二章4話  双子月の夜

 

 奇妙な鳴き声が聞こえなければ、わたしはいつまでも眠りこけていたに違いない。


 噴き出す音か、唸り声か。どちらとも判別のつかないどうにも奇妙な鳴き声が耳元で聞こえた。耳裏の辺りをやわらかな毛の塊が通り過ぎ、すんすんと鼻をひくつかせる音が頬の辺りで繰り返される。

 

 不審な感触に気付いたと同時、いくつもの想像が頭をよぎる。

 魔物であれば眼を狙って一撃をくれ、全速で距離を離そうと反射的に考えながらに恐る恐る薄目を開けると、果たしてその正体は毛の長い子犬だった。


 黒い毛色はやたらに跳ねていて、時折白いものが混ざっている。

 瞳の色は宝石のように青い。わたしは小さな動物に不思議な親近感を覚えた。

 息を弾ませながらも左右に尻尾を振る様は、まるで幼いころから見知った飼い犬を見るようだ。

 

 子犬はしばらくわたしの傍をぐるぐると回るとどこかへと走り去り、一分も経たないうちにわたしの見知った人物を共にして戻ってきた。

 子犬は随分懐いた様子で自身の横腹をその人物へこすりつけている。

 

「ユーリくん」 安心した顔で彼女が言った。

「ビヨン。良かった、はぐれたかと思ったよ」

 

 辺りには夜のとばりが降りている。

 月明かりが照らす夜の森にわたしとビヨンの二人は居た。

 

「どこだろう、ここ。うちは見覚えがないけど……」


 ビヨンが不安げな声で言った。

 わたしは足元にすり寄ってきた犬を抱え上げ、揺れる尻尾を腿の辺りに受けながら、ほんの少し前までの自身を振り返った。

 

 イルミナ・クラドリン。

 白いローブをまとった魔法使いの女はわたしたち二人に対して「魔術の実践だ」と言い放ち、その言葉を耳にした直後に感じた眩暈から復帰をすると、そこは住み慣れた我が家ではなかった。

 何がしかの方法で、どうやらわたしとビヨンの二人は由縁も知らぬ土地へ放り込まれたらしい。

 

 意識を失っていた正確な時間は分からない。

 わたしの認識では先程までは夕方のはずだったが、今はすっかり夜に変わっているのだ。少なく見ても二時間以上は意識を失っていたと考えた方がいいだろう。

 

 目覚めざまにビヨンと再会を出来たことは不幸中の幸いだ。

 意識を失う直前、彼女の手を握り締めていたのが功を奏したのかもしれない。

 

「ねえ、見て。月が二つもある」


 星の散りばめられた絨毯のような夜空を見上げたビヨンが言う。

 彼女が指さした天空を見ると、大きな赤い月と小さな青い月の二つの奇妙な天体があった。わたしのよく見知った黄色い単一の月はどこにも見当たらない。


「本当だ。赤と青……なんだか不気味な感じだ」

「そうかな? うちは昔に読んだお話みたいでわくわくするけど」

「へえ……それはどんな話なの?」


 問いつつわたしは辺りを見回す。

 すると数歩を離れた芝生の上に、剣と盾のセットが丁寧に並べ置かれているのを見つけた。

 偶然ではないのだろう。イルミナの愉快そうな笑い顔が脳裏をよぎる。

 後ろからはビヨンの鈴のような声が聞こえ、

 

「赤い月と青い月に住む兄妹の話だよ。近いようで遠い世界に別れちゃった兄妹が自分たちの月を捨てて真っ白な大地に行くの。そこで二人が住む新しい家を作るお話」

「なんだか創世記みたいだね。もしまだ持っていたら今度貸してほしいな」


 抱きかかえた犬をその場に離し、代わりに剣と盾を拾い上げ、慣れた動作で装備をしてみせる。

 剣は重く、鉄製だった。

 革を巻かれた剣の柄を握り締めると安心を覚えた。これも日々の稽古の影響だろうか。

 一方で盾は頼りのない木製である。

 その出来ときたら、はっきりと言って無いよりはまし程度の代物だ。強烈な一撃を受け止めれば外枠の金属の輪は歪み、即座に使い物にならなくなるだろう。

 

「それ、どうしたの?」


 わたしの携えた武器を見た彼女が驚きの声をあげる。

 

「きっとイルミナさんが用意したものだと思う。これがあれば素手よりは安心だ」

「ふーん……」


 皮肉のつもりで言ったのだがビヨンには伝わらないようで、彼女は素手の自分に不安を覚えているようだった。


「じゃ、状況を確認しようよ」 わたしは守る意志を固め、彼女に言う。

「冷静だね。ええと、ここに居るのはきっとイルミナさんの魔法だとうちは思うな」

「僕もそれで間違いないと思う。気絶するちょっと前、あの人が『課題を与える』って言っていたのを覚えてる?」


 ビヨンが顎に指をかけて思案顔。

 

「うん。確かウサギを仕留めてこいだとかなんとか……」

「僕の記憶と同じだね」

「良かった、ええとね、魔法を使ってとどめを刺せとも言ってたよ。でもうちもユーリくんも魔法なんて……」

 

 その時、わたしとビヨンの足元に一枚の羊皮紙が風に乗って流れてきた。

 それはイルミナが筆を走らせていた魔法の簡素なマニュアル。


 タイミングがあまりにも良すぎる。それはビヨンも同感らしい。

 羊皮紙を拾い上げながら、まさかあの白い魔法使いはこちらを観察しているのではないかと周囲を眺め見たが辺りには真っ暗な夜があるばかりだ。

 

「これを読めってことじゃないかな。魔法の説明書っていうと変だけど、大体そんなものだ……あまりにも怪しすぎるけど」


 わたしと彼女は草葉の上に座り込み、羊皮紙に記された通りの方法で魔法を一通り試してみせた。

 日頃から学習をしていたビヨンと剣術に明け暮れていたわたしとではやはり地力において大きな差があったらしい。

 彼女の飲み込みは早く、ものの数分で小さな光球を作り出すことに成功していた。

 

「で、できた! 魔法ができたよ!」 ビヨンが感激の声をあげ、顏に興奮と喜びの色が浮かぶ。

「すごいなあ。おめでとう、ビヨン。僕も負けてられないな」

 

 結果から言えば、羊皮紙に記されていた十数個の恐らくは初歩の魔法の内、わたしはわずか二つしか発動させることが出来なかった。

 一方でビヨンは火球・氷塊・ささやかな風の発生など、わたしから見れば、いや、魔法に触れている人物が見ても決して平凡ではないであろう結果を得ていた。


 羨ましい限りだ。

 彼女の手の平の上に輝く光球を見て、わたしは胸の内に小さな嫉妬を覚えた。

 わたしが使用出来た魔法ときたら、砂や柔らかい土を固めて石へ変えることと、擦り傷を塞ぐだけの簡素な回復魔法だけだったのだ。

 わたしは二の腕の辺りに回復魔法の温かな光を感じながら、

 

「この結果だと、とどめはビヨンに任せた方が良さそうだね」

「うち、自信無いなあ……。でも、うん、やってみるね」


 これがビヨンではなくコルネリウスであったら『魔法なんて面倒だから槍でどうにかするぜ!』なんて言いながら、決して終わらない試練に二人で挑んだのだろうか。

 そんなとりとめもないことを考えたわたしはビヨンへ向かい、ひとつ頷いた。


「頼んだよ。どんなウサギか分からないけど、僕が引きつけるから」





 夜鳥の間延びした呑気な鳴き声が聞こえる。

 かさかさと草葉の上を往く音の主は何者だろうか。

 

 赤と青の二つの月。

 しかし地上に降り注ぐ月明かりの色は見慣れたいつもの色だった。

 眠れる森の夜気を感じながら、わたしとビヨンの二人はウサギを捜し歩く。

 

「ねえ、見えた?」 わたしがビヨンに尋ねた。

「ううん。ユーリくん、やっぱり明かりを点けた方がいいんじゃないかな」

 

 静まった空気の中、暗闇の向こうに何かの影が動いたような気がした。

 わたしたちは当初、ビヨンの魔法で作成された光球の明かりを頼りに歩いたが、それはわたしたちの存在を相手に明確に表すサインになると気付いたので中止した。

 

「それはやめておこう、相手からこっちがばれちゃうよ」

「わかった。ね、あんまりうちから離れないでね」

 

 うん、と答えながら彼女の手を掴んだ。ひやりとした手だ。

 

「ビヨン、コールはこの冒険を羨ましがるかな?」

「き!」 ビヨンが奇妙な声をあげた。

「き?」 

「きき、きっと羨ましがるし、悔しいって言うと思うなああ。もう一度連れてけーって、しし、しばらくうるさいかも」

「きっとそうだね。はは、真似が上手いね、似てるよ。ところでなんで焦ってるの?」


 軽口を叩きながらしばらく進み、夜にも関わらず鮮やかな青色に輝く花を見つけたところでビヨンが声をあげた。

 

「……なにか居るよ」

 

 彼女がわたしの手を握り締めた。

 緊張が手を通じ、わたしにも伝わる。

 

 輝く花から目を外し、月明かりの夜に目を凝らすと底の知れぬ闇に混ざって何かが身じろぎをするのが見えた。

 目が慣れていくにつれて、それは段々に鮮明になっていく。大きい。

 

 丸い影を認めた途端、わたしは反射的にかつて森の中で出会ったカニを思い出した。

 しかしここに霧は無い。

 ならば魔物は現れないはずだ。

 通説を信じるのならば、だが。

 

 不安げな顔でわたしを見るビヨンに小声でもう少し近づこうと声をかけ、ほんの数歩を前進すると、丸い影の正体が目に入った。

 

 丸っこい体を精一杯に伸ばし、木に寄りかかったは青い葉を無心に食べている。

 長い耳はしんなりと垂れ、それはリラックスをしている証であると、かつて学校の教師に教わったことを思い出した。

 何のことはない。わたしの見知った動物。ウサギであった。

 ただひとつ、わたしの体よりも一回り、いや二回りは大きいという点を除けばまるで普通のウサギだ。

 

「あれかな?」 ビヨンが言う。

「明らかに普通じゃないよね……。魔法でしかとどめが刺せないウサギ、きっとあれだ」

 

 ウサギはこちらをちらりと一瞥をし、確かにわたしたちを視認したはずだが再び食事を始めた。どうやら害意は無いらしい。


「大人しいね。あの子を倒すのは可哀想だなあ、うち、ちょっと気が引けるかも」

「僕もそうだけれど、倒さないと家へ戻れなさそうだよ。さ、ビヨン、魔法はさっき試した通りにすぐ使える?」

 

 そう言うとビヨンは一通りの魔法を再び扱い、中でも火球の勢いはまさしく攻撃と呼ぶに相応しい威力を持つように見えた。

 

「よし、じゃあその火球でとどめを刺そう」


 その時だった。

 ずしり、と重い音がわたしの耳を震わせた。

 眼前のビヨンはわたしの肩の後ろ辺りを、愕然とした顏に口をあんぐりと開いて見ている。

 

「ユ、ユーリくん、うし、うし」

「牛? ウサギでしょ?」

 

 振り返ると赤い口腔が見えた。

 上には白く鋭い歯。槍か剣のように思える。いや、違う――。

 

 危険を感じ、即座に横へと無様に転がった。

 歯とは思えぬ硬質な物質が、わたしが体を預けていた木を一撃でへし折る。

 

 ウサギだ。

 赤い瞳がこちらを見ている。彼は音を忍ばせて這い寄っていたのだ。

 

「よし、やりたいなら……やってやろう」

 

 距離を稼いだと見て、剣を握り直す。

 胸の前で指先で小さな円を描き、それを力を込めて握り締める。

 いつもの所作、父の真似だ。

 

 鉄剣の剣先を、可愛いがしかし恐ろしい獣へと向け、わたしはビヨンを背後に挑みかかった。

 

 

 

 

 霧で見た牛頭の怪物ほど恐ろしくはないというのが、わたしが受けた印象だった。

 眼前のウサギには戦士の肉体も、おぞましい斧も、狂気に震える心も無い。

 

 常に横へ回るように立ち回り、大振りの隙に白い毛の上から剣を突き立て、あるいは切り裂く。徐々に冷静さを失っていくウサギは、その白い毛の表面を次第に赤く染めていった。


「なんで消えちゃうのよーっ!」

 

 わたしが注意を引きつける中、ビヨンが火球をいくつか飛ばすがそれはウサギへ着弾する前に霧散してしまう。


「落ち着いて! 何、か、見落としてる、はずだ! 僕が相手をしてるから、どうにか、して、くれ!」

 

 この愛らしい獣の持ち得る武器で恐ろしいのはやはり鋭い歯、そして秘めたる爪だ。大きく振られる歯を受けることはなかったが、白い手の先から繰り出される爪はもう数度受けてしまっている。

 その全ては盾で防いだが、やはり粗悪な盾。

 金具は歪み、あと一、二度攻撃を受ければ破壊されるだろうと目星をつける。

 

「えーと、えーと、えーっと……っ。急がなきゃ、急がなきゃ。人って字を書くんだよね、人、人、人……」

 

 彼女が何度もつぶやく。


「しま、っ……!」

 

 回避しなければいけない歯による攻撃を盾で受けてしまった。

 耳障りな音を立て、わたしの身を守っていた盾がひどく歪む。

 舌打ち。

 もはや荷物にしかならぬガラクタから腕を引き抜き、腹いせまぎれにウサギへと投げつけた。

 その時だ、ウサギが悲痛な声をあげ、同時に白い毛に火が上がった。

 

「やった! やったよ! 当たった!」 彼女の嬉しそうな声がする。


 ビヨンの火球が直撃をしたのだ。

 ぐるぐると唸りをあげたウサギは背後を振り返り、金髪を揺らす少女を見据えた。

 激しい怒りに駆られたのだろう。全身を伸ばし、ビヨンへと一心不乱に獣は走り出した。

 

「ビヨン! 避けて!」 わたしは白い背を追いながらにビヨンへ叫んだ。

「ちょ、ちょっと……ちょっとちょっちょっとおお! やだってばああ!」


 炎がくすぶるウサギの背中に追いすがる。

 速い。

 剣を逆手に持ち替えた時、ウサギがその身体能力の限りを尽くしてビヨンが一瞬前まで立ち尽くしていた場所に突撃をかました。

 あれを受けたならば、少なくとも子供の身では再起不能だろう。

 

 横っ飛びで避けたビヨンだったがしかし、その場にへたり込んでしまっている。ひいき目に見ても動けそうにはない。

 

「こっのおお!」

 

 精一杯の助走をかけ、わたしは跳躍した。

 逆手に持った剣の鋭い切っ先が月明かりに煌めいた。

 ウサギがこちらを振り返り、わたしがそれに気付いた時にはその頭部に剣が深々と突き刺さっている。

 

「グル……グ……」

 

 致命の一撃を受けたウサギは一瞬あらぬ方向を見て、それから横に倒れた。

 血は流れない。ただ、これで死なぬ生物は居ないだろう。、だが。

 

「やっぱり、はっ、はっ……だめか。魔法じゃないと……」


 死したはずのウサギがびくりと身を震わせ、起き上がろうとしている。

 やはりイルミナの言葉の通り、魔法でなくてはとどめを刺せないのだ。

 

 今のわたしに武器は無い。

 盾は壊れ、剣はウサギの頭部に刺さったままだ。

 

「ビヨン、君しか居ない」

 

 わたしはへたり込んでいたはずの友人を振り返った。

 驚いたことに彼女はもうしゃんと立っており、手には火球が燃え盛っている。

 どうやら当たり前のことにわたしは考え到らなかったらしい。

 

 わたしが剣の成長をしていたのならば、彼女もまたあの日の彼女ではなく、毅然として戦いに向きあえるだけの成長をしていたのだ。

 

「うん。今度は大丈夫そう」

 

 ビヨンが火球に照らされた手の平をウサギへと向ける。

 

「ごめんね、いくよ」

 

 それだけ呟くと火球は一直線に瀕死、あるいは再起の途中のウサギに直撃し、燃え盛る火焔が相手を包み込んだ。

 眩い炎が夜の森を赤々と彩り、その内に沈んだ黒い影は身悶えをするとどこかへと霧散したようにその姿を消す。

 

 火が消えるまでわたしとビヨンは手と手をとり、ただじっと魔法の炎を眺めていた。

 

 


 

「ね、何か落ちてるよ」

「ん? 本当だ。また羊皮紙だ」

 

 巨体があったところには、またもや一枚の羊皮紙があった。

 文面はたった一言。


『おめでとう』


 ただそれだけだった。

 

「きりはどこから流れ、どこへ招くのか 寂しい背中よ せめて歌を~」


 どこからか下手くそな、調子はずれの歌が聞こえてくる。

 わたしはウサギの消失に取り残された剣を拾い、音の方向をじっと見据える。


 やがて暗闇の奥から現れたのは白い帽子、白いローブとにやついた笑顔。

 わたしたちをこの場へ送り込んだ張本人。イルミナ・クラドリンだった。

 

「あ、あんた……」

 

 わたしの言葉をしかし彼女は遮る。

 

「いやいや大したものだ。よくぞ私の試練を生き残ったな。ま、死ぬことは決して無かったのだが。さて、ビヨンよ。その火球の威力は中々のものだな。とどめとするに十分な火勢であったぞ」

「あ、ありがとうございますっ、あれ? ん?」

 

 文句を言いたいのか褒められたいのか、ビヨンは目を白黒させている。

 

「ただ、魔法で攻撃する意志が弱かった。敵を打ち倒そうとする心に疑問を覚えたが故に、お前の火球は途中で霧散したのだ。その甘さはいずれ命取りになろう。夢忘れぬことだな。……次はユリウス、お前だ」

「は、はあ」

 

 手には杖ではなく、何故かフォークを持ったイルミナがその銀食器の先をわたしへ向ける。

 

「だめだめだな」

「だめ、とは?」 わたしは復唱した。

「ふうー……何のために魔法の扱いをわざわざ羊皮紙に書いたと思っている?

 ビヨンとお前に魔法を扱って欲しかったのだ、私は。しかしお前ときたら剣を振り回すばかり。フレデリックの若いころにそっくりではないか。いや、身体強化に魔力を使ってもいないのだから父親以下だな」

 

 わたしを評していると彼女の気分は次第に高揚していくようで、徐々に声音が大きくなった。

 

「お前にくれてやった盾と剣は私からの餞別だ。お前には土と回復を扱う素養がある。そのぼろっちい木の盾だが、土の魔法で補強をすれば、ウサギのか弱い攻撃など何発でも耐えられただろう。その上、回復まであるのだ。何も恐れることはなかった」

「なるほど。その為の……」

「そうだ。ユリウス、お前は今後攻撃ではなく支援や回復の魔法を学ぶことに力を入れるのだな」

 

 イルミナはそうしてひとしきりを語ると、懐から取り出した懐中時計を一瞥し、

 

「そろそろ頃合いか。腹も減っただろう、帰ろうか」

 

 どうやって、と言いかけたところで白い魔女は何かの文様が描かれた羊皮紙を数枚取り出し、それがぼんやりと青白く光ると中空へと放り投げた。


 視界が歪む。

 この夜の森へと放り込まれた時と同じ、意識の歪曲をわたしは感じた。

 反射的にビヨンの手を取り、引き寄せる。

 

「ふ……仲の良いことだ」

 

 それを見たイルミナが微笑ましいのか、愉快なのか、口の端を歪ませ笑う。

 意識が細まり、糸が切れるようにぷっつりと暗転した。

 

 

 

 

「……師匠~、デザートは要りますか~?」


 見慣れた椅子。飲みかけのお茶。

 キッチンから聞こえる妹と母の声。

 

 目を開くと居間へと戻っていた。

 

「ああ、頼む。ふふ、おかえり、二人とも」

 

 イルミナがほくそ笑む。

 仕事熱心な大時計が示す時間は夕方だ。

 

 ……やれやれ。

 

「き、狐に化かされたみたい」

 

 放心状態にあったビヨンがようやくそう言う。

 わたしはここにきて、ついに呆れた笑いを漏らした。

 妹がサラダの載った盆を卓上へと運び、腹の虫が鳴ったところでこの語りを終わろうと思う。

 

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