1.闇夜の冒険

 街外れに、五階建ての廃ビルがある。形の上では立入禁止の措置が取られているものの、実のところ、その気になれば誰だって密かに出入りすることが可能な場所だった。とはいえ重要な資産価値などもちろん無いし、幸い街の治安が良いためか、ガラの悪い連中の溜まり場となっているという話も特に聞こえてこない。わざわざ金をかけて取り壊されることもなく、風雨にて朽ちるを待つのみとなっている、まさしく見捨てられた建造物だった。

 そこに、今。冬空の遥か高みに銀月を臨む、暗夜の午後九時。二人の少年が懐中電灯を片手に侵入していた。

「やべぇよ。どこから見てもこえぇなぁ。やっぱヘタなホラー映画なんざ目じゃねぇよこれ。本場の味ってヤツだ」

「勇之助ずっとテンション高いよね。最初から分かってて来たんでしょ。……ふわぁ」

「バカヤロウ泰宏お前、寝るなよ。寝たら死ぬぞ。高一で死ぬとか未練の塊だろ」

「いや雪山じゃないんだから」

 片や大柄な少年――真鍋 勇之助まなべ ゆうのすけは、怖い怖いなどと言いつつ明らかに楽しそうな様子で、がらんどうのビル内を飽きもせず探検している。対して隣を歩くのは、勇之助と比して小柄な少年――加賀野 泰宏かがの やすひろ。寝ぼけ眼を擦りつつ、淡々と作業感満載のテンションで歩いている。

 打ち捨てられた建物内は風も入り放題で、気温など屋外と大して変わらない。お互い防寒着こそ着てはいるものの、到底、無意味に長居したいと思えるような環境ではなかった。雪こそほとんど降らない地域だが、それでも日本の冬の夜は寒い。

「リストラを苦に自殺した社員の幽霊とか出んだよ。真っ暗で寒くて、これで何も出なかったらウソだぜおい」

「このビル、オフィスビルだっけ……?」

 月明かりこそ差し込んではいるが、その心もとなさたるや、はっきり言って無いも同然。懐中電灯を消してしまえば、ほとんど何も見えはしないだろう。

 長いあいだ人の手が入らない、真っ暗闇の打ち捨てられた廃ビルに、二人の足音だけが妙に甲高く反響する――不気味な雰囲気は、これでもかと漂っている。ノブ式の扉を開ければまるで老婆の悲鳴のごとくイヤな軋み音を立て、時折もれる隙間風のひゅうひゅうという音色に心臓が跳ねる思いがする。

 『街外れの廃ビルに何かが出る』という都市伝説を調べに行こうと、泰宏に息巻いて持ちかけたのは、友人の勇之助だった。ハツラツとした印象の彼を初めて見る者ならば、まず運動部所属を連想するような恵まれた体格の男。裏腹に、オカルト好きというどこかマニアックな趣味を持ち、実は将棋部所属という妙な意外性を併せ持つ。地元にその好奇心を刺激するものがあるならば、行かない手はなかったのだろう。

 そもそも『何かが出る』というあまりに雑な噂からして胡乱極まりない話だが、他ならぬ友人の頼みとあって、泰宏は断れなかったのだ。

「で、何も出ないってわけだね。これが」

 もう十分ほどビル内を歩きまわり、部屋を一つ一つ見て回ったりしているが、今のところ何も出てくる気配は無い。いや、少しでも寒さを凌ごうとしていたのであろう二匹の野良猫には大いに驚かされた。それだけだ。

「なにをたかが十分で諦めてんのかね、え? このビル何階建てだと思ってんだよ」

「ちょっと待った、今日だけで五階まで全部見る気なわけ?」

「んー。一気に王手まで一直線ってのも悪かないが……そらぁ状況次第だな」

 短髪頭をぽりぽりとかきながら、勇之助は楽観的に言う。実際、特に何か明確なアテがあるわけではない。

 泰宏の懸念は些細なものだが、あまり遅くまで出歩いていては、高校生の身空ではバツが悪いということだ。勇之助はどうだか知らないが、少なくとも泰宏はそこまで深入りせず、二十二時前までには切り上げて帰宅する心づもりでいた。

 二つの電灯から伸びる細く白い光は、先ゆく光景を丸く切り取っては進んでいく。頼りなければ暖かみの欠片も無い白光が照らし出すのは、永遠に続くとさえ思わせる薄汚れたコンクリート打ちっ放しの廊下。

 しかし、それからしばらくして事態は動いた。

 キャスター椅子とホコリまみれのデスクが無造作に放置された部屋を後にし、再び廊下を照らし出した時のことだ。

「あっ」

 先に道を照らした泰宏が気付いた。遅れて勇之助も視認し、ごくりと唾を飲み込む。

 光の先に――何かがいるらしい。

「……泰宏」

「うん」

 デカイ図体に似合わず、勇之助はカチコチに硬直してしまっていた。

 その隣で、泰宏は聞こえない程度の小さな嘆息を漏らした。そして、やや下に傾け道を照らしていた懐中電灯を、ゆっくりと前方の空間へと持ち上げる。

 そこにいた何者かが――照らし出された。

「――う、う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 大きな悲鳴を上げたのは勇之助だった。泰宏をも放って、一目散に元来た道を全速力で駆け抜けていく。懐中電灯を取り落とさなかっただけ、まだ冷静だったというべきか。


 少女が立っていた。


 夜闇の漆黒とは明確な境界を縁取る、濡羽色の長い髪を腰まで垂らした、薄青色の着物、紬姿の少女――残った泰宏の目の前に立っていたのは、そんな存在だった。袂から僅かに覗く指先、その背丈の小柄さからすれば、幼女と形容する者もいるかもしれない。

 闇夜に凛と浮かぶ影。人が持つ固有の暖かさ、温度がそこには感じられなかった。夜の廃ビルという異様な空間がそれを助長している。人形。異形。死体のような冷たさが、物言わず漂っているような。

 見目こそ、いっそ美少女と言っても良い。されど如何せん浮かぶは人ならざる妖美。すらりと月光に濡れる佇まい、その細面の造形は些か精緻に過ぎる。

「……」

 しかし泰宏はそのまま前を照らしたまま、おもむろに遠慮無くズンズンと近づいていく。その顔に何ら恐怖の色は無い。

 やがて、手を触れ合えるほどの距離まで来ると――

「こんなとこで何やってんの、ねね」

「……はて、何のことじゃろか」

 少女の小さな口から、澄みわたる流水のような声音が響く。

 呆れた様子で、泰宏はそんな目の前の着物姿の少女を『ねね』と呼んだ。彼女は妖艶に目を細め、くつくつと楽しげな笑い声を夜の闇に躍らせる。

 よく照らせば彼女の着物にはすすきと白うさぎの模様があしらわれており、妖しさの中に可愛らしさをも同居させている。

「今日は十時には帰るって言ったでしょ。なんで待ってらんないかなぁ」

「無論、お前様を想うがゆえ。つまらなきことをとみに面白うすること、謂わば連れ合いの心配りというものじゃ」

「それは余計なお世話って言うの。勇之助、ビビって逃げちゃったじゃんか。あいつ霊感強いからさ、この距離だし、ねねの存在感がぼんやり感じられたんだと思うよ」

 霊感。それはこの場合、泰宏にしか視認することのできない少女を、霞のように捉える素質を指す言葉。

 彼女の姿は――八年前の在りし日、泰宏が亡き祖父の部屋で幻視した人影と瓜二つだった。

「お前様の学友のことは承知の上じゃ。でなければ興も乗らぬ。この付喪神のねねを目の端にでも捉えられる男児なぞ、からかわずして何とする」

 泰宏よりも頭一つ分小さい、女子小学生ほどと見えるちっちゃな姿は、何一つ変わっていない。当時の丈は同じくらいだったろうが、今はあからさまに泰宏が見下ろす形になる。

 よく見知る彼以外、誰がこの真実を信じようか。ねねは見目通りの人間ではなく――泰宏が祖父より形見分けされた、あの蓄音機の『付喪神』であるなどと。使い込まれた器物が長じて人の姿を取るという物の怪が、科学全盛の御時世に、確かに在るのだということを。

 いや。

 意外と、その姿さえ見えれば簡単に納得されるものかもしれない。何せ彼女の纏う雰囲気というやつは、どうしようもなく常人離れした、心を冷やりと寒からしめる怖気をちらと孕んでいる。それは紛れも無い真実なのだから。

 こほんと一つ小さく咳払いし、ねねはちょいちょいと天井を指し示した。

「どうせ気付くじゃろうから教えておくかのう。よくよく耳をそばだてるがよい」

 泰宏は意味がよく分からず、言われたとおりに集中してみる。

 すると、上階からほんの微かにだが、何か音が聞こえてくるのが分かった。それも、今まさにその場で奏でられていると思しきギターのメロディだ。

 この音色、泰宏には聞き覚えがあった。

「……なんだ? アコギ?」

 かすかに耳朶を打つ、アコースティックギターの叙情的な旋律。

 ロンドンより、遠い街へ告ぐ――そんな出だしの歌詞で始まるそれは、四十年ほど前に、世界的に有名な英国のパンクバンドが歌った名曲だった。ダッダッダッダッ、と一定のリズムを刻む特徴的なサウンドはよく耳に残る。当時の社会問題を糾弾する強いメッセージを放った、労働者階級達へのアンセムとして知られていた。

「ねね、ひょっとしてもう見てきた?」

「存外、詮無きものであった。足を運ぶ労力が無駄じゃ。お前様が見に行く必要はあるまい」

「なんでそう言い切れるのさ。もしかしたら、勇之助が言ってたウワサの原因かもしれないだろ? 幽霊の正体が枯れ尾花かどうか、僕は確認したい」

「……むぅ」

 穏やかに見えて、時おり、頑なな一面を見せるのが泰宏だった。こうなれば、あくまで主従の従でしかないねねは弱い。問答を無碍にはぐらかすことは出来ないのだった。

「お前様の級友であった。名を黒峰くろみね 氷緒ひおといったか。暗い一室で古ぼけた六弦ギターを爪弾いておったよ」

「黒峰、さん? なんで、こんな時間にこんな所で……」

「はてさて。人心隠るは月に叢雲かのごとし。年の功でも他人の考えなぞ読めぬでな」

 へっ、と知ったこっちゃない的なポーズを取るねね。相手の心情を察する気など元より皆無なのだろう。あまりにぞんざいな返答に対し、むしろ泰宏の心には興味の火が灯った。

 黒峰 氷緒という少女とは、ほとんど会話すらした覚えは無い。改めて思い起こそうとしても、可愛いというより美人という形容が似合う容姿をしていたということ以外、夢泡沫のような曖昧な印象しか浮かんでこなかった。ねねではないが、彼女の意図するところなど読めようはずもない。

 それでも、毎日教室で会っているクラスメイトの、一見、常軌を逸した行動だ。そうそうお目にかかれるものではないだろう。それが妙に好奇心を刺激するのだった。

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