一章11話 大丈夫


 森に出口は無かった。

 

 歩けど歩けど先は見えず、わたしたちの顏には次第に焦燥の色が射し、それはやがて強い不安へと変わっていく。

 

「ど、どうすんのよー…」 少女が声を震わせて呻いた。

「泣き言を言ったって仕方ねえぞ、ビヨン」

「コールくんはもうちょっと焦ってよ! ねえ、出れるよね?」


 不安の顏をしたビヨンがわたしを見る。

 彼女の焦りの表情は、わたしの胸の内を映す鏡のようだ。


「うん……出れるよ。だから安心していて。実際に僕は戻ってこれたんだから」

「そうだよね。そうだよね……!」


 切羽詰まった少女の顏に希望の色がともる。その希望がいつまで続くのだろうかと思うと、胸に疼くような痛みを感じた。

 しかしそれでも……わたしの強がりの一言で彼女を少しでも安心をさせられたのならば、それは喜ばしいことであることには違いない。


 コルネリウスは無茶な行動を起こした自身を自戒しているのか、それとも森を抜け出る道を探しているのか。随分と難しい顏をして、わたしの後ろを付いてきていた。

 彼には笑顔の方がよく似合っているのだが、その顏が晴れやかなものに変わることは当分は無さそうだ。

 

 途方に暮れている内心を隠し、若干の空腹を感じながらも出口を求めて彷徨い歩いていた時だ。涼やかな流水の音が確かに耳に聞こえた。


 わたしは急いで二人を振り返った。彼らも驚いた顏をしているのを見るに、どうやら幻聴ではなさそうだ。わたしたちは顔を見合わせ、その小さな変化に飛びついた。

 歩調を早め、流水の音のもとへと足早に向かう。

 そうしてわたしたちの前に現れたのは小さな川だった。

 

「川だ! ユリウス、おい! 川だぞ!」 コルネリウスの顔が喜びに変わる。

「本当に!? うち、喉かわいたよー!」


 ビヨンは喜色満面の顔をして、立ち止まりもせずに川を目指して駆け出した。


「うん、確かに……川だね」 しかしわたしの声は暗い。


 心がざわめいた。

 わたしにはこの光景に既視感を感じ、手放しには喜べなかったのだ。

 水に濡れた岩間を流れる小さな川。鳥の鳴き声が霧の中からいくつか聞こえる。

 坂の傾斜。霧の中へと消えていく水の流れ。

 

「っ……っ……っぷはー! 生き返るー!」

「おっさんみてえだな、ビヨン」


 間違いない、確かにだ。 

 川水で喉を潤す二人から視線を外し、わたしは周囲をうかがう。

 振り返れば盾のように屹立した岩が見える。

 特徴的な外見の岩。慎重に記憶を振り返るがそれはやはり過去に見た岩と同一だ。


 心臓の鼓動が強く、重く鳴る。

 胸に走る傷がずきりと疼いた。


 ビヨンとコルネリウスが顏をぬぐい、手で川の水をすくい飲んでいる。

 森に潜む小鳥が高い声で鳴いている。無数の音がわたしの記憶のそれと重なる。

 胸の内でいくつもの不安が湧いた。

 

「まずい」


 恐れか緊張か。視界が狭まるのを感じる。

 牛の頭。よどんだ瞳。血錆びの浮いた斧。迫るひづめ。

 恐怖の記憶がフラッシュバックを起こす。


 こめかみに冷や汗が浮かび、それはひどく冷たかった。

 恐怖に声も無く嗚咽を漏らした。吐き気が急速にせり上がりつつある。

 

「二人とも、川から離れた方がいい」


 出来るだけ落ち着いたつもりだったが、どうにか絞り出した声はひどく狼狽していた。


「なんでだ? それよかユリウスも飲もうぜ。冷たくて美味いぞ」

「釣りしたら魚が釣れるかも」

「いいから、早く」 二人を見据えたままにわたしは言う。


 珍しく語気を強めたわたしの言葉に彼らがたじろいだのを見て、心が痛む。

 怯えさせて悪いとは思っている。わたしとて、やっとの思いで二人が得たこの休息を邪魔したくはなかったのだ。


 二人が川から離れ、荷物をまとめて『また行く当ても無く歩くのか……』と暗澹あんたんたる思いを顏に浮かべるのと、それが起こるのはほとんど同時のことだった。

 強烈な地響きと何者かの叫びが、眠れる森とわたしの記憶とを震わせる。

 

 獣のいななき。

 その正体は雄牛の咆哮であると、冷や汗の浮かぶ顔で森の奥を振り返ったわたしは直感した。


 小鳥たちはささやかな羽音と鳴き声と共にどこかへと飛び立ち、二人の友は呆気にとられた顔で周囲の森の奥へと視線をやっている。


「……なに、なんの声!?」 ビヨンが怯える。

「わかんねえ。でも、なんか普通じゃない気がするぜ」 コルネリウスは真剣な面持ちのままに言った。


 この後に何が聞こえ、何が起こるのか。わたしは身に染みて知っていた。

 予想の通りに尋常ではない地響きが聞こえ、耳を凝らさずともそれがひづめで大地を打つ音だと分かった。

 高らかな音が連続して耳に届く。ひづめの主は降り積もった落ち葉の山を踏み散らし、あの日と同じようにこちらを目指しているのだろう。

 

「あの岩に隠れよう。お願いだから急いで」


 丁度いい具合に身を隠せそうな岩がすぐ傍にある。

 あの日の記憶を筋道通りになぞるようで避けたい気持ちは大いにあったが、この場に居るのはわたし一人ではない。かけがえのない二人の友が横に居るのだ。


 怯えるビヨンと焦りながらも槍を握り込むコルネリウスへと向け、わたしは岩へと走るように指示を飛ばした。

 冷静に振る舞ったつもりだが、内心は叫び出したいに怯えている。この心に渦巻く恐怖はきっと彼ら以上のものだろう。

 

「なに、なんなの!?」 ビヨンが目を見開いて怯えている。

「ビヨン、静かに。お願いだ。……無理な注文だと思うけど、頑張って」

「……やばそうだな」 コルネリウスは目を細め、物々しい足音に耳をすませた。


 ひづめの音が大きくなり、木々が音の主を恐れるかのようにざわめく。

 振動の音源が間近に聞こえた頃、それは不意にぴたりと止まった。


 わたしを含めた三人は口元に手を添え、じっと息を殺している。

 口元で人差し指を立てて二人を見る。『静かに』と。

 続けて二人に動かぬようにとジェスチャーをし、わたしは記憶にある通りに綺麗に丸くえぐられた岩の目出し穴に顏を近づけ、一瞬前までわたしたちが居た川へと視界を広げた。

 そして、わたしは確かに見た。


 牛頭の怪物を。

 血錆びの浮いた斧を。

 

 胸が早鐘を打つ。

 あの日と同じだ。

 彼は――怪物はこちらに気付いてはいない。

 

 怪物は直立したままにどこか虚空をただ見つめている。

 どれだけ待てばあの怪物は去るのだろうか。馬鹿みたいに大きな胸の鼓動を気にしながらに思考する。

 だが、その考えはすぐさまに消えた。



 ぱきり、と、木の折れる乾いた音がした。

 わたしたちではない。足元に音を立てるようなものは一つも無かった。

 あの日の愚を再び犯さないようにわたしはひどく注意し、危険なそれらを遠くへと投げ捨てたのだ。


 二人を見ると『自分じゃない』と目で訴えている。

 大丈夫、ばれるわけないよ。わたしは目でそう答えた。


 だが、嘘だ。

 怪物がこちらを見据えていることをわたしは知っていた。

 恐る恐るに岩陰から怪物をうかがう。

 結果が知れているというのに見なくてはならないことに、こんなにも勇気が必要になるとは思ってもみなかった。緊張から喉が小さく鳴る。

 

 ぎょろりとした目を見開いた怪物がわたしたちの隠れる岩へとその獣の顏を向け、霧の中にじっと佇んでいる。

 互いの視線が交差する一瞬、彼もこの光景に見覚えがあるのだろうか? と、詮も無い考えが脳裏をよぎった。


 何を馬鹿な。

 あの時の怪物はわたしの目の前で父に切り伏せられて死んだ。血の飛沫も噴出する血の流れもよく覚えている。


 ならこの怪物はなんだというのだ?

 あの日とそのほとんどが重なるこの状況は一体どう説明出来る?


 思考を飛び越え、短い言葉が口をついて出た。

 

「走って」

「え?」

「いいから。真っ直ぐに! 早く!」

「おい、一体……っておい、おいおいおいおい! 何だあ、ありゃあ!?」


 わたしたちは駆け出した。

 決して逃げきれないことを知りながら、少しでも生き長らえるべく、わたしは死の逃走に二人を巻き込んだ。

 

 

 

 

「はっ……はっ……! はっ!」


 息を切らし、森の中を逃げたい一心で必死に走った。

 落ち葉を散らし、枯れ枝を踏み、騒々しい物音を立てて自分たちの居場所を伝えることもいとわずに駆ける。皆で命にしがみつこうと、その気持ちを原動力としてただひたすらに前へと進みたかった。

 

「ユリウス! ぜぇっ、ぜっ……、はっ、俺たち、どこを、目指してるんだよ!?」

「出口に決まってる!」 わたしは叫んだ。

「出口なんて、はぁっ! はっ! 無かったじゃ、ないのよ!」


 肩で森の空気を切りながらに走った。ビヨンが脇腹を押さえてどうにか付いてきているのが横目に見える。


 数えきれないほどの木々を走り過ぎたが、背後から迫る轟音は止まず、むしろそれは迫りつつあった。

 それでもわたしは来た道を振り返らず前だけを見据え、同時に足元に慎重に気を配っていた。

 以前の逃走の最中、足元に這う木の根に足を取られた記憶がわたしに注意を呼び掛けていた。苦い記憶だ。

 

「はっ……! はぁっ、はっ……あっ……!」


 どさり、と嫌な音が真横で聞こえた。


 ビヨンがその場に転がり倒れ、長い金髪が湿った地面の上に広がり、彼女の衣服が泥に汚れていた。

 彼女の少し後ろにはのたくった蛇のように歪んだ木の根が見え、汗が噴き出るような緊張を覚えた。そんな馬鹿な。心臓を掴まれたかのような動揺がある。


 まさか、ここがあの場所だと言うのか?

 この森は広い。にも関わらず、同じ場所でわたしの同行者が転ぶなどと、そんなことが有り得るのか。

 この悪夢がそこまで詳細に前回の体験をなぞっているのだと考えると心の底が冷えるようだ。


「うっ……あ……どう、しよう」


 彼女は後悔か恐怖か、それとも両方か。

 瞳を潤ませ、目元に浮かんだ大きな滴は今にも零れそうだ。

 

「まだ大丈夫だ。立って、ビヨン」

「ううあ……ごめん、ごめん、うちが……」

 

 わたしは手を差し出した。けれど彼女は震えるばかりで手を取ろうとしない。

 なだめるつもりはなかった。それよりも生きねばならないのだ。

 彼女の腕を掴み、力任せに起き上がらせようと思い立った時だ。

 コルネリウスが目を凝らし、迫る脅威を見据えた。

 

「よお、大丈夫じゃなさそうだぜ。音がどんどんデカくなってきてやがる」

 

 怪物はこちらを目指し、重い足音と共に疾走している。

 枝葉の折れる音、腹の底を震わせる地響き。

 怪物はもうすぐそこまで迫っていた。

 

「俺はやるぜ」

 

 コルネリウスが槍をくるりと回し、いつものように構えた。

 それは愚行以外の何者でもない。子供二人が無策のまま、付け焼刃の剣技でどうにか出来る相手ではないことは明らかだ。わたしたちは神に祝福された勇者ではない。

 

「コール、僕たちじゃどうにも出来ないよ、無理だ!」

「やってみなきゃわかんないだろ?」


 彼がいつものように笑顔を作って返す。

 毎日毎日笑みを欠かさなかった彼だからこそ、それが強がりなのか自信のそれなのか、わたしには分からなかった。

 だが、わたしは現実を仲間に教える義務がある。


「いいや、絶対に無理だ。僕たちは勇者じゃない。……まだね」

「……何か考えがあるのかよ?」


 走り逃げていた最中、わたしにはこの場を切り抜けるひとつの考えが浮かんでいた。しかしその考えにわたしの吐き気が強まる。

 それは自殺に等しい、死の暴威の只中ただなかに飛び込む決死の策。


「ひとつだけある。村へ走って大人を呼んできて欲しいんだ」


 この言葉にコルネリウスは片眉をあげて不審げな顏をした。

 疑問の顔色も当然の反応だろう。

 実際に途方もなく歩いても森からは出られなかったのだ。


「……俺の耳がおかしくなっちまったのかな、もう一度言ってくれるか? 森からは出られないはずだろ?」 怪訝な顔で彼が言う。

「今度は大丈夫。原因はきっと僕だから」


 確証は無い。

 が、わたしにはある予感があった。

『霧は人を気に入る』と、父があの日の帰り道に言っていたのを思い出したのだ。

 きっと霧にのはわたしだ。

 

 ずしり、と足音が迫る。

 もう時間は無い。薄もやの先に巨大な影が見え始めている。

 

「助けに行くにもビヨンは足をくじいてる。それにコールの方が僕よりもずっと足が速いだろ? だから、お願いだ。村へ走ってくれ」

「お前はどうすんだよ!?」 コルネリウスが慌てた顔で言う。冷静さを取り戻した彼は良い友だった。

「……何とかするよ。同じフォンクラッドの剣を学んだ男として、親友として信じてほしい。さあ、早く行ってくれ」

「……分かった。ビヨンを頼むぜ、ユリウス。死んでも死ぬんじゃねえぞ!」

 

 そう言うとコルネリウスは走り去った。わたしは振り返らなかった。

 それにしても。

 

「死んでも死ぬな、なんて意味が分からないな」

 

 笑みを浮かべた口元から小さく息を吐いた。

 彼はきっと助けを連れて戻るだろう。

 わたしが今この場ですべきことはたったひとつ。

 ビヨンを守り、生き残ることだけだ。

 

 霧の奥に見える黒い影が足音が大きくなるにつれて次第に濃くなっていく。

 最初の霧の日を忠実に再現しているこの状況だが、不思議と今では戦える気がした。それは父とコルネリウスとで何度も繰り返した稽古の経験が……いや……。

 違う。霧の中で目覚めてからではない、もっと遠い記憶の中に鉄と炎があるのが見える。わたしは……こうして魔物と戦ったことが確かにある。

 

 目線を下向けるとビヨンがわたしの足元で泣きじゃくっていた。

 わたしは彼女の頭に手をやり、精一杯、あらんかぎりの勇気を振り絞って笑顔をつくってみせる。

 

「大丈夫だよ、ビヨン。僕が君を守るから。

 どうか泣くのを堪えて見ていて欲しい。……お願いだ」

 

 わたしが言えたのはそれだけだった。

 これ以上は這い上がる恐怖からか、どうにも上手く言葉を発せそうになかった。


 しかしそれでも効果はあったらしい。

 彼女は泣き声を抑えるために唇を引き締め、あいかわらず喉をひくつかせてはいたがしっかりと一度だけ、確かに頷いた。

 

 血錆びのこびりついた斧が目に入り、続けて怪物の足が霧の向こうから現れた。

 わたしではない人間が後ずさりをする音が耳に聞こえる。

 わたしが退けば彼女が死ぬ。……大丈夫だよ、ビヨン。





 あの日のわたしを救った、コートを羽織った剣士はこの場には居ない。

 けれど、それはあの日を演じる役者が変わっただけのことだ。

 

 かつて、弱く、虚ろだったわたしをビヨンが演じ、

 わたしの憧れた強い父の姿を、わたし自身が演じるのだ。

 

 あの日の父の勇姿をわたしはなぞる。

 

 少しでも刃が鋭くなるように。

 僅かでもこの身が走るように。

 守るべきものを守れるように。

 

 胸の前で指先で小さく円を描き、ぎゅっと拳を握った。父の真似ごとだ。

 この所作にどんな意味があり、由来さえも知らなかったが、わたしの内には確かに勇気の火がともった。


 わたしの名は、ユリウス・フォンクラッド。

 わたしはもう、空虚で、名も無き男ではない。

 

 

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