一章8話  知らぬ記憶、剣の冴え

 

「そう言い出すのを父さんは待ってた! 待っていたんだ!」

「ちょっとフレッド、うるさいんだけど」 母がしかめっつらを浮かべる。

「これがどうして落ち着いていられるっていうんだ!? そんなもん無理だ!」


 ビヨンと共に『霧と聖剣』の童話に触れたわたしはその日の夕食の席で父に向かい、剣を教えてほしいという願いを伝えた。すると父は寝ぼけていた目をカッ!と見開いて跳び上がるようにして椅子を立ち、両手で拳を力強く握り締めながらに歓喜の声をあげた。

「待っていたんだ!」 そう叫ぶ彼の声が夜闇を切り裂き、近隣の食卓の空気を害していないだろうか。要らぬ心配とはわかっていたが胸にハラハラとした焦りを覚える。

 フレデリックは大人しく席に着いて瞳を閉じ、

 

「森から戻って以来、言葉も雰囲気もどこかおかしかった我が息子。ほとんど毎日のようにコルネリウスと一緒になって、俺とチャンバラをしていたのも今は昔……もうあの熱い日々は無いんだろうなと、そう思っていたけれど……」


 フレデリックが食卓を立ち、大袈裟な身振りで胸の内の感動を伝え始める。

 おや、と疑問が首をもたげた。

 

「今は昔? って前も稽古はしていたの?」

「ああ。木剣を握って楽しそうに振り回していただろ? 覚えてないのか?」


 しまった、と思う。いくつもの弁解や誤魔化しが頭に浮かぶ。

 ずらずれと流れる言葉からひとつを掴み、口に乗せる。

 

「ええと、ごめん、ぼんやりしてた。今のは忘れて」

「変な奴だな、疲れたのか? はは」

 

 熱くたぎっている父にはどうでも良いことらしく、簡単に笑い飛ばすと追求も何もなかった。安堵の息。それにしてもわたしを含めた家族とフレデリックとの温度差はひどいものだった。

 わたしも、妹も、母も、三人が顔を見合わせる。


「ところで父さん、あんな言い回しをどこで覚えてきたの?」 わたしが言う。

「仕事仲間に劇のパンフレットを見せられたらしいわよ。『真実の愛』だとかなんとか? 妻子持ちの男向けじゃないわよね」 母が明かし、

「ふーん……パパ、影響受けやすいんだね……」 妹が呆れ声をあげた。


 父は芝居がかった調子のままだ。呆気にとられているわたしの手を父はがっしと掴み、剣に対する自身の矜持をとつとつと語り始めた。

 

「ママ、ご馳走様」

「あたしも片付けしちゃおうっと」

「えっ、ちょっと……」

 

 女性二人がそそくさと席を立つ。

 彼女らは父が一度語り始めると止まらぬ人物であると知っているのだろう。

 嵐が来るのが分かっているのなら避ける。出来るなら誰だってそうする。

 当然のことだ。

 

「いいか、ユリウス。剣というのはな……」

「うん、うん。もしかして長い?」

「大丈夫だ。五分で終わるから」

 

 一方でわたしは父の力強い手から逃げられそうにはなかった。

 およそ三十分後。

 

「五分なんてとんでもない……」

「何か言ったか?」

「ううん、気にしないで」

「ああ。つまり剣技を覚えるのは勿論だが、盾の扱いや体術も必須ってことだ。まず体術は剣技との組み合わせで……」


 一時間後。

 

「眠い……」

「これからがいいところだから。〝ウル〟が居るだろ? あれの剣技は人間離れしてるんだ。その一撃は山を砕いて、大地も割るらしい。竜よりも強い〝龍〟でさえも虫を潰すように簡単に殺すらしいぞ」

「人間なの?」

「さあな。父さんは直接見たことはないが、彼は一度のジャンプで千里を越えるとも……」

 

 それから時計の短針がぐるりと二回りをするあいだ、父は息子へとその熱意を伝えてくれた。

 途中、居間へと現れた母が「いい加減に寝なさいよ」と声を掛けなければ、父の演説は朝まで続いていたかもしれない。いやはや、自分で願い出たこととはいえ、フレデリックがここまで多弁になるとは思いもやらなかった。人間、なんにつけても覚悟は必要ということだろう。

 

「息子よ、目指すならてっぺんだ。〝ウル〟の名前を獲るつもりでやるぞ」

 

 互いの寝室に別れる間際、フレデリックは拳を突き出してわたしにそう言った。

 世界最強の剣士になれ、と。親が子に願いを託すことは世の中でそう珍しいことでなく、わたしも彼に拳を突きだして軽く打ち合わせ、


「わかった。今日のところはおやすみなさい、父さん」

「ああ、また明日な。おやすみ」



 ドアを後ろ手に閉めると、廊下の向かいから子供のようにはしゃぐ父の声がわたしの耳に届いた。

 妻を相手に喜びを伝えているのだろう、リディアの面倒そうな顔が脳裏にありありと浮かぶ。


 父は幼いころから剣士を目指し、世の男児がそうであるように、彼もまた名を馳せるべく努力をしたと話してくれた。

 厳しい旅や想像を絶する戦いを越えたことがあると、父自身が誇らしげに語っていたが、そんな男が森と美味しい空気が取り柄なだけの田舎に身を落ち着かせているのは、まあ、つまりそういうことなのだろう。


 夢は夢だ。

 届く者がいる一方で、届かない者もいる。

 だがその結果に関わらず、憧れを目指して進む姿は眩しいものだ。


 夢を目指す者の精神には日々を鮮やかに彩る〝色〟がある。

 その〝色〟こそ、わたしの心が求めてやまないものであることは疑いない。




 

 わたしとミリアの兄妹二人で使用をしている自室は真っ暗闇だった。今夜は蒸し暑く、部屋の窓は開け放たれている。ほーほーと夜鳥の間延びした鳴き声と、妹のすやすやとした寝息が聞こえる。わたしは二段ベッドの下段に潜り込むと枕に頭を預け、上段で眠る妹の寝返りの音を聞いていた。

 わたしとそっくりの瞳を持つ父。彼が喜びを全面に打ち出したような顏で言い放った言葉が、眠りに落ちようとするわたしの頭の中で何度も残響をする。

 

『さすがは俺の息子だ』

 

 フレデリックはわたしを己の息子であると信じて疑っていない。

 くつくつと、頭の中のわたしが、心の影が自嘲する。

 子が子でないなどと……我が子が偽物であると疑う親がどこに居るというのだ?

 

 家族を守る柱であるフレデリック。

 子供を正しく導く大人の男である自分とその最愛の妻とが手を取り合い、共に成長を見守る息子が偽物であるなどと。そんな愚かな疑いを持つ人間は居ない。もし居るのであれば狂人か疑心暗鬼の塊だ。


 良心に赤黒い血の色がにじむ。

 疼くような耐えがたい痛み。

 

 わたしは目覚めてから今日に到るまで、自分の記憶の欠落も、胸に走る醜い傷跡も、他人が理解できる言葉で一度も伝えてはいない。

 伝えずとも時間は流れ、日々は続いていくことを知っているからだ。


 何も知らない彼らにつらい事実を知らせる必要が果たしてあるのだろうか? 今のわたしが述べる答えは『必要は無い』だ。

 だが半年前のわたしだったならば、彼らを深く知る以前のわたしだったならば、いっそ言い出せただろう。


 しかしわたしは変化してしまった。

 として生きることにわたしは馴れ、順応し、そして極めて強い依存の中にいる。

 両親と妹、二人の親友、村の人々、学校の級友、教師たち。

 わたしと繋がり、時には求めてくれる彼らに、人との関係に飢えているわたしの貧しい心はすがっていた。


 人の輪の中に居たかった。誰でもいい。

 わたしは、あなたはここに居ていいのだと、そう、言って欲しかった。


 心に潜む暗い自覚はふとした時にその暗がりから現れ、わたしの耳元に冷たい唇をよせるとそっとひそやかな声で言う。

 

『嘘つきめ』


 目に見えぬ影がそうささやくのだ。

 今夜、きっと影はまた現われ言うだろう。


 わたしは秘匿を責める他者の声と、自身の嘘とを恐れている。

 いつか、いつか言葉にして身の内をさらけ出さなくてはならない日がくる。

 それが終わりの引き金となると分かっていても、必ず――。

 

 

 

 

 翌日の学校からの帰り道。

 村の門前に何者かが立っているのを、わたしたちの中でも一番に目が利くコルネリウスが見つけた。彼は眉をひそめて道の先を凝視し、

 

「何だ? ああ……ユリウス、お迎えだぜ」

「僕のお迎え?」

 

 いいから見てみろよ、と親友が言う。

 それに従ったわたしは片手を眉の高さにあて、日除けを作ると目を凝らした。

 村の柵に腰をかけた体格の良い黒髪の男が大きく手を振っている。父だった。

 

 おかしい。今朝の父はわたしが目を覚ますよりもずっと早くに仕事へと出たはずだが……。どうやら彼の胸に灯った剣への熱意と息子の師となる情熱の炎は、昨晩からわずかも衰えることなく燃え続けていたらしい。

 見れば彼は剣と盾、そして一本の槍を携えていた。

 知らぬ者が見れば、彼がひとりで戦へと向かうのだろうと勘違いをしそうな出で立ちだ。


「おかえり、戻ったな。さあ、やるぞ!」 フレデリックが声高に言う。その顏は少年のように嬉しそうだ。


 父が持参した武器は木製のものだった。

 どれもこれもがとても実戦で扱えるような物ではなく、それらは稽古や素振りに用途を限定された模造の武器。

 手ごろな大きさの木材から切り出したのが一目でわかる荒々しい出来だが、持ち手に巻かれた布の擦り切れ具合やところどころのへこみがこれを振っていた者の情熱の証拠に見えた。

 おそらくそう遠くない昔、記憶を失う以前のユリウス少年とコルネリウスに父フレデリックの三人でこれを振り回していたのだろうと、その場面を想像した。

 

「ただいま、パパ。稽古やるの?」 妹があくびを漏らした顏で言う。

「そうだ。ミリア、兄さんの荷物を持って先に帰ってなさい」

「まったく、熱が入るとすぐこれなんだから……。ま、久々だしいっか。あんまり遅くならないでよね。ママには言っておくから」

 

 妹が父にうなずき、兄のわたしに向けてかばんを手渡すように催促をした。

 わたしは肩に掛けていたかばんを下ろし、何故だかまんざらでもない表情をした妹に荷物を預ける。


「よっしゃあ! この日を待ってたんだ! お袋に渡しといてくれ!」

「わぶっ、ちょっと、もう! 馬鹿!」

 

 父と同じぐらいに目覚ましいやる気を見せているコルネリウス少年はその荷物をビヨンへと放り投げたらしい。わたしの後方から、不満の声と悪びれない声との二つが聞こえた。

 

「ひとしきり満足したら帰る。じゃあな!」

「はいはい。ほんとに遅くならないでよ、パパ。全員そろわないとご飯が始まらないんだから」

「了解だ! それとミリア」

「何? パパ」

「『はい』はひとつだ! じゃあな!」


 そう言うとフレデリックは走りだし、わたしとコルネリウスは学校の帰り道、衣服を取り換えもしないままに父の背中を追って走りはじめた。

 丘で遊んだ帰り道だろう。途中に鉢合わせたわたしよりも年下の子供たちが、どこか羨むような目でこちらを見ていたような気がして、わたしにしてはらしくないことにどこか自慢げな感情を得たのを覚えている。

 

 

 

 

 わたしたちは丘をしばらく走り、それは模造の武器を持つ男を追う二人の少年という奇妙な一行だった。

 やがて森が見えてくるとフレデリックは平原との境目で立ち止り、「ここで始めようか」と言ってこちらへと武器を放り投げた。

 

「わ、意外と重いな……」

「そうか? お前は自主練してなかったから鈍ってるのかもな」

「コールは練習してたんだ?」

「おう。欠かすなんてありえないぜ。俺は強くなりたいからな」


 わたしは剣を右手に、盾を左手に構え、コルネリウスは両手で槍を握り締めた。

 彼には神の教えを説いた教本や、字を書きうつす為のペンを持つのは性に合わないらしい。模造の槍を握ったわが友の横顔は勇猛果敢な戦士のようだ。その顏は未だ一度も見たことがないほどに生き生きとしている。

 

「たったの一撃でいい」 フレデリックが人差し指をついっと立てる。

「俺に当ててみてくれ。勿論クリーンヒットだぞ? かすったりはノーカウントだからな。要はってことだ」

 

 わたしとコルネリウスは互いにうなずいた。

 

「お先にどうぞ」 わたしが言う。

「ありがとよ!」 言ってコルネリウスが跳んだ。

 

 不思議な感覚だった。剣を何年も握っていたかのように、剣の柄を握るわたしの右手は馴染んでいる。わたしの記憶は相変わらず過去を知らないが無意識ではまるで忘れていないかのようではないか。

 試しに一度、二度と振る。最初は重いと感じた木剣だが今ではその扱いがはっきりと分かる。真横に振り、ぴたりと止めて勢いよく突きを繰り出す。

 知っている。わたしは剣の鋭さを、何を招くかを知っている。

 

「ユリウス! 早く来ないとコールがへばるぞ!」


 父の呼び声にはっとした。記憶に触れられそうにも思えたが、今はもう影も形も見当たらない。

 

「今行くよ!」


 わたしはかぶりを振って戦いへと駆け走った。



 わたしたちは武器を持ち、父は素手だった。

 二対一という数の上の有利と武器の有無。

 これをもって一撃を当てることなんてまるで造作もないことだろうと、わたしが抱いた安易な先入観が大きく誤っていたことをここに認めよう。

 わたしたちの攻撃はそのことごとくを読まれ、回避された。父の技量はどう見ても卓越して余りある物だったのだ。


 息がはずむ。

 力の限りに剣を振り抜くと、腕から指先へと痺れが走り抜けた。


「はあっ、はっ、はっ、くそ、当たらねえ!」

 

 コルネリウスがへばっているのが横目に見えた。座り込むようなことはないが、その額には汗が珠となって浮いていて吐き出す息は相当に荒い。

 身を屈め、前へと踏み出したコルネリウスが槍の切っ先で父の胸を狙う。が、自身へ向けて突き出される槍をフレデリックは上体を横向けて躱し、槍の長い柄を掴むとそ所有者であるコルネリウスごとを振り回して草むらの上に放り投げた。

 

「来いよ、ユリウス。仇を取るんだろ」


 笑みを浮かべた父が指をくいくいと曲げてわたしを誘う。口の端は愉快そうに歪んでいて、どうにも楽しくて仕方がない様子だ。

 気の利いたセリフは思い浮かばなかったし、無駄口を叩けば胸に湧く心地良い緊張が台無しになるような気がして言葉に出せなかった。

 

 右手に力を込めて剣を握り、思い切り良く駆けだす。

 細く短く息を吐きだして剣を突き出す。鋭い刺突に思えたが、父の青い目を誤魔化せはしない。

 腰を落としたフレデリックが半身に身をずらし、刺突を避ける。

 わたしは怯まない。突きだした姿勢から腰を落とし、横へ振った。フレデリックが平手を打ち下ろして木剣の軌道を無理矢理に変える。

 

 明らかに大きな隙をわたしは晒していたが父は手を出さない。

 彼は自分から攻撃を加えず、ただ回避と防御に専念をするという言葉を守っていた。

 ならば――。

 

「攻撃あるのみ!」


 わたしは距離を取らずに足を踏みだして前進をする。

 腕に力を込め、鋭い刺突を繰り出す。フレデリックは息を吐きながらに屈み、ステップで避け、力技で攻撃の方向を捻じ曲げる。

 顔を見る余裕などはこれっぽっちもないが、かかる父の声は楽しそうだ。

 

「いつの間に腕上げた!? 黙って練習して! たなら! 父さんを呼べ! よ!」

「たまたま! 今日は冴えてるだけ! だか! ら!」


 左腕の盾が重い。攻撃が来ないのならばいっそ捨てようか。そう思いながらに繰り出した大振りの攻撃を避けられてわたしの体が前につんのめる。しまった、と思ったが足にまるで力が入らずに踏ん張ることができなかった。

 草むらの上にどしゃりと倒れ込み、必死で酸素を取り込み、呼吸をする。

 こんなに汗をかいたのはいつ振りだろうか。体は燃えるように熱く、喉は張りつくように乾いていたがとても清々しい気持ちだ。

 

「よう、待ってたぜ」

「……隣を失礼」


 真横を見るとコルネリウスが仰向けになって寝っころがっていた。草原の上をそよぐ風が顏に当たって心地が良い。

 

「坊主ども! へばってないで立て! 立てって!」

「父さんが呼んでるよ。次はコールの番だろ」

「しんどい……一回休みでいいよな」


 青空を見ながらに言うわたしとコルネリウスのシャツの首根っこを父はむんずと掴み、無理矢理にわたしたちの体を起こし、

 

「問答無用! やるぞ!」





 夕暮れになり、わたしたちは一部始終を静観していた木の根に腰を下ろしていた。

 結局のところわたしとコルネリウスは父に一撃を浴びせることが出来なかった。

 己の培った技術と鋭い動体視力を活用したフレデリックが、真剣に回避に尽くした結果だ。

 それでも父が顏を汗だくにし、着ているシャツに汗の染みが出来ているのを見て、彼は相手が子供だからと手を抜いたわけでは無いのだと少しの安心と手ごたえを感じた。汗ひとつさえもかかなかったのなら、自信喪失していたことだろう。

 

「この調子じゃあ、勇者は夢のまた夢かな」

「はは、ちげえねえ」


 ぼやくわたしに、草葉の上に寝転がるコルネリウスが答える。

 息子の呟きは父もまた拾っていた。木の根に背中を預けて座り込んだフレデリックが言う。


「はっはっは、だけどまあ、どれだけの努力をして目指したって〝霧払い〟の勇者にはなれないよ」

「どうして?」 わたしは聞き返した。


 父は地平の果ての、まだわたしが名も知らぬ山脈の向こうに消えようとしている太陽を指差した。夕焼けの空に浮かぶ赤い宝石のように見えて美しかった。

 

「〝霧払い〟の勇者ガリアンは他人に無い物を持っていたからだ。ひとつ、太陽の色の瞳。ふたつ、神様からいただいた聖剣。そして何よりも彼を強く支えたのは、何があろうと決して折れなかった強い心だ。……心ならどうにかなるかもな?」


 コルネリウスが芝生の上を二転三転と転がる。

 そんなんずるいぜ、と不平を言いながら。

 

「さあ、帰るぞ。コールのおばさんもうちのおっかない母さんもご馳走を用意して待ってるはずだ」

 

 立ち上がった父が手を叩いて帰宅の合図を出す。

 わたしたちは荷物をまとめ、汗にまみれた服のままで家路についた。

 

 

「汗臭い! 待て待て待て待て待って! お願いだから椅子に座らないで!」


 家に帰ったわたしと父を見ての母の第一声はこの言葉だった。

 やれやれ……。

 




 後で知った話になる。

 

 子供たちが一度は憧れる〝霧払い〟の勇者、ガリアン・ルヴェルタリア。

 その名には華々しい逸話や勇猛果敢な伝説が数多く付随をする。しかし彼は剣の腕では仲間の剣士に劣っていたらしく、当時の剣士の水準で見ればやや腕の立つ剣士程度だったようだ。

 彼が世界救済の偉業を成し遂げられたのはひとえに強い心力があってこそのものだったのだろう。


 勇者の道連れの一人にセリス・トラインナーグという女性がある。

 彼女は世で最も強い剣士である〝ウル〟の名を持つ剣聖だった。

 今日こんにちにも最強の称号である〝ウル〟の名は受け継がれており、当代の〝ウル〟は、わたしの住まう南方のリブルス大陸よりも遥かな北。

 大海原を隔てた先にある常冬のイリル大陸、その古い騎士国で剣を振るっているのだと、わたしが手に取ったなんともカビ臭い書には記されていた。

 

 わたしは学校の帰り道、街の隅に軒を構える、古ぼけた書店の歴史書コーナーの隅に突っ込まれていた埃っぽい書物に目を通していた。

 歴史書というものには後世の学者たちの考えが多かれ少なかれに混じるのは、避けられない世の常なのだろうなと、文字を追いながらにわたしは思う。


 湿ったページを指先でめくる。


 であるならば、勇者の詳細な点やその特殊さ、逸話もどこまでが真実でどこからが虚構であるのかという判別は、この時点のわたしには出来ないことだった。

 しかし〝霧払い〟の伝説は、武芸の道に憧れを抱く子供の心を引きつけるには十分なものだ。

 霧に潜む大虎と戦う勇者の活躍を読むと棚へと本を戻し、立ち読みをとがめもしない、生きてるのか死んでいるのか分からない年老いた店主に挨拶をして、わたしは店を出た。

 


 虚飾に飾られた伝説だとしても構わない。


〝霧払い〟の伝説はわたしの心を確かに震わせ、生を懸命に生きると誓ったものの、どこへ進もうかと迷っていたわたしの道に明確な指針を与えてくれた。

 

 勇者はどのような過酷な状況にあっても屈しなかったという。

 それが例え、世界の運命という糸が最後の細い一糸になり、千切れる寸前となろうとも彼は諦めなかったのだ。

 その強い心と信念の剣を握り続ける彼の姿はわたしの脳裏にあり続けた。

 

 

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