二章11話〝悪竜殺し〟

 空には厚い雲が立ち込めていて、光に満ちて眩いはずの月はかげり、地上を照らす輝きが随分と鈍い夜だった。

 わたしはろうそくの小さな明かりを頼りにし、自身を除いた家人たちが気付かないよう音を立てず、注意を払いながら慎重に深夜の廊下を歩いていた。


 霧の満ちる森で目を覚まし、フォンクラッド家が所有をするこの木造一戸建てを家を自身の帰るべき家であると認識をしてから決して短くない月日が経った。

 その中でも、わたしが未だに一度も足を踏み入れたことのない部屋がたったひとつある。

 

 春のただ中だというのにも関わらず、今夜の廊下はひんやりと冷たかった。ともすれば吐く息は白く色づきそうなほどだ。


 廊下に目を配る。小さな子供ならばきっと家の暗がりに恐怖を感じて立ち竦むのだろうが、今のわたしには爪先ほどの恐怖もない。

 両親が使用している寝室の扉の隙間からは明かりの筋は漏れておらず、目立った音も聞こえない。

 我が家に居候をしている魔法使いは階下の一室を占有していて、彼女――イルミナ・クラドリンは夜行性ではあるが、生来引きこもりの気があるらしい彼女が自室から出て、この二階へと上がることはまずないだろう。

 

 わたしがその内部を一度も目にしたことのない部屋、それは二階の廊下の隅にある物置部屋だった。夜気の横たわる廊下の中でわたしはその扉の前に立ち、黄銅のドアノブに指をかける。


 ドアノブを捻るとささやかな軋みの音が立った。

 呼吸が止まり、左右の廊下へと目線をやる。誰の姿も無い。


 わたしは慎重にドアノブを回し、扉をゆっくりと押し開いた。長らく使われていなかったからだろう、金具が鈍い軋みをあげたものだから、またも驚きに呼吸を見失う。

 

「……ひどいな」


 物置部屋の内部は想像よりも輪をかけてひどい有様だった。

 わたしの手元で踊るろうそくの明かりが照らしだしたのは、灰色の世界とほのかな明かりを受けて暗がりへと先細りに伸びるわたし自身の影。


床の上に積もりに積もった埃は積雪のようではないか。

 手元の明かりは、室内に吹きこんだ風に舞う埃の群れをも容赦なく照らした。

 物置部屋のあまりにもな有様に出直すことも一時考えたが、侵入を誰にも気付かれていないだろう今この時こそが絶好の好機であると思い直し、わたしは寝間着の袖を口と鼻に押し当てて進むことに方針を決めた。もはや変更も揺るぎも無い。

 

 灰色の床上へと一歩を踏み出すと、わたしの履くスリッパの痕がくっきりと残った。まさか、雪じゃあるまいし。思わず口の中でそう呟く。

 

 色褪せた木組みのテーブルへ歩み寄って平手で埃の山を払う。

 舞い散る埃に顏をしかめながら、手に持つろうそくをそっと卓上に置いた。


 暖色にぼんやりと照らされた物置部屋を改めて見まわした。本棚には大きな蜘蛛の巣が張り、その主も死んで久しいのだろう、糸もどこか埃っぽく垂れている。

 そばには胸像が数体並んでいた。父が着用したものだろうか? 人の胴体を象ったそれら木像は鎖帷子を着用していて、頭部は騎士の兜で隠され、面を覆われている。机の上には開かれたままの地図、そばには所々が焦げついた薄汚れた盾。


 この部屋の全ては灰色に包まれていた。

 音も無く、まるで両親の思い出が眠る墓所だ。

 

「……じっとしてもいられない。手早く探さないと」

 

 わたしは何も、どうにも眠れぬ深夜に暇を持てあましたのを理由にして自宅の探索を始めたわけではない。

 アーデルロール王女が父に向けて言い放った〝悪竜殺し〟の二つ名がどうしても気になり、その興味と感心は何をもっても振り払えず、また薄らぐこともなくしてどうにもこの頭を去ってゆかないのが原因だった。


………………

…………

……


 歴史を振り返る。


〝悪竜殺し〟の名が世に知れ渡ったのは今より十五年も前のある事変が切っ掛けだった。その騒動の名は『ハインセルの没落』あるいは『<ミストフォール>』と呼称をされる。


 十五年前、わたしが生きるリブルス大陸の北部地域には<ハインセル王国>という名の大国が存在していた。その版図は広く、王国は隆盛を極めたが、ある日突如として湧いた霧により数夜のうちに没した。

 王国を襲った霧はひどく濃かった。霧より現われる魔物は濃霧の度合いに後押しをされたかのように強く、ハインセルの誇る勇猛なる騎士や戦士は一人、また一人とその命を暴力に摘まれた。

 この霧は自然的に発生したものではなく、意図的に噴出をさせられたという意見があがり、実際のところそれは真実だった。


 元凶は一匹の竜。

 人よりも上位の存在である竜が霧を呼び、災いをもたらした。

 歴史に類を見ない、未曾有のことだった。霧を人為的に噴出させるなど神以外の何者にも成し得ない業であると誰しもが思っており、この世界ルヴェリアに生きる者が霧を呼んだなどと……、それはまさしく伝承に語られる〝霧の大魔〟と同じことをその者はやってのけたということになる。


 光の五神を信奉し、闇の三神を嫌悪する世界の最大宗教〝五神教〟と、悪しき霧とそれに連なる魔物の消滅を追求するルヴェルタリア古王国は、黄金のハインセル王国を飲んだという霧の噴出を大いに恐れ、同時に素早い対応の決断を下した。


 が、彼らの下した決断は解決には繋がらなかった。

 大海を越え、聖王国とルヴェルタリアからやってきた選りすぐりの勇者らは、その全員が尋常ならざる霧に飲まれ、死んだのだ。

 

 

 勇者らを死体へ変えた魔物の主、霧を招きし竜は自らを『悪竜イグヴァラーン』と名乗った。闇夜のごとくに暗い翼を広げ、悪竜は言った。

おごった王国の滅亡は始まりに過ぎない。古い霧は大陸を余さず飲み、黄昏の色をもって世界を染めるだろう』、と。


 国を失ったハインセルの民らが逃げ延びた先はわたしたち家族が籍を置く国、マールウィンド連邦だった。多数の小国家や民族が手を取り合って築かれたマールウィンド連邦が弱者を見放すことは決してない。大総統を筆頭にした連邦の上層部は迅速に行動・決断を下した。

 多くの戦士や冒険者の内より、連邦は選りすぐりの勇者たちを抜擢したのだ。この時の彼らは聖王国とルヴェルタリアの勇者らが先に死していたことをまだ知らなかったが。


 ハインセルの滅亡に際し、幸運により命を拾った亡国の騎士。連邦所属の名うての冒険者。彼らは互いに引き合わされ、総計五名で構成をされたパーティは霧の領域へと足を踏み入れ、苦難の道程の果てに悪竜イグヴァラーンを討つことに成功した。

 人類の平穏を脅かし、ひとつの王国を滅ぼした悪しき竜。その心の臓に刃を突き立てた英雄の名はニルヴァルド、またの名を――〝悪竜殺し〟。


 人々に〝悪竜殺し〟とは何者かと尋ねれば、そこにはきっとニルヴァルドの名が返事として聞こえるだろう。それがわたしの……世に生きる誰もが常識と捉える、十五年前に起こった<ミストフォール>の顛末だった。


………………

…………

……

 

 アーデルロール王女は父フレデリックを向き、『〝悪竜殺し〟のフレデリック様』と確かにそう呼んだ。

 

 どうして彼女は父をその名で呼んだのだろう。


 父は確かに剣の腕が立つ。

 村の近辺に限定される小さな範囲ではあるが、単身で治安の維持を受け持つ連邦所属の騎士として、そして一人の剣士として申し分ない実力の持ち主であると、息子として多少のひいき目はあるがわたしはそう考えている。

 しかし、それは決して竜を凌ぐほどではないはずだ。


 竜の鱗はただ鉄を鍛えただけの凡俗な刃では決して傷つかない。

 万軍の剣を弾き、大火を浴びようとも何ら影響の無い堅牢な生物、それが竜族。


 フレデリック・フォンクラッドという男が過去に本当に竜を――あの悪竜を破ったのだとするのならば、その証となる特別な何かがこの家のどこかに残されているのかも知れない。

 そうしてわたしは、誰が訪れる事も無い物置部屋に踏み入ろうと思い立ったのだ。




 

「どの鎧もしっかりしているように見える。磨けば問題なく使えそうだな」

 

 甲冑や鎖帷子らは鈍い輝きを放っている。そういえば父はかつて冒険を経験した過去があるとわたしへ向けて言っていた。

 それこそが十五年前の事件のことなのだろうか?

 この鎧や兜は、父の代わりに恐ろしい爪や鋭い牙を受け止めたのか?


 床に転がっていた簡素な鉄の兜を拾い上げる。

 埃を手で払えば、それは熱によるものだろう、一部がひどく黒ずんでいた。

 

「……父さん」

 

 ここにはわたしの知らない父の背中があった。

 積もった埃の感触を指に感じながら、意を決してクローゼットを開いてみれば何着ものローブがずらりと並んでいた。

 甲冑と違い、わたしの目の前にある魔法使い用のローブの数々には埃は無く、おろしたてのような鮮やかな色合いを維持している。


 指先で袖口に触れた。絹のような感触がわたしの指を流れるのを感じた。

 真横のガラスケースには杖が収められている。十歳のわたしの背丈と同等か、もしくはほんの少し上回るだろうか。大きな杖だ。

 木製の杖は桐のように白く、渦を巻いた先端部からは鈴が垂れている。おそらくは母の物だろうと想像した。遠い日の父の横に母が立つ。

 

 棚の縁を指でなぞる。埃が拭われ、一筋の線だけが残った。

 わたしはいつしか足音を忍ばせることを忘れていたが、積もった埃が新雪のように足音を隠していた。

 

 目線を隣のクローゼットへと移す。

 わたしの知らぬ過去を閉じ込めているであろう扉を、音を立てぬよう慎重に開いた。鈍い輝きが見えたが、しかし影が濃く、目を細めても見えない。

 わたしはテーブルに置いた明かりを取りに戻り、開いたままのクローゼットへと寄った。もはや床板の軋みは気にも留まらなかった。

 

「これは……すごいな」


 思わず息を飲んだ。そこには数々の見るに鋭い剣が立てかけられていた。

 複雑な装飾を施された剣。儀礼用だろうか、薄い刃の向こうが透けて見えているものもある。

 柄から剣身まで、その全てが錆びに覆われた一振りも目に入った。赤錆びだらけの、剣とも呼びがたいこの武器が使い物になるとは信じられなかった。

 

 今はただの子供に過ぎないわたしだが、眼前に並べられた剣の数々は、田舎の騎士が所有をするには相当に身に余る一品に思えてならない。分不相応というものだろう。

 てらてらと輝くろうそくの明かりを受け、剣の刃が妖しく光る。

 これらの剣ならば、堅牢な竜の鱗でさえも容易に切り裂けるように感じられた。過去の父がただものでないことは、目の前の数々の武具を見れば容易に想像が出来た。好奇の火がわたしの心をくすぐる。わたしはもっと古い秘密に触れてみたくなった。

 

 と、わたしの足が止まった。棚の列が途切れていたのだ。

 秘された過去が眠る物置部屋だが、とうとうその全てをわたしは目にしてしまったらしい。好奇心が高まる一方だというのに良いところで終わりとは。どうやらこの夜更けの冒険も終わりらしい。


 父が表の歴史に語られぬ真の〝悪竜殺し〟であった証拠はついに見つけることは叶わなかったが、わたしの両親が並々ならぬ冒険を越えた人物であることは、この部屋に保管された物品の数々から感じることができた。


 両親らの足跡に言葉に出来ぬ満足感が胸に湧き、また彼らの息子であることにわたしは誇らしさを覚えた。

 明日の朝、朝食の席で父らと顔を合わせれば、二人の顏が普段よりもなおのこと輝かしく見えるかも知れない。

 

 一度も踏み入れることのなかったこの部屋は全て見た。そう思い、足を入口へと向けると何か固いものがわたしのつまさきと接触した。

 

「いたっ……。なんだ?」

 

 屈んで見れば、それは木組みの宝箱だった。

 アーチ型の上蓋は高く、わたしの膝までの全高がある。

 これほど大きな箱にどうして気付かなかったのだろう。物語に語られるような武具の数々に目を奪われ、暗がりに潜んでいたこの箱が目に入らなかったのか?


 明かりを近づけると、宝箱には立派な錠前がくくりつけられていた。

 だが、その鍵は外されている。箱は自身が開かれ、身の内に隠す秘密をさらけ出す瞬間を今か今かと待っているようにも見えた。

 

 わたしはしばし逡巡しゅんじゅんし、確かな怪しさをにじませる箱の前に屈みこむと意を決し、大仰な上蓋へと手をかけた。

 外見は簡素なチェストだったが、内側にはビロードの布が敷かれていた。深い紫の布は厚く、指ざわりが良い。上等な品だと判断するにはそれで十分だった。

 高価な布は何かを包んでいる。細長い何かを。

 

 わたしは喉を鳴らした。無性に心が急いた。

 中身を見もしていないのに指先は緊張に震え、ゆっくりとその封を解いていく。

 

 まず、銀色の鍔が目に映った。

 観賞用に凝った意匠があるわけではない、世にありふれた剣の鍔だ。

 柄頭は丸く、深紅の宝石が埋め込まれている。宝石の覗く穴はアーモンド形をしていて、何か恐ろしい魔物の瞳に見えた。

 

 秘密を覆うビロードをさらにめくり、取り去っていく。

 この正体が剣であることには鍔を見た時に既に気付いていた。

 

 銀色の剣がろうそくの明かりに照らされる。

 刃の根本から切っ先へ向けて布がめくられるほど、まるで剣が鳴くようなただならぬ気配を背中に感じた。

 

『この剣を握りたい』


 わたしはビロードの布から指を離し、手を震わせながらも剣へとそっと近づけていった。


『もう後少しで届く』


 指先を近づければ近づけるほどに、わたしの胸のうちの剣を求める感情が狂おしく、自制し切れない炎となって心を焦がす。


『あと十センチ足らずだ』


 あの柄を握れば、どれだけの幸福がわたしを満たすのか予想もつかなかった。

 柄頭に埋められた赤い宝石がわたしを見つめ、催促をしているようだ。


『この剣がわたしを呼んでいる』


 もっと近くへ。

 その指で私を握れと――。

 


「そこまでだ、止まれ」


 指先が触れる間際、わたし以外の何者かの手が剣を横から掴み、宝箱の底より持ち上げてしまった。

 愛した恋人を奪われたように思え、憎しみにも似た感情を胸の内に燃やしながら、わたしは目線を上へと掲げた。

 するとわたしと同じ青い瞳が見下ろしていた。父だった。

 

「夜中に何をしてるんだ?」

 

 父が剣を背に隠し、わたしを見つめている。その表情は冷たく、まるで刃のようだ。

 わたしは答えられない。情けない呻きが喉から漏れ出た。

 胸中にある言葉はひとつ。何故剣を私から持ち去るのだ? ただそれだけだ。

 

 何故、足をぶつけるまで気付きもしなかった木箱に興味を大きく惹かれ、

 何故、剣の宝石とその刃を見た途端に、この心に強い独占の炎が灯ったのか。


 そんな思考には考え到らない。

 あの剣を手に握りたい。

 わたしの物にして、日が昇り、月が夜明けの前に沈むまでじっと眺めていたいと、それだけがわたしの頭を占めていた。

 

「答えられないのか? ……ユリウス、聞いているんだろう」


 急速に押し寄せた興奮の熱はすぐさまに冷えた。

 父が剣を掴んだ瞬間は、それこそ相手へ飛びかかり、力尽くで奪おうという恐ろしい考えがわたしの頭を走ったのは覚えている。その瞬間の感情の波を思い返すだけで、背筋が冷たくなるようだった。


 父がわたしを訝しんでいる。

 彼の求める答えを……。いや、取り繕った言葉を今の彼は信用しないだろう。飾らない言葉こそがこの場は必要だった。

 

「……ごめんなさい」

 

 わたしの言葉に父は何のリアクションも起こさない。わたしはそれを、続きを促すサインだと受け取った。多分に都合の良い解釈である自覚はある。

 

「アーデルロール王女が父さんを〝悪竜殺し〟と呼んだのを覚えてる? 僕はそれがどうしても気になって……。僕の知ってる〝悪竜殺し〟は亡国ハインセルの騎士ニルヴァルド。父さんとは名前も経歴もまるで違う。けれど、王女はそれが当たり前の真実であるように父さんをあの英雄の二つ名で呼んだんだ」


 父は語らない。わたしは言葉を続ける。

 

「もし、僕の知らない真実があるのなら、この物置部屋にしか無いんだろうと思った。時間は……何もこんな夜更けじゃなくて良かったなって、今は思うよ。でも居ても立ってもいられなくなって、事を急いだのは僕が悪いと思う。父さんと母さんの過去を見てしまったのも悪いことだ。ごめんなさい」 言葉はとめどもなく溢れた。

「どんな罰でも受ける。だけど、僕を息子と思うのなら、僕が知る<ミストフォール>の英雄と、王女の知る十五年前の英雄。どちらが真実なのか、どうか教えてほしい」

 

 父の目を真っ直ぐに見た。父は怯みもせず、また、逸らしもしなかった。

 

「……王女の言葉が真実だ」

 

 闇の中にあってなお、白刃が光る剣を父がくるりと回す。

 彼は剣身に映る自分の顏をじっと見ている。過去を覗いているような、思いつめた顏つきだ。

 

「十五年前の話だ」 父が静かに語り始めた。

「父さんは……母さんと大男のギュスターヴ、そしてまだルヴェルタリアの一王子だったアルフレッドとの四人で悪竜を倒す旅に出た。連邦に頼まれたわけじゃない、亡国に助けを乞われたわけでもない。ただ、どうにかしなきゃって一心で勝手に始めたことだ。大変で長い旅だった。最後に辿り着いたある谷には一匹の竜が居た。それが悪竜だ。彼は人の言葉を理解し、大きな体とその翼で大きな鏡を隠していた。鏡からは霧が溢れていて、これ以上霧が漏れ出る前に封印なり割るなり……とにかくどうにかしなきゃいけなかった。けれど、悪竜もまた退くわけにはいかなかったんだ。彼にも理由があった。結局は……剣に訴えるしかなかったな」

 

 剣先を床へと向け、赤い宝石と父の視線とが同じ高さになる。

 

「彼は最後にある言葉と二つの剣を遺した。その時にもらった剣の片割れがコイツさ。『悪竜剣イグヴァラーン』。あの竜の名を剣に与えた。……彼は理性的な竜だったが、同時に邪悪だった」


 不意に父が、剣の柄頭にはめ込まれた赤い宝石をわたしへと向けた。

 なるほど、この宝石は話を聞いた今では竜の瞳のように見える。

 深紅の石に力を感じた。意識が吸いこまれていくような錯覚を覚える。

 

「ぐらりとするだろ? こいつは正しく魔剣だ。どこか目指す場所があるのかな、剣は人の心を魅了し、他人の手から手へと渡ろうとする」

「それで宝箱に収めていたの?」


 剣はわたしの視界から隠されていたが、心はあの姿を見たいと強くうずいていた。


「ああ。ユリウスが取り除いた紫の布は、イルミナ・クラドリンに用意してもらった退魔の布だ。あれに包まれている限り、この悪竜剣は眠り続ける」

「……目覚めてしまったら?」

「さあなあ。また包んでおけばその内に眠るんじゃないか?」

「そんなことで終わるのかな」 わたしは俯いた。

「悪い想像をしたって仕方がない。それに布をほどいたのはお前なんだから、責任を持ってほしいね」


 わたしは返す言葉も無く、ただその場でうめいた。

 それにしても、と父が不思議そうな表情をする。

 

「箱は最初からここにあったのか?」 父が訝しむ。

「ええと、どうだったかな。実はあんまり覚えてない。その、装備品に夢中になってたから」

「そうか。……ま、俺の息子だからな、剣やら鎧に目を奪われるのは仕方ないか」


 気付けばわたしとそっくりの黒髪を持つ男は笑っていた。

 歴史に語られぬ旅を越え、長いあいだ剣を振り続けて固くなった手をそっと息子の頭上に乗せた。

 

「ユリウス、お前はもうこの箱と魔剣を知ってしまった。一度知ってしまえば、お前も秘密の守り人になる他に道は無い。この剣のことは他言無用。コールやビヨンちゃんにも、勿論アーデルロール王女にも。それとあまり物置部屋には来ない方がいい」

「埃っぽいから?」 わたしは訊ねた。

「それもあるが……あれがな」


 父は親指の先で、数々の剣が保管されている棚を指した。

 

「崩れでもして怪我したら危ないだろ? 俺と母さんの若くてカッチョイイ頃が知りたくなったのなら、どっちかに声をかけて一緒に来ることだね。埃っぽいから父さんはお断りだけど。さ、知りたいことを知れたのなら部屋へ帰りな。少しでも眠るといい」


 何年のあいだ閉め切られていたのだろう。

 色のくすんだカーテンを開くと、外では夜の黒がほんの少し白んでいた。朝の訪れが近いのだ。

 薄い闇の中に浮かぶ木々の影をひとしきり眺め、後ろを振り返ると父がいわくつきの剣を宝箱へと収めたところだった。

 そのまま室内履きで箱の側面を何度か蹴りつけ、物置部屋の奥まった闇の中へと宝箱を突っ込んだ。

 

「さて、と。ユリウス。事情を知らなかったとはいえ、この剣を見ることは実は我が家では大きなタブーなんだ。そんなもんだからお前には厳罰を命じる」

「ば、罰って?」

「……ふうむ……そうだな。一週間、イルミナと母さんの言葉には絶対服従。傍若無人の権化のイルミナに下僕が手にはいるぞと教えてやれば、昼も夜も無い労働の日々を送れるだろう。大人しく受け入れろよ」


 わたしは肩を落とし、そのまま父と連れ立って物置部屋を後にした。

 父が扉を閉じると物置部屋には再び静寂が訪れた。わたしの残した足跡も、年月の経過と共に降り積もっていく埃が埋めていくのだろうか。

 

「おやすみ、父さん」

「ああ、また明日。ってももう何時間も無いけどな」

 

 就寝を告げ、自室へと戻ると窓の外には朝焼けが見えた。二段ベッドの上段では妹がすやすやと眠りこけている。


「眠る前にすることがあるな」

 

 わたしは本棚に収まっている一冊の本に指をかけた。

 題は『ルヴェリア近代史』。わたしが歴史を学び、また、父の栄光の記されぬ書だ。

 もう何度も見たページをめくり、十五年前の災厄<ミストフォール>の頁を開き、ペンを手に取る。


〝悪竜殺し〟ニルヴァルドの名に横線を引き、その上にフレデリック・フォンクラッドと書き加えた。

 わたしの誇り。秘された英雄、フレデリックの活躍をわたしは小さな書に刻んだ。

 

 

 

 

 その夜、フレデリックの心中には不安の風が吹き荒れていた。


「何故だ?」


 どうして息子が魔剣を見つけることが出来たのだ?

 フレデリックは悪竜を征した後、魔剣を携えて何人もの魔法使いの下を訪れた。この剣は災厄を呼ぶことを知っていたからだ。


 やがてイルミナに助力を仰いだフレデリックは、魔法使いが用意した退魔の布に魔剣を包むとそれを眠りに就かせ、不可視の宝箱を用意すると魔法の護りを施した。そして誰も訪れないよう、無意識に人が注意を向けないという呪文を施した物置部屋の奥深くへと魔剣を仕舞い込んだ。


 その記憶は確かだ。最愛の妻であり冒険を共にしたリディアもそばに居た。


「……イグヴァラーン……」

 

 悪竜は息を引き取る間際に予言を遺していた。


『我が憎悪と叡智を封した髄玉ずいぎょくの眼。世が暁を見るとき、平穏の時は終わる。我は滅びと黄昏の先達に過ぎないのだから。霧はまた現れる……彼の者の目覚めとともに……』


 鱗を壊され、片目を潰され、心臓を抉られた悪竜はそう言い残すと剣に身を変えた。


 フレデリックは不安に押しつぶされそうだった。

 この場にアルフレッドかギュスターヴ、そのどちらかが居れば心強かった。

 だが、親しき友は避けられぬ運命に北の国に封じられ、狼の王は因縁の地ハインセルへと発っている。


「無い物ねだりをしても仕方がない、か。俺が守るしかないな」


 彼は守護の決意を固め、拳を握りしめた。

 

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