二章10話 灰と緑
模造の武器を携え、北国の王女と共に現われた父の目的はやはり毎日のように行っている剣の稽古だった。
古い友人であるギュスターヴに頼まれ、また、自身も親密な付き合いのあったアルフレッド皇太子の娘へと稽古をつけることに高揚していたのだろう。父の笑顔は輝かしく、まるで年頃の青年のようであった。
「王女さんよお、学校の連中に何を言ったんだ? ご隠居みたいにのんびりしている怠け司祭があんなに慌てるって相当だぜ」
「さあ? あたしは知らないわよ。あたしはただ、あんたら二人を呼び戻すようメイドに頼んだだけだもの」
「そ、そう……」 王女が名指しで現地人を呼び出すものだから、彼女に仕える従者らは何事が起こったのだろうかと思い、確実にわたしたちを呼び戻せるような文句を考えたのだろう。
「とにかく火事じゃなくて良かったね、コール」
「いや、ほんとにな」 コルネリウスが安堵に胸をなで下ろした。
「父さん、今日はどこで稽古をするつもりなの? 王女が居るなら、うちの庭じゃ人の目を引くかも知れないよ」
「もう引いてるぜ、相棒」 と、友が言う。
村の広場にはまばらな人影があったが、新聞や雑誌の中でしかその姿を見たことがない、人によってはただの外部の人間に見えるであろうアーデルロール王女に多少の興味を抱いているようだ。
それもそうだろう。街のような大きなコミュニティならともかくとして、この小さな村で見慣れぬ人間がさぞ興味深そうに辺りを見回していたら否が応でも注意は引く。
そんな彼女を無意識のうちにわたしは観察していたらしい。静かな懸念を浮かべていたわたしへ「何見てんのよ」と王女がガンをくれ返す。ならばと父へと目線をやると、彼は遠出を楽しみにする子供の目つきで丘を眺めているところだった。
「橋の辺りでやるとするかな。ユリウスとコールがイルミナの水死体を見つけたところだって言えば分かりやすいか?」 にこやかに父が言う。
「あの人はまだ生きてるよ、父さん」
我が家に居候をくれているイルミナ・クラドリンの不敵な笑顔がわたしの脳裏を横切った。彼女は何を目的にして、この
わたしやビヨンのような、魔法の素人にそのいろはを仕込むことに特別熱を上げているわけでもなく、かといって田舎に特有の穏やかな景観と時間を楽しんでいるわけでもない。
彼女の自称の通り、真に高名な魔法使いであったならば、何かしらの不可思議な行動や外部からの接触がありそうなものだが。
そういったものも別段に感じず、また、一風変わった訪問者もない。そんなイルミナという女自体がわたしの中で不思議な存在に定義されつつあった。その様たるやまるで雲のようである。
わたしは来た道を振り向き、徒労に似た気持ちで草葉を踏みつけ、見渡す限りに無制限に広がる丘を再び歩いた。
森や街を越えて広がるこの丘の果てにはいったい何があるのだろう。
この土地を総括する国家、マールウィンド連邦国の首都か、それとも全く別の地形か、視界の果てに見える灰色の山脈か。
いつかの将来。まだ見ぬ大地にこの足で立てる日が来るのだろうかと、そう思うと胸のうちに熱いものを感じた。
遙か遠くに横たわる、万年雪をその頂上部に頂いた山の峰を見ていると整った横顔がわたしの視界に入った。アーデルロール王女だった。
「はー……」
感嘆のか細い息を吐き出す彼女は、わたしたちの足よりもずっと小さい虫たちや鳥の声に耳を澄まし、風に揺れる緑の木々、そして抜けるような青空を見つめている。
丘一面に広がる新緑の大地と王女の特徴的な若草色の髪。
今この瞬間に見る彼女の横顔は目が覚めるような美しさをたたえていた。
「こういった一面の緑は新鮮ですか?」
思わずわたしは彼女の横顔へ声をかけていた。
考えた言葉ではない。頭で言葉を組み立てるよりも速くにこの口は声を発していた。
「そうね。……って何を気軽に声をかけてんのよ。ユリ……黒髪」
王女が目を細め、不審者と相対したような顔と声でわたしを睨む。
様子を見た限りの判断だが、彼女に心を許してもらう日は遠そうに思えた。わたしは無意識に肩をすくめるのを我慢し、彼女の夕焼け色の瞳を見て言った。
「北のイリル大陸は常冬の大陸と学びました。白い大地からやってきた王女にはこの緑の生い茂るリブルス大陸が、いったいどう映るのかと思いまして」
「短く言えば綺麗ね」 わたしの言葉にアーデルロール王女は本当に短く答えた。
「ありがとうございます」
王女の瞳が再びわたしを射抜く。
「何であんたがお礼を言うのよ? あんた、大陸の創造者なわけ?」 王女が片眉をあげ、茶化した声音で言う。
「なんてね。そうね……ちょっと話したい気分だから言うわ。独り言だと思って聞きなさいよね。……故郷ルヴェルタリアの空は大体曇り空よ。王都を囲う真っ白くて大きな防壁の外には真っ白な雪が積もっていて、古い城下街には千年ものの灰色のレンガが敷かれてる。そうなると国の色合いはどうしても地味になるから、こうやって目の前の世界の全部がいろんな色で満ち溢れてるのは新鮮で、とても綺麗だわ」
「……ありがとうございます。本当はヴィルヘルム王子に尋ねようかとも思ったのですが、王女の感想をどうしても聞きたいと思いまして」
「独り言って言ったじゃないのよ。ふーん……? 私が気になるの?」 からかう顔で王女が言う。
「まあ、はい。とても」 その顔に向けて、わたしは素直に返事をした。
途端、王女が吊り目がちなその目を見開き、白い肌に少しだけ赤みが差したような気がした。
「……あっそ」
そう言うと、彼女はふいと豊かな緑へと目線をやったきり、こちらを見ることはなかった。
わたしは自身の横腹をコルネリウスの肘で何度か小突かれるうち、水死体同然に漂着していたイルミナ・クラドリンを発見した、あの石橋のたもとへと辿り着いていた。
◆
それぞれに木製の武器を手に取り、型を忘れぬように素振りを繰り返し、毎回そうしているようにわたしたちは父フレデリックひとりを相手に武器を振るった。
わたしが破れ、コルネリウスが打ち倒され、満を持してアーデルロール王女が二刀を携えて父と対峙する。挨拶は頭を互いにぺこりと浅く下げるだけ。両者の合図はアーデルロールの踏込だった。
王女の二刀の扱いはやはり同年齢の少女とは思えぬ鋭いものだった。
その足さばきは複雑でいて、まるでダンスをするかのように縦横無尽に走っている。長剣と短剣、リーチの異なる二振りの武器を器用に扱う彼女はどこまでも軽やかだ。
「っ! はっ! さすが、風のように速いね。アルフレッドの娘なだけある」
「まだまだこんなもんじゃ、ないです、よ! りゃああっ!」
相手どる父は汗ひとつかかず、いつものように涼しい顔で回避し、盾で攻撃を受けている。王女は『このままでは自分が消耗するだけ、それならば』と、そんなことを考えたのだろう。汗に濡れた髪を額に張り付けた王女の唇が何事かを呟いた。
瞬間、王女の足元を中心に風が巻き起こった。
それを境にしてアーデルロール王女の俊敏さが倍速に増す。戦いを見つめるわたしとコルネリウスの下へと強烈な風が吹き付けた。
「やっぱりあれは……」 目元を腕でかばい、わたしが言う。
「魔法だな。け、全く便利なもんだ」 コルネリウスが言葉を継いで答えた。
昨晩、我が家に居候をしている魔法の師イルミナへ、身体能力を向上させる魔力の種類についてわたしは訊ねていた。正確には王女の強さの秘密を。
思い出す。アーデルロール王女は風の魔力をその身にまとい、自身の行動速度を速めているのだと、わたしの質問の意図を素早く読み取ったイルミナ・クラドリンは相変わらずのニヒルな笑みを浮かべて答えたものだった。
魔法使いの涼やかな声が記憶野に木霊する。
「王女が己の四肢にまとった風はさながら推進剤のように炸裂し、術者である王女自身を強烈に加速させる。一見して純粋なパワーアップに見えるこの魔法。当然の話だがやはりデメリットはある。まず、その風のごとくに素早い状態は決して長続きはしない。無理な加速は身体を痛めるのだ。術者自身、そんなことなどはとうに承知の上だろう。だからこそ彼女はそのスピードにものを言わせ、眼前の相手との短期の決着を狙う。いいか、ユリウスよ。勝ちたければ亀のように防御を固めて持久戦による勝利を狙え。絵は地味だがどうしても勝利を得たいのなら何でもやれ。例えば目つぶしや……おい、最後まで聞け」
一陣の風と化したアーデルロール王女が自身の速度に振り回されることなく父の首や腹部を狙う。父は彼女の芸当に驚き、普段は眠たげな目を見開いていた。
「これは……風のエンチャント! 驚いたな、アルフレッドに教えてもらったのかい? 懐かしいね。若いころのあいつとやり合ったのを思い出す」
わたしとコルネリウスが敗れ去った、加速による二刀の乱舞を父はいとも容易く捌いた。盾で受け、素早く振るった剣で王女の剣をすくい、弾き飛ばす。
そして彼女の白く細い首筋に、木剣の先をぴたりとあてがってみせた。
アーデルロール王女が「くっ……」と、小さく苦悶の声を漏らす。
「……参りました」 息を弾ませたままに王女が小さく言った。
アーデルロール王女の目線はあくまで父を見つめている。髪の端から滴る汗が彼女の消耗を証明しているようだった。
「強いよ。アルルちゃんには剣の才能がある、きっと父親譲りだな」
「でも、負けました」 悔しそうにアーデルロール王女が呟く。
「今はね。いつかはアルフレッドや俺を追い抜くさ。そうやって世代は変わっていくもんだ」
「……ありがとうございます、おじさま」
「どういたしまして。でも、ギュスターヴを抜くのは難しいから覚悟しておくといいよ、はは」
うつむいた王女だが、わたしは彼女の口元が嬉しそうに歪んでいるのを確かに見た。自身より腕の立つ者からの賞賛を受けて喜ばない者はそう居ないだろう。だから、彼女の隠しきれない喜びの感情には納得がいった。
「親父さんが他人を誉めるなんてな」 コルネリウスが言う。
だが、この胸に去来する苦く重い感情はなんだろうか。
吐き出し難く、許容も出来ない。
「俺らは直弟子だぜ? なのにぽっと出の王女サマが真っ先に誉められるってのはこう、釈然としねえな。嫉妬しちまうよ」
「嫉妬?」 わたしは聞き返した。
短い言葉だが、なぜだか意識を引かれた。
「うらやましいー! とか、俺を見てくれ! っていう、こう……やな感じだよ。上手く言えねえけどさ。ユリウスも感じたことあるだろ?」
「僕は……」
これがその嫉妬なのだろうか。
父に誉めの言葉を受ける王女の位置、そこにはわたしが居たかった。
わたしとコルネリウスという二人の弟子をこそ、父にはもっとよく見て欲しい。
胸の内を焦がすような、およそ飲み下せない黒い炎が揺らめいた。
その熱い先端がちろちろと脊髄を炙っている。
「まさに今がそうだよ。なんだか胃の中を戻しそうだ」
「正直だな。……よお、相棒」
コルネリウスが木の槍を肩にかけ、言う。
「なんだい? コール」 わたしは俯きがちに言った。
「あの王女より先に親父さんに勝とうぜ」
「……うん。これは譲れないね」
父の広い背中を見つめ、わたしとコルネリウスは互いの拳をつき合わせた。
◆
稽古の帰り道、街道に沿った木立の傍に、見慣れた二人の姿をわたしは認めた。
外側が跳ねた前髪を揺らすビヨンと、母譲りの栗色の髪のミリア。
「おかえり。もう学校が終わる時間なんだね」
「ユーリくんもお疲れさま。大変だった?」 談笑をしていた二人がわたしたちに気付き、声をかけた。
稽古の内容を振り返る。アーデルロール王女の剣の前に、わたしは今日も膝を突いていた。
「まあ……大変だったかな」 言いつつ頭をかいた。
「そっか。ねえ、これからは学校より稽古が優先になっちゃうの?」
ビヨンに問われてわたしは王女へと視線をやる。
父と話す彼女の横顔に、不機嫌な色は見られない。
「それは困るな、学校には勉強をしに行っているんだからね。剣も良いけど、両立が大事だよ。曜日を決めたらどうだろうって相談をしてみるから、ビヨンは心配しないで」
「うん、わかった。二人がいないと……ううん。また明日も学校行こうね」
言うとビヨンは、そそくさと妹との会話へ戻った。
そこに不自然さを感じ取り、なぜだろうと理由を求めて周囲を見てみればアーデルロール王女が人によっては威圧的と受け取る目つきをもって、おとなしそうなビヨンの背中をじっと見つめている。ビヨンは王女の鋭い目線に、萎縮や緊張を感じてしまったのかもしれない。
「ねえ、あなた」 王女が遠慮もなくビヨンを呼ぶ。
「ひっ! あ、ね、ねえ、ミリアちゃん、呼んでるよ」
ビヨンが妹の陰に隠れるが、豊かな後ろ髪がどうしようもなく妹の輪郭からはみ出している。
「妹ちゃんじゃないわよ。金髪のあんた」
「俺か?」 輝く笑顔でコルネリウスが振り返った。
「脳みそ筋肉はお呼びじゃないわよ! そこの金髪の女の子。出てきなさい」
「は、はひ……」 ビヨンがおずおずと顏を出す。
一方でアーデルロール王女は気恥ずかしさなどは微塵も感じていないらしい。
公の席に出席したこともあるのだろう。彼女は気後れを見せずに、おびえを見せるビヨンへと白い手をまっすぐに差し出した。
「私はアーデルロール。ルヴェルタリアの王女って知ってるみたいね? でも、肩書きなんて気にしなくていいわ。私、同年代の子供の友達が居なくって。子供が身近に居るっていうのが実は結構嬉しいの。良かったらアルルって呼んでくれて構わないから。友だちになりましょ?」
「え、ええっと」
「いいから。ほら、早く手をとりなさいよ。誘いはしたけど結果は決まってんだから」
「わわ……っ」
たじろぐビヨンの腕をつかみ寄せ、無理やりに手を握ると力強い握手をかまし、王女は上下にぶんぶんと手を振った。それはもう、華のような笑顔で。
「い、いいのかなあ」 気の毒になるぐらいに狼狽しているビヨンに向かい、王女は年相応の痛快な笑顔を浮かべる。
「私がいいって言うからいいの。王女なんだから、不満を言うやつが居たら騎士を呼びつけてしょっぴいてやるわよ。さ、ミリアちゃんも行きましょう」
「どこに行くの?」 妹が小首をかしげた。
「私のおうち。お城じゃないわよ? でも、特別な家を持ってきたの。お友達だけは招待してあげるわ。ごちそうもあるよ」
「ごちそう!?」 その言葉に妹が目の色を変えた。
彼女は自ら王女のそばへ駆け寄り、天真爛漫な笑顔を浮かべ「出掛けてきます!」と、わたしと父に向けて告げると、王女と共に木々の奥で無秩序に広がる森の奥へと、足取りも軽やかに歩いていった。
「……虎穴でなければ良いんだけれど」 わたしは思わず、心配を言葉にしていた。
◆
その晩遅く、夜鳥がのんびりとした鳴き声をあげる時頃に妹はようやく家へと帰り着いた。妹は一人ではなく、グレーのコートに身を包んだ狼の頭部をもつ人物がそばに居た。彼は『私はアーデルロール王女の命に従っただけ』だと言う。
「それでは私はこれで。夜分も遅くに失礼した」
言ってハットをかぶると狼頭の男は月明かりの森へと足早に去った。
「王女の家はどうだった?」 わたしはいまいち要領のつかめない魔法書のページを、めくりながらに問いかけた。妹ががさごそと靴を脱ぐ音がする。
「木の家でね。黒い人がたくさん居て。お茶がおいしくて。すごい家だったなあ」
「そうか。良かったね」 なんだか恐ろしい気がして、妹が言うところの黒い人には突っ込まなかった。
これもまた要領を得ない、ぼんやりとした感想を聞いたわたしは、重くなりつつあるまぶたを持ち上げるために黒く苦い茶をひとすすりした。
慣れない文章を前にすると、やれやれ、どうにも目が滑る。
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