一章10話 忌まわしき霧
その日、忌まわしい〝霧〟は古い言い伝えの通りに一切の前触れも無くあらわれた。灰色の濃霧はわたしたちの生活圏をすぐさまに捕え、青空と日光の射す大地と人々を世界から切り離す。
わたしの知りうる限りにおいてはまるで予期されぬものであり、リムルという名の小村の人々は直前まで普段と何ひとつ変わらない牧歌的な生活を営んでいた。それがために彼らが怯え、逃げ惑う様はまさに阿鼻叫喚の有様だった。
「霧だ!」
最初に霧を見た誰かが声に恐怖の色を乗せて叫ぶ。
その周囲に居た村人は皆、瞬時に精神と身を強張らせ、それから少し遅れて森から流れてくる霧を両の目で確かに見た。
その顏は瞬時に青ざめ、穏やかな感情はかけらひとつさえも残ってやしない。
「……逃げろ……逃げろ! 家族を連れて家に隠れるんだ!」 男が叫ぶ。
「光の五神よ、勇者ガリアンよ、我らに霧払いの救いの御手をどうか……」
老婆が祈りの言葉とともにその場にくず折れ、大柄な若い農夫は声を張り上げて村民へと避難を呼びかけた。
村の広場に男たちが即座に集まり、いつか見た中年の男を中心にして対応を検討しはじめている。
「動ける男は武器と松明を持って村の周りを固めるんだ。いいな」
「フレデリックさんの姿が無いじゃないか、彼はどこに居るんだ?」
「旦那は三つ離れた街に出てる。連邦からの急な呼び出しだそうだ。くそっ、なんだってこんな時に……間が悪いったらねえよな。だが旦那のことだ、馬の早駆けでこっちへ向かってるに違いねえ。旦那が戻るまでは俺らでどうにか守るぞ!」
「おう!」 男たちが拳を重ね、大声を張り上げた。
◆
わたしはつい少し前までいつものように賑わっていた村の広場に居た。
真っ白なペンキに塗られたいつものベンチ。そこがわたしの定位置であり、今日もまたその椅子にぽつりと座っている。
食材の買い出しをしていた女も、
世間話をしていた二人の老人も、
農具を担いだ屈強な男たちも皆、丘の向こうより現われた霧を目にした途端、蜘蛛の子を散らしたように姿を消してしまった。
それは意識の根幹に根差した恐怖。刷り込まれた恐れからの行動だ。
ある者は家へと隠れ、ある者は武器と火を手に持って村を守りに出た。
霧の持つ灰色の腕が人々の意識を煽り立て、その姿をさらっていってしまったかのようだった。
「お前は帰んなくていいのか?」
聞き慣れた声がわたしの意識を灰色の光景から現実へと引き戻した。はっとして声の方向を見ると、やはりというべきかその声の主はよく見知った男だった。
「コール……君は外に出てくると思ったよ」 わたしは呆れ声で言う。
コルネリウスが横に居た。
ベンチに腰を掛けた彼の快活な表情は陰鬱な霧の中であっても何ひとつ変わらない。どころか生き生きとしてると言えるだろう。
「十一歳で槍を振り回せるんなら、もう霧の中を歩いたっていいだろ? ほれ」
驚くべきことに彼は鈍色に光る幅広の剣と槍、それに木製の丸盾を持参していた。
強い興味をひかれたわたしは剣を手に握り、すぐにずしりとした重みを感じた。これは木では無い。しっかりとした鉄の重さだ。
木製では無いこれらの本物の武器は、害意をもって振るえば間違いなく他者を傷つけることが可能だろう。
彼が自身の得物である槍の他に剣を持ちだしていて、それをわたしに見せたことの意図とはなんだろうか。少なくともただの散歩の誘いではなさそうだが。
「……僕らじゃ村の守りの邪魔になるんじゃないかな。それに僕はまだ九歳だよ、コール」
何がおかしいのか、わたしの言葉に彼はくつくつと楽しそうに笑う。
「村の守り? いやいや違うぜ、相棒。俺は腕試しをしようと考えたのさ」
「腕試しって……。まさか、魔物相手に?」
「御名答。さすが冷静なるユリウス様だぜ。察しが良くて助かる」
そう言って彼は自分が言うところの素晴らしいプランを語り始める。
聞けばコルネリウスの考えは子供らしく愚かで、駆け出しの戦士らしく無謀なものだった。
この世界では〝霧〟の発生と魔物の発生は同義だ。
人々は魔物の襲撃に備え、戦える者は手に武器を持ち、力の無い者は家屋へと身を隠す。いわば災害の一種だと言える。
わたしたちのような子供は家族ごとに集まり、霧が消えるまでのあいだはじっと息をひそめて待つことが世の常識となっている。霧の中へと子供が単身で出て行こうとするのならば誰もがその手を掴み、どこか安全な場所へと連れ出すだろう。
しかしコルネリウスはその風習を嫌い、どころか心の中でくすぶっていた願望を実行へと移すチャンスだと考えた。
霧が出たぞ! と叫ぶ声を聴いて彼はニヤリとしたのだろうなと想像する。
現実として今この場でわたしたちが霧の中へと飛び出していったとして、その行動を即座に咎める者は誰一人としていない。
広場に大人の姿は無く、わたしとコルネリウスという二人の少年の姿は霧に覆い隠されていた。この場においては、我々の良識と冷静な判断だけが状況を左右する。
わたしの父を互いの武術の師とするわたしとコルネリウスは、素人に毛が生えたものではあったが戦闘の心得があった。だがそれは父と木剣を打ち合わせる稽古での話であり、実戦は一度も経験してはいない。願ったところで決してさせてくれないだろう。
わたしは彼が度々にぼやいていた言葉を鮮明に思い出した。
『親父さん相手に打ち込むのも悪くねえけどよ……。一度でいいから、魔物とやり合ってみてえよなあ』
彼の声色が冗談めいたものではなかったことは確かだったと、わたしははっきりと断言を出来る。コルネリウスは人々が霧を忌避し、叶うならば二度と世に現れないことを願っている一方で、今か今かと霧の到来を待ち望んでいたのだ。
自身の腕が魔物相手にどれだけ通じるのか。
自分がこの世界というものにどれほど立ち向かえるのかを知りたかったのだろう。
「いつか来る霧に備えて武器を家の軒下に隠しといたんだよな。俺って準備いいだろ?」 白い歯を見せて笑う。これは遠足じゃなければ悪戯でもないのだが。
「そ、そうなんだ」
止めなくてはならない。
腕試しをしたいのならば、もうあと数年、十四や十五といった青年と呼べる年齢に達した頃にすればいい。現在の無力なわたしたちは家で嵐が過ぎ去るのを待つべきだ。
わたしはコルネリウスの装いを上から下まで観察した。
普段使いの麻のシャツではなく、厚手の革のジャケットを羽織った彼はその手に古びたグローブをはめていて、足には見るからに頑丈なブーツを履いている。彼のことだ、つまさきに鉄板でも仕込んでいるのかも知れない。
しかし……これだけの準備は、とても一朝一夕では整えられないに違いない。
彼は自身の言葉の通り、以前からこの日のために入念な準備をしていたのだろうことは一目でわかった。
この決意はもしかしたら、わたしが霧で目覚めたあの日が切っ掛けかもしれない。
ユリウスという彼の友人が単身で霧に迷い、魔物を眼前で見たことに、彼は遅れを取ってしまったと感じたのだろう。彼の勇猛な性格を省みれば、あり得ない話ではない。
コルネリウスの顔は実に愉快そうなとのではあるがその心は真剣そのもので、多少の説得では退きそうにないことは明らかだった。
金色の瞳が「行こうぜ」とでも言うようにわたしを見る。
一体どんな言葉であれば彼は止まると言うのだ?
コルネリウスという少年は、やると決めたことは必ずやる男であるというのをわたしは知っていた。
わたしが同行を拒否したとしても、彼は単身で魔物が居るであろう霧の中へと歩いて行くことは今更に疑いない。思考をする今この瞬間にも彼は槍を手に持ち、鉛色に光る槍の穂先を満足げに眺めている。
「ここで何してるの!? 早く家に戻りなよ!」
誰かの叱責が突然に耳をつんざいた。わたしは大いに驚き、思わず身をすくめる。
「げっ……嘘だろ」 コルネリウスがまさか、と驚きの顔を見せる。
「ビヨン? 君なの?」
「そうだよ。悪だくみをしてる二人がよく見えるんだから」
霧の横たわるベンチへ向けてどこからか聞き覚えのある声が降りかかる。
周囲を見てみれば、明かりの灯った窓から顔を突き出しているビヨンの姿が見えた。そういえば彼女の家はベンチのすぐ裏だった。
「何かあったら遅いんだから早く戻ったほうがいいよ、もう」
「戻らねえって。俺らは森に行って魔物をやっつけるんだからよ。なっ!」
「あー……。どうしようかな。ねえ?」
わたしはコルネリウスの平手を肩に受けながら、家屋の二階から顔をのぞかせるビヨンを見上げた。
聡い彼女ならば、わたしと同じ考えにすぐさまに到るだろうことを期待した。
「……はあ。ちょっと待ってて」
ビヨンはそう言うなり窓辺から顏を引っ込め、それから数分後。
自宅の裏手から彼女がそろりそろりと姿を現した。勝手口から出たのかも知れない。
頭にはニットキャップを被り、ジャケットやセーターを何枚も重ね着しているから上半身は着ぶくれしている。
手には鍋の蓋と調理道具のお玉。
戦闘力の有無で言うならば、正直にいって全くのゼロだ。
だが、彼女の気概と抱いた考えは明確である。
「……二人とも。というか言い出しっぺはコールくんだよね。森に行くんでしょ? ユーリくんはそんな馬鹿なことを言いだすわけないし。止めても無駄だから、せめて無事に戻れるように付いて行こうって考えたんだよね?」
「正解だよ、ビヨン」 わたしは肩をすくめた。
仲間を得られたような気がして、わたしはほっと一息をついた。
「お前も来るのか?」 心底嫌そうな顔でコルネリウスが言う。
「心配だからついていくの!」
「心配いらねーって。ったく……足引っ張んなよ、お勉強家のビヨンちゃん」
こうしてわたしたちは事態の重さも知らぬまま、霧に覆われた森を目指した。
わたしが目覚めたあの灰色の森へとこの足は向いたのだ。
◆
「中々雰囲気あるな……いかにも魔物が出そうだぜ」
立ち込める霧によって灰色に染まった街道を歩き、わたしたちは森のほとりへと辿り着いた。
正門からは出ず、村の周囲を覆う林を抜ければ誰の目にも止まらずに村から抜け出ることは容易だった。
「いかにもっていうか。この森どころかすぐ側にはもう居るんでしょ、魔物……」
「……多分ね」 うんざりした顔で言うビヨンにわたしは答えた。
森に群生する太い木々。その枝葉は天蓋をかたどるように互いに覆いかぶさっていて、森の奥は霧の影響で見通すことが出来ない。
わたしたち以外の生物の気配は無かったが、この森には人ならざる魔物がいるのだろうことをわたしは経験で知っていた。
わたしが出会ったあの牛頭の怪物の姿が脳裏にありありと蘇る。
牛の頭部に強靭な戦士の肉体。
特徴で考えれば
歩いてきた道を振り返ってみると、果てもなく広がっているはずの広大な平原は霧に遮られていて、その見晴らしはひどく悪い。
地平に横たわる灰色の山脈はおろか、わずか数メートルより先もが見通せない。
まるで世界から隔絶されてしまったかのようだ。
友がそばに居るにも関わらず、わたしは心細い気さえ覚えた。
「行こうぜ、ユリウス」
人の気も知らずにコルネリウスが嬉しそうな顔で言う。
どうやら森を目の前にしてからというもの、わたしの友の興奮は高まる一方らしい。
「うん。でも早いうちに引き返すつもりでね。村の人にばれでもしたら
「分かってる分かってる。大丈夫だって」
彼は心配などは後ですればいいという態度だった。そんな彼をビヨンが咎める。
「何が大丈夫なのよ……。ねえ、帰るタイミングはユーリくんに任せようよ。なんだかんだで一番冷静なのはユーリくんでしょ? ね、お願いね」
「異議なし!」 コルネリウスが槍の石突きで木の根を打ち、声高に言う。
「コールくんの頭の中は筋肉質過ぎて信用出来ないから、うちがこう言ってるのを分かってるのかなあ」 ビヨンが口をとがらせてぼやいた。
ビヨンの提案にわたしはひとつ頷き、コルネリウスもそれを了承した。
魔物を一匹でも仕留める。
それでなくとも、この目で確認さえしたらすぐにでも戻りたいとさえ思った。
離脱のタイミングを誤れば、わたしたちは全くの冗談ではなく、本当に命を落とすのかもしれないのだから。
そしてわたしは友に手を引かれ、どこが入口ということもない、適当に見当をつけた木々の間から森へと入り込んだ。
霧の横たわる灰色の森だ。
今思い返せば、どうしてわたしは冷静でいられなかったのだろうか。
平時のわたしなら、思考をし、言葉を選んで熱に浮かされた親友を止める事が出来たはずだったのに。
◆
「霧がすごいね。村の周りよりもずっと濃いよ」
「ああ。いかにも出そうだな」
「コール、それしか言ってないね。周りに気を付けて。木の根っこが危ないんだ」
眠りについたように静かな森の中は、一足早くに真冬が到来したような寒々しい有様だった。
雪の姿は無かったが、白色の代役は霧が務めている。
当てもなく霧の中を歩く現状は、あたかもわたしが目覚めた日を再び歩くようだと、見通せぬ先を睨みながらにわたしは心の中で静かに思った。
次第に皆の口数が減っていく。
彼らも思案に耽っているのだろうか。
ビヨンは緊張の面持ちで、コルネリウスは興味深そうに周囲を見回している。
「おい、何か居るぞ」
日常ではそうそう見れない真面目くさった顔でコルネリウスが言う。
短い言葉ではあったが、わたしとビヨンが身を強張らせるには十分な言葉だ。
脳裏に牛頭の怪物の姿が蘇る。あれに出会ってしまったのならば、気付かれる前に速やかに撤退するべきだ。
かつて父はあの恐ろしい怪物に軽々と引導を渡していたが、今のわたしたちのような子供が無策でどうにかできる相手ではない。
いや、万全だったとしても殺せはしないだろう。
こちらが抵抗も出来ずに死ぬ可能性の方がずっと高い。
「え、ちょっと、冗談でしょ?」 ビヨンが口に手をあてて緊張をする。
「本当みたいだよ。……大きいな」
慌てた声をあげるビヨンの背中を手の平で一度撫で、わたしはコルネリウスの指差す先へと目を凝らした。
うすもやの先で丸い何かがゆっくりと歩いている。
大きい。が、人型ではない。
強靭な戦士の肉体を有する、未だに時折わたしの悪夢の中でいななくあの怪物ではなさそうだ。
「どうする?」
わたしはコルネリウスに問いかけた。
彼の目の輝きを見ればその答えは聞かずともわかるものだったが、不安を覚えているビヨンの前だ。言葉で確認を取るべきだろう。
「もちろん行く。いてっ、分かったよ。様子を見ながらな」
「慎重にね。相手は魔物だってことを忘れないで」 少しだけ語調を強めてわたしは言った。
「ユリウスまで……了解了解」
太い幹をもつ木の影に身を忍ばせ、足音を立てないように慎重に前へと進む。
わたしの首筋にかかるビヨンの息がなんとも言えない。
怖がらないで、と一言だけでも伝えてやりたかったが、わたし自身の胸の鼓動が早まっていることに気付き、少しの強がりも言えなかった。
距離が近付き、怪物を隠すベールが薄くなり、その姿が明らかになる。
丸い大きな胴体が目に入る。
全高は子供であるわたしの目線と同じ高さだ。
体の下部には六本の足があり、内二本は一際太く、ハサミのように見える。
胴体の上部から突き出た二本の管はどうやら目のようだ。
わたしのつたない感想で恐縮だが、私見では、あれは。
「カニかな?」
「俺もカニに見えるぜ」
「うちもカニだと思う」
わたしたちが霧深い森の奥で出会ったのは一匹のカニだった。
ただし人の子ほどもある巨大なものだが。
街の市場でもこれだけの大きさは見た事が無いし、きっと真っ当な海洋生物の辞典にも載っていないと思われる。
カニはわたしたちに気付いていないのだろうか?
甲殻に覆われた巨大なはさみとその太い脚で落ち葉を踏みしめ、歩いている。
木の根元からまた別の木へと移動をし、しばらく止まったかと思えば再び歩きはじめる。
感づいていないのか、敵意がないのか。
かさかさとささやかな音を立てて移動をする様子は、やはりどこか非現実なものに映った。
すぐ傍で土を抉る音がした。
真横に立つコルネリウスが槍を握り直し、石突きを大地に立てたのだ。
不敵な笑みを浮かべてわたしを見る。
「やるか?」 目がやる気に満ち輝いている。
「……わかった、やろう」 観念をするしかないだろう。
この時、わたし自身が高揚していたことをここに白状しよう。
この手に握る剣で魔物を切り裂けば、憧れの〝霧払い〟に近付ける気がしたのだ。
藍色の甲殻を持つカニは、相変わらず悠然と歩いている。
幸いなことに目の前の魔物からはさほどの脅威を感じない。
人外の存在に対しての評価には不当だろうが、わたしたちでもどうにか倒せそうに思えた。
「ビヨンはそこで待っていて。おかしい事があったらすぐに呼んでね」
「うん、うん、怪我だけはしないでよ。薬は無いんだから」
「カニに挟まれたってちょっと痛いぐらいさ。ビヨンは鍋の蓋を抱えて震えてな」
わたしとコルネリウスはそれぞれの武器を構え、ビヨンの心配げな視線を背中にひしひしと感じながら魔物へと挑みがかった。
「お……っりゃあ!」
木の根を踏みしめたコルネリウスが跳び、狩人さながらに猛然とカニへと襲い掛かった。
鉄を鍛えた槍の穂先が甲殻を捉えたが、僅かに傷をつけただけで弾かれる。
衝撃を受けたカニがぐらりと揺れる。が、次の瞬間には前足のハサミをしならせて勢い良く振りかぶった。
「あっぶねえ、はは、おい、生きてるぞこいつ!」
コルネリウスが寸前で転がり避ける。何がおかしいのか、彼は笑っていた。
「そりゃそう、だ! 魔物だって生きてる!」
続けてもう一方の前足が振りかぶられる。
コルネリウスの脇腹を狙った攻撃だったが、わたしは既に両者に肉薄しており、ハサミと友の間に腕を割り込ませるとその一撃を丸盾で受け止めた。
みしり、と木製の盾が軋む。興奮に息が荒くなるのが分かった。
人でない者の攻撃を盾で受け止めるのはこれが初めてのことだった。
「重……い……」
稽古において。
父やコルネリウスの攻撃を盾で受けた時は人間の行動ということもあり、心には一定の安心があったが、目の前の人ならざる魔物はわたしを害そうとしている。
重い一撃と眼前の人外。その両者の重圧が強くのしかかる。
わたしは実戦の経験の無い素人ではあったが、それでも父による戦闘の稽古を受けていて良かった。相手を素早く観察する。甲殻は固い。ならば関節部分を狙う。甲冑を狙う時のコツだと父は言っていた。
右手の剣の剣先を魔物へと向け、ハサミと胴体の間にある腱を鋭く見据え、鉄剣の切っ先を突きたてた。
するとカニが声も無くその身をよじり、片方のハサミがだらりと下がる。
「やるじゃねえか! このまま畳むぜ!」 効果のある攻撃方法を見たコルネリウスが興奮に声をあげる
「わかった。だけど相手は生きてるから気を付けてよ」
「分かってるって!」
「本当かなあ……」 彼の耳に聞こえているのだろうか。わたしの胸に一抹の不安が芽生えた。
槍が甲殻の隙間を穿ち、わたしも剣による刺突を繰り返した。
攻撃を受け続けたカニは残った片腕でわたしたちを追い払おうと試みるが、それは空しく空を切る。
魔物の動きは受ける攻撃の量に比例して徐々に鈍くなっていき、やがてその場に倒れ、力尽きた。
戦闘の高揚からとてもそうだとは感じなかったが、実際の時間では決して短くない時間が経過していた。
わたしたちはわずかの間にひとつの生命を奪った。
カニが血を流さなかったことと、周囲の霧が現実感を薄れさせたのだろうか。
返り血が無かったにも関わらず、わたしとコルネリウスは汚れにまみれていた。
もっとも、それらは魔物からの攻撃を避ける為に派手に、みっともなく転がった際に付着したものだったが。
気が付けば耳鳴りが起こっていた。
興奮か緊張、そのどちらが原因かは分からないが、これではビヨンが注意の声をあげても耳に届いていなかったに違いない。
振り返ると彼女がこちらへと駆け寄っていた。
タイミングと安堵の表情から察するに大きな異変は無かったのだろう。
コルネリウスが望む、危険としか言えない小さな冒険だったがその目的は達成されたのだ。
「終わったね」 息を弾ませながらわたしは言った。
「おう。へへ……俺たちでも魔物を倒せるんだな。これは自慢できるぞ」
「父さんや先生の前では絶対言わないでよね、それ。僕たちだけの秘密にしよう」
「残念そうな顔しないでよ。バレたら大事だって、あんたの脳みそでも分かるでしょ?」 ビヨンがわたしの言葉に続く。
「その通り。さ、帰ろう。コール、ビヨン」
「おいおいひでえな。はは」
初めて得た勝利を祝い、わたしとコルネリウスは二人で拳を突き合わせた。
互いに革製のグローブ越しであったが、この時の力強い感触をわたしは忘れることはないだろう。
「男の子ってわかんないなあ……」
ビヨンが呆れた顏をしてわたしたちを見ていることには、やや遅れて気が付いた。
◆
おかしい。
帰路についたわたしたちだったが、歩けど歩けど一向に森を出れない。
「ど、どうなっちゃってるのこれ~……」
「……なんかやばそうだな」
森へ入り、カニの魔物と遭遇するまでの歩数はとっくの昔に越えている。
霧中を歩き、木々がまるで壁のように生い茂る中をただ歩いた。
あの木には見覚えがある。
あの傷、あのゆがみ、枝の生え方。
だが、本当にそうか?
わたしは二人を先導し歩いていたが、確かな道などというものは一つもない。
どうやらこの世界にはおかしなことがいくつもあるらしい。
わたしたちは、森に捕えられたようだ。
森に他の音は、ひとつも無い。
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