一章5話  言葉と愛

 

「霧に捕まったァ? そりゃマジな話なのか、ダンナ?」

「ああ。教会に今すぐ連れて行きたいぐらいなんだが……」


 わたしの前に立つ男が両手を大きく広げ、わざとらしいぐらいに驚いた顏をしている。彼へと状況を説明したフレデリックの顏色は憂慮なもので、わたしの治療を優先したいという希望を男へ告げた。自分の剣の腕があれば魔物に襲われたところでまるで問題ではなく、二時間もあれば戻ってこられる、と。

 

 低いトーンのままにフレデリックがそう言うが、慌てた顏の男は両手を振ってフレデリックの言葉をかき消した。そんなことはとんでもない、とでも言うように。


「やめてくれよ! ただでさえ普通じゃないぐらいに濃い霧なんだ。このあたりの駐屯騎士のダンナがまた居なくなったら皆が不安がる。あんたが森に息子を探しに行くって飛び出した時なんて、実際に俺も周りも胆を冷やしたんだからな。頼むぜ」

 

 

 

 

 わたしと父の二人はリムルの村へと辿り着いた。

 丘の上で目にした揺れ動く光の正体は、村の周囲を警戒する男たちが手に持つ松明の明かりだった。村の敷地を表す木製の柵を背後にした男たちは、剣と松明を手に握ったままに霧の向こうをじっと渋い顔で睨んでいる。

 遠目にも分かるほどに物々しい雰囲気を放つ男たちだったが、霧の奥からゆらりと現れたフレデリックの姿を認めると心底ほっとした顏を浮かべた。彼らは次々に歓迎の言葉を口にしてわたしたち二人を迎えてくれた。「おかえり」「戻ってくれたか」と。

 

「ダンナァ! 待ってたぜ!」


 親密な顔を見せる男たちとフレデリックが言葉を交わしていると村の中から男が走り寄ってきた。

 小太りの中年の男。鍋の蓋を乗せたような髪形が特徴的だ。体系と肥えた顏にはまるで似合わない革の胸当てを身に着け、腰に剣を下げている。

 

「悪い、今戻ったよ」 フレデリックが音へ向けて頭を浅く下げた。

「『悪い』じゃないですよ! 全く……。ユリウスは見つかったんですね。良かった。坊主、今度からは霧の日に出掛けるなんて馬鹿をやるんじゃないぞ?」

 

 前かがみになり、わたしの目を覗きこむようにして太った男が注意を口にする。

 わたしはこの期に及んで他人に通じぬ言葉をまだ口にするほどの愚か者ではないつもりだ。注意する男に向けこくり、とうなずく。 


「ん……なんだ、どうした?」

 

 太った男は不審に感じたようで、太い眉根を寄せたのをわたしは見逃さなかった。男は説明を求めるようにフレデリックを見やり、説明を受けた。その会話が先程のものだ。

 

 

 

 

「そう……か。気の毒だが……きっと良くなるさ。気休めの言葉で悪いな、けど、街へ行くのは霧が晴れてからにしてくれよ。頼むから。息子が気掛かりなのは分かるが、村を守るのがあんたのだろ、ダンナ?」

「ああ、分かってるさ」


 フレデリックがかぶりを振って言う。


「けど、もうすぐ霧は晴れるぞ」

「一体何を根拠に……」


 男が不安がる一方で、フレデリックは口の端を歪ませてにやりを笑い、

 

「ミノタウロスを倒した。きっとあれは《霧の主》に違いない。ここら一帯にあれだけの怪物は他に無いだろうからね。じきに晴れる」

「なんとまあ! そりゃあ本当か!? いやあ、良かった良かった。生まれて四十年が経つがこんな霧はそう何度も見たことが無いもんで気を揉んでいたんだ。良かった、いやありがとうよ! フレデリックの旦那!」

 

 よしてくれ、とフレデリックは手を振り、

 

「じゃあ俺はそろそろ行くよ。主を失ったといっても魔物はまだ居る。警戒は怠らないようにと皆に伝えておいてくれ」

「あいわかった。吉報は俺の中に留めておくよ」


 難色から一転して笑顔を浮かべた中年の男はわたしの頭を撫で回し、「早く良くなるといいな」と言葉をかけ、村の入り口へと去っていった。その足取りはやけに軽い。

 良くなるも何も、わたしには元より何も無いのだが、と男の背中を見つめ思う。

 

 村の広場には赤々とした大きな火が灯っていて、寒々しい霧の流れる世界の中にあってその赤色には心が安らぐ思いだった。何故だろう、郷愁の念に似た感情を覚える。

 木組みの中で燃え盛る巨大な炎をどこかで見たことがあったのだろうか。

 

 夕暮れ時だった。

 立ち並ぶ家屋は丸太のように太い木々で組まれ、テラスに絡んだつたや風を受けて回る風見鶏がどこか温かく、そして懐かしく見えた。軒先には赤い実の生った植物を植えたプランターや大きな樽。とある家屋の陰には井戸があったがフタをされている。

 目に入るどの家屋もその戸口は固く閉ざされていた。無人ではないらしい。締め切られたカーテンの隙間からろうそくの明かりがほんの少しだけ覗き、窓辺では小さな影と大きな人影が揺れていた。甲高い獣の鳴き声がする。犬だろうか。

 

「ユリウス、あれがうちだよ」


 並び歩くフレデリックが村のはずれの広場を指さした。

 大きな石を積み上げた塀が家の敷地をぐるりと囲んでいる。石塀の中はちょっとした丘になっていて、生い茂る緑の芝生が丘の表面を覆う敷地の中央部にその家はあった。歩きながらに見た他の家屋よりも一回りほど大きな木造の二階建ての家屋。


 屋根からはえんじ色のレンガで組まれた煙突があり、先っぽからはせわしなく煙が吐き出されている。一階の端部にはサンルームらしいガラス張りの部屋が付随しているのが外から見えた。

 周囲よりも裕福な家なのだろうと想像した。カカシや犬の置き物、馬車の車輪に植物が伸び放題のプランターといった様々な付随物が玄関先を飾っている。ニワトリの形をした鉄板が風を受けてくるくると回っていた。


「ただいま、帰ったよ」


 言葉と共にフレデリックが玄関を開け、上部に取り付けられたガラスの鈴が涼やかな音で鳴る。がたり、と大きな物音が聞こえると続けてどたどたと小走りに近寄る足の音が聞こえた。焦り、急いている足音。

 

「あなた! ああ、良かった。ユリウス、帰ってきてくれたのね。こんなに汚れて……ああ、ルピス様……」

 

 音の主は女性だった。崩れ落ちるようにその場に膝立ちになり、わたしの頭を両手で押さえ、大きな瞳を潤ませる。わたしは面食らいながらも彼女を観察した。

 若い女だ。二十も後半の年頃だろうか? アーモンド形の瞳に利発そうな顔立ち。太ってはおらず、愛嬌の良い雰囲気を彼女はまとっている。栗色のロングヘアーがよく似合っていて母性に溢れているように見えた。


 女のその立ち振る舞いと真摯な心配の様子。

 そしてフレデリックを『あなた』と呼んだことから、彼女はどうやらわたしの母であるらしいことが見てとれた。


「本当に……どこに行ったのかと思ったのよ。あっ! て思って家中を探してもどこにも居ないし、村にも姿は無くって、友達のところも全部回って……ユリウス、怪我はない? 怖い思いはした?」


 彼女は言いながらに泥にまみれたわたしの体を何度も検めた。はたくようにしてシャツや麻のズボンを確かめる。

 血塗れのシャツを着たままだったのは失敗だった。彼女がこれを見つければすぐさまに問い詰めるのは明らかだ。不幸なのは、彼女が満足する答えをわたし自身が持っていないということだ。

 だが杞憂だった。幸いにしてシャツの表面はいまやそのほとんどが泥の色に染め変わっていたので、息子の体に残る暴力的な血の色を彼女が見ることはなかった。

 

「ユリウス……? どうしたの、どうして何も話さないの?」


 彼女が怪訝な顔を浮かべ、いくつもの懸念や根拠のない悪い予感が脳裏を嵐のように過ぎ、優しげな顔が青ざめる。

 フレデリックが顏を俯かせるとわずかに唇を噛み、震える妻の肩に手を置き、

 

「リディア、話さなきゃいけないことがある。実は……」


 返事を一向に返さず、黙したままのわたしに代わってフレデリックが女に状況を説明した。

 わたしが霧にどこかをやられ、言葉を失っていると。

 何事かは話すのだが自分にはその言葉は分からず、多分君にも分からないよ、と諦めた声音で彼は語った。

 

「本当なの? ユリウス、お願いだから何かを話してみて」


 リディアと呼ばれた女が心配した顏のまま、嘆願に近い必死な様子で言う。ちらりとフレデリックへ目をやると彼はわたしへと視線を注いでおり、力強くうなずいた。話してくれ、と。

 となれば答えるしかない。わたしは彼らにどうにか伝わるように願いを込め、口調を出来るだけゆっくりと抑え、丁寧な発音で話しはじめた。

 

「彼が言ったのは……本当のことです。ユリウス……でいいのでしょうか? 残念ですが、おそらくわたしはあなた達の息子本人ではありません。確証は無いですが……きっと違う。それにわたしは記憶を失っていて、自分の名も、わたしが本来何者であるのかも分からないのです。わたしは今後どうすべきか、非常に困り果てています。これからのわたしは一体どう身を振る舞うべきでしょうか?」

 

 フレデリックとリディアの両者は口をつぐみ、わたしの言葉を聞き取ろうと真摯に耳をそば立てた。だが、わたしと彼らの間に横たわる言語の壁を超えることは結局出来なかった。

 

「フレッド、今のわかった?」


 リディアが眉根を寄せて夫に問いかけた。フレデリックは妻へと首を横に振って返し、

 

「残念だけど、お手上げだ。やっぱりこれは共通語でも無ければイリルの言葉でもない」

「……困ったわね。私達の話してることは分かる?」


 うなずいた。言葉で返すことに今は意味は無い。

 

「意志疎通は出来るみたいね」

「さて、どうしようか」


 二人は立ち上がると肩を寄せ、腕組みをしてうんうんと悩み始める。

 ほとんど同じタイミング。同じ仕草。息が合う夫婦のようだ。

 やがてリディアがぽつりと、

 

「……昔、師匠が……覚えてる? イルミナ・クラドリンよ。彼女が同じ症状の人を見たって言ってたことがあるわ。その人は時間の経過で言葉を取り戻したって話してくれた」

「あの人を忘れることは一生出来ないよ。じゃあ……待つしかないってこと?」


 フレデリックが難しい顏のままに言う。


「師匠は霧に障った人に言葉を一から教えたとも言ってたわ。わたしたちも試してみましょう、フレッド。きっと良くなるわよ」

「ああ、分かった。赤ちゃんに言葉を教えるようなものだろ? もう二人も教えてる俺たちなら楽勝さ」


 わたしはどう答えて良いか、今後の進退がどうなるかも分からないままに事の成り行きを見守っていた。

 

「お兄ちゃんに何かあったの?」


 するとキッチンらしい場所の物影から少女が顏を出した。

 まだ年端もいかぬ、可愛らしい少女だ。

 リディアと同じ栗色の髪を肩口で切っていて、光を反射して輝く緑の瞳が特徴的だった。可愛らしい少女は心配げな顔と口振りでそっとこちらを見ている。

 

「うん、ちょっとね。お兄ちゃんは言葉が混乱……病気をしちゃったみたいなんだ。でもミリアの話す事はちゃんと分かるから、心配しないで大丈夫だよ。きっとすぐ良くなるから。ね?」

 

 少女のもとへと歩き、抱え上げながらにフレデリックがそう言い、ミリアと呼ばれた少女は「わかったからおヒゲをじょりじょりしないでー」と手をばたつかせて悶えた。




 

 わたしと父は暖炉のあるラウンジへと赴き、柔らかなソファに腰を下ろした。リディアは「少し待ってて」と短く言い残し、扉を開いてどこかへと消えてしまった。


 石造りの暖炉には暖かな火がともっている。

 赤い先端がゆらゆらと揺れる様は不思議と心が落ち着いた。


 壁には数本の剣が掛けられ、シカに似た動物の巨大な頭の剥製が飾られている。

 フレデリックは狩猟家なのだろうか? 村で会った男には『駐屯騎士』と呼ばれていた気もするが。

 

「待たせたわね」


 ささやかな軋みと共にドアが開かれるとリディアが戻ってきた。

 小脇にいくつかの本を抱えているのが見える。

 

「それはもしかして……ユリウスが産まれた時に買った言葉の本?」

「大当たり。捨てなくて良かったわね。物持ちが良いと得するのよ」

「でもそれは幼児向けだろ? ユリウスは九歳だし言葉も分かるんだから……」 もごもごと喋るフレデリックを妻が言葉で制す。

「最初っから教えるなら赤ちゃん用でいいのよ。ほら、やるわよ」


 にしし、と少女のような笑顔でリディアは笑い、夫と共にわたしを挟み込むような形でソファに腰を掛けた。

 決して大きくないソファにこうして人が詰めて座るのは何やら息苦しい気がしたが、二人の真剣な様子から何も言えなかった。

 言ったところで伝わらないか、と遅れて思う。

 

「まずはこれにしましょう」


 数冊の本の山から彼女が選んだのは『はじめよう! 幼児のことば』という題の本だった。注釈として『※こちらは共通語の内容となります』と書き添えられている。


 わたしは自身が思っているよりも随分と愚かなのかも知れない。

 ここで初めて、どうしてわたしは彼らの言語が理解出来ているのだろうか? という疑問に思い至った。


 わたしの話す言葉は彼らに通じない。だが、二人の言葉はわたしにははっきりとした意味を持って伝わり、会話の内容から恐らく解釈も正しいのだろうと分かる。

 考えたところですぐさま答えを得られるはずもなかったが、この疑問はわたしの心に濃い影を残した。

 

「ユリウス。わたしの後に続いてね。この字は『あ』、これは『い』……」


 リディアの細い指がページの上の模様をなぞる。

 わたしはそれに続いて言葉を発する。

 たどたどしいが、わたしの発する音が彼らの理解する言葉になっているというのは二人の表情から察せられた。

 知らぬ文化と交流を交わせたような気がして、それは無性に楽しく、とても嬉しいものだった。

 

 フレデリックとリディアの両者は、共通の言葉を失ったらしい息子が元に戻るように願いを込め、何年も前に用済みになった幼児向けの本を引っ張り出してわたしに再度の教育を施している。

 わたしは記憶が欠落したままで二人の息子を演じている。

 邪な気持ちは無かったが、彼らの行為に甘んじ、また、騙していることは明白だった。


 良心の呵責かしゃくが胸を刺すが、わたしの生活の基盤がこの家族となるのならば、彼ら二人の望む善良なる息子をわたしは演じなければならない。

 正しい言葉をわたしはここで学び、いつか自分が偽の息子であるという辛い告白をする日は遠からず訪れるのだろうがそれは今ではない。

 

 足りぬ知識を得ることが、今のわたしにとっては最優先だった。

 

「あ……い……とう、さん……かあさ、ん……」


 必要最低限でも言葉を修得すれば、わたしを取り巻く状況が詳細に分かるだろう。

 わたしは懸命にページの文字を追い、慣れぬ発音に身を入れた。


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