二章5話  さる狼

 

 わたしの自宅は緑の芝が生い茂る、小高い丘の上に立っている。所属する村と自宅のある丘とは少し離れており、あいだには森を切り開いた一本の林道が通っている。

 自宅の見晴は良い。空気が澄む晴天の日などは二階の窓辺から平原が見渡せ、その先には大陸に横たわる巨大な山脈、《灰竜の背骨》がどっしりと構えている。

 

 霧で目覚めてからそう日が経っていない頃、二階の自室の窓枠から世界を見ていたわたしは、あの灰色の山々を見てよく思ったものだ。

 あれこそはわたしの世界を区切る壁であり、あの先にはわたしの知らぬ、鮮やかで冷酷な、しかし美しい世界が果ても無く広がっているのだろう。わたしは成長をした暁にはあの枠組みを越えた外へと旅立つことに憧れていた。




 乾いた音が何度も響く。木製の武器を打ち合わせた際の音だ。これらはわたしの周囲では決して珍しくない、今や日常にすっかりと溶け込んだ音だった。

 汗のにじむ手で木剣を握りしめ、相手を見据えて一息に真横に振り切る。相手は胸を大きく引いて剣をかわし、こんなもの楽勝だぜ、といった意味合いの目線と笑みでわたしを見る。

 

 彼――コルネリウスがすっかり履き古した革靴の底で芝生を蹴り、弾かれたように前へと跳ぶ。木製の槍の穂先がこちらを狙い澄ましている。生身でまともに喰らえば、あまりの痛みに芝生の上でしばらくはもんどりをうって転がり呻くだろう。子供のものとは思えぬ、重く鋭い一撃を受けた経験がわたしには何度もあった。悶絶必至の攻撃を喜んで喰らいにいくような変態的な性格をわたしは獲得していない。

 

 左腕に携えた盾を体の前に構える。真正面ではなく、やや斜めにむけた傾斜の形。

 盾の表面に槍がぶち当たり、衝撃が木製の盾から腕へと突き抜ける。馬鹿正直に正面から受けていたならば体勢を崩したのだろうが、流しさえすればどうとでもなるものだ。

 槍の穂先が盾に沿って流れていく。コルネリウスの隙だらけの腹がわたしの剣のリーチの内にあるのが見えた。

 貰った。内心でほくそ笑みながらに刺突を放つ。これでわたしの勝――。

 

「甘いっ! ぜっ!」


 がら空きの腹を狙った刺突を、あろうことかコルネリウスは自身の腕で払いのけた。稽古だから出来る荒業だと半ば呆れ、模造の武器相手でも素手でどうにかしようとした彼の度胸に舌を巻く。そうこうしているとコルネリウスはステップで後方へと下がり、再び槍を構えた。

 

「コール」

「何だ? 休憩か?」

「今の、実戦だったら腕がどうにかなっちゃうよ。遊びって思わないで真剣にやらないと」

「ならば実戦でも扱えるぐらいに練磨するのみ……ってな。どうだ、カッコいいか?」

「ううん、全然」



 稽古で荒げた息を整えるため、わたしの家を囲う石塀に二人で背中を預けた。頭上を見上げれば突き抜けるような青さの空が見える。真っ青なキャンパスを横切る鳥は、灰色の山脈の彼方に広がるわたしの知らぬ世界を目指して飛ぶのだろうか。羨望をわずかに抱く。

 

「なあ、もう一度あの話をしてくんないか?」


 シャツに汗の染みを作ったコルネリウスが言う。黄色い瞳をきらきらと輝かせてわたしを見ている。


「あの話って?」

「夜の森の話さ! ついて行けなかったのはめちゃくちゃ無念だけどよ、お前らの冒険を聞くだけでも俺はわくわくするんだ。な! 頼む、この通り!」

「そんなに大袈裟に頼まなくても……」


 彼が喜ぶならいくらだって話をしたって構わない。たった数時間の冒険だったのだ。その程度の話を労苦に思う性格をわたしはしていない。

 

「いいよ。まず空に赤い月と青い月があってさ……」




 

 森での試練を越えた翌日から、ビヨンとミリアの生活には明確な変化があった。

 学校がある日は毎朝、わたしたち四人は連れだって隣街へと向かう。そこまではいつもと変わらない。一日の授業を終えて村へと帰り着くと彼女らは真っ直ぐにわたしの家……フォンクラッドの家屋を訪れるのだ。そして夜空に月が昇り、夜鳥がほーほーと鳴き出す頃にようやく自宅へと帰っていく。

 それもこれも彼女ら――人物の人格はともかくとして、立場上わたしもそう呼ばざるを得ない――が魔法の師と仰ぐようになった、イルミナ・クラドリンという白衣の魔法使いがわたしの両親の下に身を寄せているからに他ならない。

 

 わたし自身もビヨンらと机を並べ、夜な夜なに開かれる魔法の講義に耳を傾けているのだが、どうにも彼女二人のようにわたしの才覚は伸びてはくれなかった。

 火球の生成や水弾を放つといった初歩の魔法にすら悪戦苦闘を見せるわたしに対して面と向かい、

 

『弟子二号。お前は余計な魔法以外を学ぶ必要はやはり無さそうだ、時間の無駄という意味だ。分かるな? 分かったら茶のおかわりをポットで持ってきてくれ』


 と、蔑みの目線とともに師匠より言い放たれたのは昨夜のことだ。ほとんど最新の記憶であり、いたいけな少年の心を打ちのめした文言はまず間違えていない自信がある。

 それからというもの、今日一日のわたしは相当にぶすっとした顏をしていたようで、コルネリウスが「気晴らしに稽古でもしようぜ」といった誘いに乗り、わたしは今こうして彼の横に居るというわけだった。

 

「……それでウサギを倒しておしまい。前に二人でやっつけたカニみたいに死体は残らなかったよ」

「そのウサ公相手の大立ち回りが羨ましいぜ……。くっそー、俺も行ってみてえ」

 

 一通り話し終えると、コルネリウスは足元の小石を思い切りに蹴りつけた。小さな芋ほどの大きさをした小石が弧を描いて遠くへと飛んでいき、砂利道を挟んだ向かいにある林の中へと消えていく。

 わたしは横顔に暖かな風を受けながら、再び青空を仰ぎ見た。どこかから夏の匂いが香った気がした。

 

「居候……じゃないや、イルミナ師匠にに頼めばまた連れて行ってもらえるんじゃないかな。でも、またウサギを倒さなきゃならないなら魔法を扱えないコールは二度と出れなかったりして」

「出れねえのは勘弁だな……」


 コルネリウスは思案顔。それから指先をひとつ立ててわたしをじっと見る。

 

「魔法、魔法って言うけどよ。そんなに簡単なもんか?」

「僕に聞かれても……才能無いってはっきり言われたばかりなんだから」


 何よりもショックだったのは、ビヨンもミリアのどちらもがフォローの一言も発さなかったことだ。自身の才覚がめきめきと開花をするのはさぞや天にも昇る快感なのだろうが、隣で愕然とした顏をしている友人あるいは兄へと一言を掛けたところで成長の速度が大きく遅れるわけでもないと思うのだが。


「なんべん聞いてもその……魔法のコツ? が分からねえんだよな。体の中で魔力を流すってのがイメージしにくくってよ。俺には槍をぶん回してる方が性に合ってるぜ」

「そうは言うけど、体に魔力を流して身体強化をするのはきっと必須の技術だよ。それぐらいは覚えてみたら? コールならすぐ覚えるよ」

「お前に言われてもな……うそうそ、冗談。ところでよ、相手に向かって勝手に飛んでいく槍ってのがありゃ、攻撃の魔法は覚える必要が無いって思わねえか?」

「槍が無い間はどうするのさ」


 真面目な顔でコルネリウスは言う。頭上の青空を見ながら空飛ぶ槍を想像する。なるほど、便利だ。そのうち刃向かいそうで怖いが。


「無論、ゲンコツでどうにかする」

「いやいや、ははは、無理でしょ」

 

 空へと拳を突き上げる彼の言葉にひとしきり笑い、特に理由もなく目の前の林を見ると奇妙なものが視界に入った。

 それは木漏れ日を受け、まだら模様の光を浴びている。茂みの中に体の半分を隠したそいつは黒い大きな影に見えた。

 わたしは数度にわたる経験から、こういった妙な気配を持つものには嫌な印象と警戒を抱くようになっていた。もう少し平和に生きられたらな、と思うこともあるにはあるが、忌まわしい霧がいつ現われるとも知れないこの世界ルヴェリアに生きている以上はそんな考えは持つだけ無駄だろう。

 

「コール、あれ、何だと思う?」 わたしが庭の向こうの林を指さす。

「あん? んー……」

 

 彼と共に片手を眉上にやり、日除けを作ると木立の中へと目を凝らした。

 丸い頭。頭頂部の辺りから突き出た二本の耳。とがった鼻先。

 暗がりに光る薄灰色の瞳。前足を突きだしてのんびりと座る様子は犬のそれによく似ていた。

 が、あれほど巨大な犬をわたしは見たことがない。

 あの大きさはもう、狼と呼ばれる獣のサイズだ。

 

 もう少し近付いて獣の姿を確かめてやろうと思い、わたしが一歩を踏み出すとそれをきらうように狼は立ち上がって一歩を下がり、声を掛ける間もなく林の奥へと去って行った。

 

「大きかったね」

「だな。この辺りで狼が出るなんて俺は聞いたことねえけど」

「僕も無い。群れからはぐれたのかな? 他の人が襲われたら大変だから父さんに伝えておかないとだ」

「それがいいな。さ、もう十分休んだろ! 続きやろうぜ!」

 

 跳ね上がるように立ち上がったコルネリウスがわたしを誘う。彼の快活な顔へと笑みを向け、わたしは汗の染みた木剣を手に取った。

 

 

 

 

 三日後。

 わたしが学校へ向かおうと家を出た時にも狼の姿はあった。

 石塀の向かいに広がる林の中からじっとこちらを見つめているのがすぐに分かる。きっとあの射抜くような視線がわたしを感付かせたのだ。それが殺気だとは冗談でも思いたくなかった。

 それにしても一度ならばともかくとして、こうして数日に渡ってあの鋭く光る薄灰色の瞳で観察でもされるかのように見据えられるというのは、正直に言って気が休まらなかった。

 

「よお、ユリウス。早く行こうぜ。っておい、今日もあのワンコロが居やがるのか?」 迎えに現れたコルネリウスが信じられないといった顏をする。

「そうなんだよ。そろそろどうにかしたいなって思ってたところ」

 

『家の周りを大きな狼がうろついているよ』と、わたしは父に面と向かって伝えたのだが、彼はへー、やら、ほーといった適当な相槌を打つばかりで本当に耳に入っているかは相当疑わしい態度だった。

 

「じゃ、俺たちで追っ払うしかねえな」


 コルネリウスがやはり不敵な表情で言う。


「僕たちに武器は無いよ?」


 言うわたしの拳を彼が指さす。次いで爽やかなウィンクをひとつ。


「ユリウスサマの魔法の石つぶてがあるだろ。数発当てればきゃんきゃん鳴いてどっかに行くに決まってるぜ。駄目元で一、二発出しとけばもう近寄らないに違いねえ」

「ビヨンの家の根性無しの犬じゃあるまいし、それはどうかなあ……」

 

 軽口を叩きながらもわたしたちはかばんを芝生の上に置き、強い日光を背中に浴びながら林へと踏み入った。

 灰色の瞳をした狼は後ずさりをし、わたしたちはその姿を追って前進する。

 

 大胆不敵な顔をしてじりじりとにじりよる人間の子供二人を前にしているというのに、狼は逃げ出すそぶりをこれっぽっちも見せなかった。

 この気高き獣はむしろ、わたしたちを森へと招き入れたのかも知れない。あまり友好的な内情ではないだろうが。

 やがて狼が不意に立ち上がった。首を伸ばし、しゃんと立った狼の態度はまさに王者の気風。わたしたちを睨みつけるその様子は、相対する相手に威圧を感じさせるにはまったくをもって十分なものだった。

 

「おわっ……へっ、なんだよワン公、やるか?」

 

 コルネリウスが拳を握り、戦う構えを取ってみせる。

 わたしの友人は徒手空拳で野生の獣とやり合う気になったらしい。

 獣を相手に素手で挑んで勝てると思うほど彼も愚かではないはずだ。と、そう信じたいところだが、コルネリウスはわたしの予想の斜め上をいくような男である。


 狼はからかう金髪の少年をちらりと見やり、まるで人間が他人を小馬鹿にする際の仕草を学んだかのように首を傾け、長い息を吐くとその目線を逸らした。

 やや黒ずんだ灰色の毛並を持つ、大人の腰ほどもある全高をもつ巨大な狼はわたしを真っ直ぐに見つめた。大きな足でゆっくりと歩みより、犬科特有の湿った鼻先をわたしの胸元へと寄せ、すんすん、と鼻を鳴らしている。


「おい、大丈夫かよ?」 微妙に怯えている顏のコルネリウスが言う。

「大丈夫だと思う。……多分。危害を加えるつもりなら、もうとっくに僕たちは肉に代わってると思うし」

 

 そりゃ確かに、と言うコルネリウス。彼はその体を後ろへ仰け反らせていて、友人であるわたしに詰め寄る狼を見る姿には明らかな恐怖が浮かんでいる。頼むから今この瞬間に拳を打ち込まないで欲しいというのが切実な願いだ。

 

「怖いなら啖呵を切らなきゃいいのに」

「は、はあ!? 怖くねえって! ほら俺も嗅いでみろよ!」

「ガゥルル!」

 

 生意気な子供を叱責するように狼が強く吠え、わたしは突然の恐怖に情けない話だが尻もちを突いてしまった。

 威嚇を喰らったコルネリウス本人も恐怖を感じたようで、大口をぽっかりと開いたままに眼を見開いている

 

「グゥ……ルルォ……ウゥルル……」

 

 灰色の獣は何に満足をしたのか、わたしとその自宅を交互に見やると一度うなずいて踵を返した。そうしてそのまま木漏れ日が落ちる林の中へと歩み去っていく。

 

「大丈夫?」 わたしは立ちあがりながらに言った。

「……楽勝だったぜ。……なあ、学校の奴らとビヨンとミリアには言うなよ」

「はいはい、了解。わかってるよ。ところで僕のことも言わないでよね」

「おう」

 

 こういった弱さを庇い、隠し合うのもまた友情というものなんだろうか。

 心情の機微といったものは未だにわたしの理解の外ではあるが、日常には無い出会いをするような貴重な体験をする時には是非、彼のような友と一緒に居たいものだ。

 

 

◆ 



 翌日。とうとう狼は塀の内側、つまりわたしの家の玄関先に広がる、青々しい芝生の上で体を丸めて日光浴を悠々と楽しんでいた。

 なんとふてぶてしい獣であろうか。ここまでくればいっそ、拍手や賞賛のひとつでも送ってやりたくなる。

 彼が危害を加えない獣であると感じたのはつい昨日のことで、その場限りの判断だ。今日の狼の機嫌如何いかんでは、わたしの柔らかな人間種族の皮膚は、あの鋭い爪や牙で容易く引き裂かれるかも知れない。

 

 確か……確か父は自室で仕事の身支度をしていたはずだ。

 今すぐ家へと取って返し、二階へ駆けあがり、父にどうにか対処をしてもらおう。

 息子が血相を変えて助けを求めれば、さすがのフレデリックも動いてくれるだろう。


 ふと、狼がまぶたを薄く開いた。先日と同じように射抜くように鋭い目線でわたしを見ている。

 彼を人懐っこい獣だと思うのはこれで何度目だろう。かつて人と過ごした過去があるのかも知れない。彼に対して根拠の無い想像をいくつか浮かべていると、やにわに狼が立ち上がり、背丈に劣らずたくましい四肢でわたしの方へと一歩を踏んだ。

 

「な、なにか用ですか?」

 

 思わず身が強張る。

 魔物を相手にするのには多少慣れたというのに、今更動物に怖気づくなんて。一体どうしてだ? 手に武器を握っているかどうかの違いか?

 

 わたしの心中に吹き荒ぶ不安の嵐など知らぬ獣は、その尾っぽでわたしの二の腕の辺りを一、二度叩くと回れ右。その足でわたしの家の玄関扉へ到達すると、爪を立てた前足で木製の扉をカリカリと掻きはじめた。

 扉へ数度爪を立て、ちらりとわたしに視線をやり、また扉を見る。

 

「開けろってことかな?」

 

 馬鹿な。自宅に獣を自ら招き入れるなど、例え子供のいたずらであろうと許されるはずがない。母は温厚な性格と外見の持ち主だが、手をあげる時は迷わずあげる女性だ。

 

「早く開けろって」 狼が言う。


 嘘だろう?

 空耳を信じ、しかしわたしが眉を寄せて難しい顏を作っていると、

 

「オレは怪しくねえよ。この家の人間も知ってる。だからさっさと開けろ」

 

 イヌ科の口が開閉し、確かに人の言葉を、わたしの理解する共通語を口にしている。その光景は途方も無く奇妙、近頃の母が口にする言葉で表せば『シュール』といった具合だ。

 自身の主張など当てにならず、ますますをもって怪しさを極めつつある狼を前にしばし逡巡をしていると、我が家の扉は内側より開かれた。

 白い衣服に胡散臭い白帽子。愉快げに目を細めているが、どことなく不愉快そうな表情の女。イルミナ・クラドリンだった。帽子のつばが落とす影の下にある細い目でわたしと狼とに視線をやり、つまらなそうに息を吐く。

 

「おやおやおや。懐かしい匂いがするかと思えば貴様か。ふん、出来ることなら生涯その姿のままでいて欲しいものだな、ごつい姿なぞ見たくもない」

 

 いつもの調子で言葉を放るイルミナに対し、大きな狼は流暢りゅうちょうな人の言葉を返す。

 

「よお! 久しぶりだな。相変わらず歳を食ってねえみたいだな。オレがガキの頃からまるで変わらねえ面しやがって、面白くねえ。いったい今年でいくつになるんだ? それとな、狼のままってのは却下だ。この口で喋るのは疲れるからよ」

「……お褒めいただき光栄だ、閣下。それで? 大海を挟んだ北のイリル大陸から、このような南の辺境まで遠路遥々やってきた用向きを聞かせてもらおうか?」

「お前、どうして他人にそこまで偉そうにふんぞり返れるんだ? お前の家じゃねえだろ、ここは。それにオレの遠征は年齢不詳の女とお喋りする為なんかじゃねえよ。よっと……」

 

 そう言った狼は、鼻先をふくよかな胸の毛に埋めるようにして身を丸めた。続いて眩い光が生じ、淡い輝きとぱちりぱちりと稲光に似た小さな音が何度か聞こえる。


 光の中に影となって浮かぶ狼のシルエットが変化をはじめた。足の長い体毛は引き、獣の四肢は人の両手両足へと姿を変え、犬科の尖った鼻先は縮み、鼻の高い男性のものへと変わっていく。

 呆気にとられたわたしは、間抜けにもぽかんと口を開けたままで変身の光景をしばらく見つめていた。やがて光が収まると、筋骨たくましい巨漢の姿がそこにあった。

 帽子のつばを引っ掴み、目深に被っていたイルミナがさも嫌そうに、

 

「変身は構わんがな、閣下。そういうのは物陰で済ませてから姿を現したまえよ。狼の姿では不便があると言ったのは君だろうに」

「そう言うなって、アイツのせがれを驚かそうと思ってよ。どうだ、坊主! 驚いたか!?」

 

 壮大な身の丈だ。正確な数値は目算では計れないが、彼の足元に立ったわたしが巨漢の顏を見ようと思えば、首をほとんど真上に向けなければならない。そもそも、わたしの顏の高さが彼のヒザ上辺りというのが常識はずれだった。

 どこかの曲芸集団の主役演者か何かだろうか。隣街に時折訪れる、キャラバン隊の中にもこれまでの体躯の持ち主は見たことがなかった。

 狼の唸りにも似た、重く太い声で巨躯の男がわたしへと声を落とす。

 

「はい、はい、とても驚きました、その」


 狼がまさか人だなんて。それも大きな。ともごもごと言葉を続けながらに言うわたしの態度が気に入ったようで、手応えを感じた巨漢は「よし!」と握り拳を作った。


「ところでフレッド、ええと、父親は家に居るのか?」 獰猛な顔をした男が言う。

「居ると思います。多分、二階に」

「そうか! よし、分かった。ありがとよ」

 

 巨漢は豪放磊落といった性格の持ち主とみえる。彼は名乗りもせずに玄関へ向かい、巨大な手と比べてみれば豆粒のようにも見えるドアノブを回し、扉を引く。

 そして嫌な破壊音と軋みの音。厚みのある木板が思い切りに壊れる音だ。

 

「ありゃま……もっと頑丈に作っとけよな」


 開閉部の金具ごとぶち壊し、引き抜いた扉をぶらぶらと揺らしながらに巨漢が言う。彼は家から分離した木製の扉を芝生の上に放り捨てると、その巨大な体を屈ませてわたしの家へと入っていく。

 

「馬鹿力め、せめて直してから入るのが道理だろう。……やれやれ、あの男が突然現れて良い話があった試しが無いのだがなあ」


 続けて居候の魔法使いも、長い金髪を風に揺らせて家へと戻って行く。

 扉の消え失せた我が家の前にわたしはただ一人立ち尽くし、西から吹く風が肌に吹きつけた。


 さて、この場合、叱責を受けるのは誰になるのだろうか?

 玄関は破損し、由来不明の人物の我が家への侵入をたった二週も経たない内に二度も許してしまったわたし。

 冷や汗が浮かんでいた背中を妹にぱしりと叩かれたところで、ようやくわたしは意識を戻し、鈴だけが空しく鳴る玄関跡をくぐった。

 

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