一章12話 名を知った男

 

「こっちだ! 怪物、僕を見ろ!」

 

 足元の小石を投げつけ、怪物の注意をこちらへ引きつける。

 彼も狩りは狩りらしく、手ごたえのある獲物を好むらしい。


 動かぬビヨンよりも挑発をかけるわたしへと怪物の意識は向いた。

 怪物のひづめが踏みつけた木の根がみしみしと軋み、無残に砕ける。


「そうだ、それでいい」


 怪物を見据えたままに、わたしは言う。

 足を挫いたビヨンを動かすわけにはいかない。

 ならばわたしが彼女から遠ざかる他に方法はない。


 わたしの技術も、手に持つ武器も貧弱だったが戦いのアイデアはある。

 わたしは怪物を挑発しつつ、森を走り、木々がより密集している場所を目指した。

 興奮しているからか、それとも周囲の霧の影響だろうか。

 身が竦むような恐怖は薄れ、少しの高揚をわたしは感じていた。

 

「グルグ、ブルゥォオアアァ!」

 

 背後で怪物が斧を振る。身をすくませる唸りと斧が空を切る音が耳に恐ろしいが、何もわたしは考え無しでこの迷路のような森を走ったわけではない。


 怪物がわたしの背に迫る。振り返らずとも彼が興奮に打ち震えているのが分かった。

 暴力の象徴である鉄斧を怪物が再び振るう。

 瞬間、わたしは真横へ弾けるように跳んだ。正直に言えば勘だった。

 一歩読み間違えればわたしは一撃で死に、ビヨンも後を追うことは疑いがない無謀な策。

 

 怪物が振りおろした斧、それはわたしの子供の肉体ではなく、周囲の木へ深々と打ち込まれた。

 恐ろしい破壊の一撃だ。長い年月を生き、並の木よりも太く育った幹の半分以上にまで切り込んでいる。それをこの身で受けたらどうなるか? 想像もしたくない。


 怪物が腕をよじり、軽々と斧を抜く。

 だが、その動作はわたしが接近し、切りかかるのを防ぐほどに素早くはない。


 牛頭の怪物の肉体は屈強だ。鋼のように鍛え抜かれた肉体にわたしのような子供の攻撃が通るとは到底思えなかった。だが、この剣で狙うべき場所は見えている。

 

「ここだっ!」 祈りを込めてわたしは叫んだ。

 

 わたしは怪物の足裏の腱を狙い、素早く鉄剣を振るった。

 わずかな抵抗と刃先が沈むのを感じる。

 剣からわたしの手へと、肉を切り裂く感触が伝わりゆく。

 

 怪物が鳴く。

 痛みか、怒りか。その正体は分からない。

 続けて振りかぶられる斧の一撃を、すぐそばに立つ木を身代わりにしてかわし、怪物のやわらかな腱を何度も鉄の剣で切り裂き続けた。


 怖かった。

 肉薄をする度に、振られたひづめがわたしの身を折るのではないか。

 いつ怪物がわたしの顏ほどもある膝で蹴るか、それとも強靭な拳で殴り飛ばしてくるか分からなかった。

 

 声もあげぬまま、懸命に攻撃を繰り返した。

 わたしの恐れは膨らみ続け、怪物の怒りの炎は燃え盛り続ける。

 その怒りのほどは凄まじく、両腕にほとばしる力は木々に食い込むにとどまらず、斧の一撃のもとに木をへし折り始めていた。


 このままでは場所を変えねばならない。

 だが、わたしの体には全力で走るだけの体力が残されてはいない自覚があった。


 かたや子供の肉体、一方は屈強な肉体をもつ怪物。

 両者の体力の差は残酷だ。息を荒げるわたしの肺が空気を求めて収縮を繰り返している。今では視界さえもがぐらついていた。

 

「はあっ……はあっ……こ、こだ……!」

 

 力を失いそうな脚を鞭打ち、背後を見せた怪物の膝裏を鋭く横一閃に切り裂いた。

 無残に切り裂かれた怪物の足。膝裏の腱はとりわけて致命的だったのだろう。

 強靭な肉体を支えきれず、重い音と共に牛頭の怪物が大地に膝を突く。


「グルルルル……ヴルグ、グルゥオア……」

 

 立ち上がろうと足に力を入れているようだがそれは叶わない。

 彼の脚より下の肉体はおびただしい出血をしている。しばらくは使い物にならないはずだ。

 

 今だ、好機は今しかない。

 わたしの中の残酷な戦士が怪物の眼球を狙えと叫ぶ。

 いかに頑強な皮膚をもとうが粘膜は関係ない。眼球は剣を受け入れ、即座に命を奪えるに違いないとわたしの一部が言う。


 覚悟を決め、剣のグリップを強く握り締める。

 グローブの中がひどく熱い。

 今すぐに外して外気で冷やしたいと思った。

 今から殺すと覚悟を決めたわたしの視線と、死を認められずにもがく怪物の視線とがぶつかる。


 わたしは彼の命を奪えるのだろうか。

 一瞬、そう躊躇をした。

 だからだろう。


 怪物の恐ろしく大きな手が握った拳がわたしの体を狙った。

 気付き、とっさに盾を割り込ませたが、嵐の前にはボロ傘なんて役に立たない。

 左腕がぐしゃり、と嫌な音を立て、それから腕と意識の中で痛みは火の玉となり気勢をあげて炸裂した。

 

「……リ! 嘘でしょ……! お……い、お願い……!」

 

 泣き声はわたしか、それともいつの間にか森の木々に隠れるようにして見守っていたビヨンか。牛頭の怪物でないことは確かだ。

 衝撃のままに吹き飛ばされ、霜の降りる土の上を肩から無様に転がり、木の根本でぼろ雑巾のように伏しながらもわたしは怪物を睨みあげた。執念といっていいだろう。

 

「まだ、だ……」 口の中が熱い。粘つく塊を吐き出すと血だった。


 顔を泥で醜く汚してはいたが、それを拭おうとは思わない。その余裕も無い。

 右腕は動く。なら、剣は持てる。

 まだれる。


「父さん……わが師フレデリックよ……」


 父の名を口の中で呼んだ。

 わたしは炎で炙られるような熱い痛みを堪え、ごみ屑になった盾を落ち葉の上へと投げ捨てる。そして足を引きずりながらに木の影へと逃げ込んだ。

 ビヨンの姿が遠くに見える。何かを叫んでいるが、耳鳴りがひどくて一語も聞こえない。何か言葉を返すか? いや、生きて帰ってからでいいだろう。

 

「大丈夫」


 その一言だけを口で発し、斧の一撃を避けるべくわたしは右へと跳んだ。

 世界がゆっくりと流れていく。木々が破砕され、木片が乱れ飛ぶのがじっくりと見えた。


 はっきりと分かった。これはコルネリウスが助けを呼び、戻るまでを耐える持久戦では無い。どちらかが死ぬまでの殺し合い。命が尽きるまで凄惨な戦いは終わらないのだ。


 血だらけの左腕を引きずり、顏に無数の傷を作りながらもわたしは剣を残った右腕で握り締め、攻撃の隙を見せる怪物の肉体に敢然と切りかかった。

 脇腹を鋭く突いた際の返り血がシャツを汚し、髪に血の匂いを付着させる。


 ひどく血生臭い戦い。生きた心地などはとっくに失っていて、怪物を殺すことだけがわたしの思考の全てだった。

 下段から轟然と振りあげられる斧を半身でかわす。

 足に強い衝撃が走った。馬鹿な!

 怪物がひづめの足でわたしの足元を払っていた。

 体勢を崩し、泥の上に仰向けに倒れる。まずい。

 

 真上を見上げると怪物が両腕で斧を握りしめ、今にも振り下ろさんと力を溜めていた。無様に転がり避ける。頭のすぐ真横で土が炸裂し、鉄斧が大地を抉った。

 

「グル……ルルオ……小僧!」


 誰の声だ? 左腕の痛みに顏をしかめながら辺りを見る。救援か? いや、それには早すぎる。目の前には血だらけの獣の足。まさか――。

 

「この俺に挑む貴様は何者だ!? 俺の手が握る暴斧ぼうふが見えぬわけではあるまい! 貴様の細腕で俺を殺せぬことは分かっているはず!」


 怪物が口を訊いていた。驚きが胸を満たす。が、死地であることに変わりはない。

 

「だが俺は貴様の勇気を讃えよう! 死する前に名乗るがいい!」


 わたしがだと?

 今まで何度となく自問をした事柄であるというのに、その問いは強い衝撃となって胸中を打った。

 怪物がつまらなそうに息を吐き、わたしの頭部を目掛けて斧を振り下ろす。

 尋常ではない威力の斧が再び泥を炸裂させ、わたしを汚す。怪物は手を緩めない。続けざまにわたしの横腹を思い切りに蹴りつけた。

 脇腹の辺りで鈍い音、太く堅い何かが砕けた感触。口の中に熱い塊がまた湧いた。

 

 ごみ屑のように泥の上を転がる。苦悶の声を漏らすつもりで口を開いたが声は出ず、代わりに血の塊をぶちまけた。

 体は満身創痍だ。いちいち確かめなくってもそれぐらいは分かる。

 走馬灯というやつだろうか。わたしは過ぎ去ったいくつもの日々を思い出していた。





 春先の我が家での日常。母の笑顔。言葉が分からずとも普段通りに接した妹。

 夏の笑い声と太陽の陽射し。コルネリウスやビヨンにミリアと笑い、街で他愛ない話をしていた。

 秋は過酷な時期だった。息子を生き残らせようと、父はわたしに戦う術を教え込んだ。盾の扱い、身のこなし、剣を素早く振るコツ。

 それからいくつもの記憶。懐かしい声。

 

『ユリウス、そんなに鳥が珍しいのか? 変わってんな』

『お兄ちゃん。ねえ、一緒におつかい行こうよ』

『お前は頼りになるな、――――。少し抜けているが……はは』

『世界が新鮮というのはどういう気分なんだ? ――――。私には分からなくてな』

『筋がいい。今はまだまだヘボだが……ユリウス、お前はいい剣士になる』

『それは裏切りだろう。自分のエゴを通すのか?』

『ねえ、ユーリくん』

『なあ、――――』


『『いつか霧が無くなった、その時には……』』

 

 

 目覚める前後の記憶が泥のように混ざり、流れていく。

 過去、挫折、失望、出会い、希望、夢、未来。

 

 すべてを失っていたわたしの前には夜ばかりがあった。

 月さえもない、道の失われた夜の闇。


「だけど……僕は見たんだ」


 夜の向こうに昇る朝焼けを。日々を鮮やかに彩る太陽の赤を。

 両目の奥が熱く燃えたぎる。炎が揺れ、魂を燃やし、焦がす。

 この感覚をわたしは知っている。数えきれないぐらいに何度もだ。

 

「ぶつぶつと……名乗らぬならそのまま朽ちろ。詰めだ、死ねィ! 小僧ッ!」


 怪物が詰め寄る。

 震える腕でわたしは泥を、大地を握りしめた。

 息が荒い。心臓が狂ったように跳ねている。

 

「僕が何者かだと……ごほっ、聞いたな」

 

 剣を大地に突き立て、支えにして立ち上がる。

 上方を睨みつけると血錆びの浮いたおぞましい斧が目に映った。

 狩りに飽きた怪物がとどめの一撃を打ち込もうとしているのだろう。

 だが、恐ろしくはなく、不思議とどうにかなる気がした。

 

「そんなもの、答えは決まってる!」


 足元から得体の知れない風が湧き起こる。

 力の奔流は渦を巻き、周囲の世界を揺らめかせる。怪物が斧を振り下ろすが、わたしを中心にして逆巻く力の波は害意の一撃を容易く捻じ曲げた。

 

「馬鹿な!? 貴様、一体!?」

「僕は……」


 わたしは吼える。

 自身の名を。今や空虚ではない、この生で授かった自身の名を。

 

「僕は、ユリウス・フォンクラッド! それが僕の名だ! お前を倒し、仲間を助け、僕は生きる! 怪物よ、退くがいいッ!」


 瞳の奥で鮮烈なあかが瞬き、意識の全てが白んでいく――。

 




「い……! おーい……! ……ウス!」

「コールくんだ! 助けに来たんだ、良かった! ねえ、ユーリ……ユーリくん? 起きて! 目を閉じちゃだめだよ!」


 彼女の細い腕がわたしの体を揺らす。いつの間にかわたしは倒れていたらしい。

 女……ビヨンだ。彼女が指差す先を見るとこちらへ走り寄る人影がぼんやりと見えた。

 大小の二つの影だ。きっとわたしがよく見知った少年と、誰か。村の大人だろう。

 大人が居るのならば、後は任せても平気だ。


 意識がぐらつく。血を失い過ぎたのだろうか。

 左腕をちらりと見ると紫色に腫れ上がり、おびただしい出血をしていた。

 脈を打つたびに痛みが火薬となり、混濁しつつある意識の中心で炸裂する。

 

 怪物はどうなったのだろう。辺りの様子を見る余裕は今のわたしには無かった。ひどく、ひどく眠い。まぶたがあまりにも重く感じる。


 正視に耐えがたいありさまの左腕を庇うようにして、わたしは泥の中に崩れ落ちた。いつかのように衣服は泥にまみれ、顔や髪もみっともなく汚れたが少しも気にならなかった。


 空を仰ぎ見る。青空は見えず、ひたすらに霧の灰色だけがある。


 わたしは生きている。

 近くて遠い場所でビヨンの声がする。

 わたしは約束を守り通すことが出来たのだ。


 わたしは女の名を小さく呼び、疲れとまどろみに意識を委ねた。

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