8.小夜鳴き鳥の歌

 勇之助が泰宏と氷緒の間に絡んできたあの日から、勇之助はたびたび二人に声を掛けるようになっていた。泰宏に対しては元々だが、氷緒はそうじゃない。彼女からして他人と喋る場面をほとんど見ないのだから、その新鮮さはかなりのものだ。

 『夜の演奏会』はその後も続いている。襲い来る冬の夜の冷え込みは、防寒着にカイロ、それに持ち込んだ中華まんを二人で頬張ることで楽しい思い出に変えていった。

「知的活動には糖分が必須って、知らないわけじゃないだろう? キミももっと摂取すべきだよ。つまり、つぶあんはこの世の正義だ」

「適度なしょっぱさ、それにぴりっと甘辛いのがいいんだよピザまんは。チーズ入りのバリエとかあるとお得だしね」

 お決まりの廃ビルの一室で、二人は舌鼓をうっていた。お互いの買った饅頭を一口ずつ交換しあって、やっぱりそっちもいいね、なんて言い合いながら。

 彼女は大人しい外見とは裏腹に、最初に聴いたクラッシュを始め、パンクバンドの曲を弾くことを好んだ。

 トーキング・ヘッズ。ラモーンズ。ジャム。泰宏が名も知らなかった、数十年前に燦然と現れたヒーロー達の独特の世界観を、氷緒は拙いなりの技術と解釈で音語る。そんな寒くも熱い夜に、ただ酔い痴れる日々。

 氷緒は、上達することを望んでいるような節は無かった。泰宏もまた、そんなことを求めなかった。学校の友達も、先生も、親も知らない二人だけの世界に、それは必要なかった。ただ、刹那的な喜びに満たされる今この瞬間があれば、それで良かった。

 そこに進化も進歩も無く。いっそ、頽廃的ですらあった。

「わたしはね。出来ることなら、ずっとここにいたいくらいだ」

「寒いよ。凍え死んじゃう」

「キミの隣は暖かい」

 いたずらに弦を一つ爪弾く。そのたびに、夜の寒気が揺れる。二人の吐息が風に流れる。

 氷緒は、少しだけうつむいた。

「……笑わないで聞いてくれないか。わたしは、冬のツグミになりたいんだ」

「え?」

 ツグミって、鳥の? 聞き返す泰宏に、彼女は頷いた。

「ツグミは冬の鳥でね、この時期に日本にやって来る。夏場はどこか遠くへ行ってしまうんだ。だから一定の時期を境に、急に彼らの鳴き声は途絶えてしまう。それがあたかも口を噤んでいるようで、ツグミってわけ」

「へぇ」

 彼女は、何か別なことを言いたいのだろう。何かを拾って欲しがっている。そのくらいは、泰宏にも何となく察せられた。

 饒舌、と言うには訥々とした響きだった。もし雪が降っていたら、その中に全て吸い込まれて消えてしまいそうな、儚い囀りにも似ていた。

「勝手に入って来てるけどさ。わたしにとってこの場所が、今一番、自分を自由にしてやれる場所なんだ。冬のツグミが啼くように、声高に唄うも弾くも自由。……学校や家にいたら、その名の通り、噤むしかない」

「……やっぱり、家で何か」

「知ってた?」

「いや。ただ、いっつも帰りたくなさそうでさ。わざわざここで一人になってたのも、その辺かなって」

 ははは、と氷緒は笑った。

「父さんと母さんが、あんまり仲良くないのだよ。別に喧嘩してるわけじゃないよ。何ていうか……無関心なんだ。どっかでボタンを掛け違えた感じでさ」

「……」

「だから、わたしも何だか、喋りにくくてさ。家じゃ夏場のツグミってわけ」

 今日の彼女は、やたらと自分のことを話したがる。

「最近、わたしにはもったいないくらい、楽しすぎてさ。勇之助くんも、なんだか良くしてくれるし。心の容量がいっぱいになって、反動で押し出されちゃうんだ、こんな猥雑な話がさ。キミには迷惑な話だろうけど」

「そんなことない」

 泰宏は断言した。強く、きっぱりと。そんなこと言うな、と言外に思いを込めて。

 たまに、街なかで可愛らしい小鳥が集まって啼いているのを聴くことがある。あれがツグミだろうか。だとすれば、冬の情緒を身に纏った、とても可愛らしくも美しい彩りに溢れた存在だと思う。自分の人生にとっての氷緒が今、そんな存在になってきていると思うことは、僭越だろうか。

 冬の寒さのせいか、ギターの旋律が心を震わせるのか。それくらいのことは、考えてしまう。

「ありがとう。キミだけじゃない。このギターも。心の拠り所に違いない」

 まるで自分に言い聞かせるみたいに呟きながら、彼女はギターをギュッと抱え込んだ。

「キミにとっての蓄音機は、どうだい?」

「え? う、うーん、どうだろう。当たり前に部屋の中にずっとあるから、あんまり気にしたことなかったかも」

 好きだった祖父との絆であり、今はねねという名の付喪神として自分に接するモノ。

 改めて、その存在をもう一度考えるのもいいかもしれないな、と泰宏は思った。なんだか情緒不安定な感じも気になっている。

 と、その時だった。

「ん? ……え、えぇ!?」

「なんじゃい、人を化け物みたいに」

 傍らに、ねねがいた。さも当然と言わんばかりに腕組みをした仁王立ちで。彼女自身がここには来たくないと言っていたので、泰宏は絶対に現れないだろうと高をくくっていた。

 氷緒は不審そうに眉根を寄せている。

「どうした、泰宏くん?」

「あ、いやごめん。ちょっと……外で電話してきてもいいかな?」

「緊急かい? いいよ、待ってるから」

 ポケットのスマホに着信があった風を装い、急いで泰宏は外へ出る。

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