二章12話 鮮やかなりし、戻らぬ夏よ


 大陸の西に広がる大海原からやってくる風は、南海からの熱気、雲一つない空、そして目も眩むようなまぶしく暑い気候をもたらした。


 今、夏がわたしの住む地方に訪れていた。





 わたしの足元には雑貨屋の店舗テントが生んだ日陰があった。

 影の輪郭は濃く、一歩を踏み出した先に広がる灼熱の世界とこちらを明確に区切っている。


 時刻は昼食時。それだというのにも関わらず、整備された街路の上に人の姿はまばらだった。

 食事処の宅配人だけが額に汗を浮かべて道を行き交っている様子を見るに、大勢あるはずの勤め人の大半は出前で食事を済ませる考えなのだろう。視界が白熱するような強烈な日光の下に出るぐらいならば、確かに出前の方が気持ちはマシだ。


 白光りする街路を挟んだ向かいにある花屋へと目を向けた。

 店頭に設置したベンチには店主が腰掛けており、冷水に浸したタオルを額に貼りつけた顔で青空を仰ぎ見ている。

 街に人の声は無く、セミという名の、夏の盛りにだけ鳴く短命の虫がおのれの種族の子孫繁栄のため、文字通りに命を賭して懸命に鳴く声だけがあった。

 

 首だけで背後を振り返り、雑貨屋の窓ガラスから店内の様子をうかがうと、友人たちが木目の棚の上に並んだ数々の小物を見てはああだこうだと楽しげな声をあげていた。

 若草色の髪をポニーテールにひっつめた吊り目がちの少女が不細工な人形を持ち上げ、何事かを嬉しそうに言っている。薄い金髪を揺らす優しげな表情の少女が指差して何かを指摘すると、ポニーテールの少女が憤然とした様子で言いかえした。それを見て背の高い少年がさぞや愉快そうに笑う。


 夏も盛りの八月。わたしと同郷の二人の友人は北の王女の付添人となり、この地方一帯では最も賑やかな街へと繰り出していた。

 

「何もこんな暑い日じゃなくてもいいのに」 足元の日陰へ向け、わたしは呟いた。


 相変わらずセミはやかましく鳴き続けている。

 引く馬の居ない荷車の車輪を見つめ、わたしは過去へと思いを馳せた。

 

 

 

 

 ある日、わたしは父から言い渡された『処罰』に従い、我が家の一階にあるサンルームを訪れていた。

 かつては採光の良い、第二のリビングとして家族の皆で使用していた部屋だったが、今ではイルミナ・クラドリンという名の居候が占拠をしている。


わたしが彼女と初めて出会った時、イルミナは川を流れていて溺死寸前に見えた。

 水死体さながらに青ざめていた顔色はとうの昔にどこかへ隠れ、今では傍若無人といっても決して過言ではない態度で我が家の一員となっている。


 自分が魔法の訓示を授かった師だからだろう。我が家のルールと秩序を守る立場であるところの母リディアはイルミナに対し強く出れないようだった。イルミナのどのような振る舞いにも母は笑って眺めている。


 おや。

もしかすれば母は別段に嫌がっているわけではなく、ただ現状を楽しんでいるだけなのかも知れない。そして父も妹もイルミナを嫌っているそぶりを見せていない。妹のミリアに到っては、最近は遊び相手を見つけた子犬のようにじゃれついている始末である。そうするとわたしだけが不審を抱き続けているようだ。

 

 わたしは今では『家族』の一員となっているが、わたしという存在のその正体はといえば、記憶も自身の由来さえもが知れぬ人間であり、胸に刻まれた巨大な刀傷のことや過去の欠落をフォンクラッド家の人間に未だに話してはいなかった。


 そんなわたしが両親らの決定に口を挟めはしないだろう。


………………

…………

……

 

「フレデリックから聞いたぞ。お前がわたしの奴隷になると?」

 

 サンルームの扉を開くとイルミナはそこに居た。

 相変わらず彼女は全身を白の衣服で覆っている。どうして彼女はこうまで白色を愛するのだろう。


 白には始まりの意味がある。また、身の潔白とも。彼女は自身には罪は無いと主張しているのだろうか。

 思えば彼女は出会ってから今日まで、徹底して白色の装いを貫いていた。


 寝間着。

 普段着。

 余所行きの服。

 湯上りの体に巻いたバスタオル。あれはかなり官能的だった。いや、よそう。

 

「奴隷では無いです。滅多なことを言うと憲兵を呼びますよ」

「憲兵など居ないだろうに。ここいらの秩序の守護者は眠そうな黒髪の騎士殿だけだ」


 サンルームは変わり果てていた。

 家族で囲ったテーブルと柔らかな感触を返してくれた座り心地の良いソファは部屋の隅に追いやられ、あらゆる気候にあっても快適に過ごせるよう特殊な魔法を施されたガラス張りの壁面には、ぐるりと厚手のカーテンが引かれていた。

 ガラスの天井には手をつけておらず、夜になれば室内に居ながらに夜空を観賞することが出来るだろう。彼女はこういった趣味だけは良いのだ。


 カーペットの上には数々の書籍が山と積まれていた。使い古された木箱が部屋の中央に位置し、何かを執筆途中の羊皮紙と羽ペン。それと十数個のインクの小瓶が卓上に置かれていた。小瓶はほとんどの中身が空だ。

 

「部屋は片付けないのですか?」 わたしは荒れた部屋を見回しながら言った。

「そのうちやる。……そうだ。愛弟子にやらせてもいいな」


 イルミナは端正な顔立ちだ。それだけに切れ長の目が愉快そうに歪んでいるのがやたらに目につく。

 彼女の言うところ『愛弟子』とは、かつてはわたしの母の別名だったが今は違う。

 現在のその意味は、わたしの良き友人であり魔法を共に学ぶ同窓、ビヨンを指す。

 ビヨンが夜毎にわたしの家を訪れ、この整理整頓という言葉が断片さえも見当たらないサンルームで魔法の鍛錬に明け暮れているなどと……以前では想像さえも出来なかった。

 

「手足は二本ずつ揃っているように見えますが」 わたしは冷たく言った。

「何本あっても困ることはなかろう。触手を有す連中は誰しもがさしたる不自由も無さそうに楽しげにくねらせているではないか」

 

 さて、と線の整った顏にそっと指先を添え、イルミナは思案する。

 

「片付けはまた別の機会だ。正直言えば面倒だからな。おや、なんという目つきで師である私を見ている? 片付けはやると言ったろうに……そのうちな。さてさて、人を自由に扱って良いとは言われたが、しかしなあ。今進めている作業は他人の手伝いは一切必要ないものだ。素人に羊皮紙への魔法術の書き込みは至難でな。ううむ、おい、ユリウス。お前は何か面白そうな話や案を持ってはいないのか? 魔法が上手くいかないとか、そういった悩みは?」


 イルミナが茶菓子をひとつつまみ、「師匠がたっぷりと弟子の話を聞いてやる。出来損ないであればあるほど可愛げがある」と、口の中で転がしながら言った。


「僕に振るんですか。案は無いですが……魔法の方は日進月歩といった具合です。そりゃもう、ロバよりも遅い歩みですが」

「そうかい。ま、停滞していないのならそれで良いのだ。攻撃を捨て、支援の方向へと目を向けたのが功を奏したのかも知れんな。お前には人を救うような魔法が相応しいだろう。心身を癒す、温かな光の波を忘れぬようにな」


 彼女はマグカップを手に取った。音を立てて一口をすするが「まずい、ぬるい」と即座に元の場所へと戻す。

 遠目に見ても湯気の立っていないそれはとっくの昔に冷え切っていたようだ。

 

「いくつになった? ああ、年齢の話」 イルミナが口元を適当な羊皮紙で拭った。

「この間の春で十歳になりました」 その様子にわたしは顔をしかめる。

「そうか。……早いものだな。十ともなればまだ遊びたい盛りだろう。ふむ……良し、決めたぞ! 私がお前に与える命令は――」





「ユーリくん、こんなに暑い中でずっと待ってたの?」

「根性あんなあ、俺は出来ることなら冷房の効いてる店ン中から出たくなかったね」


 真横にある雑貨屋の扉が開き、魔法の効果だろう、店内のひんやりとした冷たい空気がわたしの足に掛かり少しの清涼感を得た。

 夏の装いに身を包んだビヨンにコルネリウスが夏の陽射しを強烈に照り返す街路を見て、心底嫌そうな顔をする。

 

「おかえり、二人とも。彼女は?」

「中だよ」 コルネリウスが親指で店内を指す。

「さすがにお金持ちだね。うちだったら値段を見てうんうん悩むのに、アルルちゃんは次から次にカゴに入れていくんだもん。驚いちゃった」

 

 わたしが店の中を覗き見るのと店舗の扉が再び開くのとは同時だった。

 開け放たれたドアから、愛想笑いの混じった見送りの声が聞こえる。随分と膨らんだ紙袋を片手にぶら下げた少女が涼しい店内から夏の空気へと歩み出た。

 

「なんだかんだで随分買ったわねえ。ほら、黒髪、これ」 若草色の髪の少女がわたしへ紙袋を突き出して言う。「はやく持って」


 深いオレンジ色の瞳がわたしを見ている。紙袋は見るからに重そうでいて、わたしは心中で深い溜息をついた。

 

「気に入った物はありましたか?」


 言いつつわたしは少女から袋を受け取った。ずしりと感じた。やはり重い。


「まあまあね。ルヴェルタリアでは見たことがない物がたっくさんあったわ! さあ、まだまだガンガン行くわよ!」


 わたしを含めた現地の人間が顏をしかめ、きっと砂漠の民でさえもうんざりするような白熱した陽射しの中へと、北国育ちのアーデルロール王女は躊躇もせずにその一歩を踏み出した。

 へいへい、とコルネリウスはそれでも楽しそうに笑い、ビヨンは「さあ行くか!」と意を決したように麦わら帽子を深々と被る。

 

 つまるところ、わたしがイルミナ・クラドリンから申し渡された指示とは『王女を含めた皆で、子供らしく存分に遊んで来い』というものだった。

 

「何やってんのよ、置いてくわよ」

「はいはい、今参りますとも」

 

 帽子をかぶろうともしない、北国産まれに北国育ちの王女様がわたしを手招く。

 じりじりとした熱気が肌を焼くような真夏の街路。冷房の効いた店内からこちらを見つめる店員を複雑の気持ちでちらりと見返し、もう一度ためいきを吐き出してわたしは王女の後を追った。

 




 アーデルロール王女の足取りは風に舞う蝶のように軽やかで、一方でわたしとコルネリウスの歩みは餓死へ至るまでおよそ五分前だろうと悟ってしまったカメのように重かった。

 カメを演じるのであればこの歩みは止めるべきであり、日蔭で小休止のひとつでもしたいところだったが、生憎といってわたしとコルネリウスの首には目に見えぬヒモがくくりつけられており、それを握る手はアーデルロール王女のものであった。

 

「なあ、相棒」 早くも額に汗したコルネリウスが言う。

「なんだい?」

「遊ぶのは何もこのクソ暑い日じゃなくたっていいじゃないか、なんて思わねえか?」

「ごめんね。それはさっき僕も思ったよ」


 わたしの頬を汗が流れた。


 毎朝に配達される新聞には今日明日の気温の予報が記載されているのだが、本日そこに記されていた気温予想の数字は思わず二度見をしてしまうほどのものであった。

 38℃。人間が出歩いていい気温であるのか正直疑わしい数値がわたしの目に飛び込んだ。何ということだ。今日は爽やかな夏ではなく、文字通りに酷暑の一日となるだろう。

 先立っての外出の予定がわたしにはあった。今日という日が地獄の火炎さながらの暑さだと知っていたならば別の日に振り替えたかった。

 が、とっくの前に外出に参加をする全員と予定をすり合わせていたものだから、彼らは固い友情を示すかのように義理堅くも時間ぴったりに訪ねてきてくれた。今朝に見たコルネリウスの恨めしそうな顏は当分忘れられそうにない。

 

「去年から今年と段々に気温が上がっていくなら、来年は砂漠になっちまう。間違いねえ。氷を作る魔法を覚えといた方がいいかもしれないぜ。商売になる」

「僕たちが細々とした対策をするより、凄腕の魔法使いにどうにかして欲しいけど」


 上級魔法使いと認められる、第三階位の魔法を扱えるような人物であれば氷雪を出現させるぐらいは容易いだろう。今すぐこの場で小ぶりな雪山を作ってもらい、ただちに顏を突っ込みたい。


「コールくんも魔法を覚えればいいのに。ひんやりした空気を出すぐらいならすぐに覚えられるよ?」


 前を歩きながらも会話を聞いていたらしいビヨンがこちらを振り返り、言った。

 コルネリウスは金色の短髪から滴る汗を手の甲で拭う。

 

「俺は魔法は無理なんだって。戦士の基礎だっつう身体強化も苦手なんだ。こまごました詠唱? の文句だとか考えるだけでうんざりするぜ。鍛えに鍛えまくって槍でぶっ刺した方が絶対に速い」

「何? あんた、魔法が使えないの?」


 王女が振り返りざまにそう言った。じっとりとした目が楽しそうな色を見せている。一方でコルネリウスはバツが悪そうな具合だ。

 アーデルロール王女の風の魔法による加速の戦闘力を見せつけられた今では、魔法の有用さが身に染みているのだろう。

 

「悪いかよ」 コルネリウスがそっぽを向いた。

「悪いわね。戦士を目指すんなら、切れる手札は多い方がいいに決まってるでしょ」

「確かに」


 うなずいたわたしの横腹をコルネリウスが肘で小突いた。


「金髪のっぽ。あんた、槍使いよね? そんならうちのギュスターヴを手本にするといいわ。あれ以上の槍使いなんて世界広しと言えど……まあ数人は居るか。でもま、参考になることにはなるでしょ。ギュスターヴを目指しなさい」

「それは小鳥が竜へと身を変えるのを夢に見るような話では……」 わたしは言った。

「なにそれ? 小鳥は竜になれないでしょ?」

「いえ、何でもないです」 きょとんとした顏の王女からわたしは顏をそむけた。


 槍の英傑としてその名を天下に知らしめる、〝王狼〟ギュスターヴの背を追えと王女は軽々言うが、それがどれほどの難行であるか彼女は分かって口にしているのだろうか。

 二メートル半は優にある長身。長年の戦闘経験から繰り出される唯一無二の技巧。

 彼の名に付随する無数の逸話を知っていて、実際にあの偉丈夫の勇壮な姿を目にしたのならば普通の人間はその背を追うことを諦めるかもしれない。

 わたしの友人は諦めなかった。

 

「そんなもん、とっくに目標にしてるっての。世界一になるんだったらあのおっさんを越えないといけねえからな」 当然だろうという顏でコルネリウスは言う。

「ふん、そんならますます魔法を学ばないとダメね。知ってた? ギュスターヴは雷を自在に操るのよ」

「……知ってる」

「ほんとぉ? 稲妻のように移動し、雷を纏った黄金の槍で戦うってことも? あれは誰にも真似の出来ない、ギュスターヴだけの戦い方。けど、それでも学ぶところはあるはずよ。まあ食わず嫌いをしないでがんばんなさいよ」

 

 ぱしり、と王女はその手の平でコルネリウスの肩を張った。

 コルネリウスは小さな声でわかった、と返しただけだったが彼は今まで敬遠してきた魔法に歩み寄るのだろうか。わたしには彼はアーデルロールの言葉を聞いたものの、何だかんだと考えた挙句にやはり筋肉を増強して肉体を鍛えることに傾倒するのではないかという、確信にも似た予感があった。

 

「ねえ、三人とも」

 

 麦わら帽子の影を顔に落としたビヨンが言う。

 陽射しを受け続け、白い肌が赤くなっていた。セミの声がけたたましく響いている。彼女は肩を上下に弾ませ、夏の熱気に喘いでいた。

 

「どこか入らない? うち、もうだめかも」

 

 例えばあそことか。ビヨンが指を震わせて示した先は喫茶店だった。

 その屋号は『ゆめびと』。

 言葉を口の中で転がすとなんだか懐かしい感じがした。

 

 

 

 

「いらっしゃいませ~」

 

 ウサギ耳の店員がわたしたちを出迎えた。ぴょこぴょこと軽やかに揺れるウサギの耳。それを見てわたしは過去にここへ訪れた経験があることに気が付いた。

 

「中々洒落てるとこ知ってるじゃない、ビヨン。褒めてつかわすわ」

「え、ええ? ありがとうございます?」


 メニューに目を走らせ、頭に描いた財布の中身との相談を済ませると亜人デミの店員に注文を伝えた。今すぐに炎上しそうなこの体が冷えさえれば何でもいいと思って手頃な値段のものに狙いを定める。

店内は外界と切り離されたようにひんやりと冷えていた。汗に濡れたシャツが冷たく変わり、当分の間はあの灼熱の陽射しの下に出たいとは思わなかった。


 注文が届く間、わたしは窓ガラスの向こうにある真夏の街を眺めていた。


 路地を挟んだ向かいのパン屋では職人がせっせと生地をこねている。

 土建屋の屈強な男が二人組がかりで木材を抱え、目の前を走って行った。

 噴水の広場ではわたしよりも六つは小さい子供たちが、半裸の姿になって噴水の中ではしゃいでいる。それを叱ろうにも大人たちは日光の下に身を投げ出すのを嫌って誰も陰の中からは出て行かない。


 視線をあげると教会が見えた。

 間もなくすれば、正午を告げる鐘が高らかに鳴り響くだろう。

 もう何度も、それこそ数え切れないぐらいに聞いた時を告げる鐘の音。


 この日常はいつまで続くのだろうか。

 願わくば、霧が出ることもなく、この平穏がもうしばらく続いていて欲しいと、わたしは青空に願った。

 

………………

…………

……

 

「はーん。ルヴェルタリアってのは本当に騎士が多いんだな」

「そうよ。あんたのお爺さんが産まれるずっとずうっと昔から霧の魔物と戦ってるんだから」

「それだけ長い期間、霧と向かい合っていても止められないとはな」


 冷房の効いた室内で、わたしたちは思い思いに注文をした飲み物で喉を潤していた。心身に余裕が生まれれば会話に華が咲く。

 ビヨンとコルネリウスは、遠い白雪の大地からやってきたアーデルロール王女の語る異邦の地の話に夢中になっていた。


 わたしはと言えば、飲み物を運ぶウェイトレスをコルネリウスがやけに下劣な目線で見ていたのが無性に気になり、その理由をじっと考えながら会話に耳を澄ませていた。コルネリウスは俗に言う思春期というやつなのだろうか。わたしよりも二つも年上であるのなら、そういった変化が訪れていても不思議ではない。

 

「あたしには難しいことは分かんないけど」 チョコレートという名の甘味な材料で味付けのされたラテを、王女がストローでズゾゾゾゾズゴズゴズズと下品に吸う。

「霧がずっと噴き出し続けてる〝大穴〟は、今でも詳細が分かってないみたい。霧を封じ込める技術みたいなのは出来てるから、それで霧の拡大は防いでるみたいだけど。それでも魔物が出てくるのは止められないってんでルヴェルタリアの騎士が戦い続けてるわけよ」

「……終わりの見えない戦い、か」

 

 横から挟むように言ったわたしを王女が咎めるような目で見たが、彼女は「そうね」と小さく言っただけだった。

 

「しかしよお、一面が雪っていうのはいいよな。涼しそうで。イリル大陸ねえ、一度は行ってみたいぜ」

「夏だからそう思うだけでしょ。コールくん、大陸を渡る船代がどれぐらいか知ってる?」 ビヨンが言った。

「いんや。いくらだ? 相棒」 コルネリウスは気楽そうに尋ねる。

「んー……今コールが口にしてる飲み物の百杯分以上はあるんじゃないかな」

「――まじかよ」


 コルネリウスは驚きに目を丸くした。


「それを従者を連れてさくっと来れちまうのか……すげえな、王族って。船旅ってのは良いもんか? あー……王女殿?」

「は? 船?」 アーデルロール王女が何を言ってんだコイツは、なんて顏をする。

「船なんて使って……あ。ああ、そうね。良いわよ、船! ちょっと揺れるけど。風が気持ちよくてもうっ最高よ! 船、最高! イエ~ッ!」


 慌てた様子でアーデルロール王女が言う。なんだか妙だ。


「それよりね、その『王女殿』って呼ぶの止めていいわよ。なんか痒いのよね」

「お。蚊に食われたか?」 コルネリウスが笑顔で言った。

「違うわよ、馬鹿ね。同年代に呼ばれ慣れてないからこう、むずむずと……難しいわね。なんて言っても田舎者には分かんないでしょ。あ、ビヨンは含めていないから安心してね」 ありがとう、とビヨンが笑う。

「田舎もいいとこだぜ? 空気は美味いらしいし、飯も美味いらしい」

「『らしい』ばっかりじゃないのよ」

「生まれてこの方ここしか知らないんだから何とも言えねえだろ。それより俺たち悲しき男衆はあんたを何て呼べばいいんだ」

 

 アーデルロール王女が思案顔を浮かべる。

 彼女の立場を考えれば、『王女』と呼ぶ他に無いのだが彼女はどんな呼び名の案を口にするのだろうか。わたしはストローに口をつけながらも興味から耳を澄ませた。

 

「アルルでいいわ」 満を持してアーデルロール王女が言う。どうやら発想力は低いらしい。

「それはまた捻りの無い……」 わたしは思わず口に出していた。

「うっさいわねえ、黒髪」 王女が目を細めていよいよ睨む。

「黒髪、黒髪って言いますけど、王女は僕の名前を憶えてますか? というか知ってます?」

 

 もちろん知ってるわよ、とアーデルロール王女。

 

「でも呼ぶ気にならないわ。そこのノッポ……コルネリウスだっけ? と、ビヨンなんかは素直に呼べるけど、あたしの憧れた〝悪竜殺し〟の息子がどうにも予想外れのヘボだから認められないの。呼んでほしければ剣であたしに勝つぐらいしてみなさいよね」

「俺の名前、実は最近覚えたんだろ」


 コルネリウスがじっとりとした目で王女を見据えたが、アーデルロール王女は気まずそうな顏でそっぽを向き、音を立ててラテをすすっていた。

 

 



 わたしたちは会話に没頭し、それは時間の経過を忘れるほどだった。

 ふと窓から外の景色へと視線をやると多くの人々の姿があった。殺人的な日光を放つ太陽がどうやら傾いたらしい。

 

「そろそろ出ようか。王女はまだまだ街を見たいんですよね」

「勿論よ。さ、行くわよ」

 

 それからわたしたちは服屋を回り、二人の女性の衣装の組み合わせに無難なコメントを返した。わたしもコルネリウスも着飾ることにはとんと疎いのだ。

 また別の雑貨屋に立ち入り、店内に所狭しと並んだ品の数々を物珍しそうな目で見る王女の横顔をわたしは見ていた。

 店主が言うには、扱っている品はすべて外国由来の物品らしい。複雑な紋様の浮かぶ陶器や、竜の牙を細工した食器だのと、その真贋はともかくとして目に楽しい店ではあった。

 

 先頭を歩くのは常にアーデルロールだった。ビヨンと王女は並び歩き、その後ろをわたしとコルネリウスが王女の購入した品々の詰まった紙袋を手にぶら下げて続く。

 噴水広場に並んだ出店の異国の甘味を楽しみ、中でも特に、様々な味の選択肢のある『アイスクリーム』という名の冷たい菓子はわたしの心を強く掴んだ。

 

「ねえ、あれは何かしら?」

 

 アーデルロール王女がアイスクリームを食すスプーンで何かを指し示した。

 その先にあったのは観光客向けに記念撮影を行う写真屋の姿だった。

 敷物を広げ、小さな看板には『今日という日の思い出を残します』と達者な字で書かれている。

 連邦の首都ならばともかく、こんな田舎町に観光客が来るのだろうかとわたしは疑問に思った。

 

「写真撮影ですね。興味があるんですか?」

「写真には特に無いわ。でも今日は楽しかったから記念に撮りましょう。ほら、来て来て」

 

 写真屋は若い女だった。長い髪を肩に垂らし、日除け用の黒い眼鏡越しに駆け寄ってきたわたしたちを見る。あとで知ったことだが、その眼鏡はサングラスというらしい。

 

「ありゃ? 随分小さいお客さんが来たね」

 

 黒眼鏡を外した彼女の黒目は楕円型をしていた。そう、丁度ヤギのような。

 特徴を知ろうと彼女の観察をすると、側頭部の辺りに角が覗いている。なるほど、彼女もまた亜人デミらしい。

 

「写真撮影をお願いするわ、この四人でね。とびきり良いのを頼むわよ」

「あいわかった。光の加減も良し。いい時間に来なすったね、レディ」

 

 アーデルロール王女が気前よく料金を支払い、わたしたちは写真屋の前に並んだ。

 黒々とした大仰なカメラを構え、ヤギの特徴を持つ風貌の店主が言う。

 

「今日という日はもう二度と来ない。毎日を大切にね。はい、せーの――」

 

 カシャリ、と小気味のよい音を立ててカメラのシャッターが落とされた。

 

 

 

 

 現像された小さな写真を、わたしは自室の机の卓上に飾った。

 霧の日で迷い込んだ日にポケットに収まっていたオレンジ色の覗く美しい原石、父の輝かしい過去が記された近代史の本。その横にわたしは小さな写真に似合う小さな写真立てを置いた。

 

 思い返してみても、あれは特にひどく暑い夏の日だった。


 ビヨンが最前列に屈み、その後ろでわたしとアーデルロールが肩を組み、一番後ろではコルネリウスが両手でピースサインを作っている。

 写真の中の子供たちは皆、屈託のない純真な笑顔でこちらを向いている。

 わたしは芸術には明るくはないが、この写真は紛れもなく、わたしという人間の生涯において掛け替えのない宝と言えるだろう。

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