだほうがマシだぜ」

 しゃべるたびに口から血が溢れ出す。本当なら喚き散らすほどの激痛だろう。だがナッシュはあえて傷を抑えようとはしない。

 原っぱに寝転ぶみたいに図体をおっぴろげる。きっとナッシュなりの美学なのだろう。

「ありがとな。すげえ楽しい時間だった」

「やっぱナルは異常だわ。友達をぶった斬って楽しいだとか」

「友達?」

「はん、笑わせんな。傷が痛むだろ。ここまできて悪態つくかよ」

 なぜこんなことが言えるのか自分でも分からない。そしてナッシュがえらく機嫌が良いことも。

「あー……、最後に聞いて良いか?」

「なに?」

「ユイナはどこにいるんだ?」

 俺はその質問に答えられなかった。

「け、ワールドクリエイターのくせに分からないのかよ。相変わらず無能だな」

 何かを察したのか、ナッシュは勝手に言葉を続けた。言葉を吐くたびに痛々しくむせ返す。

「ユイナが飛んでるところ見たかったな……。ユイナはどこにいるんだよ」

 同じことを繰り返す。

「すまん。本当に分からないんだ」

「け、最後まで役に立たねえな」

 徐々に声が小さくなる。比例してナッシュの体は蒸気みたいに少しずつ薄れていった。

「今まで怪物だろうが竜だろうが一度も負けたことなかったのにな……。最後だけ負けとかださ過ぎだろ。しかもナルに」

 今生の言葉は日常と同じだった。

 最後は残った体が砕いた氷のごとく離散する。

 粒のひとつひとつが煌びやかで、命の欠片みたいだった。風もないのに宙を舞う。返り血すら厳かで楚々そそらしい。

「あー……楽しかったな」

 俺は天を見上げた。強烈な達成感が全身に染み込んでいく。呼吸をするのが気持良いと意識したのは初めて。勝利とはただ突っ立っているだけで快楽を得られる。そして、

 満足の後に訪れるのは虚無感。

 心が空っぽになって、息を吐くたびに生気が溢れ落ちるよう。体が軽くなった錯覚を起こす。にも関わらず動く気力は全く湧かない。

「あー……終わっちゃったんだ」

 無自覚に一筋の雫が頬を伝う。涙を流すのは初めてだった。

 泣くことは恥ずかしいことだと思っていた。涙は弱者の証拠。ださい。格好悪い。泣く奴の気が知れない。そもそもどうやったら泣けるかも疑問だった。

 泣くのってこんなに気持ち良いんだ。

 達成感とは違う。漠然とした不快感が全て洗い流されていく。

 快楽と苦痛を何度も繰り返す。

 もう少し。もう少しで満たされる。そう信じたかった。

「ねえナル……。ッシュはどこにいったの? 消えちゃったら治癒できないよぉ……」

 エミはナッシュが倒れていた場所に蹲り、何かを探すように足元を手で擦っていた。

「悪い。ナッシュはもういない。あいつは役目を果たしたんだ」

「……役目ってなに?」

 詰まりそうな喉から懸命に言葉を絞り出す。ナッシュの潔さとは違う。未練や悔しさ、やるせなさが滲み出ていた。

「あいつはエミたちとは少し違う存在なんだ。与えられた役目がある。自由奔放には生きられないんだよ」

「分からないよ」

「例えそこにナッシュの体があっても、エミは治すことはできない」

「そんなのやってみなきゃ分からないよ」

「そうだな……。でももうその『やってみなきゃ』ができないんだ」

 エミは何もない場所で青白い光を放った。

「まだちゃんとお礼が言えてないよ……」

 淡い光がぼんやりと膨らんだり窄んだりする。不安定でいつ消えてもおかしくない。そんな危うさがある。

「なあエミ、ナッシュは満足そうだったよ」

「そんなことない」

「最後まで下らない戯れ言を貫いてた」

 エミの周りを包んでいた光が静かに消えていく。音もなく、儚く白い世界が戻る。へたり込んで俯いたまま、嗚咽みたいな吃逆しゃっくりが聞こえる。

 変だった。エミを諭してるのに、自分を諭してるみたいな感覚に陥る。自分の感情がいつの間にか侵食され、別の誰かの価値観に染められていく。違和感の切れ端が不快だった。しかし染められていく感情を塗り替えることができない。

「エミ、今度はエミの番だ。ちゃんとナッシュみたいに覚悟を決めろ」

 エミは唇をぐっと噛んだ。押さえつけているはずなのに、震えが止まらない。ひた隠しにし、溢れ出そうな感情をここに来てもまだなお押さえつける。

「……マンタに会いたい」

 口元からするりと落ちたのは原始的な人の感情だった。

「マンタに会ったら終われる気がする?」

「そんなの分かんないよ……」

「じゃあ会えなかったら」

「……やっぱりナルは非道いよ。人の気持ちが分かって人を思いやれないんだもん。どこまでも自分本意」

 エミが瞬きをすると、まぶたに溜まった雫がすっと頬をなぞった。何故だろう。自分で流す涙があんなにも気持ち良かったのに、人の涙は胸のあたりが痛む。

「なあアル。俺はこの世界では何でもできるのか?」

「ナルは何もできないよ。何でもできるのは僕だから」

「そうか……。ごめんな悪いなエミ。俺の力でマンタに会わせることはできないみたいだ」

 エミは悔しそうに華奢な肩を震わした。今度は下まぶたに涙が溢れても決して瞬きをしない。涙を零すことを拒んだ。

「……好き」

 聞き漏らしそうなか細い声が音としてだけ溢れる。

「マンタのことが好き」

 今度ははっきりと聞こえる。

「マンタに会いたいよ!」

 叫ぶのに慣れておらず、情けなく声が裏返る。しかし真っ白な世界は音を反響させない。エミの魂の叫び声に共鳴することもなく、飲み込んでいく。

「……本当に会わせてくれないんだね」

「俺の意思じゃない」

「ナルもアルも変わらないよ! ばかばかばか! 会わせろ! マンタに会わせろ!」

 鼻水が垂れ、泣きじゃくる。激情的という言葉が当てはまる。非情とかではなく、俺は無能だから権利がない。

「お願いじまず……」

 腰を折り、縋るように嘆願する。

 治癒というエボルトで唯一無二の能力を持つエミはどこにでもいる女の子だった。好きな人に会いたい。ただそれだけ。

 果てしなく白が続く世界で、えらくちっぽけな感情だった。唯一無二のエミにはそんな些細な願いすら叶えることができない。

「えっぐ……」

 溢れ出た感情が涙で浄化される。否、せっかくの強い想いが涙と一緒に発散される。人の生理現象はとても残酷だった。

 涙も枯れて、好きな人への想いすら薄れていく。今度は逆に泣きたいと言わんばかりにまばたきを何度も繰り返す。しかしもう雫が溢れることもない。辛さを取り戻そうとする姿が痛々しかった。

 俺が反対の立場だったら同じなのだろうか。仮にユイナとはもう一生会えなくなったら……。

「エミ、良いんだよ。涙なんか流さなくても」

 不意に溢れた優しさ。は、俺の言葉ではなかった。当然アルでもない。

 反射的に後ろを振り向く。

「あ……」

 涙で発散してもなお、想いは変わらない。この場所ではどれだけ強く想うかが世界を作る。

 誰の意思かなど些細なこと。少なくとも今ここにそいつがいるのは誰かがどうしようもなく求めた結晶だった。

「……マンタ?」

 エミの掠れた声に少しばかりの光が宿る。視線の先にはいつもと変わらぬ丸坊主のマンタが立っていた。

「ナル、非道くないかい? 僕は完全にのけ者扱いじゃん。いくらこの中で一番弱いからってそりゃないよ。同じ無能同士で付き合いも長いのにさ」

 一番驚いたのは俺だった。

 正直マンタとは二度と会うことはないと思っていた。アルの言動からマンタへの興味は薄い。というより話題にすら出なかった。

 それは俺自身がマンタへの興味が薄いからなのか。そうは思いたくない。

 いつになく穏やかな表情のマンタは俺の隣をゆっくりと横切り、エミの元へ向かう。平均よりも小さい身体だがピンと伸びた背筋のせいか、いつもより大きく見える。

「エミ、ごめんね。僕、ずっとエミのことを傷つけてたみたい」

「そだよ……。マンタは非道いんだよ」

 マンタがエミの華奢な肩を抱き寄せる。治癒の時とは真逆の光景。そこに情けなかったマンタの姿はない。

「人って瀬戸際にならないと本気にならないんだね」

 目尻に皺を寄せて、くしゃりと笑う。マンタは笑顔が下手くそだ。いつも自分の美学を持って格好つけてる。

 そのマンタが人目もはばらず好きな人を抱き寄せる。

 不思議だ。この世で一番くだらないと思っていた光景が羨ましい。それをひたすら傍観する。

「ずっとこうしていたい」

「うん……」

 安らかな表情。たった一人の人間というちっぽけな存在が誰かの世界を全て満たす。

 エミはしきりにマンタの目尻の傷あとを触った。

「やっぱりこの傷はこのままでも良いかな」

「元々治してもらう気なんてないよ」

 ずっと埋まらなかった距離を必死に埋めていく。マンタが抱き寄せる腕に力を込めると、エミは「痛いよ……」と苦笑した。

 互いのコンプレックスに触れていた手が絡み合い、柔らかく結ばれる。

 ごちそうさま。そんな茶々を普段なら入れただろう。だが今は口を挟めない。今は俺が蚊帳の外。

「アルはさ……。どういうタイミングで創造するの? 基準が分からないんだけど」

「僕にも分かんない。心が動かされた時? これって感動っていうのかな」

 あの二人の世界には俺もアルも存在していない。二人だけの世界。二次創作物であるはずの二人はアルの世界で確かに生きていた。

「ナルはさ、これを見てどう思うの? 親友の幸せに感動とかしちゃうの?」

 淡々とした口調に好奇心が凝縮される。

「正直な話、感動はしてない」

「じゃあどんな感情?」

 自分でもよく分からない。少なくともこの光景を見て満たされることはなかった。むしろその逆。

 目が離せない。不快とまではいかずとも、疑似体験なんかには至れない。他人の至福でカタルシスなど得られなかった。

 ではなぜマンタはここにいる?

 俺は俺を満たすためにここにいる。それはアルの意思でありワールドクリエイターの最後の創作。

 自分でも分からない。まるで欲求を生むためにも思える。

 でも、

「もう終わり」

 俺の心情がアルに代弁される。

 いつしかマンタとエミの輪郭は薄まり、光の粒となって消えていく。ナッシュの時と同じ、散り際は例えマンタでも美しい。

 言葉はなかった。

 最後の最後までマンタがこちらを向くことはない。エミもしかり。消えゆく瞬間まで二人の世界を大切にしていた。

「色々と終わっていくね」

「ああ」

 自分の手に目を向けると、薄く透けていた。

 それは俺だけじゃない。

 アルも同様だった。世界が終わっていく瞬間。

「ねえアル。ひとつ聞いて良い?」

「なに?」

「アルは……、アルの世界は楽しかった?」

「……うん、楽しかった」

 隣に立つアルの表情は見えない。だが柔く張りのない声にも確かな感情が込められている。嘘などこの世界には無意味。

 そっか。楽しかったんだ。

「ナルは?」

「楽しかった」

「即答だね」

「現在進行形だからな」

 嘘など無意味。今、この瞬間も俺の血液は全身を巡っている。

「すごいね……。僕はずいぶん久しくワクワクしてないんだ」

「辛いな」

「うん、辛い」

 アルを見ると、水面に映る自分を見ているよう。ゆらゆらとはっきりしない。すごく不安定な存在。

 世界を創造するソレは、自分を保つのも精一杯。真っ白な世界に今にも溶け込みそう。

 俺はアルへ手を差し出した。

「良いの? 現在進行形で楽しいんでしょ?」

「なんだろうな。現状を嘆いて喚き散らすのも格好悪いし」

「エミに聞かれた怒られるよ」

「確かに。でもエミの泥臭いのは何となく許せる。絵になる」

「そうだね……。始めはさ、何をしてもすごく楽しかったんだ。立ち上がるだけで、歩くだけで。何も無い世界とか関係ない。目を開けるのだってすごくドキドキしたんだ」

「ああ」

「いつからだろう。同じことを繰り返してるんだって分かった時。途端に全部がつまらなくなったんだ。だから新しいことをしようと思った。新しいことをしなくちゃって思った。じゃないと僕はまた目を閉じて蹲っていた時と同じになっちゃう……でも」

 感情的な言葉は童話の中のアルそのもの。寂しくて、孤独に押しつぶされそうな脆い存在。

「僕の想像は尽きちゃったんだ。だからナルを作った。何もできない僕を」

 アルの見えない瞳に欲望が宿る。

 世界を作り出すほどの欲求を目の当たりにし、一瞬だけ呼吸の仕方を忘れる。詰まった息が全身を硬直させた。

「でもナルはナルなんだ。今は僕とナルは違う存在。だから……」

 アルは俺へ手を差し伸べた。

 最後の合図。

「……俺がこの手を握らなかったらどうなるんだ?」

「変わらないよ。どの道僕の世界は終わる」

「そっか……」

 俺は袖で手を拭うと、アルの手を叩き落とした。

「え……?」

 確かにアルに驚きの表情が生まれる。

「アル、悪い。俺はやっぱり終われないや」

「どうして」

「現在進行形で楽しいから」

「ナルは僕なのに?」

「ああ、アルなのにだ」

「そっか……。すごいね。さすが僕、なのかな?」

「さあな」

 自分を邪険に扱うなど夢にも思わない。言葉としてではない。感情として直接伝わってくる。

「あー、まぶたが重くなってきた」

 アルがひとり言みたいに呟く。同時に俺も同じ感覚になった。

 今日は初めて尽くしだ。今まで味わったことのない感覚を次々と体験する。今にして思えば異常だよな。

 ずっと眠くないって。

 きっと単純に目を瞑るのが怖かったんだろうな。

 眠いってこういうことなんだ。ぼーっとする。全てがどうでもよくなるような心地良さ。

 昨日までは鮮やかだった世界が真っ白になっていく。景色だけではない。目の前のアルも。

 目を閉じるのは怖いこと。ワールドクリエイターではそう書かれていた。想像していた感覚とは少し違う。

 もっと自然な、抗うことのできない現象。たったひとつの挙動が終わりを告げる合図になる。

 でも、

 現在進行形で楽しい。

 初めて尽くしだ。

「アルは静かに目を閉じました」

「ナルは静かに目を閉じました」

 世界はまた何もない白に戻り、またいつの日か色づく日まで変わることなくあり続けました。


  ワールドクリエイター

著者 不明 

(終)

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