第35話 欲望の獣 -Greedy Eater-

・1・


 一ヶ月前。


 祝伊紗那ほうりいさな魔道士ワーロックとして覚醒した。


 いや手放していた力もうひとりのじぶんを吸収し、元の姿に戻ったという方が正しいのかもしれない。

 その引き金となったのは、彼女が愛する一人の少年の死だった。


***********************


「……作り直さなきゃ……私の、世界……でないと私、わたし……」

 伊紗那は白く変色した髪に両手を乗せて、苦しそうにボソボソと呟く。その言葉がまるで呪詛のようであり、周囲の空気を一変させている。しかし今の彼女に周りなど一切見えていない。


 ズシンッ! と足音が響く。


 牛頭のネフィリム・センティコア。その巨体が伊紗那に近づいてきた。

「……お前も、死ね」

 巨腕が大斧を振りかぶる。その行動をジャタは止めもせずに楽しそうに見ている。

(……ククク、馬鹿な奴だ。まぁこれはこれで面白いものが見れる)


 センティコアは伊紗那に向って斧を振り下ろした。


「ッ!?」

 しかしそこで信じられないことが起こる。

 伊紗那が細指二本で斧を受け止めていたのだ。あの穏やかだった少女からはとても想像できない圧倒的な力。人差し指と中指で挟まれた武器は、もはやセンティコアの腕力ではビクともしない。

(何だ、こいつ……ッ!?)

 『怠惰』の呪いを受けたセンティコアの能力は過程の排除。音速も、光速さえも超えた時間の跳躍だ。それは気づいたときにはすでにその行動が終わっていることを意味する。

 だから何人なんぴとも彼の斧を止めることなどできるはずがないのだ。

 速さの問題じゃない。それなのに――

「……何、これ?」

 まだ斧にべっとりと付着したユウトの血が、伊紗那の指の間へと滴る。そして感情を抑えきれなくなった彼女の赤い双眸がセンティコアを睨みつけた。

 その瞬間、センティコアの全身の神経が痙攣した。体の全ての穴から汗が噴き出すような気持ちの悪い感覚。この少女はヤバいと。本能が全力で警鐘鳴らす。

「……ねぇ……ねぇッ!!」

 伊紗那がセンティコアに手を伸ばそうとしたその時。


 ガラスの割れるような音が空間に響いた。


「ッ!?」

 頭上でゲートが開き、何かがものすごいスピードで落下してきた。

「ぐっ……痛ぇ……」

 その正体は降霊武装『ベリアル』の黒い鎧を身に纏う冬馬だった。彼は落下の衝撃から守るようにイスカを抱いていた。

「……冬馬」

 一瞬だけ、伊紗那の表情に光が戻る。けれどそれはすぐにかき消された。

「アハハハハ! なかなか頑張るじゃないか坊や。私好みだよ」

 もう一体、彼を追って鳥型のネフィリム・ハルピュイアがゲートを潜って降りてきた。

「……そりゃあどうも」

 ゲートの向こう側で彼女と鉢合わせた冬馬は、イスカと共に今の今まで激しい死闘を繰り広げていたのだ。力はギリギリ互角。ややこちらが押され気味だった。

「あら、ジャタ様にあの子もいるじゃないか。ちょうどいい。さぁ坊や、第二ラウンドといこ――」


『Chain』


 突如、目に見えぬ速さで地面から無数の闇色の鎖が射出され、宙に浮くハルピュイアの体を貫き、拘束する。

「がっ……なっ、に……ッ!?」

「……あなたも、私の友達に何してるの?」

 伊紗那が開いた手のひらをゆっくりと閉じていく。

「がぁぁぁぁぁぁあっぁぁ!!」

 それに比例してハルピュイアの拘束が強まり、無慈悲に押し潰していく。冬馬の刃ですら切断できなかった硬い皮膚がいとも簡単に。


「消えて」


 次の瞬間、伊紗那が籠手の拳をキュッと完全に閉じたと同時に、ハルピュイアはあっけなく砕け散った。


 それを確認して、伊紗那は冬馬に笑顔を向ける。

「危なかったね、冬馬」

「……伊紗那。お前」

 ただいつもと違うのは、その笑顔は空虚で、そして冷たく感じたことだ。


「……何だ、お前ッ!」

 固まっていたセンティコアが我を取り戻し叫びをあげる。

 伊紗那はそんな彼にもう見向きもしない。そもそも足元で動くアリに意識を向ける必要がないとでもいうように。

「舐めるな小娘がぁ!!」

 センティコアが地面を思いっきり蹴る。しかし過程を無視した『結果の刃』は彼女に掠りもしない。何度やっても結果は同じ。決してスピードで劣っているわけではない。ちゃんと視界に捉えている。それなのに霞を払うようなこの虚無感。

(幻か!?)

 直後、センティコアの背筋が凍った。ピトっと誰かが自分の背に触れたからだ。

「な……にッ!?」

 今の今まで目の前にいたはずの彼女が気付いたら後ろにいる。

「驚くことでもないよ? 私が何をしたのか……あなたならわかるでしょう?」

「ッ!!」

 センティコアは振り向きざまに彼女の首を刎ねようと斧を大振りする。しかしすでにそこには誰もいない。そしてまた彼女は自分の背中に触れた。

(こいつ……まさか俺の力をッ!?)


『Riot』


 伊紗那がメモリーを差し込むと、三六〇度全方位に無数の長銃が召喚された。

「……あなたは楽に殺してあげない。こうして私があなたに触れて魔力を送り続ければ、あなたは死なない。どんなに銃弾で撃ち抜かれても、私が生かしてあげる。死にたいって願ってもやめてあげない」

 そうやって一ミリずつ体を消滅させていく。今ここでさっきのネフィリムのように殺すのは簡単だ。だがそれでは割に合わない。完全にこの世から存在が消える最後の瞬間まで、生きながら死を味わわせる。

「私の幸せを壊した人は全員――」

 その時――



 ドクン。



「ッ!?」


 その場の全員が鼓動を聞いた。


・2・


「……ル」


 さっきまで戦いの音に包まれていた空間が、一転して墓場を思わせる不気味な静寂に切り替わった。

 そしてその中心で、がフラリと立ち上がる。

 すでに切り裂かれたはずの肉体はほぼ修復が終わっていた。千切れた左腕さえも新たに生え変わっている。

 何故? そんな疑問はこの場においてはなんの意味も持たない。ただ一つ言えるのは、それはたとえルーンの腕輪であっても、または橘燕儀の治癒能力でさえも、不可能なレベルだということだ。


「……オレ、ガ……マモルッ!!」


「……何だ?」

 冬馬は嫌な予感がした。ユウトの様子がおかしい。

「A……」

 地を這うが如き唸り声。それは静寂の殻を破って一気に吹き出した。


「AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!!!!!」


 咆吼が質量を持ち、周囲を崩壊させていく。

 同時にユウトの体内から何かが飛び出した。それはユウトの周囲を滑空し彼の左腕に入り込む。

 すると再生して腕輪のないユウトの左腕に禍々しい籠手が出現した。

 それは断じて理想写しなどではない。

 それは一部だった。

 次の瞬間、その籠手から得体の知れない「黒い何か」が洪水のように吹き出した。

 黒い骨、だろうか? 液状の「黒い何か」は籠手を伝い、体を覆うように外殻を形成して少年の姿をあっという間に飲み込んでいく。

「……ユウト! くそッどうなってる!?」

 目の前の少年はもはや人間とは呼べないものへ。

 一匹の獣へと変貌していた。


「……ユウ、あぁ……嫌あッ!!」

 一番動揺していたのは伊紗那だった。思わず数歩後ずさり、召喚していた空中の長銃は全て消えた。ネフィリムを片手で消滅させた魔道士は、明らかに変わり果てたユウトの姿に恐怖しているように見える。まるで絶対に触れられたくないトラウマを抉られたような、普通ではない怯え方だ。

「ふん。お前たちは私を飽きさせないねぇ。センティコア」

 センティコアがジャタの横に立つ。

「だが、貴様の存在はもう無用だ。これ以上、私の伊紗那の心を乱してくれるな」

 虫けらを払うようにジャタが杖を振ると、そこから魔法陣が展開し、極大の火炎がユウトに降り注いだ。空間の温度が一気に変わるほどの、人など一瞬で跡形もなく消える馬鹿げた火力だ。

 しばらく自分の出した炎を眺めて、ジャタは背を向けた。

「さて、ここでの目的は果たした。次は——」

 声が止まる。


 


 ジャタは思わず振り返る。獣としての防衛本能がそうさせた。

「……な、にッ!?」

 黒い獣は燃え尽きてなどいなかった。

 ユウトは再び咆吼する。業火は消え失せ、気付いた時にはセンティコアの体躯が横から消えていた。その一瞬後、背後で凄まじい爆音が鳴った。

「ッ!?」

 ユウトが音速でセンティコアに接近。その首を掴み、地面を引きずりながら壁に突撃したのだ。

「このぉぉぉぉぉ!!」

 だがその程度で屈強なネフィリムは倒せない。センティコアはすぐに反撃の斧を振るう。しかしユウトはそれを真正面から素手で掴んだ。

「なッ!?」

 黒い外殻に覆われたユウトは無傷だ。そしてユウトはそのままセンティコアから斧を強引に奪うと、斧が不気味な光を放ち、瞬く間にその形状を変えていく。

 


 概念喰いグリーディー・イーター


 龍のあぎとを模した斧を今度はユウトが振るった。

 そこからはもはや一方的な蹂躙。センティコアの腕や足は紙のように容易く斬られ、再生も間に合わない。

「ぐっ……!」

 弱ったセンティコアを確認すると、ユウトはアリサの元に飛んだ。

「えっ!? ……ダメッ」

 彼女を強引に引き寄せ、変わり果てた自分の手を押し当てる。

「ッ!! そいつから離れろ!」

 近くにいた桐島秋斗がユウトに掴みかかるが、外殻と同じ素材でできた尾が簡単に少年の体を弾き飛ばした。

「がっ……ッ!?」

 その際に理想写しとしての力が働いたのか、ユウトの体の一部に触れたことにより、秋斗からメモリーが飛び出した。

「……やめ、て」

 自分からもメモリーを引き出すつもりだ。でもいつもとは違う。うまく言葉にできないが、とても嫌な感じする。

 外殻で顔が隠れてしまっていて表情が確認できないが、そこにはいつもユウトから伝わる優しさは微塵も感じない。

「AAAAAAAA!!」

 怒号に任せてユウトはアリサからメモリーを引き抜いた。

「……ユウ、ト……さ……」

 痛かった。心が引き裂かれそうなほどに痛かった。

 少女は急激な脱力感に襲われ、地面に倒れた。ギリギリで意識を保っているが、体が全く言うことを聞いてくれない。

 対してユウトは奪ったメモリー二つを概念喰いに差し込む。


『Extraction Eclipse Riot』


 中からメモリーそのものを砕く粉砕音が聞こえてきた。

 

 徐々に斧から漏れ出す憎悪に満ちたドス黒い魔力。斧の中で息が苦しくなるほどの圧倒的な魔力が蠢いているのが嫌でも理解できた。

 そして消化が完了したのか、再び概念喰いから禍々しい電子音が鳴り響く。


『Exterminate』


 ユウトは概念喰いを理想写しイデア・トレース基部鋭化カーディナルエッジのように斧から長銃に変形させ、暴発寸前の魔力をセンティコアに向けて解放した。

 雪崩のように迫る黒い魔力の奔流。長銃は灼熱の絶叫をあげネフィリムを襲う。

「ぐああああああああああ!!」

 センティコアの体は一切抗うことさえ許されず、完全に消滅した。


「……チッ」

 ジャタはその蹂躙を見て舌打ちし、急いでセンティコアの存在した場所から魔術を使い『何か』を回収する。ハルピュイアの時も目立たないように同様のことをしていた。

 早く完遂する必要があった。今度は自分が標的にされたと確信したからだ。

 その直後、武器の形状を斧に戻したユウトがジャタに襲いかかった。ジャタはそれを何重にも結界を張って受け止めた。しかし、概念喰いの刃はそれすら徐々に喰らっていく。

(くっ……この力、やはり!!)

 ジャタは自分が巻き込まれるのを承知で自分とユウトの足元に特大の魔力弾を放った。爆発で二人の距離が強制的に開く。

「やはり貴様が『強欲』を持っていたか……」

 であれば目の前のアレはネフィリムと大差ない。自分たちの同類にして敵だ。

「……どうやら甘く見過ぎていたらしい。まさか人の身でアレの器になれるとは。吉野ユウト……つくづくお前という男は危険だ」

 伊紗那もこの調子では使い物にならない。ワーロックとはいえ所詮は人間という事だろう。心が邪魔をする。

 対して心を無くしたにんげんは厄介だ。

「ここは退くもやむなしか」

 ジャタはゲートを召喚し、恐怖で動けなくなっている伊紗那を連れてその場から離脱した。


・3・


「隊長!」

 ジャタたちと入れ替わるように、レオン・イェーガーがハンニバルの鎧を纏った状態で合流してきた。

「……ッ、レオンか」

「すみません。一匹侵入を許しました」

 センティコアの奇襲。こうして首が繋がっているのはハンナのおかげだ。ハンナが生身に刃が届く前に鎧に変化してくれていなければレオンは確実に死んでいた。

 レオンは離れた場所で静かに佇んでいるに目を向ける。

「……あいつか」

 襲撃者を見ていないレオンはその怪物を見て確信する。

「……レオン、違う……あいつは――」


 直後、今まで微動だにしなかったユウトがわずかに動きを見せる。


 冬馬はその機微を見逃さなかった。

(自分に対する敵意に反応してるのか?)

 だとすると次の標的は——

「AAAAAAAAAAAA!!」

 遅かった。気づいた時にはユウトはすでに動いていた。

「ぐっ!! 速い……」

 レオンは反射的に剣を構え、ユウトの突貫を受け止めた。地面には数メートルの破壊の跡が伸びているが、ハンニバルによって強化されたレオンは力負けしていない。

 力で押し勝てないと理解したユウトは、次に尾を伸ばして真横からレオンを襲う。槍のように鋭利な先端で串刺しにするつもりだ。

「ッ!?」

 レオンは盾を構えてそれも防いだ。それでも衝撃を殺しきれず二十メートルほど吹き飛ばされてしまう。

「ガハッ! ……助かった、ハンナ」

『……軽率』

「うぐっ……」

 全身の激痛に加えて少女の言葉が突き刺さる。今盾を展開したのは自分の意思ではなかった。ハンナが勝手に展開し、その意図を理解するよりも前にレオンの体が動いた結果だ。

『次が来る』

 レオンは再び武器を構えて怪物と対峙する。

 両者ともに鎧を纏っており、決定打はないが、嵐のような勢いを弱めない猛攻に次第にレオンが押され始める。それに加え、

『……レオン……あまり、アレに触れないで』

「ッ! どうした!?」

 ハンナが苦しそうな声を漏らす。

『……持って、いかれる』


「AAAAAAAAAAAッ!!!!!!」


 耳がイカれそうなほどの咆吼の後、ユウトの左腕が闇色の光を放つ。その直後、レオンが両手に持っている剣と盾がユウトの元に吸い込まれた。

「なッ!?」

 二つは一つになり、ユウトの手元に辿り着く頃にはメモリーへと姿を変えていた。


「まただ……何だあの力……」

「……どうやらあれは、理想写しではないようだね」

 突然、冬馬の背後から声が聞こえた。

「……夜白」

 先ほどネフィリムの斧で体を横に引き裂かれたはずの彼女がそこにいた。やっとの事で瓦礫から脱出した夜白はペタンと座り込んでおり、そこから動けないようだ。服は真っ二つになったせいで不自然に破れており、病的なまでに白い肌を覗かせている。

「やぁ、おかえり冬馬。ごめんね、こんな格好で。まだ……体が治りきってないんだ」

 言葉では謝っていても、夜白は自分の白い肌を隠そうとしない。

 あの一撃を喰らって絶命していないのは明らかにおかしいが、冬馬はそれを変だとは思わない。ワーロックの研究の中で生まれた彼女の体には、常人では考えられないほどの再生能力が確認されている。頭や心臓を潰されない限り、彼女が死ぬことはない。

「どういう意味だ?」

 冬馬の問いに、夜白が自身の手にあるものを見せた。

「これはさっき切断されたユウトくんの腕だよ。ほら、腕輪が付いたままになってるだろう? なら今彼を突き動かしているものは一体何なんだろうね? 非常に興味深い」

 夜白は楽しそうに答えるが、冬馬の表情を見てすぐにその気持ちを抑えた。

「……まぁ。見た所、所有権の剥奪といったところかな? 完全に彼の魔法とは別物の何かが、彼の魔法に干渉して生まれてしまった……そんなところだと思うよ」

「ありえるのか?」

 夜白は両手を挙げ、お手上げのポーズをとる。

「ありえるかありえないかで言えば前者だろうね。何せ魔法なんだし」

 今の言葉はあくまで推測で、どうやら夜白の制作した腕輪の機能の範疇を完全に超えているらしい。

「ところで君が抱えているその子は誰だい?」

 夜白は気を失っているイスカを指差した。

「それは今はいい。少なくとも敵じゃない」

「……ふーん」


『Exterminate』


 またあの死の音が響いた。レオンに向けてあの魔力の奔流を放つつもりだ。

「ッ!!」

 とっさに冬馬は右手に無数の光球を生み出して、それをユウトに向けて飛ばした。マシンガンのように連続で小さな光が激しく炸裂する。案の定、外殻で覆われたユウトにダメージはないが、軌道のずれた魔力の斬撃はレオンの横をすり抜け、フロアの分厚い壁を破壊してしまった。

「これは……まずいね」

 動けない夜白が苦笑いをする。

 ここは海中だ。どうなるかは自明の理。息をつく暇もなく、水圧に耐えきれなくなった壁が一気に崩壊し始めた。

「燕儀くん。頼めるかな?」

 すでに十センチほど浸水している。夜白は気を失っている刹那を抱えた燕儀に助けを求めた。

「……了解」

 変わり果てた弟をこのままにしておけないが、今の自分には何もできないことを燕儀は理解していた。何よりもしユウトと対峙して、さっきのレオンのように自分の中の伊弉諾の所有権を奪われでもしたら……。そう思うと動けなかった。

 燕儀は転移魔術を使い、自分とレオン、夜白、冬馬の足元に光を生み出した。習得はしているがコストパフォーマンスが悪いという理由で燕儀はこの魔術をあまり使わない。秋斗の魔法と違い、発動までに時間がかかる上に、運べる質量も当人次第。加えてあらかじめ用意した目印がないと精度は極端に落ちる。だが今は目印を用意している余裕はない。

「一度にこれだけ運ぶのはやったことないから、どこに跳んでも恨まないでね!」

「えっ! それはこま——」

 レオンが最後までいい終わる前に転移は完了した。


 後に残っているのはアリサと秋斗、そして今なお暴走し続けるユウトのみ。

 ユウトは突然姿を消したレオンを探すように、辺りの壁を手当たり次第に破壊している。そのせいで浸水がどんどん進んでいく。

「アリサ、俺たちもここを離れるぞ」

「……待って、まだ……ユウトさんが……ッ!」

「あいつはもうお前の知っているユウトじゃない! ただの——」

 アリサは秋斗の腕を払って走った。水嵩みずかさが増して走りづらくなっている。それでもアリサは止まらない。

(ダメッ! 認めない。認めてやるもんか! 認めたら、私は……私は今まで何のために……。あんな思い、もう二度としたくない!!)


 あと十メートル。


「ユウトさん!!」

 ユウトが唸り声をあげ、尾を槍のようにアリサに向けて飛ばす。頰を掠り血が出るが、そんなことは気にしない。


 あと六メートル。


「……絶対ッ」

 斧を振り下ろした衝撃で水飛沫が弾丸のようにアリサに迫る。傷口に海水が入り込み死ぬほど痛い。でも少女はそれでも足を止めない。死ぬよりもっと嫌なことがあるから。


 あと二メートル。


「助けるって!」

 もう少しで手が届く。

 しかし伸ばした手が届くよりも先に、獣のように鋭く伸びた爪がアリサの右肩を突き刺した。

「あ……ぐっ……!」

 唇が切れるほど、奥歯が砕けるほど、歯を食い縛って耐える。

 そうしてアリサはついにユウトの左腕を掴んだ。

(ユウトさんは魔獣化なんてしてない。それは戦い方にまだ理想写しの名残が残ってることからも明らか)

 魔獣は魔法なんて使えない。人としての理性を失っているからだ。心に願いも葛藤もない。それは魔法に形がないということ意味する。

(この状態はユウトさんの中から出てきたあの光が生み出したもの。なら、それを引き剥がせば!!)

 アリサは音もなく左手に消失の黒い炎を宿す。

 全身で痛みを感じない場所などない。激痛で視界がぼやける。意識が持っていかれそうだ。けれど一瞬でも手元が狂えばそれで終わり。きっとみんな死ぬ。どんな名医でも揃って逃げ出すほどの大手術にその身を投じるアリサ。


「……お願い」


 狙うはユウトの左腕。きっとそこに少年を狂わせているものは存在する。


「目を……覚ましてッ!!」


 アリサはメスを振り下ろした。

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