一章9話  ある過日、父との一幕

 

 これはある過日のある一幕の話であることを先に断っておこう。


 秋にしてはその日は暑く、数週間前に過ぎ去ったはずの夏の最後の叫びのようであるとわたしは感じていた。

 

「ユリウス、お前暑くないのか? カーディガンなんて脱いじまえよ」 金髪の下に笑顔を浮かべたコルネリウスが、わたしに向けてそう言った。


 その日は週末を控えた最後の平日で、教会学校の授業も時間を繰り上げて終了をしたものであるから、正午を少し過ぎた頃にはわたしたちは暇を持て余していた。

 

「僕は大丈夫だよ。でも、そうだね。冷たいものが飲みたい。本当に」

「うちはもう限界。今日がこんなに暑くなるなんて知らなかった」 ビヨンが呻く。

 

 わたしの履く革靴が街路を踏み、すぐ横を友人が並んで歩く。

 真夏までとは言わないが、それにしたって今日は相当に暑い。


 街を往く人々は秋用のセーターを脱いで腰に巻くか肩にかけ、紳士はフェルトのハットを胸の前で抱えて太陽を恨めしげに睨んでいる。

 うだる暑さの中で平時と同じ活力を発揮しているのは馬鹿になったニワトリとコルネリウスぐらいのものだろう。


 酒場の日除けの下に設置された丸卓を囲った男たちが、ジョッキに並々と注がれた黄金色の酒を喉を鳴らして飲み干す姿が目に入る。

 わたしは酒の味を未だ知らないが、こうも気温が高い日に飲む飲料というのは全くもって格別の味だろう。

 ジョッキの表面を流れる水滴が見る目に涼やかでいて実に美味そうだ。わたしが一口を分けてほしいと頼み込んだらどうなるかな。

 


 さて、快活という字が人の身を得たような性格であるコルネリウスは、今日という一日の最初から半袖半ズボンの出で立ちで家を出ていた。

 

「おはよう。何だよ、その目は? 今日は暑いんだって! マジだからな!」

 

 そんな彼をわたしと妹、それにビヨンは「秋にその格好は無いだろう」と笑ったものだが、結果として気温についての賭けは彼の勝利に終わった。賭けにしとけば良かったなあと授業中に彼がぶつぶつと言っていたのは確かなことだ。

 妹は袖を大きくまくり、ビヨンは紺色に染められたカーディガンと灰色のシャツを脱いで肌も露わなタンクトップ姿に装いを変えていた。


 あらかじめに言っておくが、わたしは他者を目では見ない。つまり……コルネリウスやマセた同級生が言うところのエロい目線というやつだ。

 であるからして、家族という以外に何の感慨も抱かない妹はともかく、親しき友であり同窓の友であり気心の知れた仲であるビヨン・オルトーという少女の白く滑らかな肌と肩。長く伸ばした薄い金色の横髪がうっすらとかかり、何とも言えぬ艶のある鎖骨のラインと胸元一帯に決して自身の視線を奪われることはなかった。

 

 わたしは……わたしは男児である。フォンクラッド家の男だ。

 男児とは耐え忍び、守るべきものを守るというのが父の言葉だった。

 記憶の中の父が口を引き結んだ毅然とした顏で、


『いいか。男は自分を強く保つものだ。それは例えば魔物との戦いだったり、苦境だったり誘惑だったり……』

『誘惑?』

『ああと……男には弱点があるんだ。それは……何て言うかな。ギュスターヴならさらっと言うんだろうが……つまり《エッチなもの》に男は弱い。分かるか? まあそのうち分かる。いや、もしかして分かってて首を傾げてるのか? おい、どうなんだ。何が言いたいかっていうとそういう誘惑に負けるなってことで……。もしかしてもう付き合ってるのか? 九歳でそれはまだ早いぞ!』


 衣服の内に熱がこもる。よからぬ考えもつらつらと。どうにも耐えがたい。

 何か……何かでどうにかして発散を……。

 コルネリウスに揶揄された自身のカーディガンの裾を今すぐまくり上げ、言葉を平時よりも大幅に乱して『あっちぃー! たまんねえなこれは!』と、今しがた酒場から出てきた男の真似でもして叫び出したかった。


 だが、男児たるもの、それでも我慢である。

 この黒いカーディガンが太陽の投げつける熱をいかに真摯に吸収し、薄手ではあるが長袖の内部に募る熱気が意識をどれだけ苛もうともわたしは断じて脱がなかった。

 

「あそこのお店に入らない? 村のお姉さんが美味しいって褒めてたよ」


 日光が強烈に照りつける大通りを外れ、家々を繋ぐ洗濯物とそのロープが天蓋のようになった路地を歩いていると妹のミリアが一軒の店を指差した。

 外観と表に置かれたメニュー表から察すると喫茶らしい。表に出された看板には『ゆめびと』と書かれている。

 

「いいね、俺は賛成だ」


 コルネリウスが言う。大概の場合において彼がうなずけば物事はそう進む。

 わたしに異議は無いし、ここで反論を言うだけの余力はまるでなかった。そんなわたしのすぐ横でビヨンが財布と睨みあい、溜息をつく。


「手持ち……うち、今は無いなあ」

「良かったら僕が出すよ」 わたしは言った。懐には余裕があった。

「ありがとう、ユーリくん。帰ったら返すからね」

「わかった。でも、ビヨンが覚えていたらね」

 

 引き戸を開くと鈴が軽やかな音を立てて揺れ、来店を迎えた店員によってわたしたちは人数に見合った席へと通された。

 十一歳の少年が最年長である子供の集団の来店にウェイトレスの女性は驚いたようだったが、むしろ驚いたのはわたしの方だった。

 注文を伝え、それを復唱したウェイトレスがカウンターの奥へと引っ込んだ後になってもわたしは驚きを飲み込めず、コルネリウスが声をかけるまでしばらくじっと黙っていた。

 

「今のウェイトレス、うさぎのような耳がついていたのに皆は気付いてた?」


 わたしは意を決して彼らに尋ねた。だが驚きはわたしだけのものだったらしい。


「うん」 とビヨン。

「そうね、珍しいかもね」 妹が肩を竦め、

「おいおい嘘だろ、見たことなかったのかよ」 コルネリウスがからかった。


 わたしは正面ではしゃぐコルネリウスの頭越しにカウンターへと目線をやり、左右に揺れるうさぎの耳をたしかに見た。付け耳では無いらしい。

 

「亜人……っていうのは差別語だったよね。《デミ》っていうんだよ」


 ビヨンが冷たい水で喉を潤しながら言う。彼女は無料だと思うとすぐさまに手をつける癖があるのだ。


亜人デミ……は珍しいの?」


 不思議がるわたしが面白いのか、コルネリウスまでもが乗じた。


「そんなこともねえさ。たまたま俺らの村に居なくて、学校にも居ない……って、そりゃ結構な確率じゃねえか? ミリア、計算してくれ」

「そうね……結構な確率だと思う!」


 妹が親指を突き立てて質問に答えた。夏の陽射しに負けない眩しい笑顔だ。


「……俺が言うのもなんだが、お前もたいそうな馬鹿だな」 コルネリウスが鼻で笑った。

「は~? なんですって~!?」

 

 妹と友人が店内の静寂を切り裂き、ああだのこうだのと、とりとめもない言い合いをするそばでわたしはビヨンがかばんから取り出した雑誌に目をやっていた。


『大カモメの手紙』と題されたこの週刊誌は、世界の大小のニュースを取り扱っている。

 本どころか世界の行く末にさえも関心がなく、今日の夕食や畑の作物の具合、家畜の調子ばかりを考えているのどかな性格の持ち主が多いわたしたちの村にあって、ビヨンの両親は世事に多大な興味を持つ人物だった。

 そんな両親の娘である彼女もまたその気質を得ていて、こうした情報誌の購読をしているようだ。

 

「ここを見てみて」


 相変わらずタンクトップ姿のビヨンが伸ばした指の先をわたしは追った。

 そこには写真が掲載されており、多種多様な半人間……差別用語であるのは承知したが、この場で一度だけ使わせてもらえば多くの亜人たちの姿があった。

 山羊のような巻き角をもつ紳士、ヒョウの頭部を持つたくましい騎士、うさぎの頭部に小さな体の人々。

 

「たくさん居るでしょ? 世界には巨人だけが住む国もあるんだって。うち? うちは巨人は見たことないなあ。いつか旅でもして見てみたいね」

「……勉強になった。ありがとう、ビヨン」

「頭でっかちがひとりで旅したって途中でベソかいて戻ってくるだけさ。どうせなら皆で行こうぜ。いてえ! おい、すねは蹴るなよ!」 コルネリウスが悲鳴をあげた。



「……お待たせしました」


 しばらくをして。盆の上に外国発祥の茶を載せた兎耳のウェイトレスがわたしたちの卓を訪れた。

 わたしたちは一風変わった飲み物に喉を潤し、幼いが故の、身の丈に合わぬ夢の話を声を大にして語り合った。

 とっくの昔に何度も会話に出た話題を性懲りもなく繰り返し、つまらぬ冗談でも誰かが笑えばそれにつられてまた笑う。

 

 そんな穏やかな時間。

 巨人のようだった夏の入道雲が、空高く薄く広がるいわし雲へと姿を変えようとも、わたしたち四人の間に流れる時間はどこか永遠に続くように思えた。

 

「なんか面白いことが起こらねえもんかな」


 街の噴水広場で売られていた棒アイスを口に咥えたコルネリウスが街道を歩きながらそう言った。

 

「僕はこのままが続けばそれでいいよ」 わたしは青空を見ながらに言う。

「朝起きて学校行って剣術の稽古して? それもいいけどよ。実際楽しいしな。どこかで力試しでもしてみたいぜ、俺は。例えば……旅に出るとかさ。どうだ?」

「せめて学校を卒業してからにしなよ、コールくん」 ビヨンが口をとがらせる。

「卒業ってお前、まだ何年もあるじゃねえか。俺は早く世界を見たいぜ」


 会話を耳に聴きつつ、わたしは自分の内面を覗き見た。


 わたしは今の日々に満足をしている。

 だが、わたしは時間が永遠ではなく、また、子供の頃に特有の黄金ともいえる時間は瞬く間に過ぎ去るということを知っていた。


 何故だろうか?

 何かをせねばと、そう意識をすると熱い焦燥の渦が胸の中に湧くのだ。

 

「あーあ……つまんねえな」

 

 金髪の少年が後頭部で手を組み、空へとぼやいた。

 空はどこまでも青く、鳥の姿は無かった。

 

 



 わたしの家族、フォンクラッド家は広い庭を所有している。

 凝った花壇もなく、庭の手入れといえば精々好き放題に生い茂っている芝生を刈り取るぐらいのものだが、派手に飾っていない緑一色の庭をわたしは気に入っていた。

 寝転がることも自己鍛錬をすることも出来る所有の庭。

 その上でわたしは父と一対一で稽古に励んでいた。

 

「甘い、父さんの剣をよく見ろ! お前の目は悪くないんだ! 食らったら死ぬつもりで見ろ!」


 今日の父は木剣を手に持っている。その振りは苛烈でいてはやい。父は好きに攻めて良いと始まる前に言っていたがとんでもない。はっきりに言って防戦一方だ。


「盾に隠れていたらなぶり殺しだぞ! 影から出て反撃しろ!」


 左手で構えた盾の表面を父が思い切りに切りつけ、重い衝撃が何度も伝わり反響をする。歯を食いしばって耐えることが精一杯だったが、実戦でこのように丸まりこんでいては良い的であり簡単に死ぬだろう。父の言葉の通りだ。

 意を決し、上から叩きつけられる剣を弾くようにして盾を思い切り振りあげた。

 間髪を置かずに右手に握り込んでいた剣を鋭く突き出す。

 父の視点からでは盾の影からの鋭い攻撃だったはずだ。だが、それでもフレデリックには通じない。彼はわたしの木剣を横殴りに叩き、この手から弾き飛ばしてしまった。

 今のわたしには盾だけだ。剣を拾おうと視線をやるが、父が革靴のつまさきで遠くへ蹴り飛ばす。

 肩で息をしながらに父が言う。

 

「ユリウス、お前の剣は以前までに比べて驚くほどに鋭くなった。それも急にな。理由は分からんが、まあそういう成長もあるんだろう」


 だが、と。

 

「剣を失ったらお前はどうする? 盾に隠れて殺される時まで耐えるのか?」

「それ……は……」

「盾の扱いと体術を第一に学べ、ユリウス。俺はお前に盾の扱いを教え込むことに決めたよ」

「盾を?」

「ああ。生き残るために盾を扱えるようになれ。この世界には避けようのない脅威がある。何か分かるか?」


 言葉を聞いて浮かぶのは魔物、森、霧。牛頭の怪物に追われた時に感じた死の恐怖をわたしは少しも忘れてはいない。

 

「魔物と……霧。世界には霧がある」

「そうだ。霧は冷たく、魔物はお前の命を狙う。大切な仲間もだ。彼らを失わない為にお前はどうする」

「戦って、守る……」

「その通り。仲間を守るのがお前のすべきことだ。これは予感だが……お前はきっとこの小さな村には留まらず、いずれ世界を周るような旅に出る」


 フレデリックの顏には確信があった。わたしは何故分かるの? と尋ねた。

 

「簡単な話だ。なぜなら、俺とリディアの息子だからさ。いつかお前が旅に出た時にはコルネリウスやビヨンがきっと横に居るだろう。その二人が危機に陥る前に、お前は盾を持ち、仲間を傷や痛みから守らなきゃいけない」


 二人の友人の顏を思い浮かべる。二人はわたしにずっと付いてくるのだろうか。それが実現されるのならば、まさしく運命に繋がれた仲間だろう。


「『あらゆる戦う力は守りに通ず』と昔に俺の師匠が言っていたよ。確かに剣も良い。だが俺は長所を伸ばすよりもお前の短所を育てる。何としても死んでほしくないっていう親心だ。分かるか?」

「親にはなったことがないから……なんとも……」


 まあ、そうか……とフレデリックが頭を掻き、

 

「とにかく、お前は誰よりもタフで! 強い根性を持ち! 歯を食いしばって立ち続けるんだ! 信念だ。信念こそが身を支える。仲間を守るためにお前は一歩も退かず、誰よりも傷つき、痛みを引き受けろ。そういうお前の横にあり続ける者こそがお前のかけがえの無い仲間だ。自分が正しいと思ったことからは背を向けない。この心構えを忘れるなよ、息子よ」

 

 指先でわたしの盾の表面をぐっと押しながらにフレデリックは言い切った。その言葉は怒涛の勢いをもち、わたしは流され、押され、分かったよと首を縦に振ることしか出来ない有様だった。

 

「分かったなら良し! なら、まずは身体づくりからだな」


 あらかじめに用意していたらしいトレーニングのメニュー表を父が取り出し、わたしへ向けて突きつける。その内容は地獄だった。

 

「これってどこかの軍隊のものを参考にしたの?」

「いや、子供の時に通っていた道場のやつそのままだ。父さんも『殺す気だろう』と思ったものだがこうして生きてるんだ。さあ、やるぞ!」

「いやいやいや、待って、あの……」

「黙って走り込む! 行くぞ!」


 わたしの言葉も聞かずに父は駆け出して行った。まるで少年のような喜びようだ。が、こうした父に教えを授かるというのは恵まれているのだろう。わたしは石塀の向こうで手を振るフレデリックの下へと駆けだした。

 

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