一章6話 迎える顔
霧の立ち込める森で目を覚まし、行方をくらませた息子を探しにわたしの前に現れたフレデリックに手を引かれるままに我が家の敷地をまたいだあの日から三ヶ月が経った。
世界を覆うようだった霧はあの後すぐさまに晴れ、視界に映る空は快晴そのもの。
今の季節は春。大海から温かな風が吹き込み、丘は緑に染まり、生が育まれる命の季節。
両親の懸命な教育によってわたしは随分と多くの共通語の言葉を操れるようになり、今では貪欲に知識を吸収するようになっていた。
両親や妹、そして村の住民たちが話す言語は一般に〝共通語〟と呼ばれていた。
「共通語さえ使えれば東西南北、どんな国に行っても大体ばっちり大丈夫よ!」
わたしの母、リディアは親指をぐいっと突き立て、自信に満ちた爽快な笑顔でそう主張をする。わたしは母の言うところの万能言語を覚え、しかしまだ時折たどたどしくもあったが、日常における意志疎通は充分にこなせる程度の修得をみせた。
簡単な文であれば容易く読める。ここまで早い言語の習得に両親、フレデリックとリディアは驚いていたが、既にひとつの言語をこうして覚えているわたしにとってはそれほど難しいものではなかった。
そう……わたしが覚えているこの言葉はただ、彼らに伝わらなかった。それだけのことなのだ。
わたしはいつ、どこでこの言葉を扱っていたのか? 答えは、いまだ掘り起こせない記憶の中に眠っているという確信がある。
先述したが、両親らはわたしの……彼らの視点で言うなれば言葉の回復を大いに喜んだ。だが記憶は戻らない。元々がまるで無いのだから仕方がないといえば仕方ないのだが。
自宅の構造もあらゆる魔法道具――魔法道具! これは非常に便利な物だと少し触れただけですぐさまに分かった。機会があれば詳しく説明をしたい――の扱いも、パンの種類の名前さえも分からない!
二人は悲しんだが、一方のわたしにとってはすべてが未知かつ新鮮な発見であり、まさしく世界は驚きに満ち溢れていた。彼らの前で喜色満面の顏をするわけにはいかず、喜びを噛み締めるのはいつもひとりになってからのことだったが。
話題を変えよう。
この三ヶ月で分かったことがいくつかある。
まず、わたしがユリウス・フォンクラッドという名であること。
村との近隣の守護を預かる、マールウィンド連邦の駐屯騎士フレデリック・フォンクラッドの息子。性格はやんちゃでせっかち、抜けているところが多々ある、まあ有り触れた子供。
つい先月に九歳へ上がったばかりの少年だ。余談だが、この時に催された誕生日会というのはわたしにとって試練以外の何物でもなかった。火の灯った無数のろうそくが突き立った、白塗りの切り株のようなお菓子を面と向かった時に「わあ! やったあ!」とさぞや嬉しそうに言うのが正解なのだと、わたしが知っているわけがない。
外見は相当癖の強い黒髪に青い瞳。見てくれはほぼ父譲りのものだろう。鏡を自身を見たときには彼の生き写しだとも思ったし、妹のミリアは寝ぼけているとよくわたしとフレデリックを見間違えていた。
しかし、これらの情報がわたしの本来の名とそれに付随するプロフィールではないことをここに断っておこう。
わたしが意識を宿すユリウス・フォンクラッドという名の少年の来歴とそれらを取り巻く環境については十分すぎるほどに知ることが出来たが、わたしの記憶それ自体は少しも取り戻せてはいないのだ。
森からの帰り道、フレデリックと二人で並んで立った小高い丘の上からはぽつりとして小さく見えたこのリムルの村だが、実際には思ったよりも多くの村民が住んでおり、家屋も村と呼ぶには多すぎるほどに立ち並んでいた。
道具屋があり、鍛冶屋があり、酒場までもがしっかりとある。争いは無く、人々は質素で穏やかな気質。平和な暮らしを求めている者が一度ここに滞在をしてしまえば、自身の永住の地にしようと迷わずに決めてしまうだろう、そんな静かな村。
家の窓辺の椅子に腰を掛け、ぼんやりと青空を眺める時間が多いわたしは、窓の外から聞こえる賑やかな子供たちの声を何度も耳にしていた。ここにはわたしと近い年頃の子供たちも数多く暮らしているのだ。
◆
ある日のことだ。
いつものように家に詰め、言葉や世界についての情報を一心に学んでいると、それを不憫か気詰まりに感じたのだろう。どうにも見かねたらしい母、リディアは気分転換だと称してわたしを村へと連れ出した。
その日の風は強く、雲は素早く西へと流れ、青空には薄らと月が昇っていた。
晴れやかな空の下。何人もの子供たちが無邪気に駆け回っている。
彼らの中に見知った顔を見つけることは出来なかった。
片手で母の手を握ったままわたしは、遊具を使うでもなしにただはしゃぎ、広場を走るだけの子供たちを父譲りの青い瞳でじっと見つめていた。
彼らのうちの一人と目が合い、彼があっと大きな声をあげ、こちらを指差す。すると次の瞬間には大小の子供たちが押し寄せてきた。目を通していた新聞でこうして人の波に詰め寄られる男の写真を見たことがあったが、まさかわたしがそういった目に遭うとは。
彼らはわたしを取り囲んだ。理由はわからないが誰もかれもが目に輝きを浮かべ、何かを言いたげな様子でわたしを見ている。その中で誰かが声をあげた。
「霧の中で魔物をやっつけたって本当!?」「ユリウス兄、すっげえなあ、ぼくも剣を習おうかな」「勇者だ! 勇者だ!」と。どうやら彼らは、わたしが単身で颯爽と森へと出掛け、魔物を討伐して霧を晴らしたのだと思っているらしい。
わたしは狼狽をすると同時にそのあまりにも飛躍した逸話の数々に思わず笑ってしまった。何故ならそれら全てが事実から大きく歪んだ、はっきりと言えばほら話だったからだ。
怪物を倒したのは父だ。一方のわたしは霧に迷う、哀れで小さな放浪者だった。それが真実。実際に起こったことだ。
それだというのに彼らは、わたしが剣を振り回して怪物をなます切りにしただの、魔法を自在に操って霧をかき消しただのと口々に言い、果てにはドラゴンと戦ったなどという大仰な冗談までもが飛び出した。
わたしはそれらを挙がるそばから否定した。
虚構で身を飾る必要はなく、子供たちに一目置かれようとも思わなかった。
けれども彼らは喜色満面の笑顔とともにひどく興奮した様子を見せていたので、わたしの訂正などはとても耳に入っていないようだった。この場合は馬耳東風と馬の耳に念仏、どちらが正しかったかな、とわたしの中の冷静な部分が思案をする。
わたしがたじろぎ、母が面白そうに笑う中、通りがかった壮年の女性の村人が助け舟を出した。
「ほら、坊主ども! リディアちゃんの買い物の邪魔でしょ、どきなどきな!」
女性が大声を飛ばす。彼女の言葉はまるで怪物退治の騎士が振るう剣さながらの威力をもち、子供たちは追い払われたにも関わらずに楽しそうな声を上げて逃げ去っていった。
大勢が去った中、背の高い金髪の少年とこれまた金髪の少女だけは動かないままでその場に残っている。
二人をじっと見る。あまりじろじろと見るのは失礼なことだと分かってはいるのだが、どうしてか初めて見る人やモノをわたしはじっと見てしまう。悪癖だろう。
正面に立つ二人の髪色は近しいがその顔立ちはまるで似ていない。
どうやら兄妹ではないらしい。それでも顔に浮かんだ親しげな笑顔は共通している。
まるで久しく顔を合わせていない友人と出会えて嬉しいような、そんな顔だ。
「調子、悪いんだってな」 背の高い少年の方が言う。
「また元気になったら遊ぼうぜ、ユリウス! 剣の稽古を忘れんなよな!」
「ユーリくん、外に出れて良かったね。病気は治った? うち、心配してたんだ。
あっ、あんまり引き止めちゃだめだね。それじゃ、リディアさん、失礼します。また一緒に学校へ行こうね」
片割れの金髪の少女が丁寧に頭を下げた。
去りゆく彼らに向け、母がその手を振ったのでわたしもそれに倣い、二人の背中に手を振って見送った。結局名前は分からず、ユリウス少年とどういう関係であったのかも不明のまま。だけど、まあ何とかなるだろうとぼんやりと思う。
今は彼らを知らずとも、この限られたコミュニティの中で生きていればすぐにまた会えるはずだ。
そう、例えば明日にでも。
◆
後日、朝食の席で新聞を読み耽っていたわたしに向けて父が言った。
「ユリウス、そろそろ教会学校に戻ってみないか?」 と。
教会学校という名にあまり聞き覚えがないわたしは、きっと怪訝な顔を浮かべたのだろう。父は慌てた様子で取り繕うように簡潔な説明をした。
父曰く。
〝教会学校〟とは世界最大の宗派である〝五神教〟の教会が運営する教育機関であり、その授業料は驚くべきことに無料。
授業内容は運営母体の関係もあり、やや宗教色の強いものになるが、親自身が手間をかけず、また、金もかからずに字を覚えられ、かつ見識を広げられるということでわたしと同じ年頃の子供たちが教会学校へと通うのは世間一般の常識であるとのことだった。
わたし自身も半年前までは、街に拠点のひとつを構える教会学校へと通う学生の一人だった。
だが、霧の日以降に様子がおかしくなってしまったことから、両親らは息子が体調不良であることを理由としてわたしの休学届けを提出していたらしい。
まあ、それもそうだろう。
彼らにしてみれば、わけのわからない言葉を話す少年を街に送り出す必要はない。人々の奇異の目にわざわざ晒す事はないのだ。
「どうする? 言葉も戻っているし、父さんはまた通ってもいいと思うけど」
「ううん、そうだなあ……」
わたしが返答に困っていると、玄関のドアをどんどんと叩く音が聞こえた。
来客は落ち着きと遠慮を持ち合わせてはいないらしい。強いノックは続く。
木組みだが丁寧な作りのドアの向こうから話し声が漏れている。
甲高く、せわしない話し声は子供の声だ。
来客の正体を察したわたしは、人の気配のするドアからテーブルを挟んで正対している父へと目をやった。
「おやおや、友達が迎えにきたみたいだな。ミリア、ユリウスのかばんを持ってきてくれ」 愉快そうな顔で父が言う。
「はい、お兄ちゃん。これ、学校の荷物だよ。お弁当はあたしが預かってるからね」
芝居がかった口調と仕草で肩を竦めた父が妹を呼ぶと、質素なワンピースに袖を通したミリアが姿を現した。彼女のよそ行きの服装だ。
健康的に日焼けをした両手に二つのかばんを握っている。いやはや。
「父さん、僕はまだ何も……」 わたしは口ごもった。
「外に出るのはいいことさ。やることをやってから食べる飯ほど美味いもんはないぞ、息子よ。コールとビヨンちゃんが迎えに来たようだ。行っておいで、ユリウス」
やれやれ、父はわたしの返事などは気にしてはいなかったのだ。
彼は村の子供たち、中でもわたしと仲の良かった者に声をかけ、指定日の朝に迎えに来るよう頼んでいたのだろう。
ユリウス少年には飽きるほどに通い慣れた道であっても、記憶を失ったわたしにとっては初めての道だ。心細いその道中に道連れがあった方が良いのは確かだと思えた。
ドアの向こうからわたしを呼ぶ声がする。
父は目線でわたしの起立を促し、妹は「早くしてよね」などと憮然とした面持ちで真っ正直に言っている。
どうやらわたしはそうせざるを得ない状況に身を置くと、唯々諾々と従う性質の持ち主らしい。
「わかった。じゃ、いってくるよ。父さん、母さん」
「気を付けてね。街道から外れちゃ駄目だよ」 キッチンの向こうで母が声をあげた。
布と革ひもで作られたかばんを手に持ち、窓ガラスから射す陽光を背負って家族へ向けて手を振る。
母の親心からなる言葉をわたしは胸に刻み、妹のミリアは「わかったわよ、もう」と、毎朝の注意をとっくに聞き飽きた顏で言った。
◆
「よお、ユリウス! 学校行こうぜ、学校」
ドアを開くなり、少年の快活な笑顔がわたしを迎える。
金の色をした短髪の少年。背丈はわたしよりも高い。どこか見覚えがあったように感じ、ほんの一瞬のあいだ記憶の棚に指先を走らせる。と、それはすぐに見つかった。
「おはよう。待たせてごめんね」 間を埋めるようにしてわたしは言う。とりあえずの礼儀という意味もあるが。
彼は先日、村へと連れ出された際にわたしへ向けて親しげに声をかけた少年だった。頬にはばんそうこうを貼りつけ、白い歯を見せてにっかりとした明るい笑みを浮かべている。
「ちょっと、もう! 朝からあんなにノックしちゃ駄目でしょ!ユーリくんはまだ治ったばかりなんだから……ごめんね。静かにしなきゃだめだよって言ったんだけど」
いかにも申し訳なさそうに目を伏せてわたしへ謝る少女の姿もあった。
彼女もまた、先日出会った少女だ。落ち着いた物腰には理知的なものを感じる。
薄い色の金髪を長く伸ばしていて、癖っ毛なのだろうか、前髪の両端が外へと大きく跳ねているのがやけに目立つ。彼女はわたしと同じ年頃だろうに、やんちゃの過ぎるらしい快活な少年をたしなめていてその姿は彼の世話係のようにも見える。
「気にしないで、ええと……」
しまった。二人の名前は何と言うのか、結局分からないままであった。
わたしが言葉に詰まると、横に立つ妹が自身が生来にもつ特有の鋭い直感で事態を察し、
「おはよ、コルネリウスくん、ビヨンお姉ちゃん。迎えに来てくれてありがとね」
「おう、チビ助」 少年が言い、
「おはよう、ミリアちゃん」 少女が笑顔を返した。
どう? これで二人の名前は分かったでしょ? といった意味合いの目線を妹はわたしへと向けた。気遣いと助け舟に感謝を覚える。
ありがとう。後で二人が居ない時に礼を言っておくことにしよう。
それからわたしたちは四人で連れだって村を出発した。
護衛の大人は無く、子供たちだけでの行動だ。
周囲一帯に魔物が現われる心配はないのだろうか? 疑念が脳裏をよぎったが、わたしを除いた3人の子供は誰一人として保護者不在での外出に不安を抱いてはいないようだった。
気にしても仕方のないことらしい。
わたしは肩からずり落ちはじめていたかばんを正した。
晴れ渡った空の下。
寒々しい霧が周囲一帯を覆っていたことがあるとはとても信じられないほどの快晴だった。
背の低い草と名も知らぬ花が果てもなく広がる平原。
その緑の野を真っ直ぐに横切る土色の街道をわたしたちは歩いた。
わたしたちの住まう村と街との距離はさほど離れておらず、村を出て最初の上り坂を越えると、街で最も高い建物の頂上部に取り付けられている鐘楼がわたしの目に入った。
赤い屋根の建物が多く目立つ、綺麗な街だった。
色とりどりの旗、赤レンガの屋根、煙突から絶え間なくのぼる煙。
丘の上に立ち、遠目に街を眺めていると狙いすましたように青銅の鐘が揺れ、何事かの時刻を告げているのだろう。高らかな音で何度も鳴った。
街をぐるりと覆う灰色の防壁の中から真っ白な鳥の群れが飛び立ち、青空の中へと消えて行く。その街の名を『リトナ』といった。
「急がなきゃ、もうすぐ始業の時間だよ」
ビヨンがびくりと小さく飛び跳ね、慌てた声で言う。
鳥の行先を見送っていたわたしの背をばしり、と誰かの手が叩いた。
振り返るとコルネリウスが悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「鳥なんか見てる場合かよ、ユリウス。それよか走ろうぜ。バケツを持って立たされるのは、俺もお前もいい加減に飽きたろ?」
先に行くぜ、とコルネリウスは丘を下り始め、妹が「待ってよー!」と言いながらその背中を追って駆けだした。
立ち尽くすわたしの袖を生真面目な少女の手がくい、と引く。
「ユーリくん、うちらも行こう?」
「ああ……うん。そうだね。遅刻は嫌だな」
ビヨンとわたしは歩くよりもずっと速い調子で街を目指した。
◆
街は活力に満ちていた。
わたしは灰色の石畳の上を革靴の裏で蹴り飛ばし、
でこぼこの街路の上を行く馬車が通り過ぎるのをやきもきとした気持ちで待ち、
ベーカリーから紙袋を抱えて出てくる人を羨ましそうな目で見る妹の手を引き、
村とは比較にならないほどの密度の人の往来をかき分けて進み、
ようやくといった気持ちで、わたしたちは教会学校へと辿り着いた。
「毎朝こんなに大変なのか……いや、大変だったっけ?」
「今日は特にすごかったよ。何かあるのかな? さ、急ごう、ユーリくん」
わたしが丘の上で見た、街で最も巨大な建物こそが教会だった。
教会の運営する学校は巨大な教会の真横に並び立ち、建物の入り口には真っ白な衣服を着た二人の男が立っている。守衛だろうか。
わたしの視線を感じたのか、彼らはわたしたちに気付くと「鐘はとっくになったぞ。急いだ方がいいんじゃないか」と、笑顔と共に身振りで学校への立ち入りを促した。
なるほど、確かに周囲には子供の姿はない。わたしたちが最後らしい。
朝の挨拶を返すわたしをコルネリウスは「いいから行こうぜ」と賑やかな声と共に手を引いた。
わたしは少しのんびりしているのかも知れない。
『廊下は走るな』と書かれたポスターを横目に、日光の射す白い廊下を走った。
教師は若い女だった。
白い外套に身を覆い、微笑みを浮かべながらわたしたちを迎えた彼女の表情は、その内心はともかくとして、とても慈悲的なものに見えた。
胸に『研修中』と書かれたバッヂをつけた彼女はどうやら駆け出しの身であるらしい。
教室の最後部には一人の老婆がおり、年老いた彼女もまた白い外套を着ていた。
老婆は駆け出しの教師の監督役であるらしく、ただじっと様子を見守っている。
老婆の落ち着き払った態度とは対照的に、教師の女がしきりに監督役を気にしているのが目についた。
この分では彼女の良い評価は望めそうにないだろうというのはわたしの私見だ。
わたしは教師の名は知らぬが、彼女はわたしの――ユリウス少年のプロフィールを知っていた。
「久しぶりね。調子はどう?」
そう挨拶をかけてきた彼女へ向け、「またお世話になります」と言葉を返す。
教師の慈悲的な笑顔はわたし限定のものだったようで、わたしの小さな背に隠れていたコルネリウス、ビヨン、妹のミリアの三名の子供たちはその遅刻を咎められた。
が、彼らも考え無しではなかったらしい。
久しぶりの登校に戸惑うわたしを送っていた、と弁解の口火を切った彼らは、口八丁手八丁で教師を丸め込み、結果として事無きを得た。
コルネリウスと妹のミリアは、難を逃れて達成感を感じさせる顏を浮かべていた一方で、ビヨン一人が恥じ入る顏をしていたのが印象深い。
教室の子供が揃うと、教師の女はまず神々の教えを説いた。
清貧に努め、弱きを助け、悪しきを挫く。
騎士の誓いにも似た口上を、彼女に倣い、わたしたちも続けて述べる。
木を削り出して用意された長机にわたしたちは座り、それぞれのかばんの内から一冊の本を取り出した。
今朝の学校への身支度は、甲斐甲斐しくも妹が済ませていたこともあり、かばんの中身を検めるのは今が初めてだった。
『五神教の教え』という表題の本をわたしを含めた生徒らは開き、手書きではなく機械により印字された文字をわたしたちは目で追い、教師の女の読み上げる言葉にわたしたちの口は続いた。
世界の興り、五柱の善神と三柱の悪神、善良なる教え。
それから社会的なこと、字の読み書き、簡単な計算。
あらかじめ決められているスケジュールに則り、学習の時間は昼過ぎまで続いた。
昼食の時間、わたしを含む四人の子供は学校の敷地内にある広い庭園に集まり、青い葉を揺らす木の根本に腰を下ろすと、布に包まれた弁当を取り出して昼食をとった。
「お兄ちゃん、久しぶりの学校はどうだった?」
妹が昼食に頬を膨らませながら訪ねてきた。
行儀について注意をした方が良さそうだ。
「そうだね、とりあえず緊張したかな」 わたしはサンドイッチをかじり、答えた。
「なんだよ、お前でも緊張することあるんだな」
「そりゃねえ」 服に落ちたパンくずを目の前の小鳥に放って渡した。
久しぶり、と言葉を置かれてもわたしの意識では初めての学校なのだから緊張のひとつもしよう。
しかし実際に足を運んでみると学校というのは悪くない場所だった。
ただ席に座り、教師の言葉と本に印刷された文字に意識をやっているだけで環境の方からわたしに知識を与えてくれる。
更に社会行動までを教えてくれるというのだから、これほど素晴らしい学習環境は村に居ただけであったならばとても望めないだろう。
「これからは元通りに毎日通うよ。良かったら毎朝迎えにきてほしいね」
「俺が霧に迷わなかったらな。いてっ、何すんだよ」
「冗談でもそういうのは言わない方がいいよ、コールくん。じゃ、行くときには呼びに行くね。けど、もしも迷惑になったら言ってね?」
「迷惑だなんて僕は思わないさ。よろしくね、ビヨン」
コルネリウスは叩かれた頭を押さえ、ビヨンはわたしの言葉にはにかんだ。
それから一月が経ち、わたしは自身を『ユリウス』と呼称されることに慣れ、祝日と週末を除いて毎朝迎えに来る彼らと共に学校へ通う日々を、自分のあるべき日常だとして受け入れていた。
わたしが祈りの言葉をそらで言えるようになった頃のことだ。
ある日の授業で、教師は「何か質問がある方は居ますか?」と生徒へ向けて尋ねた。
誰もが手を挙げない中、わたしは少年らしい、細くしなやかな手を高らかに掲げ、二人の友人と一人の妹の他にも多くの視線が自分に集中するのを感じた。
けれどわたしは意に介さない。
わたしは事情を知る者に、ずっと訪ねてみたいことがあった。
霧とは一体どういう存在であるのか。
わたしが何故、霧の中で目を覚ましたのかを。
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