行間6-1 -愛と呪いと-
王の間に足音が響いた。それは望まれぬ来訪者の足音だ。
「……誰だ?」
暗闇の奥から一人の少女が姿を現した。
「こんばんは」
「ン? 誰ゾ?」
王の間で猫のように体を丸めて一休みしていたナナが上体を起こして首を傾げた。同じく隣でナナにくっついてくつろいでいたルナは、伊紗那を見て目じりを険しく吊り上げる。
「あぁ? 何よ人間。ここはあんたみたいな汚いのが来るところじゃ――」
伊紗那の赤い視線がルナの心臓を貫いた。
「ヒッ!!」
思わず反射的に体が動き、ナナの後ろに隠れるルナ。
「どシタ?」
海上都市で自分とあれだけ破壊の限りを尽くした彼女が恐怖で怯えている。ナナは不思議に思ってルナに尋ねた。
「わっかんないわよッ! でも、なんか、体が勝手に……あんたあの女から何も感じないの!?」
「ン? んんん〜マズいノカ?」
そうだった、と何となく理由を察してルナは頭を抱える。今この場においてはそれは救いだ。
控えていたロウガもまた、残った一本の腕を自分の愛刀にかける。しかし動けなかった。
(……こいつ、隙だらけなのに仕留めれるイメージが全く浮かばない)
下手に動けばこちらが喰われる。そう本能が感じていた。
「……お前」
眼前の少女はもう自分が知っている少女ではなかった。
真っ白に染まった髪。赤い双眸。チャイナドレスを思わせる黒い衣装。この衣装からは全く別の魔力を感じた。しかも相当な力で組み上げられている。その見た目に反して、たとえ銃弾の雨に晒されたとしても、きっと彼女に傷の一つだってつけられないだろう。
何よりこれだけ離れていてもひしひしと伝わる、心臓を鷲掴みにされるような圧迫感。まるで溶岩に顔を近づけているようだ。死の臭いがする。
下手をすればこの場の誰よりも彼女は化け物なのかもしれない。
「ねぇ……」
だからもうこの場で彼女の言葉を邪魔するものはいなかった。誰が何を言わずとも、この場の絶対支配者は決まっている。
伊紗那は静かに口を開いた。
「あなた……死にたいんでしょう?」
「ッ!!」
ワイアームの肩がわずかに震えた。
「ジャタ……お前か?」
「すべては御身のためでございます」
静かに怒りを孕んだ邪竜の声。影から姿を現したジャタは涼しい声で返す。
「ジャタ!! あんた何てもの連れてきてんのよ!! この女、ヒィィ!」
ルナは文句を言うが、伊紗那が一歩動くだけで再び猫のように飛び跳ねてナナの後ろに隠れてしまった。
伊紗那はそのまま中央の石棺まで歩を進める。その足取りは軽やかで、少し前までなりふり構わず喚き散らしていたのが嘘のようだ。
もう、迷いはない。
魂を分け与えたもう一人の自分。仮面の魔法使いはいわば人柱。
記憶も力も罪も後悔も。全て彼女に押し付けてきた。
自分が愛する少年の前で、汚れなくいられるように。
その彼女を取り込み、少女はすべて思い出した。
ジャタ――
つまりは遠見アリサや桐島秋斗、逆神夜泉と同じ、『前の世界』の住人だ。
そんな彼が何故ネフィリムなどという異形に身を堕としているのかはわからないが、少なくとも彼との間にいい思い出なんて一つもないことは確かだ。ジャタは伊紗那にとってはこうして目の前にいる以上、すぐにでも殺したい相手でしかない。
でも今はそんなことどうでもいい。もっと優先すべきことがある。
だからジャタの甘言に乗せられることにした。彼から得た情報。それが自分にとって邪魔者を排除するのに最も効率的な方法だったから。
ゆっくりと。割れ物に触れるように棺に触れる伊紗那。その左手が淡い光を放っていた。
「……へぇ。この中にいる人は、あなたにとってとても大切な人なんだね」
「……」
所有するメモリーの中に、記憶を読み取る魔法がある。伊紗那はそれを使い『とある過去の物語』を覗いたのだ。
それは片腕を失った聖女と旅をする呪いの龍のお話。
無数に存在する世界のほんの一粒だ。
「彼女だけがあなたに死を与えられる。だからあなたは彼女をもう一度蘇らせようとしてるんだね。……たとえ何を犠牲にしても」
伊紗那は愛おしそうに物語を語る。
名前も思い出せないあの聖女との日々。忘却の彼方へ消えた過去はワイアームの錆びついた心をわずかに昂らせる。
「でも………………………………そんなことさせてあげない」
『Cain』
「!」
それは一瞬だった。
伊紗那は理想写しで召喚した大剣を振り下ろし、無慈悲に石棺を破壊した。
一拍の静寂の後、これまで誰も見たことないほどにワイアームが怒り狂う。
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
ジェット機も顔負けの猛スピードで飛び出すワイアーム。衝撃で周囲の岩盤が砕け散った。溢れ出る怒りを塞きとめるものなど何もない。このまま少女を本気で喰らうつもりだ。
「ふふ……」
しかし全てを喰らい尽くすワイアームの腕が伊紗那に届くことはなかった。
どこからともなく現れた闇色の鎖がワイアームに絡みつき、その体を空中で拘束する。
「ガア……アァッ!!!!」
ワイアームはそれでも激しく抵抗した。闇色の鎖からギィっと不気味な音が鳴る。その場にいた拘束されていない他のネフィリムたちは動けなかった。猛獣と猛獣の戦い。弱者が余計に動けば殺されると誰もが理解していた。
やがて抵抗が収まったのを確認すると、伊紗那はそこに見えない階段があるかのように何もない空を踏み、ゆっくりとワイアームに近づいていく。
吐息が聞こえるくらい顔を近づけて、伊紗那は彼の耳元でこう言った。
「この世界は私が作ったの。
伊紗那はどこからともなくもう一本、刀身が鏡のように透き通った日本刀を取り出した。刹那の持つ伊弉諾とは対照的に、およそ儀礼用と思しき装飾の施されたそれは、息をするのも忘れるほどに美しい刀だった。
「私が元いた世界の魂の情報を集積して、新しい世界で再配置する。みんなが笑顔でいられる……私の理想の世界。……私、頑張ったんだよ?」
伊奘冉は可能性を作ることができる。
人類史の始まりから終わりまで。枝分かれした全ての可能性の一場面。その一場面こそが
伊紗那は自分の住んでいた世界から全ての魂を吸い出し、新たな世界に当てはめることで、この理想郷を作り上げた。あの色を失い荒廃した分界はその抜け殻だ。
ユウトたちが暮らす世界。それは前の世界から情報を受け継ぎ、新たに作り出された一つの『
「……どうして私の世界を壊すの? 私、誰にも迷惑かけてない……私はただ、みんなに幸せになってもらいたいだけ……どうして……どうしてみんな私の邪魔ばかりするの?」
別にこの場の誰かを責めているわけではない。どんなに上手く世界を作っても、争いは決してなくならない。遅かれ早かれこうなる可能性はあった。
そう……ただ運が悪かっただけだ。
ワイアームたちネフィリムは、ゲートを使って分界を渡ることができる。無限に等しい可能性の中で彼女の世界を引き当てたことは、それはもはや地震や嵐と同じ天災と呼ぶしかない。
結局、彼らは数ある理由のほんの一握りに過ぎないのだ。
「これであなたの望みは断たれた。少しはわかってくれるかな? 私の気持ち……」
わかっている。こんなのはただの八つ当たりだ。でも誰かを踏みにじらないとこの疼きを抑えきれなかった。自分だけがこんな気持ちになるのは不公平じゃないか。
「……」
ワイアームは何も答えない。ただこう思った。
(……こいつは、俺と同じなのか)
もう一度誰かに会いたいと思う気持ちも。
そのために全てを捨てたことも。
そして自分の罪の重さに耐えきれなくて、心が麻痺しきったところも。
『愛』が『呪い』に変わっている。
「……でも大丈夫。あなたには私がいる」
伊紗那はワイアームに微笑みかける。ワイアームはまるで自分を見ているようで煮えたぎる怒りが自然と収まっていく。
「この剣は全ての罪をゼロにする。本来あるべき姿に戻す力がある。あなたが人の悪意が生み出した呪いの塊だとするなら、あなたのあるべき姿は無。私ならあなたに確実な死を与えられる」
伊紗那は棺を破壊した大剣をワイアームに見せつける。こっちの剣は強引に吸い寄せられるような危険な魅力を放つ伊奘冉とは違い、心を洗い流すようなとても穏やかな心地よさを感じる。
どちらも美しすぎる刃だが、その本質は真逆のようだ。
「さっきの人も私が還してあげた。だって可哀想じゃない。ずっとあのままなんて。でも大丈夫。もう何にも縛られることはない」
それはきっと、とてもいいことだとワイアームは思った。
魂なんて見えはしない。だから正確なことは言えないが、自分はずっと彼女を蘇らせるために、長い時間彼女の魂をこの世に縛り付けてきたはずだ。それは子供が行かないでと駄々をこねるのと何も変わらない。目の前の少女はそれを断ち切った。
「あなたも彼女と同じにしてあげる。そうしたら新しい世界できっと彼女と再会できる」
「……ッ」
一瞬、とあるお店で自分と彼女、そしてもうあと二人。そこでみんなで楽しそうに笑っている情景が脳裏に浮かんだ。
それは見たこともなければ考えもしなかった
「だからあなたはもう何も考えなくていいんだよ。私もそう。ユウが……私のこんな醜い姿を知りさえしなければ、私は何だってできる。もう何人殺そうが私には関係ない。全部元通りにして、もっと理想的なあの頃に戻してあげる」
この世界での命とは、全て伊奘冉で管理できる情報にすぎない。
作ったのが彼女である以上、彼女の意思一つで世界をリセットすることは可能だ。ただ前の世界と同じことをすればいい。
「私はもう一度、あの日に戻りたいだけ……」
ウソでもいい。誰もウソだと知らなければそれは真実だ。
やり直せばもう一度あの満ち足りた日々に戻れる。
しかし未だ彼女はそれをしない。できないのだ。なぜなら、
「そのためには、あなたやアリサちゃんのような外から来た
この世界には、気付かぬうちに自分の管理下にない命がいくつか存在している。それこそがリセットできない最大の理由。
それらを一つずつ消していくことは簡単だが、問題はその中にはユウトも含まれているということだ。正確には彼の中にある『強欲』のアークメモリーだ。
伊紗那にはもうユウトの死が耐えられない。
たとえ化け物に変わったとしても。
たとえ全部元に戻るとわかっていても。
たとえ嘘だとしても、だ。
結果の問題ではない。
この手で二度目は絶対にできない。
だからせめて……せめて自分の知らないところで死んでほしい。
彼を愛するあまり、最も願ってはいけないことを願い始めていることにすら、少女は気付いていない。
「あなたは強い。誰よりも。もうこの世界であなたを殺せるのは私だけ。私に殺されたいなら何も考えずに私の言う通りにすればいいんだよ」
白い悪魔は囁く。
さぁ選べ、と。
しかし始めから選択肢なんてなかった。
「さぁ、私のために邪魔者を全員殺してきて」
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