4-8


 頂上では俺が剣を振るう事態にはなっていなかった。

 変わりに経緯が読み取れない光景が目の前で繰り広げられている。

「おい、得意の剣技で俺を斬ってみろよ。手加減なんかいらねえ。俺も死なねえ程度にマンタ野郎をボコボコにしてやるからよ」

 砂利土だけの殺伐とした頂上で、ぼんやりと炎を灯すひとつのシルエット。いつもの刺々しい口調で視線の先の人物を挑発気味に嘲った。

「説教どころの話じゃなかったな……」

 炎を宿して立ち尽くしていたのはナッシュ。それに対峙してるマンタは肩で息をしながら手を膝についている。

 服は焦げ跡がくっきり残っており、所々に穴まで空いていた。

 こんなにも負傷しているマンタは初めてだった。しかも、

「僕が無能なことなんて僕が一番よく分かってるんだ! でも、頑張れば! 刀みたいに何かをひとつ研ぎ澄ましたら誰にも負けない僕なりの価値が見つかると思ったんだ!」

 大人しい性格のマンタが声を枯らして怒鳴る。悔しがる時も静かに闘志を燃やす男はそこにはおらず、どこかみっともない。

「……まじか」

 思わず絶句する。

 殴り合いの喧嘩というには二人の攻撃力は高すぎる。特にナッシュに関しては生身の人間がどうこうできるレベルではない。

 しかしナッシュが手加減をするそぶりは一切ない。

「残念だが研ぎ澄ますべく特技は戦闘ではないってことだ。マンタ野郎には戦闘の才能がないんだよ」

 炎の使い手とは思えない冷めた答え。圧倒的に上の立場から物を言う様は裏付けされた自信の表れ、というより事実。

「体で分からせてやるよ」

 炎を宿したナッシュの拳がマンタの頬を捉える。勢いよく地面へ叩きつけ、地面へ顔を擦る。肉が焼ける鈍い音がこちらまで届き、耳の辺りが不快感で痒くなった。

「やり過ぎだよ……」

「いや、もう少しこのまま黙って様子を見よう」

 エミが「でも」と続けようとしたところを肩を掴んでしゃがませる。何度も俺とマンタへ視線を往復させるが、それで俺が考えを曲げたりはしない。

 この穏やかではない状況に一種の興奮じみた欲求が駆り立てられる。止めてはならない。目を離してもならない。

 数日前のナッシュとグレイシアの一戦と比べれば陳腐。しかしここには互いに譲りたくない熱が帯びている。

「マンタ野郎は無傷にこだわってるらしいな。どうだ、今は無事か?」

 よろよろと立ち上がるも、足取りは全く覚束ない。皮膚が焼けて、ぐちゅぐちゅとした筋肉がむき出しになる。見るからに痛々しい。

「エミは治癒能力があるんだろ? さっさと泣き縋って直してもらえば良い。痛いです。僕を癒してくださいって情けなく懇願しろ」

 非道徳的な罵倒を続ける中、一瞬だけナッシュと目が合った。こちらにも気づいたみたいだが、表情に動揺はない。

 認識してなお態度を変えないのには明らかに考えがあるからだ。

「エミは普通の女の子なんだ。人の傷つくとこなんか見たくないし、できることなら血だって見たくないんだ」

「だろうな。色白で見るからに幸が薄そうだ。長生きできねえタイプだな」

「エミを悪く言うな!」

「俺ならお前みたいなクソ馬鹿野郎には絶対にならねえ。傷ついたら速攻で直してもらう。そうすればすぐにまた全力で戦える。こんな使える奴は他にいねえだろ。エミは使ってこそ存在価値があるんだよ」

「いい加減にしろぉぉ!」

 マンタが乱暴に刀を振り回した。これまでマンタの求めた流麗な動きとは程遠い。子供が棒きれを力任せに振り回すのと同じ。当然ナッシュを捉えることはできない。簡単にいなされては何発も殴打を食らう。

 顔に見る見る青あざが増え、まぶたが腫れ上がって目元を覆う。それでもマンタは立ち上がり、ボコボコにされながらも闇雲にナッシュへ刀を振るった。

「うわぁぁ!」

 偶然とも言えるひと振りがナッシュの肩口から胸元を斬り裂く。刀傷とは思えない汚い斬り口から血が滲んだ。

「はぁはぁ……どうだ。僕だってやれるんだ。今度エミの悪口を言ったら殺すからな」

「これが刀か。痛え。喚き散らしたくなるほど痛えじゃねえか。こんなの何発ももらったら冗談抜きで死んじまうな……けどよ」

 またナッシュと視線が合った。今度は一瞬ではない。じっとこちらを見つめ続ける。そして無言のままこちらへ近づいてくる。

「おいマンタ野郎。今からお前のなけなしのひと振りを無駄にしてやるよ」

「エミ……? なんでここに」

 ようやくマンタも俺らの存在に気がつく。腫れたまぶたを持ち上げ、額の皺がくっきりと寄る。

「エミ、悪いけど肩の傷を治してくれ。くそ痛えんだ」

 ナッシュは俺らの目の前に来ると、高圧的な口調で命令する。上から見下ろす視線はとても人にものを頼む態度ではない。

「エミ! そんな奴を治す必要なんてない! そいつはエミのことなんて利用価値がある程度にしか思ってないんだ!」

「……そうなの?」

「かもな。でもお前は俺にどう思われてるかなんて知ったこっちゃねえだろ。お前はいつだって自分で選択してきたはずだ」

 妙に確信めいた口調。

 性格も真逆の二人にどんな意思疎通があるのだろうか。エボルトからここに来るまでの道中でどんな会話をしたのだろう。俺の知らない関係が二人にはある。

 治癒を求める人間の態度とは到底思えないナッシュに対し、エミは何も言わずに肩へ手を当てがった。

 暗い夜に青白い光がぼんやりとナッシュの肩周りを包む。

「エミ! やめろって!」

 マンタのしゃがれた叫び声はエミの心までは届かない。苦痛に顔を歪めていたナッシュの表情が徐々に和らいでいく。そして、

「こいつは良いな。本当に傷が塞がっちまった。危うく死ぬとこだったぜ。それに癒されるっていうのは良いもんだな。初めての感覚だ。絶頂して小便ちびっちまいそうだぜ」

「……なんでだよエミ」

「だからお前には無理なんだよマンタ野郎。頭が悪い奴は嫌われるぞ」

「分かんないよ! 自分のことを何とも思ってない奴を直すなんて理解できるはずないだろ! いかれてるよ!」

 半ば錯乱したようにナッシュへ斬りかかる。が、

 斬りかかるマンタの土手っ腹にナッシュの拳が突き刺さる。吐血みたいに胃液を吐き出し、膝をついて崩れる。

 うずくまる背中に蹴りを入れ、マンタが地面に這いつくばった。顔が砂利の地面に押し付けられ「いぎ……」と悲痛の声を漏らす。

「おら、せっかく目の前にいるんだからさっさと言えよ。僕を癒してくださいって媚びへつらえ」

「何がしたいん……いぎっ! こんなことして何の意味があるんだよ……」

「意味なんてねえよ。嫌いな奴をぶん殴るなんて普通だろ」

 マンタがしゃべろうとすると、ナッシュは踏みつけた足に力を込めて、あえて言葉を遮る。

 常軌を逸したナッシュの暴力的な価値観。明らかに危険な思想だが、逆らえるかと言えばそうではない。

 正論は強さが決める。弱者のきれいごとは戯れ言でしかないのだ。

 しかし俺はその狂気とも言える価値観に奇しくも共感してしまった。

 マンタには申し訳ないが、嫌いな奴をぶっ飛ばして何が悪い。傷を治してもらって何が悪い。好きな女に触れたくて何が悪い。

 もしかしたら明日なんて訪れないかもしれないんだ。だったら今やるしかないんだ。少なくともマンタを傷つけるナッシュにためらいはない。

「おら、そんなところで寝てちゃ頼むもんも頼めねえだろ。立て」

 ナッシュは踏みつけたマンタの顔から足をのける。

 マンタは自由を与えらえた。何を選んでも良い。そのまま這いつくばって泣き喚いても、再びナッシュへ斬りかかっても。

 マンタは数秒の間は立ち上がることもできず、ボロボロの全身をよろめきながら起こした。

 浪人みたいにみすぼらしい格好。闇夜と相まってただただ不気味さだけが際立った。

 そんなマンタを見てもエミはその場から一歩も動かない。背筋を伸ばして立ち尽くしている。横顔は凛々しく、神子みこを思わせる雰囲気。

 エミは今、傷だらけのマンタを見て何を思うのだろう。

 格好悪い。可哀想。守ってあげたい。軽蔑。

 表情からは読み取れない。ただ黙って、ひたすらにマンタの言葉を待ち続けた。

「僕を……治してぐだざい……。あいつをぶっ飛ばさないと気が済まないんです!」

 マンタはエミの裾にすがりつき、情けない格好でぐしゃぐしゃな顔を上げた。鼻水やら血反吐やらを垂らし、声が震えてうまくしゃべれない。

「もっと情けなく救いを乞え。その汚ねえ手を血で洗って清めろ。エミの手にてめえの命が懸かってんだ。お前みたいな役立たずと違ってそれくらいの価値があるんだよ」

「お願いじばす!」

「もっとでけえ声出せ」

「おべがいじます!」

 声をがならせて嘆願する。血と痰が咳と混じって汚らしく吐き出される。

 その光景をエミは黙って見つめた。

 マンタはエミの視線に息を詰まらせた。自分が明らかに弱者であることに恐々とし、口元を震わせる。

 古くからの友人関係はそこにない。上下関係が残酷なまでに立ち位置で表れている。マンタはきっと心のどこかでこうなることが怖かったんだと思う。

 治癒してもらったら一生エミに頭が上がらない。対等に隣を歩く自信を失う気がしてたのだろう。

 惨めで無様な姿を見せたら、軽蔑のひとつもしてしまう。少なくとも俺なら。

 なのに、

「ありがと」

 息が漏れるみたいな細い声で、不意にエミが呟いた。その言葉が誰に向けられたのかは分からない。

 エミはゆっくりと目を瞑ると、膝をついて縋りつくマンタと同じ視線までしゃがみこんだ。

「……エミ?」

 肩を優しく抱き、淡い光が二人を包み込む。

 マンタは口がだらしなく半開きになり、静かにまぶたを下ろした。安息感で見る見る気が緩んでいく。

「情けねえ顔だな。気持ち良いか? 病みつきになるか? エミに直してもらいたがために自虐に走っちまわねえだろうな?」

 マンタは無言のまま、口元を震わせた。屈辱で腸が煮えくり返っているだろう。それでもナッシュの罵倒に対し、愚直に頷く。

 エミは今どんな思いでマンタを治癒してるのだろう。目を瞑り、集中している表情からは読み取れない。

 少なくとも俺はこの光景がえらく残酷に見えた。それでいて目が離せないでいる。

「おいナル。何突っ立ってんだ。お前はこっちに来い」

 ナッシュが顎で指示をし、俺を二人から離した。

 命令されるのは癪だが聞きたいことが山ほどある。不服だがナッシュの言葉に従った。

「おいナッシュ。これは一体何の真似だよ。マンタをボコボコにして楽しむとか趣味にしては異常だろ」

「そんなサディストな趣味はねえよ」

「それに二人にしちゃまずいだろ。色んな意味で。ナッシュは知らないだろうけどマンタはエミのこと……」

「今更知らないわけないだろ。どんな評価を下したら俺はそんなに鈍感になるんだ。それにあれを見ろ」

 少し離れたところで二人を見ると、近くにユイナの姿があった。

「いつの間に……」

 きっとナッシュの炎を見たのだろう。

「ってことだ。別に目の届かない場所に行くわけじゃねえ。席を外すだけだ」

「どうしたんだよ。まさかナッシュのくせに気を使ったなんて野暮ったいこと言わないよな」

 ふざけ半分で茶々を入れるが、ナッシュは応じなかった。それどころか冷たい一瞥を俺へよこす。続いて寂しげに視線をマンタたちの方へ向けた。

 明らかに俺と進もうとする会話の空気が違う。

「なあ。こんなことしてもよ。友情って生まれるもんなのか?」

「え」

 静かな口調のナッシュらしくない発言に、間抜けな声が漏れた。

「どういう意味だよ。友情って何の話?」

「俺がマンタ野郎に言ったことと思ってることは変わらねえ。無傷にこだわる下らねえプライドも、女への歪んだ愛情も全部馬鹿としか思えねえ。そのくせ好きな女を守れる力もない。あまつさえ守ってもらう始末。俺だったら死にたいね」

 ナッシュは冷ややかな地べたにあぐらをかいた。先ほどまでの尖った目つきは影を潜め、迷いにも似た遠い目をしている。

 遠巻きから二人を見つめ、背中からはある種の羨ましさすら感じる。

「ねえ、今回のことってエミに頼まれたのか?」

「あ? 俺の意思だよ」

「ふーん」

 疑念の視線を向けるとナッシュは腕を摩りながら舌打ちをした。やりづらそうに口元を歪ませる。

「マンタのことは気食わないんじゃないの?」

「気に食わねえよ。だが考えてることは同じだ。ただ強いか弱いかだけ。守れないのが悪いんじゃねえ。守れなかった時に後悔しないかが重要なんだ。まあマンタ野郎のひ弱な神経じゃ間違いなく後悔するだろうな」

 きっとナッシュはずっと孤独だったのだ。村の英雄であっても、それはお互いに心が通ったわけではない。お互いのことを思っているはずなのに一方通行。重なり合うことはない。

 ナッシュから言わせれば、俺もマンタも恵まれているんだと思う。例え無能な非力であっても。

 俺は唐突にナッシュを小突いてみた。

「いて、何すんだよ」

 どこか嬉しそうな表情。もっとやって良いんだぞと目で訴えている。

「あんな無茶苦茶なやり方で友情なんか生まれるはずないだろ。絶対マンタに嫌われたぞ、ナッシュ」

「な! そんなこと俺だって分かってんだよ!」

「多分ずっと一定の距離を置かれる。会話の時は常に声を張らなきゃいけない」

 きっと普通の人間はこんな下らない関係がいつまでも続けば良いと願うんだと思う。何を言ってもじゃれ合える心地良い居場所。

 しばらくの間、エミとマンタを眺めていると治癒が終わったらしく、エミの両手がゆっくりとマンタから離れた。

 マンタにとって初めての治癒。

 マンタは全身に負った火傷の完治に興奮して飛び跳ねたが、すぐにエミからぽかぽかと頭を叩かれていた。躱し癖のあるマンタもこの時ばかりは頭を抱えて、あえて叩かれる。

 だが一番不機嫌そうなのはユイナ。今回の件では完全に蚊帳の外で、ひたすらエミを探して飛び回っていた。しかも無駄骨でようやく見つけたと思えば最中。もとい治癒中。

 マンタとエミが抱き合っているではないか。治癒が終わったところを見計らって二人へ説教を始めた。

 これに関しては当事者であるエミもマンタも何も言えず、ただ黙って正座をさせられた。どんな罰も甘んじて受け入れる体勢だが、同じ姿勢をしているせいか仲良さげにみえる。罰を受ける側としては羨ましい状況が余計に気に食わないらしく、ユイナの方が段々落ち込み始めた。

 こんな微笑ましい光景がかつてあっただろうか。

「良い光景だな」

 ナッシュのあまりに素直すぎる発言に思わず吹き出して笑ってしまう。ナッシュは炎よりも顔を真っ赤しにして比喩ではなく本当に蒸気を吹き出していた。

「ナッシュも混ざってみたら面白いことになるぞ」

「できるかアホ」

「じゃあ俺は混ざってくる」

「まじか」

「嘘だよ」

「燃やす」

 どんなに戦闘能力に長けていてもナッシュはからかい甲斐がある。いつからこんな関係性になったのかは覚えていない。多分、ナッシュが「ユイナを好き」と告白した時だ。ナッシュにとっては唯一の弱みなのだろう。

「混ざってこいよ。本当に」

「……しねえって言ってるだろ」

「いや、本気で。それがナッシュの欲求だろ」

「俺の欲求って何だよ」

「好きな女と話したい。あと友達が欲しい」

 回避不可能な無数の火の粉が俺に降りかかる。困ったらすぐ暴力に物を言わせるのは幼稚な証拠だと挑発する。

 ナッシュは何だかんだ文句を垂れながらもマンタたちの輪へ向かった。

 当然マンタはナッシュから一定の距離を置き、警戒心をむき出しにしている。余計に関係が悪化していく姿は見ていて滑稽だった。

「悪くない」

 微笑ましい光景。幸せと呼ぶには申し分ない。これが世間一般の幸せ。

 なら何で俺はここにいる?

 輪に入らず眺めているのか。今だけはナッシュとユイナが話しているのも許せる。目の届くところにいるからなのか。

「……俺の欲求ってなんだろう?」

 子供だけで夜更かしし、山頂で騒ぐ。同世代からすればこれ以上ない楽しみ。笑い声が木霊するたび、俺はどこか違うところにいる気がした。

「ナル、一人で何やってるの? ナルもおいでよ」

 思考を遮ったのはエミだった。いつの間にか俺の隣にちょこんとしゃがみ込む。

「服が汚れるぞ。せっかく良い生地なんだから」

「もう十分汚れちゃったよ。それにここまで来て生地って。ナルって意外と細かいこと気にするんだね」

 エミは体裁だけで裾のあたりをはたき、かろうじて地面とは触れないように持ち上げた。

「ねえ聞いて。マンタの治癒してる時に意味の分からないお願いをされたんだよ」

「どんな?」

「目の下にある傷跡は直さないでって。どうしてだと思う? 全然理由を教えてくれないの」

 俺は傷の位置を聞いて心当たりがある。

「知りたい?」

「ナルは知ってるの? 教えてほしいな」

「エミを守るために負った名誉の負傷だから」

 エミは何のことだか分からず首を傾げる。が、思い出したように目を丸くすると、顔を真っ赤にした。

「もしかして小さい頃に鳥獣に襲われた時の」

「そう。マンタは何かあるたびに目元の傷を触ってにやつくんだ。だからマンタは目元の傷だけは絶対に守ってる」

 エミの視線が暗闇でもはっきり分かるくらい泳ぐ。どんな反応をして良いのか分からず、恥ずかしそうに顔を伏せた。

「マンタが無傷にこだわるのはエミに心配をかけたくないって言うのも本当だけど、単純にエミを守った証を無くしたくないだけなんだよ」

「……」

「まじ気持ち悪いな」

「本当だよぉ……」

 エミは眉根を寄せながら不機嫌そうにマンタの方を見た。悔しいのか、長丈のスカートをくしゃりと掴む。

「私ね、ずっとマンタの傷跡を治したかったんだ。私のせいで怪我させちゃったから私の手で治そうって」

「でもマンタは頑なに拒否した」

「私に対しての当てつけなのかって本当思ったよ……」

 マンタはしくこくナッシュと距離を一定に保ったせいで、ナッシュの機嫌を損ねてしまったらしい。両手に炎を宿したナッシュに追い回されている。

「良い気味だよ」

 マンタを見るエミの表情が和らぎ、への字に曲げた口が徐々に綻んでいく。

「エミってさ、マンタのこと好きなの?」

「え⁈」

 エミらしからぬ素っ頓狂な声が漏れる。切り揃えた前髪を誤魔化すように掻くが、逆に分かりやすい感情表現。さっきよりも顔が赤い。もしナッシュに知られたら「あんなハゲのどこが良いんだ?」と真顔で馬鹿にされそうだ。

「……なんで今その話なの?」

「うーむ、今のエミはだいぶ砕けてるから。今なら色々とボロが出そう」

 本当は明日なんてあるか分からないから。

「告白しちゃえば?」

「え⁈」

「もう抱きしめ合った仲でしょ」

 好きになるのに理由なんてないと思う。というよりどうして好きかなんて自分でも分からない。だって好きなんだもん。幼稚かもしれないが最も説得力がある。

「今日のナル強引じゃない? 吊り橋効果とか狙ってるよね」

「かもな」

 俺は何かに焦っていた。いつもはふざけ半分の茶々も今は本気で告白すれば良いと思ってる。

 空気が緩めば緩むほど、焦燥感が胸を締め付ける。

 ワールドクリエイターの四巻を読んだからなのだろうが、そんなものは他人からすれば根拠のない漠然とした不安でしかない。

 現にエミはこうして楽しそうにしてる。そして浮かれている。まるでワールドクリエイターの四巻などなかったみたいに。

「俺は良い口実だったわけだ」

「ナルってやっぱり非道いね……。帰ったらちゃんと言うもん」

 帰ったら。多分それが普通なんだと思う。口をつく言葉と感情がちぐはぐし、全身がむず痒い。

「ねえナルは覚えてるかな?」

「何を?」

 エミは今の雰囲気を楽しむように、少しばかりおしゃべりを続けた。

「昔ナルが鳥獣に襲われた時、すごい大怪我して死んじゃいそうになったの」

「覚えてるに決まってるだろ。死にかけたの忘れてたらやばい奴じゃん。あの時はエミもまだ治癒能力が使えなくて本当に生死の境を彷徨ったらしいし」

「……んとね」

「どうした?」

 ふとエミの視線が落ちる。

「私、ちょうどあの頃の少し前から治癒能力が使えたんだ」

「え?」

「人には使ったことなかったんだけど、家畜とか小動物が怪我したのを治せることに気づいたの。その時は自分でもびっくりしたけどすごい嬉しかったんだ。誰かの役に立てるって。そんな時にナルが大怪我をして戻ってきたの」

 初耳。というよりエミ本人から治癒能力に目覚めたのはあの事故より後だと聞いている。

「でも治せなかった。ナルが包帯をぐるぐる巻きにされて寝てる時に密かに試したけどナルの傷が治ることはなかったの」

「なんで嘘ついたの?」

 エミが反射的に肩を竦めたが、別に怒ったわけではない。純粋な疑問だった。

「ナル、あの事故から飛べなくなったから……。もし私が治せたらって」

「その罪悪感いらなくない?」

 きっとエミはこんな答えを求めてたんだと思う。申し訳なさそうに「そうなんだけど……」と目を泳がせるが、口元はかすかに緩んでいる。安心したような表情。

「だから俺を治癒し終わった後は具合を聞いてたんだ」

「うん。もしかしたらって不安だったから」

「そうか……。それは仕方ない。でも俺を治せなかったことは全くもって気にしなくていい」

「うん」

「けど」

「え」

「これからも、例え誰かを助けられなくてもそれは仕方のないことだ」

「ナル……?」

「エミは物語って誰のものだと思う?」

「え、誰のものって?」

「作者とか読者とか」

 エミは唐突な話題の切り替えに戸惑いながら口ごもったが、俺が直視すると事故のことは頭から離れた様子。

 次の話題に思考を巡らせる。

「うーん、なんか難しい質問だね。分からないけどきっと自分のものなんじゃないかな。ほら、書き手の意図と読み手の想像って違ったりするって言うし」

「っ、あはは。文学的だな」

「えー、すごい恥ずかしいんだけど。そういうナルはどう思うの?」

「うーむ、分かんね」

「ずるい……」

 物語は自分のもの。

 えらくしっくり来る答えだった。そして他人事にも思えた。

「もうすぐ夜明けだね」

「一応それが目的だからね。エミとマンタの痴話喧嘩に巻き込まれたけど一応覚えてる」

 エミはまた不機嫌そうに柔和な眉尻を下げて、湿っぽい視線をこちらへ向けた。

「こっちを見ていたら夜明けを見逃すぞ」と顎で視線を促すと、隣から「うぅー」という子獣みたいな可愛らしいうなり声が聞こえる。

 長い夜だった。もう随分と太陽を見ていない気がする。それだけ凝縮された一日だったのだろう。

 エミが来て凍傷を治してもらって、マンタとエミが喧嘩して、さらにマンタとナッシュが喧嘩して、仲直りして和気藹々。

 そしてワールドクリエイターの四巻を読んで。

 風通しの良い山頂はいつの間にか凪ぎ、寒さも感じなくなった。あんなに騒がしかったマンタとナッシュのじゃれ合いもやたらと遠くに聞こえる。

 後ろから太陽が徐々に昇り、朝日を背中で受ける。普通だったら眠気のひとつでも誘う暖かさがあっても良いところ。

 順光のはずなのに目が慣れていないせいか、やたらと眩しい。景色を見たくて登頂したのに、眩しさで目を細める。

 むしろ開けられないくらい。

「いくら何でも眩し過ぎる」

 逆光でもこんなに眩しいことはない。目がちかちかして目の周りをすぼめる。

 この先には何があるだろう。近頃は毎日が新しいことずくめ。強烈すぎる氷と炎を経験した。個人的には海が見て見たい。

 海は空と同じくらい大きく、空よりも青いと聞く。俺は青が好きだ。何となく気持ちが落ち着く。

 そういえばユイナの瞳も薄青色だ。確かにユイナと断崖で読書する時はやたらと落ち着く。死ぬ心配がないからだ。

 眩しさのせいで目が開けられずに思考だけが脳内をめぐる。それでも徐々に刺激に慣れていき、ご来光みたいにゆっくりとまぶたをあげた。待ちわびた夜明けだ。

 しかし、

「…………なに、これ?」

 目の前に広がる景色は俺の想像とはだいぶ違っていた。

「あ、え……?」

 エミとて同様。目の前の景色が信じられず、うまく言葉も出ない。

「どういう……」

 そこは何もない真っ白な世界だった。

 太陽が岩山の向こうを照らすはずが、光すら反射するような白銀。

 霧がかかっているとか、雲に覆われてるとか、表現の話ではない。本当に何もないのだ。奥行きも上も下も見分けがつかない。そそり立つ壁なのか一面の平野なのかも。

 人生で一度も見たことのない光景。だが、

 せめて何かに形容するとすればひとつしかなかった。

 ワールドクリエイターのアルがいる世界。

「ホワイトキャンパス……」

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