6.炎

 夜になり、何食わぬ顔でねねが部屋に入ってくる。今宵も頼むぞなどと言って、自慢の黒髪をさらさらと手で櫛っている。

 だが泰宏は、真っ先に問うた。

「ねね。見てたな。今日のは一体どういうことだよ」

「……ふふふ。釘を刺すならぬ、針を刺すといったところかのう」

「ふざけんなよ!」

 普段は温厚な泰宏が、大いに声を荒らげた。今、部屋には泰宏しかいないことになっているのだから、この声が親に聞こえれば不審がられるのは間違いないというのに。

 その激昂ぶりに、さしものねねの戯けも鳴りを潜め、目を冷ややかに細める。

「……お前様は、あの女のためならば斯様な声をも出せるというわけじゃな」

「はぁ!?」

 ねねはゆらりと俯き、肩を震わせた。怒り冷めやらぬという中で、この女は笑っているというのか。

 火に油を注がれた心地で、泰宏の形相はさらなる怒気に歪む。もう殴ってしまおうか。そんなあらぬ考えさえ首をもたげてきたところで。

「毒じゃ」

「え?」

 謎の言葉に不意打たれ、泰宏の心の滾りに一瞬の間隙が空く。

 そこに、ぐわん、と。

 思い切り口角を上げてぎろりと両目を盛大に見開き、ハ虫類を思わせる獰猛な笑みを貼り付け、ねねは泰宏を見上げ返した。

「毒じゃ。猛毒じゃ。あの女はお前様の喉笛灼き歯髄裂き目玉抉る蛇蝎の毒じゃ。今に見よ。五臓は腐り六腑は爛れ、心打ち枯れそして死ぬ。死ぬ。あの雌狐の泥濘に浸り続ければ、かつてのお前様は死ぬ。焼滅じゃ。そうなりゃ我もたかだか下卑に掻き鳴る死んだ木、朽ちるがままよ。汚泥を漱ぎ身柱いかに削り磨けど、二度と現し世に律刻むこと能わぬであろう。愉快なことよ、それ御覧じろ! 生き恥晒した百年漂泊の末路は淀んだ澱の底ときた!」

 タガが外れている。顔と顔が触れかねないほどに異形の妖面にて迫り、蓄音機が唄うようにねねはまくし立てた。

 水を浴びせど灰を被せど、消せぬ情念の炎をその瞳孔の奥に見る。

「え? どうなんじゃ、お前様よ。言うてくれるか。それでもお前様は――あの女を求むか?」

 くくく、と引きつったようなねねの笑い声が耳朶を打ち付ける。声が切っ先となり喉を突く。泰宏は逡巡を許されない。惑えば痛み、誤れば裂ける。ゆえに――答えは、喉を出ず。イヤな汗が顔中を伝い、瀕死染みた吐息をひゅうひゅうと漏らすがやっと。

 事そこまで至り、やがてねねは目をパチリと閉じた。

「冗談じゃ」

 こともなげに、そう言い放った。

「お前様が、どこまで本気なのか知りたかった。この我がいながら逢瀬を重ねようというのじゃ、それくらいはな。ま……頑張れ、若人」


 それだけ言い残し、ねねは窓を開け放つと、黒鴉のように夜の闇へと姿を消した。

 その後姿を見届けもせず、泰宏は、やっと膝を崩して両手をつくことができた。心臓の爆音は重機の如く胸の内で鳴り止まず、怖気の走る総身に血を送り続けている。

 冬、だというのに。

 全身がイヤな汗でびっしょりだった。

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