一章7話  童話《霧と聖剣》

 

「では、ユリウス君。質問をどうぞ」

 

 口元に微笑みをたたえた教師は招くような動作でその手を揺らし、質問を促した。

 横を見ればビヨンは心配そうな顔で、コルネリウスは何かを期待するような顏でわたしを見上げている。妹のミリアなどは口元に手の平をあて、ハラハラとした様子で兄を見ている。

 教室で立っている者はわたしと教師の二人だけだ。

 監督役の老婆は身じろぎもせず、いつものように細い目を床に落としている。だがその耳は鋭く澄まされているのだろうと思えた。

 

「質問があります。それは霧のことです」


 わたしの言葉に教師は特に驚いた様子も無く一度うなずいた。

 続けて良い、といったサインだと受け取り、わたしは続ける。

 大勢の前で語った経験などなく、今更に緊張を感じたがもう遅い。息を大きく吸い、吐き出して、

 

「霧とは……一体何なのでしょうか?

 先生やこの教室に居る何人かはご存知の事だと思いますが、過去に僕は迷い、霧の立ち込める森の中で目を覚ましました。

 幸いにして父が助けに駆けつけましたが、僕はその時には他人と言葉を交わすための共通の言葉を失っていて、僕が僕であるという意識も曖昧の状態でした。

 今では言葉も戻り、こうして教室に腰を下ろしていますが……。

 僕は自分がどうやって霧の中へと出掛け、どうして言葉を無くし、一時的とはいえ虚ろな人間となったのかがどうしても分からないんです。

 父はかつてわたしに向かい、霧に見初められたのだろう、と言いました」

 

 多くの視線を感じる中、わたしは言葉を一度喉で呑む。

 

「先生、どうか教えて下さい。霧とは一体? 見初められるとはなんなのですか?」


 そう、問いかけた。

 記憶の欠落と胸の傷については語る必要は無いと判断し、伝えなかった。

 

 聞き終えた教師がこほん、と咳を払う。

 彼女はわたしから視線を外し、監督役の老婆を見た。

 そして何かのアイサインを受けたのだろう。

 教師は口元を引き締めて、

 

「知識を求める子、ユリウスよ。あなたの質問に答えましょう」


 やや硬い表情に緊張した声で、教師の女が語り始める。

 

「霧とは。

 それはどこかから現れ、人知れず消えていく神秘の、そして悪しき古い存在。

 始まりの真実は誰も知らず、どこからともなく霧が現われると人々は武器と松明を手に取り脅威に備えます。

 忌まわしいあの霧からは魔物が現われるのです。

 霧の正体は分からず、ただただ恐ろしいものとして、長きに渡って語り継がれています。


 かつて、〝霧払い〟の勇者ガリアン・ルヴェルタリアは、われわれ〝五神教〟が崇める五柱の神々の主神であられるランドール様より授かった聖剣を携え、霧の元凶である〝霧の大魔たいま〟を打ち倒したと伝えられています。

 彼は教義における聖人に数えられ、その名と偉大なる魂は夜空の星のひとつとして掲げられました。

 伝承は正しく、勇者ガリアンは確かに元凶であった〝霧の大魔たいま〟を打ち倒しましたが、しかし霧は晴れず、今日にも私達を脅かしています。

 果たして〝霧の大魔〟が霧を生んだ真なる根源であったのか?

 世の興りから霧はそこにあり、〝霧の大魔たいま〟さえも魔物のひとつではなかったのか? 今日には多くの議論がありますが、何しろ遠い昔のことですから誰にも分かりません……。

 ただ、霧が人を見初め捉えるという話は聞いたことがあります。

 確かあれはお婆ちゃんが……。

 あっ! ……ええと。

 ごほん。

 霧が現われたならば私達は戸口を締め、愛しき親と兄妹と共に蝋燭へと手を合わせ、神々に祈りを捧げるのです。

 さすれば、主神ランドール、愛神ルピス、知神ドーンヴァール、勇神ブランダリア、歌神ミゲアス。彼ら五柱の善神の寵愛と加護があなた達を包むでしょう。

 ……霧の話はこれでお終いです、ユリウス君」

 

 彼女は丁寧な所作で頭を下げ、これ以上は質問を受け付けないといった意味合いの硬い笑顔をわたしへと向けた。

 

「わかりました。お答えくださってありがとうございます、ミネア先生」

「いえいえ、どういたしまして。お力になれて先生は嬉しいです」


 わたしの横腹を肘で突きながら「やったなあ、おい」とはやし立てるコルネリウスを無視し、教室後部の老婆へと目をやった。相変わらず彼女は俯いたままだ。

 だが、それがたぬき寝入りであることをわたしは知っていた。

 途中に教師が口ごもったのは、話の脱線をあの白衣の老婆に見とがめられたであろうことは疑う余地はなかった。

 

 世界最大の宗派〝五神教〟

 彼らの純白の衣は清廉、潔白といった無垢の心の現われであるらしい。

 教師の女は若いが、その信仰心は本物だろう。

 彼女と老婆に〝霧〟の真実を尋ねたところで、望む答えが得られないのはもはや明らかに思えた。

 

 父に尋ねるか、それとも母へ聞くか。

 わたしは自分でも驚くほどに霧の知識を得ることに強い執着を見せていた。

 きっと心のどこかで、あの灰色の濃霧はわたしの記憶の欠落を取り戻すことに繋がると考えていたのだろう。いや、確信か。真実を知ることを強く求めていることを自覚する。

 

 わたしは……世界と自分の答えが知りたかった。

 

 

 

 

「霧のこと? うち、そんなに頭いいわけじゃないから分かんないよ」

「頼むよ、ビヨン。君が頼りなんだ」

 

 帰り道。街道を歩き、もうすぐ村の門へ辿り着くというところで、わたしはビヨンに駄目元で霧の話をせがんだ。

 教師らは当てにはならず、かといって両親に訊ねるのは彼らの息子が言葉を失った記憶を呼び起こすような気がして悪く思えた。せっかく彼らの元の日常が戻りつつあるというのに、塞がった傷口にわざわざ塩を塗りつけることもないだろう。

 コルネリウスは論外だ。彼は知識を得るよりも外を駆け走る方がずっと好きな少年でいて、活字にはこれっぽっちも興味が無い。学校以外で本を読むぐらいならば同じ程度に毛嫌いをしている家事に精を出すだろう。

 妹には……何故だか頼る気になれなかった。これは予感だが、冷たくあしらわれるような気がしたのだ。

 

「頼りだなんて、そんな……」

 

 となるとわたしにはビヨンを頼るほかはない。

 彼女はわたしと同じ年齢の九歳の少女だったが、教室で見る同年代に比べてはるかに落ち着いており、正しい分別を弁えているように見えた。

 それに彼女がよく木陰に一人で座り、本の上の文字へと視線を落とすのをわたしはよく目にしていた。目を細め、文字から想像した世界を脳裏に浮かべながらゆっくりとページをめくる少女。その静かな姿に好印象を抱いていたことをわたしは認める。

 頬に手をやり、何故だかやや顔を赤らめたビヨンはわたしを見つめ、

 

「ほんとに少ししか知らないからね」


 と言った。

 

 


「まずはこれね。見たことあるでしょ?」


 木陰にわたしとビヨンは座り、彼女はかばんから一冊の絵本を取り出した。

 

「『霧と聖剣』?」

「そう。勇者ガリアン様の霧払いのお話。ユーリくんが先生に質問をした時にガリアン・ルヴェルタリアって名前が出たでしょ? この本、すっごく有名なんだよ。きっとユーリくんの家にもあると思うな」

「そうなんだ。帰って探してみるよ」

「ま、まだ帰らないよね!? 今は一緒に読んでみよ。ね」

「そのつもりだけど。なんで慌てるんだ?」


 ビヨンはこの本をいたく気に入っているらしい。

 それは本の痛み方、常にかばんに携帯しているということから見て取れた。

 もしや暗唱さえ出来るのではないかと思ったが、さすがにそれは無いようだ。

 状況について補足をしておくが、コルネリウスと妹はわたしたちを置いてそそくさと帰って行った。小さい頃に読み飽きた絵本には今更興味は無いとのこと。

 

「じゃあ始めるよ」

「うん、頼む」


 ビヨンのエメラルドグリーンの瞳が本へ注がれる。

 表題には『霧と聖剣』と記されており、大きな木から剣を引き抜く男、男の後ろに立つ四人の男女のイラストが表紙を飾っていた。

 

 

 

 

 遠い遠い昔。

 あなたがこれを読む時代よりもずっと昔のこと。


 あなたの知らぬ鳥が青空を飛び、

 あなたの知らぬ言葉が世界を伝わり、

 あなたの知らぬ魔法を人々は操り、

 私達を見守る神様がまだ遠く離れていなかった時代の話。


 かつて、世界には十三の大きな国がありました。

 十三の国々はそれぞれとても大きな力をもっていて、それは真っ暗な夜の中でもお日様のように明るく輝けるほど。

 人々の住まう国は眠りを知らず、その技術は生命すらをも自在に扱えました。


 世界にはたくさんの輝きが溢れていて、人々はこの素晴らしい楽園のような日々がずっと続くのだろうと。

 みんな、疑いもなくそう思っていたのです。


 けれど、太陽が昇ればまた、夜も訪れます。



 ある日、北の方から灰色の霧が南へ向けてゆらりゆらりと下ってきました。

 虹色の目をもつ王様はそれを見ると不思議そうに言います。


「あれは一体なんだろう? 御山おんやまの方からどんどんと流れてくるではないか」


 白い肌に絹のような金の髪。長い耳をした賢者が答えます。


「王よ。あれは良くない、不吉な霧です。私には……嫌な予感がいたします」


 怖がりの賢者の予感は当たっていました。

 ゆっくりと広がる不吉な霧の中から突然、思わず耳を塞いでしまうような大きく鋭い叫び声が響きます。


 海の波がぴたりと止まり、

 風は雲の間を流れることをやめてしまい、

 森の小鳥たちが鳴き方を忘れてしまう恐ろしい声。

 その叫びは世界中に響き渡りました。


 何が起こったのだろうと慌てる人々が目にしたのは大きな大きな人でした。

 背丈は巨人の王様よりもうんと高く、手足は竜の王様の尻尾よりもなお長い。


 泣きそうなしかめっ面に、耳まで裂けた大きくて真っ赤な口。

 新雪のように真っ白な長い長いローブに身を包んでいます。

 その不思議な大きな人は〝霧の大魔たいま〟と呼ばれました。


〝霧の大魔たいま〟は一言も喋らず、ただ泣きそうな顔のままで大地をゆっくりと歩きはじめました。

 真っ白なローブの裾からもくもくと現われる霧だけが大地に広がり続けます。


 やがて霧の中で魔物が産まれました。

 産声をあげ、身じろぎをし、しばらくすると歩きだし、人々を襲い始めたのです。


 霧から生まれた魔物は恐ろしいほどに強く、

 太陽の火で鍛えられた剣を振るう騎士も、

 月明かりの導きを知る優れた魔法使いも、

 誰もが次々に現われる魔物を止めることは出来ませんでした。


 霧が広がるにつれて恐ろしい魔物はどんどんと増えていきます。

 森も海も山も、あの美しい湖も、霧は何も語らないままに覆い隠していきます。

 ほんの少し前まで夏の太陽のように眩しかった世界は、そうして灰色の中に沈んでいったのです。



 やがて世界のほとんどが霧に呑み込まれ、十三もあった大きな国々もいよいよ最後の一つになってしまいました。


 賢者と王様たちはたくさんの時間をかけて、数えきれないぐらいの言葉で霧をどうにかしようと無数の意見をつきあわせましたが、霧を消すことは出来ません。


 金色の牙の王様が「いよいよをもって駄目だろう、降参だ」と弱音を吐きます。

 普段は炎のように威勢の良い赤髭の王様も、水のドレスの女王も皆が黙ってしまいました。


 窓から遠くを見れば〝霧の大魔〟が地平の向こうからゆっくりと歩いてくるのが見えました。

 ひらひらと揺れるローブの裾には霧から生まれた魔物たちが寄り添うように並び立ち、怖い顔をして最後に残った王国を睨んでいます。


 もう、終わりだ。

 私達の世界は滅びるのだ。

 神よ。

 もしご覧であるのならば、どうか人の子に慈悲ある終わりを。


 みんながそう諦めた時、群衆の中から飛び出した若者が居ました。

 彼は真っ直ぐに霧へと駆け走ると腰の鞘から抜いた剣を振り、悪しき霧を吹き消しました。

 白色のローブに身を包んだ〝霧の大魔〟は声ならぬ声で泣き叫び、ろうそくの火を吹き消したようなあっけのなさでどこかへと消えてしまいます。


「だれだ、だれがやったんだ」


 人々も王様も賢者も勝利に湧きました。

 生き延びる事が出来た喜びを互いに分かち合う人々が目にしたのは、一人の若い男の姿です。

 その瞳は夕陽のようなオレンジ色に染まり、手には一振りの剣。

 今では〝聖剣〟や〝王剣〟の名で伝えられる剣を、彼は大事に握っていました。

 世界で最後に残った国に集まった人々へ向け、若者は大声を張り上げます。


「聞け! 神々の愛す世界、ルヴェリアの子らよ!

 私は主神ランドールより、ひとつの使命とそれを成す力を授かった。

 この剣を以って霧を消し、世を喰らう〝霧の大魔〟をあるべき場所へ返せと、そう主神ランドールは仰ったのだ。

 そして! 使命の成就には四人の道連れが必要だとも!

 私と共に古い霧へと挑む、この世界、ルヴェリアの勇者よ! 前へ出でよ!」


 その言葉に四人の勇者が歩み出ました。


 最も強い剣士 〝ウル〟の名を持つ セリス・トラインナーグ。

 西の国の賢者 〝万魔〟の名を持つ エルテリシア。

 獅子頭の戦士 〝獣王〟の名を持つ ドガ。

 人狼の槍使い 〝王狼〟の名を持つ ルーヴランス・ウルリック。


 四人は武器を掲げ、勇者の仲間となることを誓い合いました。


 聖剣を持つ若い男。

 彼の名前を、ガリアン・ルヴェルタリアといいました。


 ガリアンと四人の勇者は悪しき霧に覆われた世界、ルヴェリアを救うため、霧に隠された世界の全てを回りました。

 燃える岩の海を歩き、雷の平原を進み、星の映る海原を彼らは渡ります。

 霧に沈んだ十二の国に巣食う、語るに恐ろしい十二の魔物を打ち倒した彼らは、やがて辿り着いた世界の果てで〝霧の大魔〟と再び出会うことが出来ました。

 

〝霧の大魔〟は灰色の大地の奥の奥。

 世界で一番深くて寂しい、赤くて灰色な塔の小さな部屋に居ました。

 そこには霧は無く、大きな大きな古い木の椅子に寂しそうに座った〝霧の大魔〟が勇者に問いかけます。


「私はもう、帰れないのだろうか」


 ガリアンは剣の先を向け、言葉を返します。


「帰ることも行くこともない。貴様はただ消え去るのみ。

 世界を傷つけた罪が許されることはない」


〝霧の大魔〟が耳まで裂けた大きな口で笑います。

 ナイフで鏡を切りつける、いやな音に似ています。


「兄上がそう言ったのか?」


 勇者は答えず、代わりに聖剣が振られました。



 五人の勇者と〝霧の大魔〟の戦いは激しいものでした。

 山を割り、雪原は黒く染まり、凍れる時の呪いが解けていきます。

 太陽が三度昇り、双子の月が夜空を四度照らした頃、冬の大陸の遠い遠い北の果て。真っ白な雪の大地の上で戦いは終わりました。


〝霧の大魔〟は巨人の王よりも大きなその体を雪原に伏せています。

 頭を失った体はずたずたに切り裂かれ、相変わらず泣きそうな顔をした頭だけになった〝霧の大魔〟に戦う力はもう残ってはいません。


 勇者ガリアンと〝霧の大魔〟は少しの間、二人だけで話をしました。

 彼らの言葉は誰の耳にも届かず、その内容は二人にしか分かりませんでした。


 そうして力を失った〝霧の大魔〟は風に吹かれて消えていきました。

 霧が晴れた世界には久しぶりの青空が顔を覗かせ、世界中の人々はとっても喜びました。


 光の時代が再び訪れたのです。


 勇者ガリアンはその後、四人の仲間と十三の王様と力を合わせて、世界に強い魔法の護りをかけました。


 もう悪い何かが現われないように。

 世界の人々がもう困らないように。



 

 

「はい、おしまい。面白かったでしょう?」

「うん、とても。ほんとに……とても」

 

 ビヨンの読み聞かせてくれたこの世界の伝承にわたしは心を強く打たれていた。

 誰もが当たり前だと思っていたが為にわたしに教えなかった、『ルヴェリア』というこの世界の名前。

 霧は魔物を産むものであり、その元凶が〝霧の大魔〟なる存在であることは教師の女の言うとおりだった。

 しかしわたしの心を震わせたのは求めた事実ではなく、勇者の英雄譚だった。

 

 ビヨンが読む文字を目で追えば、勇者ガリアンの活躍がわたしの脳裏にありありと浮かんだ。

 それは怪物の手からわたしを救った父の姿に、そしてあのありふれた剣に重なる。

 

 胸が興奮に波打ち、見えざる期待に心が震える。

 少年であるわたしが剣士という将来の夢を抱くには、この胸の高鳴りは十分に過ぎるものだった。

 

 

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