5.二人きり
同じクラスメイトの女子を、自分の部屋にお招きする。およそ華やかな恋の世界とは無縁だった少年にとって、それはさながら修行僧が生まれて初めてナイトクラブにでも行くような、まさしく一大イベントだった。
現在は放課後、十六時手前で、あと一時間もすれば早めの冬の夜がやってくるだろう。泰宏の両親は共働きなので、いつも通りであれば、あと二時間は両方帰ってこない。
つまり。
「いいよ、入って」
「お邪魔します」
これぞ一つ屋根の下。泰宏と氷緒は今、加賀野邸に二人っきりというわけだ。無論、ねねには出払ってもらっている。彼女は「言われずとも出て行くわい」と不機嫌そのものだった。
普段は泰宏のプライベートとの兼ね合いもあって、彼女は昼夜問わず外で気ままな野良猫のようにブラついていることが多い。とはいえ、今回は露骨に追い立てるような形となっている。さすがに、いずれ埋め合わせをしなければならないだろうか――幾ばくかの自責の念が、彼の心の内を占めていた。
「ほう、これが……。わたし、同い年の男の子の部屋に入るなんて初めてだよ」
「僕も、その、同い年の女の子を呼ぶのは初めてかな」
きょろきょろと興味津々に室内を見渡す氷緒に、泰宏ははにかみ笑いで応える。彼女にとってはまさに未知の領域だが、第一印象は悪くないようだ。
今の二人の間にぎこちなさが一切無いと言えば嘘になるだろうが、実際のところ、そこまで張り詰めた空気があるでもなかった。何だかんだ言って、今やすっかり気の置けない関係だ。
泰宏にとって懸念があるとすれば、あまり見られたくない類の私物についてだが――
「男児の自室に入りし者、ベッド下あさるべし!」
「ちょおぉ、やめて!」
氷緒は目を爛々と輝かせたかと思えば、脱兎のごとき素早さで即座にベッド下をガバッと覗き込んだ。完全なる不意打ち。泰宏はギョッとして制しようとするも、四つん這いになってお尻を突き出す格好となる氷緒の露わな姿に後ろから気づき、それ以上強くは言わなかった。冴えた健全な思考だった。
「……な、何も無いじゃないか! キミって奴は!」
「なんで僕の方が怒られてんの!? 昨日のうちに色々片付けといて正解だった……」
「キミはわたしの秘密の花園を知ってしまったんだ。わたしにも秘密を教えるのが筋というものだろう?」
絶対関係無い、と泰宏は思った。花園という単語に妙な照れを覚えたか、自分で少し目線を逸らす氷緒がどこか可笑しかった。
テキトーに彼女をあしらい、泰宏は飲み物と菓子を取りに階下へと向かった。彼女を一人残すことに一抹どころか百抹くらいの不安を残しつつ。
やはり友人をもてなすならこれがテッパンだろう、とは思いつつ、お決まりすぎるような気もする。女子との手合に手慣れてないこと丸出しなような、気にしすぎる方が気持ち悪いような……そんな思春期ギア全開な思いを胸に、彼は盆を持って部屋に戻ってくる。
「これが、例の蓄音機かい?」
「ん? あぁ、そうだよ。大正十一年製、日本生まれの日本育ち。電気式っていう新型が出る少し前の、古い型なんだって」
やはりというべきか、氷緒は蓄音機に興味を示していた。それもそのはず。普通に生きてて、なかなかお目にかかれる代物ではないだろう。
「御年九十三歳か。大きいラッパはついてないんだね。ほら、犬が覗き込んでるやつ」
「あぁ、あの有名なやつね」
絵画を元とし、様々なグッズ化もされている犬をモチーフとした某音楽会社のロゴ。蓄音機を想像しようとして、そこからあの可愛らしい犬を連想する者も多いだろう。
さらに口の端に上った九十三という数字――ねねが初めて本格的に姿を現したのが三年前と考えれば、ツクモに至るには九も足りない。それはひとえに、ねねの泰宏に対する強すぎる慕情の念がそうさせた例外中の例外のようだ。とは、付喪神さん本人の談。
愛が重い、とでも言うべきだろうか。
「えっと、これは卓上型っていうタイプでさ。音は横っちょから出るんだよ。ここが観音開きになっててさ」
「へぇ……知らなかった。そんな色々なタイプがあるんだな」
色々と説明しながら、既に見慣れている泰宏も何だかワクワクしてきた。男友達は誰もがこれを見ては、最初こそ興味を示すような素振りをしておきながら、すぐにただのガラクタ同然の目に変わるのだ。それを思えば、この氷緒の食いつきっぷりたるや。泰宏の胸に去来した喜びもひとしおだろう。
「さっそく鳴らしてみようか」
かつての祖父のようにそう言って、泰宏は箱状の筐体のフタを開けて見せる。氷緒はぱっと顔を輝かせ、一も二も無く頷いた。こんな彼女の表情が見られるなら、何十回だってこのフタを開け閉めしてやろうと思えるような茶目っ気だった。
このタイプの蓄音機が掛けられるのは、SPレコードと呼ばれる三十センチサイズのクリスピーピザみたいなディスクだ。演奏時間はせいぜい五分の、CDの遠い遠いご先祖様。経年劣化は元より、そもそもの材質が非常に壊れやすいので、豆腐を積み重ねるくらいの気持ちで扱わねばならない。かつては祖父の様子をビビりすぎと笑ったものだが、実際にやってみてその気持がよく分かる。
「最初にハンドルをたくさん回すんだよ。電気じゃなくてゼンマイ仕掛けだからね」
「はぁ、なんとまぁアナログな」
箱の右側に出っ張ってる手回しハンドルをぐるぐる回し、準備完了。
「ディスクを真ん中にセットして、と」
ターンテーブルにディスクを嵌め込む。
箱内の上辺には、歪んだCの字のようなパイプがある。その先端に、細い竹針を垂直に設置。鉄針が一般的ながら、竹はディスクへのダメージを考慮した日本の知恵だという。原理的には、この針先がディスクの細かな溝を擦り、音を鳴らすという寸法だ。
「さぁ、いくよ」
箱内下部のストッパーを外すと、ディスクが毎分七十八回に相当する回転を始める。そしてパイプの位置をずらして、針先がディスクの上に触れるよう動かして――針先を、ディスクに落とす。
「おぉ……」
氷緒は、目をみはった。
壮大な――というには雑音混じりながら、勇壮さを感じさせるビッグ・バンドの力強い金管の音色が確かに響き渡った。ユニゾンして奏でられるはトランペットにサクソフォン。そこに重ねられていく、滑るように軽快なピアノの打鍵。遙か数十年もの昔、海の向こうで奏でられたであろうスウィング・ジャズのダンサブルな旋律が、部屋中の空気を震わせる。
あまりにも古いモノで、曲の詳細を泰宏さえも知らなかった。ただ素直に、この愉快なアンサンブルの音色が好きだという感情に偽りは無く。
氷緒の脳裏には、よくテレビで紹介されるような大正昭和初期あたりのモノクロ映像が浮かんでいた。洒落た袴姿の女性達に、ジェントルマンとでも表現すべき洋装のキマった男達が、煉瓦造りの街並みを堂々と歩いている。極東より世界への扉を大いに開き、高らかに浪漫とモダニズムを謳歌する。そのBGMによく使われてるような、そんなレトロなイメージ。
ジャズといえばオシャレな喫茶店やバー、そんなイメージも併行するのだろう。当時はミルクホールなどとも呼ばれた憩いの場を、このハイカラな音が賑やかしていたこともあったのかもしれない。
「……なんでだろうな。産まれてもない時代のはずなのに、懐かしささえ感じる」
うっとりと聞き惚れる彼女の横顔に、思わず泰宏は見入ってしまった。
ヴィンテージ・ギターで数十年前の洋楽を掻き鳴らすのも、蓄音機でノスタルジィの世界に包まれるのも、一種のタイムスリップに近い。その体験にぞくぞくしてしまう気持ちが、泰宏にもよく分かった。その全身を震わせるような心地を共有できたことが、どうしようもなく嬉しかった。
やがて、たった五分の演奏が終わる。
「どうだった?」
「……演奏もすごかった。でも何より……わたし達が産まれるよりずっと前にこんな音があって、それが多くの人に認められて円盤になって、しかも百年後にさえ、こうしてわたし達の胸を打つだなんて。感動、いや奇跡的なことだよ。泣きたいくらいだ」
氷緒は胸をギュッと押さえ、そうしなければどうにかなってしまいそうで――堪らない、そんな表情をしていた。漏れる吐息はいっそ扇情的なほどで、泰宏は想像以上のリアクションに驚かされる。
「もっと、色々聴きたい。ジャズ以外にも色々あるんだろう?」
「う、うん。歌謡曲とか?」
「お願いするよ。あ、ちょっと触ってみてもいいかな?」
興奮気味に、それでいて丁寧に、氷緒はターンテーブルに手を伸ばした。
しかし、針をつけたパイプアームに指を近づけた時――
「痛っ!」
「え!? ひ、氷緒だいじょうぶ!?」
見れば、針で指を怪我している。小さな傷だが、血が出ていた。
二人は見ていた。アームが急に少しだけ動き、それに氷緒は不意を突かれたのだ。
「なんだ、今の……」
「ふ、古いからね。弄ってると急に軋んだりして変な動作をすることも、あるだろうけど。絆創膏とってくる!」
ティッシュで指先を抑える氷緒を後にし、泰宏は再び部屋を飛び出した。
救急箱のある居間へ向かいながら、胸騒ぎが収まらなかった。
――ねねが、やった。
間違いない、と泰宏は思う。
筐体はねねの本体だ。人が手足を動かすごとく、彼女の意思で自由に遠隔操作をすることは可能。ということは、ねねは部屋を今まで見ていたということになる。迂闊だった。
(……冗談じゃない。なんてことしてくれたんだ!)
すぐに戻り、氷緒の手当てをする。大げさだと彼女は笑った。
「このくらい平気さ。ギターだって弾けるとも。それより、ぜひ続きを」
「……うん」
その後は、昔の歌謡曲やクラシック、変わり種で軍歌なども演奏した。これだけのSP盤、祖父の収集癖の賜だ。
それからお互いに好きなCDを持ち寄って語り合ったり、学校の話をしたり――寒い寒い夜の演奏会とはまた違った趣があって、楽しい時間ではあった。
それでも、なお。
けっきょく泰宏の心には、氷緒が帰るまでねねのことが引っかかって仕方がないのだった。
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