第63話 夢から醒めて -Knockin' on heaven's door-
・1・
「な……ッ!?」
吉野ユウトは混乱していた。視覚からなだれ込む過剰な情報を満足に捌ききれない。
そんな呆気にとられた彼の表情を見て悪戯心が擽られたのか、
「おはよう。ユウト君」
「……ッ」
「フフ……はしたないガールフレンドは嫌いかしら?」
白いワイシャツ一枚というあまりにも無防備な格好の少女は、ほんのりと頬を赤く染めてユウトから目線を外した。
「……彼、女?」
ユウトは首を傾げる。特定の女性と交際している記憶はない。そもそももし本当だとしても、そんな重要なことを忘れるはずがない。
「ええ、交際を始めて今日で137日目よ?」
しかし夜泉は当然のように告げた。
「忘れてしまったの? 昨夜はあんなに激しく私を求めてくれたのに……ヒドイ」
ひどく悲しそうな顔で俯く夜泉。
「求ッ……めた!?」
全身から一斉に汗が噴き出す感覚を味わうユウト。それは幾多の死地で味わうものとまったく同じ感覚だった。
(マズい……全く覚えがない……昨夜? 確か……)
テンパって上手く思考ができないが、彼女の言葉は嘘を吐いているようには見えない堂々としたものがあった。もし本当なら、自分は最低野郎の烙印が押されることになる。
「嘘よ」
「嘘かよ!?」
夜泉はクスクスと笑っていた。
「まぁ、本当に求めてくれるなら……私は抵抗しないわよ?」
乱れた髪をゆっくりかき分け、まるで自分が一番魅力的に見える最適な角度を見せつけるようにして、甘い声で囁く夜泉。
「……ッ! それより何でお前がここに……ここって俺の……部屋だよな?」
不覚にもドキッとしたユウトは、慌てて話題を変えることにした。
「だから言ったでしょ? 彼女だからよ。ビビりのユウト君は昨夜私に手を出さなかったけど、一緒に寝たのは本当よ? 合鍵だって持ってるわ。……ねぇ、本当に大丈夫?」
夜泉は一転して心配そうな顔で、ユウトの額に自分の額を当てた。
(そんなわけ……ッ。俺は———を!)
突然、ユウトの思考にノイズが走った。心に余裕がない故ではない。鈍器か何かで脳を叩き割られたような思考の強制停止……そんな感覚だ。
(なんだ……今のッ……俺、今誰を——)
誰かを想った。目の前の夜泉ではない誰かをだ。しかし顔はおろか、名前さえ出てこない。
「……熱は、ないみたいね」
「あ、あぁ……」
(あったかい……)
夜泉の体温を感じる。心をざわつかせる焦燥感のような何かは徐々に薄らぎ、自分と世界の差異が縮まる。ユウトの気持ちはだんだん落ち着きを取り戻し始めた。
「……」
ふと、夜泉が自分をまっすぐ見つめていることに気が付いた。
「何だよ?」
「フフフ、今日も綺麗な目をしてると思って、ね」
言い終わると同時に、彼女はガバッとユウトの胸に飛び込んできた。
押し倒される形になったユウトは、自然とベッドの横にある立て掛けの鏡に映った自分自身と目が合った。
「赤い……目……」
血のように赤い光を宿した瞳。
また違和感。
何かが。
変わってしまった。
何か——何か、大事な——を——
「さぁ。朝食を食べて学園に行きましょうか」
そんなユウトの心中などお構いなく、今日も世界は回る。
一切の歪みなく。
・2・
目の前に生まれたての世界が一つある。
「……」
鮮血の着物に身を包んだ吸血姫カーミラは、野球のボールほどの大きさの球体にそっと触れようとした。すると彼女の指先に激しい火花が舞い散った。世界が彼女を拒絶したのだ。
「ククク……ヒャハハハハハハハハハ!! 残念お呼びじゃねえんだよクソ吸血鬼。さっさと棺に戻っておねんねしてなァ」
不定形の黒い人影がカーミラを嘲笑った。球体以外に光はなく、宇宙空間のように上下の間隔もないこの場所で、影は周囲の闇と溶け合い、まるで彼女を包み込んでいるかのように錯覚してしまう。
悪意の視線は小さな少女の体を隈なく突き刺す。
「カグラ……何をしたの?」
いつも悠然とした態度のカーミラが、明らかに怒りのオーラを漂わせていた。
ここは
世界は可能性の数だけ存在する。全ての生命の一挙手一投足があらゆる分岐を生み、世界は細胞のように増殖し続けるのだ。
そして世界の外側たるこの場所こそが、あらゆる
それなのに、
星の数ほどあった世界は、今ではこのたった一つだけ。
「そう怒るなよ。お前だって何度も繰り返すくだらねー人形劇にそろそろ飽き飽きしてたんじゃねぇのか? 俺はただ、吉野ユウトに幸せになってもらおうと思ってこの終局点を作り上げたんだ。……ま、足りない魔力はあのガラクタ女に手伝ってもらったがな。イヒヒヒヒ……!」
「……ッ」
そのくだらない人形劇を誘導した舞台監督は白々しい顔で言った。
「あいつはもう立派なワーロックだ。愛する女を糧にしてなぁ。これでワーロックは二人。ったく……あんだけバカみてぇに世界を作っても、結局蓋を開けてみりゃぁこれっぽちの成果とは……泣けてくるぜ」
カグラの目的は蟲毒と見て間違いない。ワーロックは殺した命の数だけ無限に魔力を乗算させる。この男が作り出した脚本の中では、その性質から決して逃れることはできない。
もう祝伊紗那が求めた、彼女が幸せになるための世界ではない。
ましてやヒーローが悪を成敗する痛快な物語でもない。
いわば大団円の存在しない
そうして最後の一人となった者を、自身の新しい体とするつもりなのだろう。
蟲毒を生き残った最強の魔道士。蒼い眼を持つワーロックを。
「あと少し……あと少しだ。俺は神の力を手に入れる!」
ぎらつく瞳でカグラは
「あの人は……神なんかではないわ」
憂いを帯びた瞳は、ただ一人を想う。
世界で初めてワーロックに至り、後世に凌ぐものは存在しないと断言できるほどの大賢者。若く才気にあふれ、それでいて笑顔が愛らしかった蒼眼の主を。
「あいつは力の使い方を全ッ然理解してなかっただけだ。人助け人助け人助け。それで一体何になったってんだ? あぁ? 俺なら文字通りの神になれる」
「黙りなさい坊や。私はあなたを永遠に封じてみせる。
ゆらゆらと捕えようのない影がそんな言葉を鼻で笑う。
カーミラは金の装飾を施された懐中時計を取り出した。時計の蓋を開けると、黄金色のホロスコープが空間に刻まれ、伊弉冉に巣くう闇の動きは一斉にピタリと止まった。
「チッ、クロノスか。自分の時間を犠牲にしてでも俺の動きを止めようってか? まぁ永遠に近い寿命を持つ根暗吸血鬼の考えそうなくだらねー手だなァ!」
時間の神の名を冠するこれもまた、
「……どうやらまた躾が必要なようね?」
「強がんなよ。伊弉冉はお前より俺の方がよ~く知ってる。元々俺様のものだからな。現に俺はこうして封じられていた深層から、ここまで這い出てきた。いやぁ、ザル警備で助かるぜ。見回りご苦労さん! ヒャハ、ヒャハハハハ!!」
カーミラは口を噤んだ。彼の言葉は正しい。そもそも本来ならこうして言葉も交わすはずないほどの強力な封印だったはずなのだ。途方もない年月を経て、徐々に伊弉冉に施した封印が解除されているのは明らかだった。今ではここの権限の約半分は、カグラの手中にあると言っていい。
「それにまたまたザァンネ~ン~。もう遅ぇよ。俺がここに来た時点でとっくに手は打っちゃってるんだよなァ、ククク。なぁ、教えてやるよ。この世界には伊弉冉の
「ッ!?」
カーミラの表情が一瞬、凍り付いた。
伊弉冉の本体。
祝伊紗那が所有していたあの伊弉冉でさえ、無数にあった世界に存在する端末の一つに過ぎない。
ありとあらゆる夢想を現実に誘う願望機。
カグラの力がカーミラを上回ったその瞬間、伊弉冉の真の力は解き放たれる。
夢と現実の境界は消え去り、嘘は真となる。
そうなれば——
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