六弦のツグミ、星霜のグラモフォン

あさぎり椋

0.セピア色のメロディ


 その機械の名は『蓄音機』という。

 泰宏が今は亡き祖父にそう教えてもらったのは、もう八年ほど前のことになる。当時まだ小学三年生だった泰宏にとって、音楽を鳴らす装置といえば、手のひらサイズのポータブルプレイヤーや物々しいCDコンポといったところ。そんな御時世にあって、その蓄音機は、まさしく珍品といっていい代物だった。

 もっとも、経年による希少価値を理解するには、少年はまだ幼かった。よく知られた大きなラッパ部品こそ無いが、手回しハンドルがついた、一抱えほどの平べったい木箱といった外観――無数の傷にまみれて古ぼけたそれは、ハッキリ言ってガラクタ同然というのが、当初の彼の受けた印象だった。

「ま、ずっと眺めていてもしょうがないだろう。鳴らしてみようか」

「うん!」

 それでも、泰宏は祖父の言葉に目を輝かせた。

 その日を彼はよく覚えている。うららかな日差しが差し込み、カーテン越しに祖父の書斎を暖かくひたす休日の午後。部屋を埋め尽くす何百冊もの古い本の匂い。アンティークの掛け時計が時を刻む音は、和やかな空気にあわせて少しだけ本当の時間を遅くしてくれているような気さえした。

 祖父は筐体のフタを開けて、CDを三倍は大きくしたような黒いディスクを慎重にセットする。恐る恐るといったその様子は、まるで砂の城を手で運ぶかのような慎重さだった。

 筐体側面の手回しハンドルを何度か回す。それから回転を制するストッパーを外すと、ディスクはゆっくりと回転を始めた。その上に擦れるように、ディスクを読み取る針先をセットする。円盤表面に刻まれた微細な旋律の凹凸を、この針が演奏するのだ。

 その瞬間――時忘れの小部屋に、セピア色のメロディが鳴り響く。

 それは、ひどい雑音混じりの大正時代の歌謡曲だった。少年にとってみれば、古臭いなどというレベルを遥かに超えている。とても音質などあったものではなく、ピンぼけしたモノクロ写真のようにぼやけて茫洋とした音響。

 それでも彼の耳は、その音を少しでも拾わんとそばだてられ、離れることはなかった。その歌声に気品や荘厳さは無く、あるのはお祭り気分のような高揚感だ。聴いているだけで心が弾むような、まるで人生みんなで楽しく歌えりゃ何でもいいさ、というあっけらかんとした明朗さ。

「……」

 感想の言葉など、述べる余裕も無かった。

 なんと気持ちの良い歌声だろう。声高に、陽気に歌い上げる男女の合唱が、父と母さえ存在しない遙か数十年も昔にこの世に放たれ、今この瞬間に再生されているという不思議に胸のあたりが熱くなる。響き渡る旋律を介して、少年は時の彼方へタイムスリップを果たしたのだった。

 そんな束の間の音楽旅行は、五分ほどで終了した。当時の技術によるディスクでは、一枚あたりの再生時間はこんなものだ。

 その曲が、終わるか否かという時だった。

「……あれ? 誰かいる!」

「むっ?」

 ひらひらと揺れるカーテン。その影に隠れるかのように、青い服の人影が確かにあった――と、泰宏には見えた。

 しかし目を瞬き、祖父と共に改めてその辺りを見ても、そこには何も無かった。旋律が留まることなく翠をそよぎ、大気を気紛れに吹き抜けるような一瞬で、その幻影は忽然と姿を消してしまったのだ。

 泰宏は、何度も何度も目を瞬く。

「絶対いた、たしかに何か?」

「……ふーむ、いや、まさかな。化身……なるほどなぁ」

「んん?」

 祖父の言う謎の言葉に、またも泰宏の好奇心はかきたてられる。

「よくある昔話に、言い伝えがある。人に長い間ずぅーっと大事にされたモノはな、やがて人間の姿になって現れるとな。妖怪の一種みたいなもんじゃよ。この蓄音機も、たしか造られて九十年ほど経つからなぁ」

「えー嘘だー。妖怪だの幽霊だのなんてホントはいないんだよ」

「ほっほ。まぁ何かの見間違えだとしても、いるもんだと信じた方が楽しいとは思わんかね。少なくとも私は信じておるよ。泰宏にしか見えなかったってことは、きっと、泰宏にこの蓄音機の持ち主になってほしいんじゃ」

「えっ」

 祖父からの突然の宣言に、泰宏は大いに驚いた。祖父は真剣な眼差しで、愛おしそうに蓄音機を撫でながら続ける。

「この蓄音機、貰ってくれんか。こいつを、この音をずいぶんと気に入ってくれたようじゃからな。泰宏が貰ってくれれば、きっと喜ぶ」

「いいの……?」

「あぁ。残念なことにお前の父さんと母さんは、どっちも大して興味が無いようだしな」

 そう言って祖父は一しきり笑い声を上げてから、調子を整えるように一つため息をついた。

「……私には結局、『彼女』は見えんかったな。実を言えば……こいつは長年、人から人へあっちこっちに売り飛ばされてたと聞いて、それが不憫で買ったものでな。きっとこいつを愛でてたのは、同情でしかないと思われてしまったのかもしれんなぁ」

 どこか遠くを見ながら感慨深く語る祖父の心の機微は、なんとなく小難しくて、当時はよくわからなかった。それが上から目線の憐憫という感情を後悔していたのだと理解できたのは、後年のことだ。

「あぁいかん。……ともかく、大事にしてくれんか? たまにで良いんじゃ。音楽を鳴らしてやっておくれ」

「うん、いいよ!」


 それが、少年の在りし日の想い出。

 それから二年後、祖父は安らかに旅立った。蓄音機と数枚のレコードは、孫へ譲渡するよう書かれた祖父の遺言に加え、泰宏本人からの形見分けの熱望もあり、無事に彼の手に渡った。

 さらに六年が経ち、現在。

 その蓄音機は――今もなお、健在だ。

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