二章3話  ルヴェリアの魔法

 

 魔法の訓示を授けるといった怪しげな女の言葉をわたしとビヨンの二人は応じることにしたが、その一方でコルネリウスは踵を返して立ち去った。

 好奇心旺盛な彼のことだから、わたしよりも素早く、椅子から跳ね起きるような勢いで挙手をするかと思い込んでいたので正直なところ面喰らった。

 

「残ったのは二人か。ミリア、お前はどうするんだ?」

 

 わたしの母が甲斐甲斐しくも注いだおかわりの茶を瞬く間に飲み干し、イルミナ・クラドリンという自称魔法使いは、下向いたままで何の返答もしていない妹へと話の先を向けた。


 ひとつ違いの妹のミリアは自身のつまさきを見つめている。

 一生を左右する重大な言葉になると考えているのだろうか?

 もしそうだとするならば、それは考え過ぎというものだ。思い違いと言い換えたっていい。

 

「ミリア、この人が怪しいのはよく分かるけれど難しく考えることはないよ」

「お兄ちゃん?」 兄の言葉に妹が顏を上げる。

「魔法を教える家庭教師の値段って知ってる? 実はあれ、とんでもなく高いんだ。だからこの人がどんなに信用が置けないような怪しい人間でも、とりあえず聞くだけ聞いとけばいいんだ。やっぱり興味無いな、とか自分の身にならないと思ったらやめればいいし、困ったら父さんに頼んで縄で縛り上げてもらえばいいだけだよ」


 わたしは優しい口調で妹へ語った。無料だというのならば、とことんまで利用してやればいい。貰えるものは貰う。義理立てよりも実益である。

 ……勿論相手によるが。


「お前……しっかり聞こえているぞ。リディア、息子にどういう教育をしてるんだ?」


 イルミナがつまらなそうに言うが誰も取り合わない。台所からは母の適当な相槌と笑い声が聞こえてくる。

 わたしの言葉に妹は覚悟を決めたらしい。がばっとその顏を上げ、母譲りの緑色の瞳でイルミナを見つめると、

 

「あたしもやります!」

「ふん……では三人だな。リディア、杖を」

「はい、お師匠様」


 母は機敏に動き、イルミナ・クラドリンと名乗る女の言葉に唯々諾々と従い続ける。そのキビキビとした様子は平時の二倍も三倍も素早く、二階へと続く階段を駆け上がった。

 数分後。母は小さな子供の背丈ほどの長さもある簡素な木の杖を携えて戻り、イルミナはそれを受け取ると手元で一度だけくるりと回した。思いがけない品を目にしたような感嘆の息を吐く。

 

「……まだこんな物を持っていたのか。物持ちが良いのは相変わらずだな」

「思い出の品ですからね。褒めてくれて嬉しいです、師匠」 母は嬉しそうだ。

「褒めたわけではないのだがなあ。まあいい。さて、諸君! 講義を始めるとしよう。それぞれ卓につくがいい」

 

 一家団欒の場であるダイニングテーブルを早くも我が物としたイルミナが、三人の子供に着席を促した。

 とっくに座ってはいたのだが、それとなく身を正す。母は茶菓子を並べ、各々のカップにとぽとぽと紅茶を注いだ。


 イルミナとリディア。二人はかつては師弟の関係であったようだが、その実は単なるお付きのメイドではなかったのだろうかと、せっせと世話を焼く母の姿を見るとそう勘ぐってしまう。

 手厚い世話を受けるイルミナは数枚の羊皮紙と一本の羽ペンを帽子の中より取り出し、

 

「まずは魔法とは何かを知ってもらおう。最初から炎やら雷といった派手な魔法を行使するのも楽しいものだが、基礎が欠けては行けども行けども凡止まりだからな」

 

 そう言うと羊皮紙の表面にペンを走らせ、小奇麗な文字と多様な紋様を書きはじめた。

 

 

 

 

「……つまり、魔法には十三の属性があり、それらは術者の選択と詠唱によって回復にも攻撃にも、または召喚といった特殊な魔法にも成り得る。肝心なのは想像力だ。想像力は世界を変える。場に満ちる魔力、《マナ》を受け入れるのだ。さすれば長い研鑽の果てに偉大な術者となれるだろう。私のようにな」

 

 湯気を立てていた紅茶が冷え切るまでの間、イルミナは魔法について語り続けた。

 独学で勉強を進めていたビヨンと魔法の心得がある母は説明を理解出来たようだが、一方でわたしと妹の耳には半ば右から左であった。

 剣にのめり込まず、眠る前のほんの一時でも魔法について学んでおくべきだったと、これほどに後悔したことはない。

 

 部分部分は言葉の持つ意味でそれとなく理解を出来たが、やはり知識の欠如が問題なのだろう。肝要な部分を逃した気がしてくやしかった。

 

「さて、では何か質問は?」 イルミナが細い指先でこめかみを掻きながら言う。

 

 いつかの昔、学校の教師の『質問はありますか?』と尋ねられた時のようにわたしが手を挙げることはない。

 その代わりにわたしの横の席に座るビヨンがすらりとその手を挙げた。

 彼女は叶うならば一度、魔法について知っている者と話してみたいと、そう常々に言っていたのを思い出す。

 

「イルミナさん、その……言っていいのか分からないのですが」

「構わんぞ。何でも話してみろ」 音を立てて茶を飲み干し、白い魔女が言う。


 ビヨンは言葉を受け、おずおずといった様子でカバンから一冊の本を取り出した。

 それは彼女が毎日読み耽っている魔法の入門書だ。

 読み込みの程度を表しでもするように、所々が汚れ、場所によっては擦り切れた本を見たイルミナが片眉をぴくりと上げたのをわたしは見た。

 

「うちの勉強に使っている本と、その、お話が違くて……混乱してしまいます。これには魔法には九つの属性だと書かれていて……。すみません、どちらが正解か分からなくて」 伏し目がちにビヨンが言った。

「……少し貸してもらえるかな、ビヨン」

 

 イルミナはわたしの友人の手から随分な厚みのある本を受け取るとぱらぱらとページをめくり、奥付の部分を眺めると「あいつが書いたのか、ふん……」と鼻で笑い、嫌悪の色を浮かべた。

 

「ビヨン、悪いことは言わない。この本を読むのは今日でやめた方がいい」


 突然の言葉にビヨンが面を喰らう。

 彼女にしてみれば飛び降りるような気持ちで購入をした高額な本を手放せという理由が分からなかった。


「えっ……でもそれ、すごく高くて、勿体ないです」

「いいんだ。代わりなら私がいくらでも用意してやる。この著者……《ウィリアンダール魔術院》所属、デリリアム・ウィルソン。はん、この男ほどから遠い男も無いな。《ウィリアンダール》という学院それ自体は尊い存在だ。無論、その頂点に立つ学長殿は世界屈指の魔法の術者であられる。だが、この著者! デリリアム・ウィルソンという男は、文字と数式を追うばかりで実践など皆無! 学院の利権にへばりつく虫だ、虫」

 

 どうやら本とその著者の名がイルミナに眠るスイッチを刺激したようだ。

 彼女は大きな身振りで、やたらに演技くさい仕草で語る。

 

「いいか、ビヨン。これはわたしの師の言葉だが……魔法というものは、世界と語らう大いなる力だ。真の意味で扱うには自分の足で世界を知ることが重要なのだ。机にかじりついている凡愚の言葉を鵜呑みにするなどまさしく愚か! このような本を魔法という、偉大な技術体系の最初の追い風とすることは才能を墓穴にむざむざ埋めるようなものだ。繰り返すが、代わりの書は私がいくらだって用意をする。何なら直々に執筆してもいい。だからこの〝〟の存在にさえ、懐疑的である人物を追うな」

 

 芝居がかった白衣の魔法使いの言葉にビヨンは頷きを返した。

 と、彼女が何かに気付いたような顏をし、

 

「〝精王〟……? イルミナさんは〝精王〟を信じていらっしゃるんですか?」

 

 聞き慣れない言葉にわたしは当惑の顏を浮かべ、それは妹も同様であるらしい。ミリアの顏を見れば母や父と同じように眉根を寄せている。

 

「無論、信じている。魔法を行使する者でかの大いなる存在を信じ、感じないような奴は魔法使いを名乗るに相応しくないだろう」


 そう言いながらにイルミナが本をぱしりと平手で叩く。彼女が言うところのデリリアム・ウィルソンという名の男はよっぽど許容し難い人物であるらしい。


「すみません、良ければ僕やミリアにも分かりやすいようにお話していただけないでしょうか……」

「ん? ああ、すまん。剣士は頭がよろしくないのが多いのだったな。そもそもお前たちは魔力を身体強化に使うばかりでちっとも……まあいい、これは今度だ。では聞け」

 

この場にいたってようやくわたしはおずおずと手をあげ、声をあげた。魔法使いがにやりとした笑みを浮かべ、イルミナが語る。

 

「〝精王〟とは、極めて膨大な魔力の化身。そうだな、噛み砕いて言えば、十三ある属性それぞれの親玉だと思っておけ。《マナ》が目に見えないのと同様、彼ら偉大なる存在も目には見えないが、確かに居るのだ。

 最後に姿を確認されたのは……ふん、お前たち剣士が愛してやまない勇者ガリアンの時代だな。彼ら〝精王〟は勇者に助力し、〝霧の大魔たいま〟の封印にも関わったという話だ。なにぶん古代の話であるから、その存在に懐疑的な者もあるが……、ああ、もう名前を口にするのも汚らわしいな。ともかく〝精王〟は存在する。特異な土地の魔力濃度も伝承も、確かに実在を語っているのだ。

 かつての英雄である〝万魔〟と呼ばれた賢者、エルテリシアが辿り着いた魔法の極地。いつか魔導を極めた時には彼らを見ることも叶うだろうと、私はそう考えているよ」

 

 

 

 

 空が夕焼け色に染まり始めた頃にイルミナの語りは終わりを告げた。

 

「諸君、長々と静聴してくれて感謝する。人間種族を相手にこんなに語ったのは久しぶりでつい興が乗ってしまった。許せよ」

「いえ、こちらこそありがとうございました」

 

 ビヨンをそろそろ家へと帰す頃合いだなと、窓の向こうへと視線を投げた時、

 

「では次は実践に移るとしよう」


 音を立てて茶をすすりながら、白衣の女はそう言った。

 大時計を見る。もう立派な夕食時だ。これから何かをするというのにはとてもじゃないが賛成できない。間もなく黄色い月が夜空に昇ろうとするのなら、明日に回すべきだ。

 

「もう日が暮れますよ。しばらく滞在なさるというのですから、明日でも良いのでは……」 わたしは言った。

「それは違うな。魔法への興味の熱が高まっている今にこそ実践すべきだ」


 わたしへと手の平を向け、イルミナはきっぱりと断る。そしてニヤニヤとした顏でさっそくやるぞと言う。どうやらその意志は強い。

 

「だがミリアにはまだ……早いな。リディア、娘と夕食の準備でもしていてくれ」

「はい、師匠。何か食べたいものはありますか? リクエストを聞きますよ」

「なんでもいい」

「ううん、困る返事ですねえ……、はいはい」

 

 そうして母と妹の姿が居間から消えたのを見届けると、魔法使いは一枚の羊皮紙を取り出した。

 

「さらさら、と」

 

 長々とした文章を羊皮紙へつづっている間、わたしとビヨンは耳にした魔法について語らった。

 わたしはどの属性を持ち、ビヨンはどのような魔法が得意なのだろうか。

 知らぬ技術に夢想する間ほど楽しい時間はそうそう無い。

 実際の現実はともかくとして、だが。

 

「ほれ、駆け出し共。魔法のマニュアルをくれてやる」

「マニュアル?」

 

 手渡されたそれを二人で覗き込んでみると、なるほど、説明書マニュアルだ。

 いくつかの魔法の詠唱、体内における魔力の流し方、その心構えと小ネタが記されていた。大衆雑誌の一ページを飾っていそうなよく出来たものだと内心で感心する。

 

「わざわざありがとうございます。ええと、大魔術師のイルミナさん」

「いやいや、礼には及ばんよ。何故それを今書いたかと言えば、すぐに扱えねば命を落とすからだ」

 

 ぐらり、と意識が大きく揺れた。

 何だろうか。

 正対しているイルミナを見れば、彼女の背景が歪曲し波を打っている。

 

「私の『実践あるのみ』という言葉を覚えているか? まさにあの通り、お前たち二人には今から戦いの場へと赴いてもらう。なに、時間の心配はするな。からな」

 

 歪む世界の中で魔女が涼しい顏をして言う。

 わたしはとっさにビヨンの手を掴み、握り締めた。

 離れてはまずい。嫌な予感が胸に募る。

 

「お前たちに与える課題だがな、今から行く場所でウサギを仕留めてこい。一目見れば分かるだろうがそいつはただのウサギではない。そうだな……魔法でなくてはとどめを刺せない特殊なやつだと言っておこう。つまり魔法を行使出来ない限りは、お前らは延々とあの愛い奴に追い回されるわけだな」

 

 歪みがひどくなり、とうとうイルミナの顏さえもねじ曲がる。

 元より愉快そうな顔がますます歪み、少しの苛立ちを覚えた。

 

「師匠~、デザートは要りますか?」

「ああ、頼む。さて、では夕食の席でまた会おう、ユリウス、ビヨン」

 

 グッドラック。

 キザったい仕草で髪をかきわけたイルミナがその言葉を呟いたと同時、頭の先から急速に回転し、どこかへと意識が消えていく感覚がした。


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