3-8
まだ物心がついているのかも分からない頃だ。親父曰く「ナルは母さん似」らしい。
しかし俺が遡れる記憶の中に母さんの顔は残念ながら存在しない。
風の民と地の民の混血であるならば、せっかくだから風の民の血を濃く受け継ぎたい。
そうすれば俺も空を自由に飛べたかもしれない。
いや、親父曰く俺は飛べたらしい。しかも歩き始めたてくらいとほぼ同時に。
異例の発達らしく、里でもけっこうな噂になった。
喋れるようになってからはほとんど成人と変わらない飛行能力を身につけた。俺の記憶はここから始まる。
ナル史上、最古の思い出である。
俺は親父と地上で暮らしてたが、よくユイナのところへ遊びにいった。
同い年くらいで自由に飛び回れるのは俺とユイナだけ。他の連中はそれこそ浮遊するのがやっと。競争なんてもってのほか。
ユイナはきっと退屈だったのだろう。種族など気にせず俺と飛び回って遊んだ。
「ねえ、崖の向こうに行ってみない?」
好奇心が旺盛だったユイナは飛び回れることが嬉しく、どこへでも行きたがった。
俺もユイナと遊ぶのが楽しかったから大人に禁止されているのも無視し、二人で西の崖へ向かった。
秘密の冒険みたいでワクワクしたのを覚えている。
「すげえ……」
初めて飛ぶエボルト以外の場所は壮大の一言に尽きた。周りには何もない。
底の見えない谷。どこまでも続く地平線。遮るもののない空。俺の知らない世界がこの先にはある。ただただ心が躍ったのを覚えている。
しかし、何にも邪魔されない世界は、俺だけのものではなかった。
「あれは……やば。鳥獣だ」
俺とユイナは鳥獣の群れに襲われた。成人並みの飛行能力があっても、戦闘向きなことは何一つできない。
俺とユイナは必死に逃げ惑った。その時はただただ死にたくない一心。だが取り乱した俺は普段通り飛べず、鳥獣に背中を引き裂かれた。今でもその傷は残っている。
その後、腕も噛まれたらしいがはっきりとは覚えていない。襲われたショックで情けなくも宙で気を失ったのだ。
谷底へ落下する俺をユイナが担いでエボルトまで運んでくれた、らしい。出血が酷く、命の危険もあったと後から知らされた。
意識が戻ると、風の民の大人にこっぴどく叱られた。
もう二度とユイナを連れて飛ぶなと。
そこからだ。元々嫌われ者だった親父と俺がさらに
幼な心にはショックだったと思う。ユイナに「ごめんなさい」と泣きじゃくりながら何度も謝られた。
まだ傷の癒えない背中を縋るように摩られ、子供ながらに罪の意識を必死に消そうとする。
恨んではいないが、背中がひどく疼くのは自分でも理解できた。
その日から自分の意思とは無関係に、俺は二度と飛べなくなった。
そして同じ時期にユイナが俺の前では飛ばなくなった。
*
熱い。
さっきまで凍傷しかけていた体が焼けそうだ。冷たくても火傷か。どうでもいいことで思考を使う。
極論かもしれないが寒いよりは暑い方が好きだと今初めて知った。何となく暑い方が生きてる気がする。
だた今はいずれにせよ体は動かない。視界もおぼろげ。耳も遠く、音の塊みたいなものがかすかに聞こえているような気はする。
「ナル!」
えらく取り乱した泣き声。前にもこんな声を聞いたことがある。物静かなくせに口調はしっかりしてる。
ピントの合わない視力が無理やり呼び戻される。艶やかな金髪と青く澄んだ瞳。生まれた時から聴き続けた柔らかい声。
「ユイナ……?」
俺の目に分厚い氷塊を隔ててユイナの姿が映った。こちらの声は届かない。
直に氷塊を叩き続け、手のひらが赤く腫れている。血も滲み、水滴に混じって氷塊を伝って流れ落ちる。
やめてほしい。見ているこっちが痛々しかった。
だがユイナは叩くことをやめない。むしろ痛みなどお構いなしに叩く力が増していく。かすかに振動となって麻痺寸前の体を揺らす。
「ナル! ナル! ナル!」
何度も何度も俺の名前を叫ぶ。手のひら以上に悲痛にしゃがれた声が痛々しい。だが、
ピシッ、という乾いた音が耳のどこかに触れる。ユイナが叩くたびに氷塊が軋み、ひび割れていく。
割れ目を押し合うように圧がかかり、耳障りな音が響いた。
「ナル!」
ひび割れを縫って、ユイナの声が先ほどよりもはっきりと届く。
「また一緒にナルと歩きたいよ!」
ナッシュの炎ですら解けなかった俺を覆う氷塊に、ユイナのかまいたちで亀裂が生じる。
「私の身勝手に巻き込まれるな!」
悲鳴にも似たユイナの叫び声が俺の耳を通して昔の記憶をくすぐる。別に身勝手だとも巻き込まれたとも思っていない。
「頑固だなとは思ってるけどな……」
叩きつける拳の振動が氷塊を通り越し、胸に響く。それが引き金だった。
氷塊が弾けるように砕け散り、パラパラと音を立てて地面へと落下。感覚が麻痺していた全身に空気が触れ、痺れるみたいな痛みを覚えた。
「痛え……」
足に力が入らない。手の開閉にすら数秒を要するほど硬直している。だが生きてるという強烈な実感。
「二度目だな。死にかけたの」
「バカ……」
ユイナが俺の胸を叩いた。まだ冷えて麻痺した感覚が戻っていないが、随分と重たい拳だった。
やっぱりまだ頭がぼーっとする。
「……グレイシアは?」
「もういねえ」
「……倒したのか?」
「さあな。ナルを凍らせてからは人の形としては姿を見せてねえ。最後の抵抗だったのかもな。周りを見ろ」
「周り……?」
東の空から朝日が昇り、眼を刺激した。俺はずいぶんと長い時間氷漬けにされていたらしい。岩山を包んでいた氷結もなくなり、岩肌がむき出しになっている。
「久しぶりに晴れた空を見た気がするわ」
ナッシュが独り言みたいにぽつりと言葉を漏らす。確かに岩山に来てからは空はずっと雲に覆われ、太陽の光も雲を通して透けていただけ。
目に染みる光はやはり心地良さを覚える。危険とは無縁な光景だった。
「グレイシアはまだ生きてるのかな」
「さあな。そもそも生き物かどうかも分からねえ。殴った感触も岩みたいな無機的だった。まあ次来たら周囲の氷結ごと全部溶かしてやる」
「ナッシュにしかできない芸当だな」
「だから来るなって言っただろ。結局は足手まといじゃねえか」
「うるさい」
「しかも女に助けらて。ユイナや俺がいなかったら本当に死んでたぞ」
「本当にやばくなったら見殺しにしろ。冗談抜きで」
「ナル、お前本気で言って……」
パチン。ナッシュの言葉を遮り、乾いた音が直接耳に響いた。
「絶対に見殺しになんてしないから」
声を震わせながら、ユイナが俺を睨みつけた。薄青色の瞳がうっすらと透明な膜で滲んでいる。
冗談とは程遠い真剣な眼差し。本当に死の危険だったことを物語っている。
痛かった。今まで受けた平手うちの中で一番の攻撃力。頬を叩いたのに胸に響く。
ユイナの一発で全身に感覚が戻り始める。心臓が脈打つたびに全身へ熱が通っていく。
「村に行くぞ。風邪引きたくねえだろ」
下手くそな話題の切り替え。ナッシュなりの気遣い。
俺は微かだが力の入る脚をゆっくりと前へ運び、朝日と重なるナッシュの村へ歩き出した。
覚束ない足取りを見かねたのか、数歩も経たないうちに「肩貸してやる」とナッシュがぶっきらぼうに俺の横へ並んだ。
「遠慮なく」
右手を回して掴んだナッシュの肩は大きく、体重を預けてもぶれない力強さがあった。足場の悪い岩場を一歩踏みしめるたびに振動が全身を刺激する。
徐々に増していく痛みが生きている実感と同時に何もできなかった悔しさを膨らませた。
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