4-6
俺はナッシュの寝ぐらへ向かって岩山をかけ登っていた。
村に戻ってもエミは戻ってきておらず、ナッシュもすでに住処に帰ったとのこと。また借りを作る羽目になるが、そんなことを言っている場合でもない。
「はぁはぁ……。ナッシュ! いるか⁈」
穴倉の入り口から呼びかけても反応はない。戻っていると聞いたがもしかしたらいないのかもしれない。
中へ入っていくと、光がないはずの洞穴に薄明かりが灯っていた。
「よう、でけえ声で呼ぶな。響いてうるせえだろうが……。もう治ったみたいだな」
ナッシュはいつもみたいに石の椅子にがに股で座っていた。
「なんだよ。いるなら返事しろ……って。え、エミ?」
ナッシュの向かいにはエミが俯きながら座っていた。
「良かった。ここにいたんだ。無事で何よりだ」
エミは俺の言葉には反応せず、俯いたままだった。しかし時折り啜り泣く声が漏れ、喉につっかえてむせ返したりした。
「どういうことだよ。長旅で疲れて寝ようと思ったらいきなり押しかけてきて。しかも
ナッシュがわざとらしく愚痴をこぼすと、エミの肩がかすかに震えた。
「まあ端的に言うと痴話喧嘩だ」
「ふーん」
エミの伏せた顔が持ち上がりかける。
「今回はマンタが悪いんだ。せっかくエミが治癒してくれるって言ってるのに意地張ってさ。何なら怪我してなくてもやってもらえば良いんだ」
マンタを
「……なあナル。俺は思うんだけどな」
「なに」
「お前らはもう自分の故郷に帰った方が良いんじゃねえか」
ナッシュがいつになく神妙な面持ちでいる。静かな口調で懇懇と語り始めた。
「マンタ野郎はたかが人鳥獣ごときに苦戦したんだろ? はっきり言って生死を賭けるにはあまりにもお粗末すぎる。それによ、帰る場所があるっていうのはすげえことだと俺は思うんだ」
「なんで急にそんな話になるんだよ」
「エボルトの里に初めて行ってな。良い場所だと思った。他種族が交流して、文明もここより発達してて。まあ火の民の火力はお世辞にも褒められねえが、それは平和の象徴だろ。それとナルの親父さんにも会った」
「親父に?」
「けっこう話が合ってな。美味しい酒をもらった。昔はずいぶんとやんちゃした話とか聞いて楽しかったぜ。ザ・平和ってやつだな。あそこで一生暮らすのも悪くねえと思った」
「その平和が崩れようとしてるんだろ」
「じゃあお前に平和を守れるほどの力があるのか?」
ナッシュの目がいつもの鋭さを取り戻す。遮るように尖った口調。
「別に弱いことを責めてるんじゃねえ。もし平和が脅かされてるんだったら強い奴が守れば良い。それは俺の役目だって言ってんだ」
「……」
「戦うことは俺の存在価値だ。それにお前らにはけっこう情も沸いてるんだぜ? 好きな奴のために戦うのはそんなに悪いことじゃねえだろ」
「好奇心だけで命を賭けちゃいけないのかよ」
「死んだら好奇心もクソもねえだろ」
「ワクワクできねえなら生きてる意味なんてないだろ」
「ナルもマンタ野郎と一緒だな。てめえの尊厳のために人を傷つけんな」
ナッシュはいつでも自信満々だ。自信満々で正論で、そして共感できてしまう。こんな羨ましいことはない。
自分の存在価値を自分で決めてる。
未だに俯いたまま黙っているエミを見ると、今も針の穴のむしろだろう。存在を消そうと息を潜めている。
「ちょっと出てくるわ」
「どこにだよ」
「マンタ野郎のとこ。よく考えたらちゃんと話したことねえしな。お前らも久しぶりに積もる話もあるだろ。ここを好きに使え」
わざわざおしゃべりをしに行くはずがない。説教をしに行くのか、あるいは語りにでも行くのか。いずれにせよ、何か起きる気しかしなかった。
「あー、あとこれ。すっかり忘れてたわ」
「ん?」
「お前の親父さんからの差し入れだ」
ナッシュは荒っぽく俺へ何かを放った。囲炉裏をまたいで俺の手元へ収まる。
「なんだこれ……本?」
「ああ、ナルなら絶対に気に入るって親父さんが言ってたぜ」
「これ……まさか」
ナッシュから放られた本を見回す。題名の印字すらくすんでいるが、俺はすぐに理解した。気にいるなんて楽しい話ではない。今となってはその一語が世界を揺るがすかもしれないのだ。
「ワールドクリエイター……の四巻」
俺の知らないところで世界は勝手に進んでいた。
目の前の問題を天秤にかけた。
ひとつは俯いたままのエミ。もうひとつはワールドクリエイターの四巻。どちらから手をつければ良いのか判断に迷った。好奇心と気遣いの精神がせめぎ合う。
ワールドクリエイターの続編というだけで一大事なのにましてや三巻をすっ飛ばしての四巻。
愛読家としては正しい順に読みたいが目の前にぶら下げられた人参に食いつかずにはいられない。
「良いよ。読んで」
聞き漏らしそうなエミの細い声が洞窟内に響いた。焚き火の薪がパチパチと音を立てて間を埋める。
「良いのか? 読み始めたら一切構わないぞ」
「うん」
ようやく顔を上げたエミの目は腫れぼったく、赤く充血していた。少し落ち着いたのか、何度かゆっくりと洟を啜る。
「悪いな。やっぱり好奇心は抑えられない」
「ううん、みんな自分の意思とか持っててすごいと思う。強いなって」
「いや、エミのがよっぽど信念持ってるでしょ。自分の能力に誠意があるというか。都合良く解釈されるのも受け入れてるし」
エミは照れながらようやく表情を綻ばせた。
「私はナルの役に立てたら本当に嬉しいな」
「なってるだろ。むしろ恩人」
「私はそんな大それた存在じゃないよ。肝心な時に役に立てなかった」
「そんなことないだろ。今回だってどう考えても俺の恩人だ」
「今回のことじゃなくて……その」
歯切れ悪く言葉を詰まらせると、エミは申し訳なさそうに目を逸らした。控えめな性格だからこそわずかな表情の変化で気持ちの変化も見えてくる。
エミは能力のことを褒めると、決まって申し訳なさそうな顔をして視線を落とす。誇っても良いのに過度と言えるほど謙虚だった。
誇りでもありコンプレックスでもある。そんな感じだった。
「ついお喋りしちゃったね。ワールドクリエイター読んで良いよ。もう気になってしょうがないでしょ」
「悪いな。もう今すぐにでも読みたい」
「ナルらしいね。好奇心が最優先」
「うるせえ」
エミは口元へ手を当てて、くすくすと笑った。
それを最後に洞窟内にはしばらくの無音の時間が流れた。
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