9.壊れたもの

 まず一言目に苦言を呈しようとねねを睨めつけるが、彼女の存外に真剣な佇まいに、出掛かった言葉は喉の奥へ引っ込んでしまった。先日の一件はもう気にしないようにしているのに、こう気圧されると、どうしてもたじろいでしまう。所有者としては情けない限り。

「……どうしたの。何かよっぽど大事な用事?」

「火急も火急、いよいよもって危険じゃ。あの女の孕んだ蛇蝎の毒よ」

 後半のワードに不穏極まりないものを覚えつつ、泰宏は唾を飲んだ。彼女の普段が普段なだけに、これほど真面目な場面に嘘は無いと見ていい。

「あの女、いつもヴィンテージ・ギターを持っておるな」

「ここに来る時はね」

「率直に言おう。あれは、我とは異なるタチの物の怪じゃ。それも、持ち主に可愛がられて随分と力を増しておる」

 予想外の風向きに、泰宏は困惑した。物の怪? 一体なんの話だというのか。

「お前様には影響はあるまい。我が憑いている限り、お前様の妖気に対する守りは鉄壁じゃ。……ただ、周りは分からぬ」

 ひとつひとつ、ねねのいう言葉を噛み砕く。あのギターに、そんな秘密が。本当だとして、しかし今までは何もなかった。氷緒とて全くそんな素振りを見せていなかった。ただただとても大事に、心の拠り所として執着していただけだ。

 異変は矢継ぎ早に起こる。今度は出てきた部屋からだ。

『――――』

『――――』

 氷緒の声がする。いや、ひとりごとではない。加えて、もう一つ別の声がする。

 会話。誰かが、いる。

「なんだ?」

 もう片方の入り口から何者かが。ワンテンポずれた考えを起こしている間に、次は起こる。

「きゃあぁぁぁぁぁッ!!」

 絹を裂くような悲鳴。氷緒。一体何が。

 押し寄せる情報の洪水を整理してるヒマは無かった。この場所は秘密のはず。誰か入っても分かる、と氷緒も言っていた。なのに。

「氷緒っ!!」

 部屋に戻り、叫ぶ。

 そこにあった想定外の光景に、泰宏はさらなる驚愕と困惑を上塗りされ、叩きつけられた。

「……よぉ、泰宏。やっぱお前もいるよな」

 ――勇之助が、そこにいた。

 いや。それは本当に勇之助か、泰宏は一瞬だけ考えてしまった。

 勇之助は視線だけをこちらに向けてくる。ランタンの茫洋とした灯りに照らされた彼の顔に張り付くは、感情を泥底に置き忘れてきたかのような無の表情。悠然とその場にしゃがみ込む様は、さながら幽鬼のようであった。ねねに似た、そこにいるはずなのにどこか現実離れした存在感。

 しかし、彼女とは明確な違いがある。表情に色は無く、しかし彼の視線だけは、それで人を殺しかねないほどの殺意に満ちていた。

「なに、を……」

 彼は力づくで氷緒を全体重で組み伏せ、上着を剥ぎ取り、下に来ているニットセーターを思い切りめくり上げ、彼女の上半身を裸同然に剥いていた。右手で彼女の口を押さえつけ、何も言えなくしている。

 彼女の下半身はジタバタと激しくもがき抵抗している。しかし、大柄な勇之助に抵抗しようもない。

 泰宏は、頭の血管がぷつんと破裂したような心地を覚え――

「何してんだお前ぇぇぇッ!!」

 がむしゃらに猛然と背後から掴みかかった。

 しかし、読まれている。裏拳一発で弾き飛ばされ、あえなく泰宏は地に倒れ伏す。

「こんな暗いとこでずぅっとお楽しみだったってわけだ。警戒心が足りないぜ、お前らよ」

 泰宏は考える。何故この場所がバレた。一介の女子高生に出来る範囲だったとはいえ、氷緒の用意はいつも周到だった。勇之助が明確な悪意を持ってそれを探ろうと、氷緒を上回るほど周到に、付け狙っていた――そういうことなのか? そんな素振り、全く無かったのに。

 勇之助は氷緒の上から立ち上がり、こちらへ向かってきた。

「いい場所だよな。誰にも分からない。何してようが――分からねぇ!」

 言うが早いか、勇之助は強かに泰宏を蹴りつけた。苦悶の声と共に、泰宏は口の中で鉄の味を感じた。拍子で切ったらしい。

「お年ごろの俺らみたいな男女が、こんな暗いとこで二人っきり、いいえ何もしてません、信じられるかっつーのよ?」

 さらに一発。泰宏は何とか耐えるも、彼我の力の差は覆しようがなかった。

「氷緒……逃げ……っ」

 氷緒の方を見れば、彼女はぼろぼろの下着姿で髪も乱れ、そのまま動けなくなっている。恐怖のあまり、腰が抜けたか。

 となれば――泰宏は、立ち上がった。

 勇之助の心情を図るのは後だ。彼が何を考えていようが、事実は、引いてはいけないということ。ここで自分が負ければ、氷緒はどうなる。想像したくもない。

 怒りが、彼を掻き立てた。

「うおぁぁっ!!」

「おいおい、また力任せに――」

 組み付く寸前、泰宏は姿勢をグンと低くした。レスリングの選手がするように、大柄な人間の足もとへと飛び掛かったのだ。

「なにっ!」

 虚を突かれた勇之助。両足にまとわりつかれ、そのまま地面に引き倒される。

 だが、彼の焦りは一瞬だった。

「元柔道部員に寝技かよ!」

 その言葉通りに一瞬で態勢を変えようとするも、無我夢中な泰宏はそれを許さない。

 とにかく、氷緒の逃げるスキを造らねば。

「クソがッ!」

 仰向けからの膝蹴りで勇之助はやっと泰宏を引き剥がした。今度は無理やりフラフラと立たされた格好となる泰宏。

 しかし、彼はすでに反撃を考えていた。その状態を整えて立とうとするどころか、肘鉄を構え、あらん限りの力と全体重を込めて勇之助のみぞおちへと叩きこむ。

「うぐおぉぉッ!!」

 ガハッ、と大きなダメージを感じさせる悶え声。勇之助は倒れたままもがいた。

 スキを見て、泰宏は這うように氷緒の元へ駆け寄る。

「氷緒! 氷緒! 大丈夫!?」

「あ、あ、いやぁっ!!」

 おもむろに泰宏を突き飛ばし、距離を置こうとする氷緒。助けに来たのに、なぜ。

(パニックを起こしてる……のか!?)

 無理も無いだろう。突然、あんな大柄な男子に襲われたとあっては、混乱するのも道理。

「て、めェ……」

 勇之助が立ち上がった。いよいよ彼も容赦はしないだろう。暗闇に、悪鬼の姿がゆらりと映える。

 氷緒は動けない。泰宏とて、さっきの一撃が精一杯だった。二度は撃てまい。

 今度こそ万事休す、か――そう思われた時、だった。

「そろそろ糸も切れよう。お前様、安心せいよ」

 ねね。

 部屋の端で慌てる様子もなく事態を傍観していたねねが、そう呟いた。

 それと、ほぼ同時に。

「……え?」

 勇之助の身体が、ドサリと倒れこんだ。それこそまさに、操り人形の糸が切れたみたいに。もう、殺意も悪意もあったものではない。

 助かったのか? 一体何が? 泰宏の混乱は止まらない。

 それを整理する間も与えないまま、ねねは怜悧な目線で何かを見ながら言った。

「お前様。そのギターを破壊せよ」

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