4.色づく日々

 次の日の夜、さっそく泰宏は氷緒に誘いを受けていた。時刻は午後九時前。もうそろそろ出かけようかという頃合いだ。

 彼の自室には勉強机やスチールラックにベッドと、ごくごく普通の調度らと並んで、隅の棚上に古めかしい蓄音機が鎮座している。貴重なSPレコード盤や替えの竹針箱、高校生に出来る限りのメンテナンス用品も置いてある。そこだけがまるで異空間をくっつけてきたような様相で、容易に触れてはならないような雰囲気を醸し出している。

 丁寧に、神聖にあつらえられた領域。それも全て、ちょっぴりわがままな付喪神の女の子(?)を思えばこそ。

「お前様、何やら妙に浮かれておるのう。あのけったいな探索行脚から帰ってきてからじゃ」

 泰宏は自室で、ねねと共にいた。

 ちょこんと正座して座る少女の後ろに膝立ちし、泰宏は彼女の黒い御髪に丁寧に優しく櫛を入れていく。手慣れたもので、引っ掛かることもなく、ほのかに光を湛えた夜の天の河を滑るように、さらさらと黒髪を櫛っていく。この動作だけで言えば、理容師裸足の腕前と言っても過言ではあるまい。付喪神である彼女に唯一干渉できる、彼の日課だった。

 いつもなら気持ち良くこの時間を楽しみにしているねねだが、今日はその声に疑念の色が混ざっていた。

「ん、あぁ。氷緒と約束してね。今後、またあの廃ビルで『演奏会』をすることになったんだ」

「……なんじゃと?」

「うわ、引っ掛かる引っ掛かる」

 唐突に振り向こうとするねねに慌てる泰宏。櫛を外すと、そこには枝毛一つない艶やかな黒髪。頭頂からぴんとハネる一房の、いわゆるアホ毛はどうしようもなかった。

「待て待て、待たぬか。そのような事情、ついぞ聞いておらぬぞ。いつの間に斯様な定め事を?」

 振り向いて上目遣いにこちらを見上げるねねに、泰宏は少したじろぐ。

「き、昨日だよ。またあそこに行くことがあったら、観客として来てほしいって」

「……呆れたことじゃ、一度ならず二度までも。もし見咎められようものなら如何にする。火遊びは身を滅ぼすばかりぞ。火中の栗なぞ拾わずとも、お前様は我と共におれば良かろうに」

 ねねの言い分も分からないでもなかったが、正直な所、若い泰宏の身空にとってあの場所へ行くスリルはとても魅力的でもあったのだ。それに加えて氷緒のお誘い。考えるだけで逸る心は抑えられなかった。

「寂しい?」

「べ、べつにそうは言うておらぬ。ただ、お前様がいなければ誰が我の筐体の手入れをするというのじゃ。親御殿でさえ我の価値を真に理解しておらぬのだぞ」

 そう言うねねの言葉は、どこか尻切れトンボな響きがあった。

「もう、ぞんざいな扱いに流浪の日々は御免じゃ。女にうつつを抜かして我を見捨てるなぞ、あってはならぬぞ」

 かつて好事家の手を次から次へと渡り歩き、珍重されたかと思えば飽きれば捨てられ、安銭で買い叩かれては埃の中――そんな明日をも知れぬ中で自壊することも出来ず時代に翻弄されてきた、何の変哲も無い一台の蓄音機。

 その哀愁と怖れが、ねねの言葉を憂いあるものに染める。

「大げさだなぁ。ねねを捨てたりはしないよ」

 ――それを、喜色に染め上げられる言葉があるとすれば。

「……うむ。その言葉、何より嬉しいぞ」

 頬をゆるめ、ねねは控えめに微笑んだ。大仰に破顔することもない。それが彼女にとって、この上ない喜びの表現だということを、彼女と出会った数年で泰宏はよく知っていた。

 とは、いえ。

「だから、さ。氷緒のところに行ってきてもいいよね?」

 約束を初回から反故にするわけにはいかない。この流れでなんちゅーことをと我ながら思いつつ、泰宏ははにかみ笑いとともに告げる。

 ねねは笑みを顔に貼り付けたまま――ぷい、と首を動かしてあさってを向いた。

「……もう、知らぬっ。勝手にいたせ」

 そのまま、つーんとした態度で石のように動かなくなるのだった。


 それからさらに数日。

 もう既に何度も夜の演奏会を重ね、泰宏と氷緒はすっかり親しくなっていた。現状、学校で彼女と最も言葉を交わしているのは泰宏に違いないだろう。

 蓄音機など所有しているとはいえ、泰宏の音楽の趣味の主な範囲は典型的な邦ロックというやつだ。対して氷緒は新旧問わずの洋楽派。ギターを通じて音楽の話題が多くなるは自然といえ、その違いが二人の話題を更に盛り上げていた。

 演奏会の日取りを決めるのは専ら氷緒の側だ。お互い部活には入ってないとはいえ、流石に毎晩とはいかない。

 次はいつだろう、などとぼんやり空想しながら、退屈な現国の授業を受けている時のことだった。泰宏は、ふと窓の外に目をやった。

 そこに、人間が張り付いていた。

「うわぁぁぁぁっ!?」

 ガダンッ、と椅子と机を盛大に揺らし、集中していた教室の雰囲気が大いに乱れる。どっと笑いが漏れるも、教師の厳格な一言が瞬時に生徒たちの気を引き締める。

 すいません、ちょっと見間違えをしただけです、と心から謝罪し、泰宏は席に座り直す。

 外からこちらを覗き込んでいたのは、ねねだった。泰宏はとっさに、ノートに『昼休みに校舎裏で待ってて』と書き込むと、さり気なく窓の外に示した。



 時間になって校舎裏へ向かうと、そこには満面の笑みで野良の三毛猫とたわむれる、ねねの姿があった。猫という種族には付喪神の姿が明確に見えているらしく、ねねも気に入っていた。

「ほれほれ。この猫じゃらしが欲しいのか~。いやしんぼめ」

「……学校には来ないでって何度も言ったよね、僕は」

 主のつっけんどんな物言いに、ねねは嘆息する。

「気にもなるじゃろうて。我が主がほんの数日で妙に親しい女を作り、夜な夜な逢瀬を重ねておるというのじゃから」

「変な言い方するなよ。夜は一緒に話をしたりするだけだって言っただろ。学校でクラスメイトと話すのだって当たり前のことじゃんか」

「我の髪を梳く時間にも、お前様の手つきに雑念が混じっておる。気づかなんだと思うてか」

 露骨に不満気な表情で、腕組みまでして突っかかる。上目遣いでむぅーっと詰め寄る様は本気も本気だ。いつでも会えるのに、学校まで現れてこの剣幕である。いよいよもって釘を差しにきたというところだろう。

「なに考えてるのか知らないけど、僕はいつも通りだって。付き合い長いんだから分かってよ。いい加減にしてくれないか」

「何も問題は一つではない。人心の遷ろうことなど、それこそ万華鏡の煌めくが如しよ。……お前様は良かろうが、さりとて女の心は分からぬ」

 唾棄するように言い、ねねは口をへの字に曲げた。経験談なのだろうか。

 自分一人がなじられるだけならまだしも、氷緒にさえ言及されてはとても良い気持ちがしない。ここまで一方的に言われてしまっては、泰宏としてもさすがに反駁の一つもしたくなろうというもの。先程までは、彼女を適当になだめて帰ってもらうつもりだったのだが、気が変わった。

 本来、今夜になってから丁重に告げるはずだった重要な用向きを、今ここで話すことに決めた。

「ねね」

「なんじゃ」

「明日、氷緒ウチに来るから。そのつもりで」

「……」

 目が点になる、とは、今の彼女のような表情を言うのだろう。それを何度かパチクリさせて、

「……は?」

 百年近く生きてきて初めて人間を見たかのような目で、泰宏を睨めつけたまま、そんな声を絞り出した。

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