3.約束二つ
翌日の学校。ホームルームが始まる前の朝早くに、泰宏の机には数枚の写真が並べられていた。それを勇之助と共に二人で吟味している。
「普通に撮っただけなのにめっちゃこえぇよな、これ。一枚くらい何か写っててもいいのによ」
「まぁ、相手もそう簡単には撮らせてくれないんだろうねぇ」
それは昨日、勇之助がスマホで撮った廃ビル探検の写真だった。失禁寸前の恐怖体験――まぁ正体は正真正銘の人外とはいえ、ちんちくりんでワガママな付喪神さんなわけだが――の後にすぐさまコンビニでプリントアウトしてきたというのだから、この悪友のタフネスは見習うべきかもしれない、と泰宏は感心しきりだった。
偶然でも何か映り込んでいないかとじっくり眺めていると、今度は脇から声をかけてくる女子が現れた。
「泰宏くん。ちょっといいかな」
「え? ……あぁ黒峰さん。どしたの」
氷緒だった。教室の中で向こうから話しかけられるのは初めてだ。というか正直、これまで教室内で彼女の声を聴いたことがあったかどうかさえも疑わしい。
いきなりの珍客に、勇之助も若干の戸惑いを見せている。彼女と泰宏を交互に見やり、両目をぱちくり。
「ちょっとだけ、泰宏くんを貸してほしいんだけど……」
「僕はいいよ。ごめん勇之助、また後で」
「おう……」
お前ら仲良し? とでも言いたげなキョトンとした表情の勇之助が、どこかおかしかった。
泰宏は言われるがまま、氷緒と連れ立って教室の外に出た。そんな二人を気にする者は、勇之助以外にいないようだ。
「どうしたの? 昨日、何かあった?」
「そういうわけじゃないんだけど……その、ね」
何の気なしに話しかける泰宏に対し、話を振ってきた側の氷緒はどこかもじもじとして煮え切らない。指遊びするように指先を所在なさ気に動かし、目線も少し泳いでいる。
また一つ、知らなかった彼女の表情を見てしまった。急かすのも悪いという思いと、もっとそんないじらしい様子を見ていたいような気持ちで待っていると、氷緒はようやく言葉を選び終えた。
「今後、またあそこで演奏することがあると思うんだ。その時、またキミを誘ってもいいかな?」
「え、僕を?」
予想外の提案だった。あそこで彼女と出会ったのは、ハッキリ言って偶然以外の何物でもない。彼女の秘密の時間を誰かに喋る気など毛頭ないし、束の間の縁もそこで終わり、それで閉幕のはずだった。
「いや、もちろん暇で暇で死にそうで仕方ない時とかでいいのさ。断ってくれたってて全然構わない。……ただ、恥ずかしい話でさ。こんなこと頼めるの、キミしかいなくてね」
「……」
昨夜を思い出す。彼女と共有した、ほんの十分か十五分そこらの『誰も知らない秘密の時間』に、得も言われぬ高揚感を覚えたことを思い出す。余韻は、冷め切っていない。
返答は、すっと決まった。
「いいよ。でも、僕べつに楽器とか弾けないし、本当に傍に座って聴いてるだけだよ」
「本当かい!? あ、ありがとう! それでいいんだよ。ただ一緒に他愛もない話でもしながら、いてくれれば!」
「わ、わぁっ!」
彼女はパァッと顔を輝かせ、おもむろに泰宏の両手を握りしめてブンブンと振った。まるで玩具を与えられた子供のようなはしゃぎっぷり。
かと思えば、すぐにハッとして彼女は手を離した。たまらず目線を反らし、その顔は耳まで紅潮してしまっている。
「ご、ごめん。そこまで二つ返事とは思わなくて」
「……いや、こ、こちらこそ」
なんだかこちらまで恥ずかしくなってしまい、泰宏もそれとなく目線を下げた。違うことを考えてドキドキするのを鎮めようとするのだが、彼女の黒いストッキングに包まれた細い脚線が視界に入り、またあらぬことを考えそうになる。少し自分がイヤになった。
「その。もし次の機会が来たら、その時は連絡したい。連絡先、交換してくれないかい?」
「あぁ、うん。ちょっと待って」
二人は互いに自分のスマホを取り出し、電話番号とメールアドレスを交換した。
泰宏がLineのIDも教えようとすると、氷緒はそれを手で制した。
「ごめん。それはやってないんだ。個人的な理由で申し訳ないけど、あまり好きじゃなくて」
「あぁ、そうなんだ。便利なんだけどな」
たしかにメールと電話でも事は足りるが、やはり便利なものは共有したかった。相手が女の子なら尚さらだ。
まぁいいか、と泰宏が納得してスマホをしまった時。氷緒は「それじゃあ」と教室へ向き直ろうとして、ふと振り返った。
「そうだ。約束ついでにもう一つ」
「ん?」
ニヤリ、と彼女はどこかいたずらっぽい笑みを浮かべ、人差し指を口許に当てると、
「黒峰さん、は他人行儀すぎやしないかい。わたしのこと、氷緒って呼んでよ。ひ、お、って」
「え? あ、あぁ。……氷緒」
「うむ、よろしい。泰宏くん」
更に上書きするように、彼女はニコッと笑った。呼び捨てを希望しながらそっちは君付けなのか。しかし別にイヤではなかったし、その方が何だか彼女らしいような気がしたので、訂正は頼まなかった。
そうして二人は諸々の作業を終えて、教室へと戻って別れる。
まったく寝耳に水というか、青天の霹靂というべきか。女子にこんな形で声をかけられるというだけでも、男子としては悪い気がしない。
退屈な授業の数々も、先に待つ夜を励みに思えば苦にならないほどに、泰宏の心はどうにも浮ついてしまうのだった。
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