第57話 たぐり寄せた頂 -Maximum Overload-

・1・


 少女の細く白い指先が少年の温もりを求め、ゆっくりと引き寄せられていく。

「……」

 恐る恐る、けれど着実にユウトと伊紗那の距離は縮まっていた。しかし、



「愚かな」



「「!!」」

 その声は嫌に酷く脳に響き、ドロッとした悪意は矢となって二人の頭上から降り注いだ。

「ッ!」


『Defender』


 咄嗟に伊紗那が理想写しイデア・トレースの籠手から上に向って撃ち出した巨大な光輪が、二人を包むように結界を張り、降り注ぐ魔術の矢を全て弾く。

「誰だ!」

 ユウトは姿の見えない敵に向って叫んだ。

(どこだ? どこから攻撃してきた?)

 離れた場所にいるアリサは銃を目線の高さに構えてはいるが、その銃口は右へ左へと泳いでいる。下からでも敵が見えないのだろう。

「神凪、博士……」

 伊紗那は息苦しそうにその名を呟く。彼女の赤い双眸だけはその男を捉えていた。

「神凪って……嘘……何でッ」

 アリサも秋斗もその名を聞いて言葉を失っていた。

 程なくして神凪青銅は透過の魔術を解き、その姿を現した。

「お前は……」


「また会ったな、吉野ユウト。いや、この姿では初めてか。まぁいい。それ以上私のおもちゃに手を出さないでもらおうか?」


 細身で長身の眼鏡をかけた男。初対面なのに、ユウトは自分の胸の内側が疼くのを感じていた。

 虫が這いずり回るような感覚。自分の中の「呪い」が同じだと喚いている。そしてこれと同じ感覚に心当たりがあった。

「お前、あの時の……」

 何となく、ユウトの目に映る男の姿が、エクスピアでいきなり介入してきた鳥のネフィリムと被る。

「ほう、私の『傲慢』の気配を感じるか。もうそこまで『強欲』を制御できるようになっているとは。そういえば自己紹介がまだだったな。私の名は神凪青銅。まぁ今はジャタと名乗っているがね」

 そう名乗った青銅は顎に指を当て、興味深そうに目を細める。

 その首を背後から狙う影が二つ。転移してきた秋斗とアリサだ。だが二人のナイフが彼に届くことはない。

 テニスボール大の魔力障壁がナイフをすり抜け溝内を突き、二人の体は空中で急ブレーキをくらったように速度を完全に失って不自然に折れ曲がったのだ。

「かはっ!」

「ぐ……うッ!」

 そのまま着地もままならず、二人は地べたに激突してしまった。

「アリサ、桐島! ……お前!!」

 ユウトは概念喰いグリディー・イーターを具現化し――


「おっと待て待て、いいのか? 不用意にそんな力を使って?」


 青銅はやけに余裕綽々とそう言った。

「何?」

「伊紗那。とうに君の選択肢は一つだけだ。そうだろう?」

 下卑た声で青銅は伊紗那に問いかけた。

「……」

 伊紗那は黙って下を向く。

「……どういう意味だ?」

 ユウトは伊紗那を隠すように前へ立ち、キッと斧の切っ先を向ける。

「野蛮な男だ……だがまぁいい。特別に教えてやろう。貴様のその力は我々ネフィリムがそれぞれ持つ力と同種なのだよ」

「だったら、何だっていうんだ?」

「ふん、考えてもみたまえ。そんなもの、普通の人間が簡単に扱えるわけがないだろう? ついこの前、君はそれを体験したはずだ」

「……ッ」

 ユウトは黙り込む。伊紗那の肩も僅かに震えていた。きっとあの時の事を思い出したのだろう。

 ユウト自身は知らない、自分が死んだ後の数分間の出来事を。

 あの時、心を支配していたのはどうしようもなく荒れ狂ったドス黒い衝動。その熱で理性は一瞬で蒸発し、目に映るすべてのものを壊して、支配して、蹂躙したいと……それが何よりも心地いいと。それ以外の他の情報は頭に一切入ってこなかった。


「科学者がこんな曖昧な言葉を使うのは良くないが、一言でいえばそれは人類悪の欠片だよ。人が人である限り消えない悪意つみの集合体。我々が持つそれは、人を獣に変える。こんなふうに……」

 青銅の影が不自然に歪み、服の内側が激しく波打つ。

「ッ!?」

 神凪青銅はジャタへと姿を変えた。ネフィリムという名の獣へと。


「さぁ伊紗那、調の時間だ。こっちへおいで」


 一瞬、伊紗那の肩がピクッと震えた。彼女は徐々に表情を失っていき、そして小さく言葉を漏らす。

「……は、い」

 彼女はゆっくりと立ち上がり、ジャタの元へと歩いて行った。

「伊紗那!? おい!」

 虚ろな目でふらつく彼女の肩に触れようとしたその瞬間、ユウトの右肩にどこからともなく飛んできた銀の短剣が深々と突き刺さった。

「ぐ……ッ……!?」

 それは伊紗那が理想写しの力で生んだものだった。激痛に耐えかね、その場で膝をつくユウト。

「気を付けた方が良い。彼女のむき出しの防衛本能に殺されてしまうぞ?」

「お、前……伊紗那に、何をした!!」

 ユウトはジャタを睨みつける。ジャタはそんなユウトを実に愉快そうに見下ろして答えた。


「何、元々彼女との付き合いは長い方でね。私の研究の片手間に数多くの暗示を施しておいたのさ。いくら最強のワーロックとはいえ、心は人間。弄ぶのは容易い。……あぁそうそう、彼女が前の世界の君を殺したきっかけも、詰まるところこれだよ」


 頭の中が真っ白になった。ジャタはさらに付け加えるように何か言っていたが、頭に入ってこない。

 ポツポツと雨のように小さな黒が生まれ、気付けばあっという間に真っ黒に染まっていた。

「ユウ、トさん……」

 ジャタの後ろで、胸を押さえて悶えるアリサは心配そうな目でこちらを見つめていた。

「……ぁ」

「ん?」

 押さえていたドス黒い感情が叫びとなって一気に溢れ出した。


「ジャタァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」


 ユウトが持つ概念喰いが邪悪なオーラを放つ。それは徐々に彼自身の体に侵食していった。

 全身が破裂しそうなほど痛いのに、まったく気にならない。肩に刺さったナイフを掴むと、クッキーでも割るように簡単に砕け落ちた。

 自分が今どうなっているのか見当もつかない。


「ハハハ! 見ろ伊紗那、彼の肩を! もう再生している。……さぁ言ってごらん? 彼は……何だ?」

 心を失った赤き双眸がユウトを捉える。

「て……き……」

 小さな唇は確かにそう告げた。

「ジャタ……お前は、お前だけは絶対に許さない!!」

「ハハハ! さぁ、狩りの時間だ。私のおもちゃは強いぞ?」


 その言葉を合図に、最強の魔道士の赤い双眸に凶悪な光が灯った。


 さっきまでの壊れた機械のような鈍重な受け答えとは真逆に、伊紗那の姿がユウトの視界から一瞬で消える。


 次の瞬間、ユウトの背筋が凍りついた。


「ッ!!」

 すでに喉元三十センチのところにまで霧の大鎌が迫っていたのだ。背後から少女が鎌を引き、首を刎ねようと前から刃が迫る。

 ユウトはほとんど反射的に持っていた概念喰いを振り上げた。


 ガギンッ!!


 激しく火花を散らし、何とか直撃を免れる。そのまま転がり込むように、ユウトはまだいくつか残っていた石柱の陰に身を隠した。

「はぁ……はぁ……」

 遅れて一気に全身から汗が噴き出した。ここまでの行動に一切の思考は存在しない。直感に任せ、目に映ったものにただしがみつくだけ。

 だが、安心するには早すぎた。彼女の武器は決して一つではない。同じ魔法を使う者同士、波長のようなものを全方向から感じた。

「うそッ……だろ!」

 すでに他の理想写しの武具たちは召喚されていたのだ。それも一つや二つではない。


 


 ユウトの三六〇度、その全てを埋め尽くす。


「ふっ……悪あがきもここまでのようだな」

「……っ」

「何、恥じることなどない。本来誰も到達しえない魔法の極地に挑んだのだ。むしろ誇るべき豪勇だ」

 ジャタは愉快そうに伊紗那の横に立ち、両手を広げた。

「死体となった貴様の目の前で、彼女の暗示は解いてやろう。その時に浮かぶ絶望の表情……愛する男を二度も殺めてしまった女は一体どんな顔をするのか? どんな壊れ方をしてくれるのか? 想像するだけで鳥肌が立つ!!」

「……さ、せないッ!!」

 怒りに震えた声でアリサは立ち上がった。パンドラを槍に変形させ、息苦しそうに構えを取る。

「今ここで……お前を殺せば……ッ」

 秋斗も同様に立ち上がった。だがジャタはその言葉を鼻で笑う。

「さて……それはやってみなければわからないな。まぁ出来れば、だがね」

 伊紗那は二人に見向きもせず、右手に持った妖刀・伊弉冉を一振りした。


 シュッと風を優しく撫でる音。


 直後、アリサと秋斗の足を何かが掴んだ。

「「!?」」

 それは泥の手だった。いつの間にか泥沼と化した足場からベチャベチャと音を立て、赤子サイズの無数の手が二人の体を引っ張り込もうと虫のように蠢いている。

「前回は不覚を取って最高の瞬間を拝めなかったのでね。万が一がないように、君たち部外者には退場してもらうよ?」

「かみなッ――」

 叫ぶことさえ許されず、遠見アリサと桐島秋斗の存在は呆気なく世界から消えた。

「ッ!? 二人をどこへやった!!」

「ちょっとした閉鎖空間で楽しいあくむを見ているだけさ。伊弉冉の幻を操る力にはこういう使い方もあるのだよ。何、死んではいない。まぁ……無事に帰ってこれるとは思えないがね」

「お前……どこまでッ!!」

 下卑た笑みを浮かべる敵はすぐ目の前にいるのに、届かない。

 最愛の少女は感情を無くした顔で、自分の命の手綱を握っている。

(……やるしか、ないのか……)

 ここに来る前に決めていた、たった一つの勝利の可能性。

 祝伊紗那が吉野ユウトに最も望まない、自己犠牲の上に成り立つ一か八かの大勝負。


「やれ」


 無情な声と同時に振り下ろされる少女の腕と、少年が決意するのは完全に同時だった。

「くっ!!」


 次の瞬間、世界を穿つ理想の雨が降り注いだ。


 光と音が五感全てを塗りつぶすこと五分。

 隕石の大群が一ヵ所に押し寄せるのと同等の破壊力が牙城の頂上を粉砕し、足場を無くした伊紗那とジャタはゆっくりと瓦礫の上に着地した。


「ククク……ハハハハハ!! これはしまった! ここまでしてしまったらもはや死体が誰だかわからなくなってしまうではないか!」

 ジャタはこれ以上ないほど愉快そうに笑っていた。無表情で爆心地を眺める伊紗那に息がかかるほど近くまで迫って、その顔を検品するようにじっくりと眺める。

「あるいは、見たくないという思いがこのような形でヤツを殺したか……」

 その醜い手が少女の髪に触れようとしたその時、


『Extraction Chain Riot Eclipse Quake Hide&Seek Blade Ivy Defender Raider Heat Boost Bios Drain Clock Scale Ignite――――――――――――――――――!!』


 けたたましく鳴り響く電子音。まだまだ止まることなく、数多のメモリーを読み込み続ける。

「な、何だ!? 何が起こっている!?」



「貰ったぞ……お前の、力ッ!!」



 破壊の中心で、ユウトは呻くようにそう言った。

 左腕の理想写しには、秋斗から受け取った空っぽの巨大メモリーが挿し込んである。

 そして右腕の概念喰いには、伊紗那の攻撃から奪った千を超える莫大な魔力。ユウトの生存本能が、明らかに体の中に収まりきらないその余剰分を体から強制排出しようとしていた。


 だが彼は概念喰いでそれを強引に引き留め、一滴も逃がさないようにする。


「バカなッ!? 『強欲』の力で伊紗那の魔力を奪っただと……ッ!!」

 信じられないといった表情を見せるジャタ。癪だが、この時ばかりはユウトも同じ意見だった。

 何故ならそれがどれだけ愚かで危険なことなのか、考えるまでもないからだ。


 だが、


「うっ……ああああああああああああああああああああッ!!」

 叫びと共に、ユウトは概念喰いの斧の刃で自分の籠手の甲にある宝玉を砕いた。

 当然覚悟していたが、全身の血流が逆流したような、ショック死してもおかしくないレベルの激痛が濁流となってユウトに襲い掛かる。

「ハ、ハハ……、だから何だというのだ!? 半分とはいえ、その途方もない魔力の塊を一体どうしようというのだ? 貴様が死んだあの時のように、偶然通りかかった奇跡に頼るか? そんなものもうあるはずがない! 奇跡は二度も起こらない!!」

「ぐ……ッ!! ああああああああああああッ!!」

 ついには膝をついたユウトを見下ろし、ジャタは勝ち誇る。

「ハハハハハッ! 己の思い上がりを悔いて自滅するがいい!!」


 千の魔力メモリーが刃を通り、激痛となって宝玉を流れ、そうして一つのメモリーに集約する。


 無色だった巨大メモリーに紅蓮が走った。

「ッ!?」

 それがロケットのように籠手から吐き出され手元に収まると、あれほどユウトを苦しめた凄まじい魔力の奔流は嘘のように静まり返った。

「あ、ありえない……そんなことがッ!! ただの人間にそんな……ッ!!」

 制御できるはずがない。そう言いたいのだろう。例え完全なワーロックの半分の魔力量であったとしても。

 それは紛れもない神の如き力だ。

「ジャタ……お前の遊びはここまでだ」

 ユウトは完成した最強のメモリーを理想写しの籠手に差し込んだ。



『Unlimited』



 するとユウトにある変化が訪れる。

 黒い髪は白く変色し、両目は燃えるように赤く染まった。

 かつて少女がそうであったように。


「まさかッ! ワーロックに至っただと!!」


『Cross Blade!!!!!!!!!!!!!!!』


 左腕を一振り。

 それだけでユウトの体は神々しい光を帯び、白銀の剣翼を宿した衣と一振りの刀を錬成した。

 以前、もう一人の伊紗那が使った『理想写し・神衣かむい』。魔法を身に纏う、理想写しの最上級奥義だ。

「ぐッ……こけ脅しだ! 伊紗那!!」

 ジャタに怒鳴るように命じられ、伊紗那は霧の大鎌を持って跳んだ。途中で大量の霧を撒き散らし、伊紗那の体は素粒子に溶け込む。そしてユウトの死角から――


 ガシッ!!


 聞こえたのは生身を切り裂く音ではなく、何かを掴む確かな音。

「ッ!?」

 霧に溶けた少女の細腕を少年が強引に掴んだのだ。


「伊紗那、お前にそんな力……必要ない!!」


 ユウトは伊紗那を強引に霧から引っ張り出し、そのまま流れる様な見事な刀捌きで彼女の大鎌を粉々に粉砕した。


「……返してもらうぞクソ野郎! お前なんかにこいつは絶対渡さない!!」

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