2.冬の旋律
「会いに行ってみる」
「お前様、我の話を聞いておったか?」
「だからだよ。道案内よろしく。それくらいは頼まれてくれるよね? せっかくここまで来たんだから、手ぶらで帰るのも勿体無い」
ねねは一瞬キョトンとした顔をするも、目を伏せ、わずかにため息を漏らした。
「まったく、ほんに出鱈目なことを抜かしおる。その気質がために、ガラクタの我がこうして現し世に居られるわけじゃがのう」
着物の袂を揺らしながら静々と、ねねは泰宏を先導した。
謎のメロディの元へと行先を定める。途中、無事に外へ抜け出したらしい勇之助から、一人で逃げたことに対する謝罪と共に安否を気遣うLineメッセージが届いた。「気になることがあるから、もう少し中にいる」とだけ返信しておき、泰宏は足を止めない。
音の出どころは二階らしい。ほこりまみれの階段を登り、廊下を歩き続け、近づくに連れて音は大きくなる。泰宏はギターを弾けないので、その巧拙については深く言及するべくもないが、直感ではウマい方なのではないかと思った。
すると、演奏が急にパタリと止んだ。明らかに曲の途中だ。
「あれ?」
「感付かれたようじゃな。もっとも、お前様たちの存在はこのビルに入った時から先方には割れていたようじゃが」
よほどの地獄耳とでもいうのだろうか。おそらく逃げる気だろう。泰宏はそう判断し、おもむろに大きく息を吸い込んだ。
そして――
「待って、黒峰さん! ただ……えぇと、ちょっと話がしたいだけなんだ!」
そう叫び、廊下を行く足を速める。カドを曲がると、何やらガラクタだか資材だか分からない様々な器物で道が塞がれている。
人に非ざるねねであれば宙に浮かび物質をすり抜けるなどお手の物だが、真人間である泰宏はそうはいかない。
「通れない? どうやって!」
「こっちじゃ、お前様」
焦る泰宏に、隣の部屋の扉を示すねね。入ってみると、そこも所狭しと資材が山積みになっている。ただ、ねねが指し示す部屋の奥まった隅に、非常にわかりにくく塞がれてはいるが、人一人が通れる穴の通路が開いていた。意図せず人の秘密を隠す夜闇の帳が、それを殊更に上手く覆っている、もっとも、それが無くとも気付くことは出来なかっただろう。
意を決して、泰宏はその穴をくぐる。そうやって壁を抜けた、その先に――
「……!」
「ようこそ、泰宏くん。わたしのソロライブに、キミが記念すべき初めてのお客様だ」
部屋は、とても明るかった。アウトドアで使うような、電池式の大きなランタンがぴかぴかと部屋中を照らしているのだ。
そのおかげで、アコースティックギターを抱えた少女の姿も詳細に見えた。黒髪をうなじの辺りで一つに結んで垂らし、前髪は右に流して可愛らしく少しおでこを出している。そして目を引く、泰宏のようなやや小柄な男子ならゆうに追い抜くスラリとした長身。
黒峰 氷緒――あまり話した覚えの無い、とても影の薄いクラスメイトの女の子が、歓迎するよう微笑んでいた。
「僕だって、分かってて……」
「いいや。さっきの叫び声を聞くまでは、誰だかまでは分からなかったよ」
「え?」
「声を聞いてやっと分かった、クラスメイトの泰宏くんだってね。で、キミなら逃げる必要も無いだろうって思って待ってたんだ」
そう言う彼女の表情は朗らかだ。彷徨い込んだ小鳥を愛でるような落ち着きで、警戒心というものがまるで見て取れない。
「あんな叫び声だしてまでわたしを留めるなんて、意外と情熱家なんだね、キミは」
口許に手を当て、クスクスと思い出し笑いする氷緒。
それにしても、泰宏は声だけで判別されるほど彼女と会話した覚えがなかった。彼女は、もしやクラスメイト全員の声を覚えているのだろうか。様々な疑念が芋づる式に湧いて出ては渦を巻く。
「肝試しか何かかい? 一人逃げちゃったみたいだけど」
「あ、あぁ……クラスメイトの勇之助だよ。あいつがオカルト好きでさ。このビルに『何か出る』ってウワサを確かめに来たんだよ」
「そのために、わざわざここまで侵入したのかい? あははは!」
彼女は声を上げて笑った。やたらとツボに入ったらしい。無論、彼女のそんな笑顔を見るのだって初めてだった。ちらりと垣間見えた彼女の歯の綺麗な白さを明確に知る者が、果たしてクラスに何人いるのだろうか。
思わずドキリとする泰宏だが、傍らからジトっとした目つきでやり取りを眺めているねねの視線が冷水を浴びせてくる。板挟みの心地だ。
「……そういう黒峰さんは、何でこんなとこに?」
さりとて、まずは一番の疑問を解消せねば、今夜は枕を高くすることもできない。泰宏は飾ること無く率直に聞いた。
「わたし、こうしてギターをやってるんだけどね。けっこうな音がするだろう? 家じゃ、とても弾けないんだ。だから、ここを勝手ながらお借りして、夜な夜な練習させてもらってるってわけ」
「それにしたって、なんでわざわざ、こんな寒いところに。もっと良い場所ありそうだけど」
「これでも十分な下調べはしているよ。この部屋、反対側にも入口があってね。誰か近付いて来てもわたしの耳なら事前に分かるし、逃げるルートだって十分に把握してる。ま、幸いにも役だったことはないがね」
そういう問題じゃないんだけど、と泰宏は思う。決して悪意は無いが、本来ならここは入っちゃいけない場所なのだから。
何にせよ、想像以上に氷緒は饒舌だった。クラスじゃ空気もいいところだったはずで、泰宏自身も彼女を特に気に掛けたことなど無かったが、異性なのにとても話しやすいような気がした。
「ガゼルがライオンから逃げきれる距離を正確に把握してるようなものだよ。……そんなことより、一曲聴いていかないかい?」
「えっ?」
不意ながら、それはとても魅力的な提案だった。少女の指を見る。白魚のような、とでもいうのだろうか。細く華奢で、若干長めに見えるしなやかな五指。それが先刻のような見事なメロディを奏でるというのは、にわかには信じがたかった。
泰宏は頷く。
「聴かせてよ。さっきの、ロンドン・コーリングだよね?」
「あぁ、父が洋楽好きでね。ビートルズ世代の一周り下くらいだな。わたしも、小さい頃から色々聴いて育った影響がね」
そう言うと彼女はアコースティックギターを構え、弦を爪弾き始めた。
耳に心地良いギターの音色が、部屋中に響き渡る。まだ十六歳、技術的には決して熟達したものではないだろう。だが、闇夜にわずかな光源を湛え、夕焼け色のグラデーションカラーに彩られたヴィンテージ・ギターを弾き鳴らす長身少女のシルエットは、それこそ一枚の絵画のように泰宏の眼と耳を捉えて離さなかった。
やがてイントロが過ぎ、彼女は口を開いた。
「――」
ロンドン・コーリング、遠くの街々へ告ぐ――そんな意味の英詞が、彼女の口から飛び出した。ギター演奏のみかと思いきや、彼女は弾き語りをする気のようだ。
公式放送局への皮肉から始まり、社会の腐敗に燻ぶる人々を焚きつける痛烈な雄叫び。そんな歌だが、彼女は朗々と自分なりの歌声で奏でていく。小夜の静寂に千鳥の啼くごとく。男らしいパンクのパワーは無くても、歌いたいものを歌うんだ、そんな自由な力強さが満ちていた。
こんな声も出せるのか。泰宏は清水に身を浸すような鮮烈な気分にハッとさせられた。心地良い震えが全身を走り、瑞々しい少女の歌声に、耳が離せない。
アコースティックの旋律が部屋を駆け巡り――全体の半分程度の一区切りで、やがて彼女は演奏を止めた。
「……やっぱり、人に聴かせるのは緊張するな。汗、かいちゃったよ」
そう言う彼女の唐突な照れ笑いに、泰宏はドキッとした。真剣そのものな表情からの可愛らしい落差。ズルい。この寒さなのに、額には言う通りの玉の汗。さっきまではあんなに悠然としていたのに、やはり彼女も少しは緊張していたのだ。
泰宏は言葉が見つからなかった。七十年代という先入観もあろうが、流行りの四つ打ちドラムに乗せて青い情熱ほとばしるギターサウンドとは、一線を画す独特の趣があった。産まれてもいない時代に、勝手な懐かしささえ感じてしまう。
それは、傍らで物言わず演奏に身を委ねていたねね、その本体――祖父から受け継いだ、あの大正時代の蓄音機を鳴らした時のような、音楽を通じて時代を越える浮遊感によく似ていた。
「……すごい」
やっと絞り出せた、月並な賞賛。聴いている方だって、心も身体も熱かった。
「拙い演奏で恥ずかしいよ。ただ、聴いてほしい一心だった」
「そんな! 本当にすごかったよ。上手く言えないけど……けどさ」
あぁ、願わくばもっと彼女の演奏を聴いていたい。そう思うのだが、今日は時間的にも、外にまだ友人がいるであろうことを考えても、長居は出来そうになかった。
先程から傍観している、ねねの突き刺さるような視線も何だか痛い。何がそんなに気に入らないというのか。歌謡曲に軍歌、ジャズやクラシックを奏でてきた身には、ロックがお気に召さないのだろうか。いや、古いロックのレコードを掛けたことも一度や二度ではないはずなのだが。
「楽しかったよ。でもごめん、僕そろそろ行かないとまずいんだ」
「あぁ、全然構わないよ。わたしはもう少しここにいる。気が済んだら帰るよ」
「黒峰さん一人で大丈夫なの?」
「気遣ってくれるのかい? 優しいなキミは。でもいいよ、今までだってずっとこうして来たんだ」
「……そう」
一抹の不安は残ったが、ともあれ、泰宏はその場を去ることにした。ほんの十分程度の邂逅でも、二時間分の映画を見たよりも濃厚な余韻が心に残っている。
「じゃあね」
「あぁ。また明日、学校で」
そうか、学校でいつでも会えるんだ。そんな当たり前を再認識させられるほどに、クラスでの彼女の存在感は希薄なのだった。
部屋を出て、泰宏はねねと共に出口を目指した。ふよふよと浮かびながらついてくるねねは、憮然とした面持ちだ。
「……なーにをでれでれしておるか、この破廉恥小僧が」
「だ、誰がデレデレなんて」
「お前様以外に何者がおろうか。閨にまぐわうをも知らぬ童貞には些か刺激が強かったのう」
「ばっ、お前、持ち主に向かって!?」
ぶっちゃけた話、事実なので反論もしにくい。実際、目を閉じて唇から英詞を歌い上げる氷緒の姿に扇情的なものを感じなかったといえば嘘になる。英詞を紡ぐ桃色の唇の艶めき。一曲を歌い上げ、淡く照らされた頬が上気して火照った様も網膜に焼き付いている。
「我が主ときたら、下はそこそこ立派なのにのう。ふふふ」
「~~~! あーもう! さっさと行くぞ! 何なんだよ全く……!」
「うむ。良妻は主の三歩後ろじゃ」
からかいながら、ようやくねねは笑い、ズンズンと大股歩きをする泰宏の後ろをついていく。
かつてひょんなことでナニを見られてしまったのを思い出し、泰宏は顔から火が出る思いで足を速めるのだった。
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